鯨の民俗学

https://www.catv296.ne.jp/~whale/33kujira-densetu4.html 【鯨の民俗学 長崎『西海の鯨伝説・民話』】より

クジラさんの伝説・民話は江戸時代に捕鯨を行っていた場所にはかなり 残されております。

日本では西海捕鯨の場所である長崎県・佐賀県に多い。山口県、高知県、  和歌山県、

三重県などなどにもあり、非捕鯨地域にも色々なクジラに関わる言伝えが点々と見られます。

同じようなジャンルの話が各地にあり、捕鯨にたずさわった人が他地域に出漁して交流があったこと、技術移転があったことを物語っております。

夢枕、祟り、遭難事件、クジラのお寺参り、お宮参り、龍宮への使い、供養塔・塚、クジラのお墓、クジラ面白物語、鯨に助けられた民話などです。

特に多くの言伝えがあり資料もある長崎県のクジラ物語の一部をご紹介します。

郷ノ浦町立壱岐郷土館の『西海の鯨物語』:野本政宏氏 を参考にしております

地域 くじら伝説など 言伝え内容

対馬市 鯨の伯母貴瀬物語

おばきせ

『鯨の挨拶』 対馬の上県郡峰町三根湾の支湾にあたる所の吉田浦に白嶽神社があり、その前の海中に一つの瀬があります。

この瀬は、鯨によく似た形をしていて、地元の人々は鯨の伯母貴瀬(おばきせ)と呼んでいます。

春の大潮、旧暦で云いますと3月3日の干潮時には、鯨の姿をしたこの瀬が現れます。

この頃になりますと、子連れの母鯨が伯母貴瀬に、挨拶のために、吉田瀬の海に入ってくると伝えられています。

この鯨の伯母貴瀬は、鯨の伯母が瀬と化したと云う話です。

(西海の鯨物語:野本政宏)

福江市 「鯨瀬」の丈吉の波  崎山のカンメという海岸の北側に長く突出た石滝という所があります。

その石滝 の鼻の下に「鯨瀬」という鯨に似た立派な瀬があります。

昔、丈吉親子と隣のおじさんと三人で、鯨瀬に魚釣りに行き、その日はとても良い天気であったが、夕方近くになってから急に風が南に変わり波も高 くなってきました。

隣のおじさんは早くやめて帰ろうといって「丈吉、危いから早く上がれ」といって注意をしましたが、次々に大きな魚がつれるので夢中になって丈吉親子は釣り続けていました。

その中に突然高い大きな波が打寄せて丈吉とその子の二人は波にさらわれ、 その後どこにも二人の死骸はあがりませんでした。

それで今でもその霊がさまよい浮ばれずにいるのか、鯨瀬の上で話しをする と急に高い波が打寄せてくるといいます。(福江市の伝説・民話)

壱岐市 巨人ディと鯨物語

『フンドシで鯨を捕る』  大昔、ディと呼ばれた巨人は、大陸から、対馬、壱岐、九州本土へと、またいで渡っていたと云います。

ディ巨人の足跡が鬼の足跡と呼ばれる凹地が、郷ノ浦町渡良半島牧崎、黒崎半島、勝本町辰ノ島の3ヵ所にあります。

巨人ディが壱岐の島と九州本土をまたいで足をかけた時に、下を見ると玄界灘を泳いでいる鯨の群れを見つけたので、フンドシの前垂れの部分を使って一度に、3頭の鯨をすくったという民話があります。

(西海の鯨物語:野本政宏)(壱岐市役所観光商工課) 

壱岐市 鯨伏(いさふし)物語

『シャチ石』 壱岐島には、鯨のつく地名が多いといわれています。壱岐国の時代の鯨伏郷、現在の勝本町立石触小字名の『鯨伏』、芦辺町住吉前触の『鯨岩』、石田町湯岳射手吉触小字名の『鯨石』があり 『鯨岩』『鯨石』のすぐ近くに鰐(わに)が石に化した鰐岩、鰐石があると伝えられている。

「壱岐の国風土記」によると「鯨伏の郷、壱岐郡の西方にあって、昔、鰐(わに)が鯨(いさ)を追いければ、鯨は走り来て、隠れ伏した。

ゆえに、鯨伏(いさふし)という、鰐と鯨は、並びて石と化した」とあり、壱岐の島においては、この鰐は、多分、サカマタ(シャチ)のことだろうと、云われている

(西海の鯨物語:野本政宏)

平戸市

大崎 『志々伎山参り』

祟り 平戸瀬戸で(銃殺)捕鯨が行われていた昔、鯨が鯨捕りの夢枕に立って、自分はこれから志々伎山のお参りに行くので、行きは取らないで帰りに取ってくれといった。

しかし、鯨取りは行きの時に取って、納屋場があった皿川に運んで解体してしまった。

さてその鯨取りは家で銛が錆びないように天上から下げていたが、鯨を取った後家に帰ってみると、それが落ちて孫を突き刺していた。例え鯨でも、云うことをおろそかにしてはならぬ。 

(生月町博物館「島の館だよりVOL.7」『紋九郎鯨伝説考』中園成生)

