伝説再考

https://dostoev.exblog.jp/30451068/ 【三女神伝説再考(其の三)「織姫の娘」】より

坂上田村麻呂、東夷征伐の時、奥州の国津神の後胤なる玉山立烏帽子姫という者あり。田村麻呂は東奥を守護せり後、立烏帽子姫と夫婦になりて、一男一女を産めり。其の名を「田村義道」「松林姫」と言へり。其の後「松林姫」は三女を産む。「お石」「お六」「お初」と言った。三人は各所にありしが牛や鳥に乗りて集まりし所を附馬牛という附き馬牛にて、到着の儀なり。天長年間、「お石」は我が守護神として崇敬せし速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登り、「お六」は、守護神の速秋津姫の御霊代を奉じて六角牛山に登り、「お初」は瀬織津姫の御霊代を奉じて早池峰へと登った。

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この三女神伝説は、遠野市の綾織に伝わるもので坂上田村麻呂と立烏帽子姫が登場する。坂上田村麻呂は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも登場する事から、蝦夷平定には無くてはならない人物であったのは今でも広く認識されている。さて立烏帽子姫だが、「鈴鹿の草紙」「田村の草紙」「田村三代記」の謡曲・浄瑠璃などにも登場し、坂上田村麻呂の"正義"と共に、その妻となった存在として蝦夷国である東北に語り継がれて来た。これらは完全な創作物ではなく、古くから伝承されたものをベースに話が創られたものと思う。その坂上田村麻呂は、北方鎮護の毘沙門天の化身とも伝えられる。そして、その毘沙門天の妻として吉祥天が宗教界では認知されている。

室町時代から江戸時代にかけて成立したとされる「毘沙門の本地」は、天の川を中心とした星巡りの話となっているが、登場する男と女の最後は、毘沙門天と吉祥天となる話となっている。この星々を巡る旅の話の背景には、恐らく天台宗などの密教系が絡んでいるのは間違いないだろう。当然、蝦夷平定を成した坂上田村麻呂が毘沙門天の化身と呼ばれたのもまた"北方鎮護の毘沙門天"と重ねられた為であろう。そして立烏帽子姫は鈴鹿御前でもあるのだが、その鈴鹿御前は京都の祇園祭に瀬織津比咩として登場している。その鈴鹿御前であり立烏帽子姫は「田村の草紙」によれば、その正体は琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁才天であるとしている。弁財天と吉祥天は、しばしば混同して伝えられ、ある意味同神でもある。蓮華の花と縁深いのは吉祥天であるのだが、その吉祥天とも重ねられる瀬織津比咩は、坂上田村麻呂同様、蝦夷平定の為に来た神でもあった。よって毘沙門天の化身である坂上田村麻呂が、瀬織津比咩の化身である鈴鹿御前や立烏帽子姫と結び付くのは当然の帰結であった。

そして遠野三山の一つである石上神社には、早池峯の瀬織津比咩が七夕の織女と結び付く伝承が伝わる。画像は、石上山上空の天の川。その天の川の織女だが、古代中国では織女三星と呼ばれている。三星といっても夏の大三角形(ベガ・アルタイル・デネブ・)の三星ではなく、織女星の下に正三角形を成す小さい星を合せたものを織女三星と呼ぶ。これは「大星を母后となし、二小星を女子となす。」と伝わる。

岩手県には、いくつもの三女神伝説が伝わる。ただし、その頂点となる山は早池峯で変わらない。そう、早池峯を中心に三女神伝説が創られたと言っても良いだろう。そして特筆すべきは、その三女神伝説を伝えたのは全て菊池氏によるものであると。三女神としての古くは、やはり宗像三女神であろう。天安河原で、素戔男尊と対峙した天照大神の間に誕生したのが、宗像三女神。これは天の川での、彦星と織姫に相当する話として認識されている。つまり天安河原が天の川であるのなら、宗像三女神は織女三星に相当するか。

