秋津、蜻蛉、赤とんぼ

https://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32436 【あきつ】より

大分類 万葉神事語辞典

テキスト内容 トンボの意。アキツの表記には「秋津」と「蜻蛉」の二通りがある。記の国生み神話には「大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)」の称があり、稲の実り豊かな国土を記紀それぞれが「豊葦原千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのあきのながいほあきのみづほのくに)」「豊葦原千五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみづほのくに)」と呼ぶことからも、実りの季節である「秋」を讃美する呼称としての「アキツ」が理解されよう。一方、トンボの意である「蜻蛉」「蜻」は、記紀の雄略天皇条に天皇が吉野の阿岐豆野で狩りをしていた時、一匹のアブが飛んできて天皇の腕に食いついた。そこへ、トンボが飛んできて、このアブをくわえて飛び去り、このことを讃えた天皇はヤマトの国号を「蜻蛉島(あきづしま)」としたことを伝えている。また、紀の神武天皇条に天皇が国見をし、国形を「蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」といったことから、アキヅシマの称が起こったと伝えている。「臀呫」は、雄雌のトンボが飛びながら交尾する様を指しており、引いてはトンボそのものが国の豊かさの象徴として表現されていると考えられる。双方の伝承は、秋の実りと、害虫を退治し、実りを象徴させるトンボの様がイメージとして重なり合うところに接点をもっており、アキツの語の意義もここにあると考えられる。『櫻井満著作集』5(おうふう)。


ttps://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/oyamatotoyoakizushima/ 【大倭豊秋津島】より

大倭豊秋津島読み おほやまととよあきづしま/おおやまととよあきづしま

ローマ字表記 Ōyamatotoyoakizushima

別名 天御虚空豊秋津根別

登場箇所 上・国生み神生み

他の文献の登場箇所

紀 大日本豊秋津洲(四段本書・一書一・七・八)

旧 大日本豊秋津州(陰陽本紀)/大倭豊秋津島(陰陽本紀)/天御虚空豊秋津根別(陰陽本紀)

梗概

 伊耶那岐神と伊耶那美神の国生みによって生まれた、大八島国の八島の内の最後の島。またの名を天御虚空豊秋津根別という。

諸説

 大倭豊秋津島は、一般的には、本州を指すとされる。ただし、伊耶那岐神・伊耶那美神が生んだ島々は、この神話の語られた当時の王権の統治領域の意識が反映していると見られるため、八世紀以前、当時まだ東北など隅々にまでは勢力が及んでいなかった本州全体をそのまま当てはめてよいかは疑問も残る。『日本書紀』の一部の伝では、二神が生んだ島々の中に北陸地方にあたる「越洲」が含まれており、これも本州の一部であることから、本州全体ではなく畿内を指すとする説もある。

 島名について、「大」と「豊」は美称とされるが、「豊」は特に「秋」にちなみ豊穣の意を含んでいると捉える説がある。「倭」は『日本書紀』では「日本」の字を当てており、「耶麻騰(やまと)」と読む訓注がつけられている。古くは『漢書』地理志に日本を指した呼称として「倭」の字が使われたのが見えるが、日本国内でも中国の例を受けて古くからこの字が使われていた。和語のヤマトは元々、後の大和国にあたる一国の名であったが、その国が日本の統治の本拠となったことから、やがて天皇が支配する領域としての日本全体を広く指すようになったとされる。

 「秋津」の「津」の読みは、清音・濁音両方の可能性が考えられる。記紀万葉の音仮名表記には濁音の字「豆(づ)」が通例で、清音の字は「菟(つ)」が一例のみ見られる。「菟」を異例と捉えて奈良時代は濁音だったと見なすのが一般的であるが、「豆」の字は清音に使われる場合もあることから、「菟」を根拠に清音だったと解する説もある。「秋津」の意味については、雄略記に、吉野の阿岐豆野(あきづの)に行幸した雄略天皇が、腕に食いついた虻を食っていったとんぼを褒めて詠んだ歌に「斯くの如 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島(あきづしま)とふ」(記・96)とあることや、後掲の神武紀の記事によれば、とんぼの意と解される。一方で、「豊葦原千秋長五百秋水穂国」(葦原中国平定段)、「豊秋日本」(欽明紀十三年十月条)といった呼称から、本来はとんぼではなく秋の意味で(ヅ/ツは連体助詞)、豊穣の意を込めた名であったとする見解もある。他に、「あきつ神」などの「現(あき)つ」の意と捉えて、「秋津島」を、黄泉国や常世国に相対する、明るい現実の国土の意と解する説もある。