西海市 白鯨の安産祈願物語

祟り

『お伊勢参り』 西彼杵郡大瀬戸町松島は、江戸時代には大村領として著名な鯨組、深澤組の居浦となり、鯨物語の一話が伝承されています。

鯨捕りで巨万の富を築いて、当時、繁栄と豪華を誇った深澤組、それが寛政4年(1792) 深澤与五郎幸曹の代になりますと、衰退のきざしが見えつつあった。

ある夜のこと、与五郎の夢枕に一頭の白鯨が現れて 「私は今、懐妊中なので、お伊勢様

まで、、安産祈願のお参りのため、明日、松島の沖を通ります。どうか、私を無事に通して下さい。私が安産して帰るときは貴方から捕らえられてもかまいません」

と何度も頼んで消え去りました。

夢からさめた与五郎は、早速、このことを組子の者達に知らせようと急ぎ、浜まで駆けつけたが、鯨船はすでに出漁した後だった。

与五郎は、白鯨の無事を祈りつつ、落ち着かないままに、鯨舟の帰りを待ったものの、その日、長さ14㍍の白鯨を捕って帰ってきた。

それ以降は、鯨はぜんぜん捕れなくなり、豪勢を極めた深澤組は、次第に、家運は傾いていったと伝えられています。

(西海の鯨物語:野本政宏)

小値賀島 鯨の墓物語

『上方詣リ』 五島列島北部の小値賀島は北松浦郡小値賀町です。江戸時代は、平戸領の捕鯨の島。

壱岐島の八幡浦から移住した小田鯨組、また大村領から浅井鯨組等が出組した島でした。

この島の笛吹郷小渕には、小田組の墓所があり、そこには数百年前に、小田組の二代目当主小田伝次兵衛が建立した鯨の供養碑(その銘は元禄八年、為鯨鯢菩提)があり、これを鯨の墓とも読んでいます。

その伝承は、ある夜、伝兵衛の夢枕に、33尋もある大鯨が現れて云うには

「私は、明朝、上方詣りのためにこの沖を通りますので、どうか見逃してください。その代わりに、帰りにはきっと、同じ場所を通りますので、そのときは捕られましょう」

と、伝兵衛は朝を待ち急いで船子達に知らせようと浜に出たが、すでに遅く、大鯨は捕らえられ、裁かれていた。

これを哀れみ、伝兵衛は、鯨の供養碑を建立しました。

(西海の鯨物語:野本政宏)(小値賀町郷土誌編纂委員会『小値賀町郷土誌』)

小値賀島 貴人のお告げ

『龍宮へのお使い』 小値賀の小田伝兵衛という、鯨長者がおりました。

初は鯨突の漁夫でありましたが、非常によく働き苦しみに耐え財産を貯えまして捕鯨の業主となり、小値賀島に根拠を置き付近の海上に漁場を設け、手広く営業を致し巨万の富を為していました。

或る夜更け伝兵衛の寝所の枕元に貴人が来られまして、明朝夜の明け方33尋の白長須鯨がお前の漁場付近を通るが、彼は龍宮様にお使いに行くのだから何卒捕らないでくれ頼む、帰りは致し方ないと申されました。

承知いたしましたとお答えしようと思うと貴人はきえておられぬ、あゝ今のは夢であったのか、然し夢も正夢があるからと、兎に角使いを漁場に出しました、然るに使いが着く前に、漁場にて33尋の白長須鯨が捕らえられておりました。

伝兵衛折角貴人に頼まれながら、遺憾ながら頼まれ甲斐がなくて大層残念に思いました。

元来漁業家は大そう縁起を貴ぶものにて伝兵衛も此の機会に捕鯨業を止め、海草採取業酒造業等に転業し、紐差村と獅子村との堺に野原があったのを開墾し、針尾島に新田を築いて、共に美田を得まして益々繁昌致しました。

(志自岐惣四郎編『平戸の伝説と逸話』)

福江市 紋九郎鯨の伝説(1)

白鯨

祟り

『大宝寺参り』 捕鯨の網元紋九郎は、7年になる不漁から脱しようと、昔、人をとって食っ たという鬼神に丑刻(うしのこく)参りを続け満願の夜、夢に不思議なお告 げを受ける。

それは、大漁と引きかえに若い息子の甚九郎の血がほしい、というお告げで あった。

次の夜、又、不思議な夢を見る。

さざえ島と崎山鼻との間を抜け、白浜めがけて泳いで来た三十三尋(ひろ) もある白鯨が

「紋九郎よ、私は祈願があって大宝寺参りする処じゃ。  明朝早く崎山沖を通るが、その時は必ず見逃せよ。」

その夜明け、夢の通り 巨鯨が崎山沖に現われた。

紋九郎の制止もきかず、息子の甚九郎も他の舟子も沖に出て、白鯨に挑んだ が、白鯨は、逆に網舟に襲いかかり、多くの舟子と共に甚九郎も尾ひれに打 たれて死ぬ。

それを見て、父紋九郎も狂い、鯨に挑み、命を果たす。

巨鯨も又、命たえて、浜に打ち上げられる。

その鯨を人は「紋九郎鯨」と呼び、上崎山では旧正月16日、鯨踊を奉納するという。

伝説が見事な物語となって甦っている。

(田中正明)(「紋九郎と鯨」 「五島物語」)(福江市史編集委員会『福江市史(上巻)』 

佐世保市宇久町   紋九郎鯨物語(2) 