三女神伝説を読んでいると、常に母が居て三人の娘を産んでいる。その三人の娘が各々三山に飛んで行くのだが、どうも不自然である。何故なら、常に早池峯を手にする娘が一人いて、その他二人が他の山に納まっている。これはつまり、早池峯ありきの伝説である事が理解できる。それ以外は、付け足しの山の様に思えるのだ。ここでもう一度、岩手県の神社庁に伝わる「早池峯神社略縁起」を読んでみよう。

そもそも新山大権現之本地を尋ね奉るに、人王五十代桓武天皇延暦十四年乙亥三月十七日當山江、三柱姫神達、天降満します也。新山と申すは古起松杉苔むし老いた流枝に蔦蔓生え登り、山葉に曳月はかすかに見ゆ木魂ひびき鳥の聲あたかも、深山幽谷の如し。南に北上川底清く、水音高く御手洗也。雲井に栄え登る月影浪に光を浮かしめ、北は千尋に余る、廣野と萩薄生え繁。是を名付けて、新山野と申す也。

四方青垣山にして宝殿棟高く、御床津比の動き鳴る事なく豊明に明るい座満たして宣祢禰宜の振鈴、いや高く響、茂あらたなり今茂かわらぬ。三つの石あり、三柱姫神鎮座満します。故是を影向三神石と申す也。

然に氏御神天降給故を尋ね奉るに、東国魔生変化の鬼神充満し、多くの人民をなやまし、国土を魔界に成さんとせしを、天帝聞し召せ給、田村大明神を天降し、悪魔化道退散なさしめ、国土を治め給いしとかや、弘仁二年巌鷲山田村大権現と顕れ給い妃神を王東山大権現と顕し給いしとかや、其の御子三柱の姫神當山鎮座満しまし給、姫神達折々四方を御詠有りし遥か東方に雲を貫く高山あり。旭の光々たり、月の満々たるも、峰の高きを貴み給いて曰く我等山川の清を求め峯の高きに登り末を守らん。爰に我等の三躰を残し置くと宣いて、東方へ行幸ありしとなん。

人民肝留以催し、跡伏し拝み、悉く信心す時に姫神達東山に登給いれるに、童子一人顕れ、かれに山々を問わしめ給へば、童子指さし向に見ゆるは、於呂古志山、何方は大石神山此方は早池峯山と申す三つの山也。中にも峯高く絶頂盤石四方巌々として空にそびい鳥類翼を休めがたし。閼伽井より冷泉湧き出る是を名付けて早池峯と申す也。常に紫雲靄起こし、音楽の音止まず。折々天人舞い下り、不測之霊山也と言うを終わらず、虚空に上り雲中に声有。我は、是一の路権現なりと失せ給ふ御跡拝み伏す。

天に向かい此の三つ山、授け霊験を下し給いと祈り給へば、不測屋奈末の妹神の御胸に八葉の蓮華光曜として、天降蓮華の?に舞光を放ちて飛び、早池峯山大権現と顕れ給い、姉神は大石神山大権現と顕れ、第二姫神於呂古志山大権現と顕れ、国土を守り給いとかや況や御神徳著しき事、當社に先魂坐す故當社を早池峯新山大権現と齋奉流也。又神道には、瀬織津姫也大権現と書て大権現と讀み奉る也。古今の霊場にて弥陀薬師観音の三像相殿に敬い奉る事、其の徳社に満りと云々。