 『日本書紀』神武天皇三十一年四月乙酉朔条には、神武天皇が国中を巡幸し、腋上の嗛間丘に登って国の形を見回した時、国の形が、とんぼが尻をなめあい輪になって交尾する様に似ていると発言したことから(「猶し蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)せるが如もあるかも」)、「秋津洲(あきづしま)」の名が起こったという地名起源を載せている。大和盆地の形状を指したものと考えられるが、第六代孝安天皇の皇居を「葛城の室の秋津島宮」(記)と称するのがその地だとも言われ、これは現在の奈良県御所市の室に当たるとされる。「秋津島」も元来は大和の中の一地域を指す呼称であったのが、ヤマトとともに拡大して本州ないしは日本を指すようになったとも考えられている。『万葉集』では、「蜻島」「秋津島」が「やまと」の枕詞として使われている(1・2、13・3250、13・3333、19・4254、20・4465)。

 なお、「大倭豊秋津島」という島名を、実際的な呼称ではなく、その島・領域に対する呪的・詩的な讃え名と捉える見方もある。

参考文献

山田孝雄『古事記上巻講義 一』(志波彦神社・塩釜神社古事記研究会編、1940年2月)

倉野憲司『古事記全註釈 第二巻 上巻篇(上)』(三省堂、1974年8月)

西郷信綱『古事記注釈 第一巻(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2005年4月、初出1975年1月)

大野晋『上代仮名遣の研究』(岩波書店、1953年6月)

丸山林平「「あきつしま」か「あきづしま」か」(『解釈』4巻2号、1958年2月)

櫻井満「秋津島考 一」(『櫻井満著作集 第5巻 万葉びとの憧憬』おうふう、2000年6月、初出1961年10月)

櫻井満「秋津島考 二」(『櫻井満著作集 第5巻 万葉びとの憧憬』おうふう、2000年6月、初出1961年10月)


http://ggstar.net/earth/post-713/ 【秋津、蜻蛉、赤とんぼ】より

 メガネウラという名前の昆虫がいる。といっても三億年ほど前に生きていた古生物で、写真の通り「でっかいトンボ」だ。化石を調べてみると、左右の羽根の差し渡しが 70 センチを超えていたらしい。トンボと言えば、オニヤンマのようにできるだけ大きいのが好きな僕だが、メガネウラの実物を見たら、さすがにちょっと気持ち悪いだろうな。飛ぶときの羽音も、ものすごいに違いない。

 カタカナで表記することが多い昆虫の名前。だから僕はこのメガネウラも、カマドウマ(竈馬)とか、ウスバカゲロウ(薄羽蜻蛉)などと同様、たとえば「眼鏡裡」などと書く日本語名なのだとぼんやり考えていた。「とんぼのめがねは・・・」という童謡があったことも影響している。でも何年か前に調べてみたら、実は「メガ・ネウラ」だった。

 ウィキペディアによると、メガネウラとは(megas、メガース)と(neuron、ネウロン)からなる合成語である。メガはもちろん「大きい」という意味。そしてニューロンは「神経」だ。ここで neuron の元々の意味は「腱」であり、この場合は「翅脈(しみゃく)」を指す。

 つまり、メガネウラとは「大きな翅脈を持つもの」という意味だ。さて、上の画像を見ると、メガネウラの目の部分(複眼)が現生のトンボよりも(体に比較して)やや小さいことに気付くだろう。巨大トンボ「メガネウラ」は絶滅したが、その後もトンボは三億年の長きにわたって進化を続け、現在のような姿になった。

 頭部が「ほぼ目だらけ」である。なんでこんなに大きな目が必要なのだろう。ご存じのように、我々が「トンボの目玉」と呼んでいるものはたくさんの小さな個眼が集まった複眼だ。トンボの複眼は昆虫の中でも群を抜いて個眼の数が多く 20000 個以上も集まっている。

 トンボがこんなに大きく美しい複眼を進化させたのは、飛行しながら獲物を捕らえるからだ。トンボは完全な肉食。しかも例えばスズメバチなど他の肉食昆虫のように陸上や樹上の獲物を捕らえるのではなく、飛翔しながら空中で他の虫を捕食する。あの 360 度見える超広角のでっかい複眼で、我々哺乳類の持っている「レンズ眼」とは比べものにならないくらいの広い視野と動体視力を実現しているのだ。

 そしてトンボの特徴として一番注目したいのが、その飛翔能力の高さだ。体が大きい分、ずっと小さな蜂やハエなどと比べると敏捷性の点で劣るのは致し方ない。しかし最高速度はというと、あの赤とんぼでおなじみのアキアカネでさえ、時速 100km を超えるという。しかもホバリングができるし、中には大陸間を数千キロも飛んでしまう種類もいる。まさに、エアバス、F16戦闘機、オスプレイ、ヘリコプターをすべて足したような最強の飛行生物だと言える。