『大宝寺参り』   五島列島北端の宇久島は佐世保市宇久町であり、江戸時代は五島領の島、捕鯨は地元の山田鯨組、平戸領の鯨組、大村領からの鯨組の出組も盛んな島でした。

宇久島平住の山田紋九郎は、山田鯨組三代目、かなりの豊漁を続けていたが、正徳5年 (1715)の冬のこと、網代を通る鯨がいないので水夫(かこ)達は「正月前に、鯨を一本欲しい」とあせっていたが、それがどうにもならない。

とうとう、年が明けて6年となり、正月も半ばを過ぎてもだめでした。

すると21日の夜、紋九郎は不思議な夢を見ました。

子持ちの大鯨が云うには

「私は五島の大宝寺(玉之浦、真言宗、西の高野山と称す)に、小鯨を連れて参詣する途中です。どうか、参詣がすむまで、捕らないで下さい」

と懇願するので、紋九郎は目が覚めて思った。

「なるほど今日は、弘法様の御縁日だ。鯨が通っても捕らないようにと、皆に申し付けよう」

と、夜が明けて、22日、早速昨夜の夢枕の話をして

「皆、鯨をまちあぐんでいるだろうが、もし、子持鯨が通ったら、今度だけは捕らないようにしてくれ」

といった。

水夫達は「夢のことだから」となま返事をするばかりであった。

それから昼食を済まし、一服している時に鯨山見から鯨発見の報せがあった。

皆は総立ちになった。「待ちに待った子持鯨ちゅうばい。さあ、やったぞ」と勇気百倍 、たった今、網主から云われた事など、すでに頭にはなく、水夫達は、それぞれの船に飛び乗り、勢子船も双海船も、鯨をめざして、沖の方へと滑り出した。

「鯨は、白長須鯨、長さ33尋の子持だ、逃がすな」と水夫達の意気込みは強い。網が一張り、二張り、三張りと張られた。

銛も打ち込まれた。大鯨は、逃げようと大暴れに暴れ、水夫達も懸命に、鯨と人間との戦いは続いている。

西の空の真黒な雲は、いつの間にか空一面に広がり、風が出てきた。雨も、みぞれ交じりの突風となった。

暴れくるう鯨は、とうとう網を破り、銛綱を切って逃げた。

波は、山のように押し寄せ、船は、飲み込まれようとしている。

親方は「船をかえせ」と命じた。一同は岸に向けて漕ぎ出したが、船団はばらばらになる。

島中が大騒ぎの内に夜が明けると行方不明の者、流れ着いた72人の死者。その時、鯨の背には、山田家の紋章が見えたと伝えられています。

山田組始まって以来のこの大惨事となって、この事件を機に、紋九郎は鯨組を止めて、 造り酒屋となり、流れ着いた72人の死者は、平の墓地に、七十二様の墓碑として祀られています。

この話は、捕鯨の地であった新魚目町にも伝承しています。

 (『西海の鯨物語』野本政宏)(宇久町郷土誌編纂委員会『宇久町郷土誌』)

五島市   ヨコヲグンと鯨物語 

 『大宝寺参り』  五島市三井楽町柏浦(かしわうら)は、五島列島の南の島、福江島の北西部に位置しており、江戸時代は五島領で、突組や網組の捕鯨地であり、この地にも、鯨の民話が伝承されています。

昔、ヨコヲグンと云う所の人が移住して、鯨捕りをしていた頃のこと。 ある年はどうしたことか、不漁続きで親方、舟子ともに悲観していた。

ある夜、ヨコヲグンの親方の夢の中に、大鯨が現われ、親方に向かって云うには 「私達鯨親子は、隣村の大宝寺参詣を思い立ち、相浦と姫島の間を通るので、参詣が済むまで見逃してください。参詣の帰りにも同じところを通るので、その時は捕ってもかまわない。もしも、私の願いを聞かずに捕ったら、親方や舟子達にも災難がおきますよ」

と云った。

翌朝、大鯨が相浦の沖を、潮を吹き上げているのを発見した舟子達は「ひさしぶりの獲物だ」と喜び、時を移さず親方に連絡した。

親方は、昨夜の夢からして、後の祟りを恐れて、舟子達に、その鯨にはワケがあるからと夢物語を聞かせて、鯨を捕らぬようにと命じた。

しかし、舟子達は「なあに、夢は逆夢だ。運が向いてきた」と云い 、親方の止めるのも聞かずに、舟に飛び乗り沖へ、沖へと漕ぎ出し、とうとう、鯨を囲み取ってしまった。

それ以来、柏浦では鯨が捕れなくなり、浜はさびれてしまったという話です。

(『西海の鯨物語』:野本政宏)(三井楽町『三井楽町郷土史』)

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