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この「早池峯神社略縁起」で不自然なのは、最終的に遠野三山の縁起書となっている事だ。これは、大迫の早池峯縁起に似通っているのがわかる。大迫の早池峯縁起は、田中某が早池峯へ登った時、遠野側からも始閣藤蔵が登って来て、同じ霊験に遭遇したとする。遠野側の早池峯縁起には、始閣藤蔵だけの話となっているのにだ。これはつまり、遠野側の縁起に気を使ってのものと思わざる負えない。そして「早池峯神社略縁起」もまた、三人の女神が遠野三山を選んだという事になっているが、その前に三女神が影向したのは盛岡側の三石になっているのだという、僅かながらの起源主張となっている可愛らしさである。これらから、「早池峯神社略縁起」も、大迫の早池峯神社縁起もまた、先にあった遠野早池峯縁起を意識しつつ創られた縁起書であると思われる。遠野側の縁起書は、あくまで早池峯の神に対する祈願であり、そこには三女神伝説は生じていない。恐らく星の宗教と呼ばれる天台宗と、その後の真言宗の教義の元に創られたのが三女神伝説であると思うのだ。

岩手山は、坂上田村麻呂を主体とし毘沙門天を重ね合せて祀っている。それと対になる坂上田村麻呂の妻となった、立烏帽子姫が姫神山へと祀られた。この二柱からの娘が三女神となる、もしくは間に別の父神と母神を置いて三娘を誕生させている。これは「早池峯神社略縁起」と遠野の伊豆神社に伝わる伝説が、その地域性を帯びた為だと思われる。

岩手三山伝説が、本妻と妾が姫神山と早池峯で混同されるのは、姫神山と早池峯が、どちらも同じ女神であるからだ。岩手山は、毘沙門天であり坂上田村麻呂でもある男神の山となる。その対と為る姫神山には立烏帽子姫であるが、これは先に記したように早池峯の女神でもある瀬織津比咩である。ここで思い出すのは「早池峯山妙泉寺文書」での「延長年中、本宮后宮修理、並びに新山宮を修復す。」である。当初「后」とは妃の事であるから女神の事であろう。つまりそれは現在、早池峯神社に祀られる女神である瀬織津比咩の事を言うのであろうが、それではその女神に相対する男神とはいったい?と疑問に思っていた。早池峯の祭祀の歴史には女神の姿しか感じられず、男神の所在がまったくわからなかったのだが、早池峯の女神を三女神の母后とすれば、全てが成り立つ。つまり三女神伝説、もしくは三山伝説の三角形の頂点に立つのは全て早池峯であると考えれば、すんなりと理解できる。恐らく三女神伝説の背景は、天台宗などの密教系による星の伝承を重ねて創られたものだと思えるのだ。次はその辺のところを詳しく書こうと思う。


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【「坂上田村麻呂」は英雄なのか? 踏みにじられた東北先住民の「悲劇の歴史」とは】より

坂上田村麻呂の「蝦夷征伐」

悪路王(阿弖流爲)が潜んだとされる逹谷窟毘沙門堂 写真/藤井勝彦

 各地に伝わる鬼退治の伝承に度々登場するのが、平安時代の名将・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。大嶽丸をはじめ、長野県の魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)、三重県の金平鹿(こんへいか)、岡山県の阿久良王(あくらおう)等々、数え切れないほどの鬼たちを退治したと伝えられている。もちろん、いずれも史実とは言い難いものではあるが、元となった何らかの事象を反映したものであることはいうまでもない。この記事が目指すところは、まさに、そんな伝承の陰に潜む史実を洗い出すところにある。どこまで真相を炙り出せるか、少々心もとないが、チャレンジあるのみと心して取り掛かりたい。

 ともあれ、田村麻呂へと話題を戻そう。史実としての田村麻呂は、2度も征夷大将軍を拝命して、蝦夷征伐に出陣。見事征伐を遂げて帰還したとして知られた人物である。伝承の中では、大嶽丸征伐物語のように、田村丸の名で登場することもある。