 さて、星のおじさんがなぜ急にトンボの話を始めたのか。それは、最近になって「見かけるトンボの数が減っているな」と感じたからだ。数の減少が気になる生き物としては、先日このブログでも取り上げたライチョウがある。でも高山の特殊な環境に棲むライチョウとは違い、赤とんぼの場合は周囲に普通にいた昆虫だ。それがいなくなることは、僕らの生活環境に何らかの変化が生じているからに違いない。

 ネットで調べてみると、やはり思ったとおり! 日本中でアキアカネやナツアカネが激減しているらしい。一部の県ではアキアカネが全く見られなくなったという。しかも原因は稲作農家が水田に撒く農薬である可能性が高い。もしかしてこれは「トンボ絶滅の危機」なのだろうか。すごく気になってきたので、近くにある親戚の田んぼへ出かけてトンボを観察することにした。

 見つけた! 赤とんぼ。良かった、木曽ではまだ絶滅していなかった。

 でもこの場所は水田の畦道ではない。近くに小川がある小さな畑だ。一方、稲が刈り取りを控えた水田の方には、トンボが全く見られない。やっぱり何かおかしいな。

 アキアカネとナツアカネは見分けるのがけっこう難しい。体側に見られる模様から、これはナツアカネだと分かる。

 これもナツアカネ。肝心のアキアカネを一匹も発見できなかったのが気になる。アキアカネには、暑い時期を高地で過ごして涼しくなってから里に帰ってくるという習性がある。まだ帰ってきてないのかな。それとも木曽にはもういなくなってしまったのか・・・。

 羽根の先端に茶色の模様がある「コシメトンボ」も何匹かみつけた。撮影には失敗したが、シオカラトンボも一匹だけ見ることができた。昔のように、農作業をする我々の上をそれこそうるさいくらいたくさん飛んでいた赤とんぼ(たぶんアキアカネだった)を見ることはできなかった。

 農道脇のガードレールに集まっている様子。この日、水田に沿って走る 500 メートルほどの農道の両側を見て歩いたが、トンボが群れているのは、広さにして 20 メートル四方のこの一箇所だけだった。すぐそばに、小さなため池と小川がある。たぶんヤゴはそこで成長したのだろう。

 トンボ研究の第一人者である石川県立大学の上田哲行教授によると、地域によって差はあるものの、2000 年前後を境にして半数以上の府県でアキアカネの数が 1000 分の 1 以下に激減しているという。そして上田教授らの調査によって明らかになったアキアカネ激減の原因は、フィプロニルなど新農薬の普及だ。

 これらの農薬は「浸透性殺虫剤」と呼ばれ、田んぼに植える前の苗に吸わせる。この農薬を吸収したイネの葉などを食べた昆虫を殺すのだ。トンボの幼虫であるヤゴは水中に棲息しているから、この農薬の影響をもろに受けると思われる。そして当然ながら、稲の先端に付いている「お米」にもこの農薬が含まれている。ヤゴが死んでしまうほどの農薬を、僕らも食べていることになる。うーん、このまま放っておいて良いのだろうか。

 しかし稲作農家は従事者の高齢化という問題を抱えている。いくら米を作っても儲からないので跡継ぎもいない。だから、作業が楽な上に周辺に農薬を撒く必要もない「浸透性殺虫剤」に頼らざるを得ないのだろう。それに文句を付ける権利は、悲しいけれど僕にはなさそうだ。意を決して従兄に文句を言ったところで、「じゃあ、お前が一年中田んぼの世話をしてくれるのか!」と開き直られたら、僕はおそらく気圧されて「・・・でも生態系は一度壊れると元には戻らないし・・・」とかなんとか理屈を並べるのが精一杯だろう。

 さて、日本は古来より秋津島(あきつしま)と呼ばれていた。『古事記』にも、本州を「大倭豊秋津島」とする記載がある。秋津というのはトンボ(蜻蛉)のことだ。神武天皇が国土を一望して、本州の形がトンボに似ていたから名付けたというが、いかに神武天皇といえども国土を空から一望できるはずはないので、これはもちろん作り話。

 とんぼを「あきつ」と呼ぶのは「秋つ虫」=「秋の虫」から来ているというのが定説で、たぶんそれが正解だろう。秋になって稲が実るころになると、蜻蛉がたくさん群れて繁殖(交尾)しているのが見られた。それを見た人々にとって、なんともめでたく嬉しい光景だったに違いない。収穫、繁栄、豊穣といったプラスのイメージが蜻蛉と見事に重なった。

 昭和四十年代に、稲刈りを手伝うような子供時代を過ごした僕らの世代も、あと三十年ほどでこの地上から消えてしまう。その後は、赤とんぼがいなくなったことさえ誰も気にしなくなるに違いない。寂しいけれど、これも単なる「おっさんのセンチメンタリズム」なのか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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