坂上田村麻呂「月百姿音羽山月 田村明神/国立国会図書館蔵

 その名将の名が、特に頻繁に語り継がれることの多いのが東北地方である。いうまでもなくこの地域は、史実としての田村麻呂が、蝦夷征伐に赴いたところ。そこで特筆すべきなのが、奥州逹谷窟(おうしゅうたっこくのいわや・岩手県平泉町)を拠点としていたとされる悪路王(あくろおう)の征伐物語である。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、田谷窟(逹谷窟)という名の砦を構えていた賊主・悪路王が、田村麿(麻呂)や藤原(田村)俊仁(実在の藤原利仁を投影した伝説上の人名か。悪路王に妻・照日御前をさらわれたとも)らに征伐されたことが記されている。

 『御伽草子』『立烏帽子』では阿黒王の名で登場するが、その容姿は、8つの頭に眼が数多く散らばるという、実に奇怪な姿で描かれている。まるで『鬼滅の刃』に登場する那田蜘蛛山(なたぐもやま)の鬼一家の父・蜘蛛鬼を彷彿とさせるようなおぞましさである。考えられる限りの最も醜悪な姿を編み出したというべきか。

 また、「大きな桶に人間を鮨のように漬けていた」とか「稚児を串刺しにした」という他、「貴族の館などに忍び込んで娘をさらった」などの悪事を働いていたと記す書もある。ただし、どれも悪路王の残虐さを強調するばかりで、具体性に乏しいという点は注視すべきだろう。うがった見方をすれば、悪路王とは、鬼として征伐されたという割には、そのネタ元となった史実としての人物に、悪事を働いた形跡が見られなかったからではないかと思えるのだ。

なぜ阿弖流為(あてるい)が鬼とみなされたのか?

 では、悪路王に投影された史実としての人物とは、一体誰のことを指すのか? それはズバリ、田村麻呂が討伐したという蝦夷の族長・阿弖流爲である。

 8世紀末から9世紀初頭にかけて、岩手県南部一帯に勢威を張っていた在地勢力のボスである。延暦8(789)年の「巣伏の戦い」において、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)率いる推定6千もの大軍を、その4分の1にも満たないわずかな兵で撃破。敵将とはいえ、たちまちにして、その武勇が都に轟いた人物であった。これに懲りた桓武天皇が、満を持して派遣したのが田村麻呂であった。延暦20(801)年3月31日に京の都を出立した田村麻呂率いる軍勢は、総数4万もの大軍であった。

 しかし、田村麻呂は蝦夷に向かったものの、総攻撃を実施して蝦夷たちを壊滅させることはしなかった。和平交渉に力を入れ、彼らとの共存を目論んだのである。それが功を奏して、翌年には阿弖流為と副将・母禮(もれ)が、兵500余人を率いて降伏。こうして、平和裏に蝦夷征伐を終えたはずであったが、阿弖流為と母禮は、田村麻呂の助命嘆願も虚しく、朝廷から「野生獣心、反復して定まりなし」と決めつけられ、河内国において首を刎ねられてしまったのである。都にいる貴族たちにとって蝦夷とは、野獣同然というわけである。これが、後に悪路王という名を冠せられ、鬼として語られるようになったのだ。

伝阿弖流爲母禮之塚 写真/藤井勝彦

 ちなみに、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮は、蝦夷征伐の軍事拠点としての機能をも併せ持っていたことが指摘されているが、そこに、悪路王の首を模したという木造の首像と首桶が収められているのが象徴的である。これは寛文4(1664)年に奥州の藤原満清(みつきよ)が奉納したものとか。阿弖流為を指すものであることはいうまでもない。

 いずれにしても、蝦夷征伐なるものが、先住者としての蝦夷の権利を踏みにじるものであったことはいうまでもない。朝廷による征服軍が押し寄せる以前の蝦夷たちが、平和に暮らしていたことは想像に難くない。当然のことながら、朝廷への服属など、受け入れ難いものであった。それにもかかわらず、有無を言わさず征されたばかりか、鬼とまで蔑(さげす)まされてしまったわけである。本来の鬼はむしろ、朝廷側であったというべきだろう。


https://news.yahoo.co.jp/articles/e32c944c5339979d1c63083913b9ad900dc6c17c 【坂上田村麻呂は「黒人」だった!? 欧米で流布したこの仮説は「トンデモ説」なのか?【古代史ミステリー】】より

坂上田村麻呂「月百姿音羽山月 田村明神」/国立国会図書館蔵

カナダの人類学者チェンバレンは、その論文の中で坂上田村麻呂を「黒人」として記述していた。その「坂上田村麻呂黒人説」はアメリカの公民権運動で利用される中で広まり、現代においても一部知識人に引用されることがある。信じがたい仮説であるが、しかし、古代日本のグローバルな状況、坂上田村麻呂のエキゾチックな容姿を考えると、一概に「トンデモ説」とも言い切れない。どういうことか、詳しく見ていこう。

■アメリカの公民権運動に利用された「坂上田村麻呂黒人説」

「坂上田村麻呂黒人説」――途方もない空想の産物のように思えるこの仮説だが、現在においても一部の知識人に信じられているらしい。

「噂」の出どころは、イギリスに生まれ、カナダで活躍した人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレン(1865―1914)の『The Contribution of the Negro to Human Civilization(人類文明への黒人の貢献)』という論文である。この中で、「現在の本州に住む日本人の先祖は列島の先住民族だったアイヌと戦いながら北上していったが、その軍隊の指導者が黒人の坂上田村麻呂だった」と述べられているのだ。

 つまり、チェンバレンがなぜ坂上田村麻呂を黒人だと考えたのか、その具体的な根拠が示されているわけではない。しかし20世紀半ばのアメリカでは、アフリカ系アメリカ人による公民権運動が盛んになり、そこで坂上田村麻呂黒人説も利用されたようだ。それゆえ、その後も細く長く、今日までこの説が生き残ってしまったのであろうと考えられる。

 しかし本当に「坂上田村麻呂黒人説」は、トンデモ説に過ぎないのだろうか? というのも、坂上田村麻呂が生きた奈良時代末~平安時代初期の日本は、現代人がイメージするより、はるかに国際的な状況にあった。

 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した桓武天皇も、生母・高野新笠を通じ、百済の王族だった武寧王と血がつながっていたのは有名な事実である。それゆえ外国から日本にやってきて、その後は帰化した渡来人系の氏族出身者も優遇措置を受けることができたともいう(高橋崇『坂上田村麻呂』)。

■「外国かぶれ」が嘆かれるほどグローバルだった古代世界

 当時の日本は、定期的に中国・唐王朝に遣唐使を派遣していた。舒明天皇二年(630年)の第一回以降、日本から派遣された遣唐使の総回数は、学者によって数え方が異なるが、最大で20回。少なくとも14回程度はあったという。

 ひとついえるのは、中国史上もっとも国際志向が強かったのが隋王朝と唐王朝で、シルクロードを通じ、はるか西方諸国――中東やヨーロッパ諸国とも交流していたということだ。また、皇帝の許可を受けていない唐人の私人渡航は厳禁だったが、唐の役人が皇帝の命を受け、外国に出張、滞在することは頻繁に行われていた。

 外国との文化交流もかなりさかんで、『東城老父伝』という唐代の史料には「いま北方の胡人は京師に雑居し、長安の少年は心まで胡風に染まっている」とある。古(いにしえ)からの中国らしさを忘れはて、華やかな外国文化に耽溺する都会の若者たちが増えたことを嘆いた一説ではあるが、長安に住んでいたのは「北方の胡人」だけでなく、たとえば「金髪碧眼」の白人系、ペルシア系の人々の姿も普通に見られたという。

 また、生まれた国や言語、そして肌、髪、瞳などの色が違う相手にも「美しい」「魅力的だ」と感じる感性が、唐王朝の中国に存在したことがうかがえる。遣唐使が中国から日本に持ち帰ったのは、文物だけでなく、こうした「美」の感覚も含まれていたのかもしれない。■坂上田村麻呂の「アジア人ばなれした容姿」

 さて、宝亀9年(778年)11月には、第16回目にあたる遣唐使が日本に帰ってきた。その帰国船の中には、唐王朝時代の中国に生まれた氏名不詳の女性(人種情報なども不明)と、日本から遣唐使として中国に派遣されたが、玄宗皇帝に重用され、中国の地に骨を埋めた藤原清河という役人の間に誕生した、その名も喜娘(きじょう)という女性が乗っていた記録がある。

 しかし、日本への帰路の海上において晩秋の嵐に巻き込まれ、船が大破してしまった。遭難しながらも、生き延びた30人の役人たちとともに、喜娘は肥後天草郡になんとか漂着できた。しかし、船旅に懲りてしまったらしい喜娘は中国に戻ろうとはせず、日本で生涯を過ごしたそうだ。

 中国生まれの唐人の私的渡航は厳禁されていたが、その一方で、外国生まれの唐人にはこの法律は適応されないため、中国から帰国する遣唐使たちの船に紛れ込んで来日する様々な来歴の人々がいてもおかしくはなかった。

 坂上田村麻呂の系図上、不詳となっている彼の生母も外国生まれ、もっというとはるか西方からやってきた女性だったのではないかと考えられる。その裏付けともなるのが、東アジア系離れした坂上田村麻呂の容姿だ。

 平安時代初期の帝・嵯峨天皇の手によるとされる『田邑麻呂伝記』(『群書類従』第五輯)の記述をまとめると、「大将軍(田村麻呂)」の身長は五尺八寸(約176センチ)、胸板の厚さ一尺二寸(横幅約36センチの厚さの胸板という意味)、体重は多い時で201斤(約120キロ)もあったという。

 しかし、少ない時で64斤(38キロ!)だったそうで、「動静は機に合い軽重は意に任す」ともある。この体重の数字を額面通りに受け取るなら、増量期と減量期の差が激しすぎる。任務に応じてどんな姿にでも変わることができる超人的な身体能力があった、というような意味だと思われる。

 また、彼の「目は蒼鷹(そうよう)の眸(ひとみ)を写し、髭(※髪という説もあり)は黄金の縷(る)を繋」いだようだった。瞳は深いブルー、髭もしくは頭髪はブロンドで、顔は赤みを帯びていたそうだが、それはおそらく血色の話で、基本的には色白だったという意味だろう。

 つまり田村麻呂は、チェンバレン説にあるような黒人系というより、むしろ白人系、もしくはペルシャ系の血脈であることをうかがわせる美丈夫だったということになる(なお、田村麻呂が怒りの視線を向けただけで猛獣もたちまち倒れて死ぬほどだったが、笑えば、赤子でさえなつく優しい顔になったという)。

■清和源氏の祖先は何者だったのか?

 古代日本において征夷大将軍とは、国家の非常時にだけ任命される臨時職だったが、その後も彼は軍人として活躍した。大同4年(809年)には、平城上皇と嵯峨天皇の父子対決に乗じ、上皇の寵姫だった藤原薬子が藤原氏の権力伸長をねらった「薬子の変」平定で功を立てている。また、田村麻呂は大納言という高い官職を得た朝廷の役人でもあった。

 弘仁2年(811年)、田村麻呂は54歳の若さで亡くなったのだが、彼の死を惜しんだ嵯峨天皇の命により、死後もなお国家の守護者となることを期待され、多くの武具などと共に埋葬されることになった。

 田村麻呂の娘の春子は、のちに桓武天皇の妃として葛井親王を産んだ。親王は即位して清和天皇となり、彼の皇子たちの末裔たちが「清和源氏」という武士の名流を形成している。清和源氏の武士たちが活躍できたのも、その祖先の一人である坂上田村麻呂のカリスマあってのことではないか。そんな坂上田村麻呂が、古代日本人のイメージを打ち破るような、エキゾチックな容貌の人物であったというのは実に興味深いのだ。

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