比良八荒天を鞴と吹きすさぶ

https://hira-hakkou.net/ 【近畿に春の訪れを告げる 比良八講・湖国古典行事】より

春の訪れを告げる比良の例祭・比良八講

毎年3月26日、琵琶湖西岸の景勝地・近江舞子にて、近畿地方に春の訪れを告げる古典行事「比良八講」が行われます。

比良八講の長い歴史の中で、その主催会場は八屋戸から浜大津、雄琴、唐崎、堅田へと変遷してきましたが、二十一世紀になり、その名の由来通り、比良山の麓、近江舞子の雄松崎で執り行うことができるようになりました。

白砂青松の琵琶湖でも最も美しい景色の中で、地元・南小松の子供たちが演奏する野村太鼓が比良八講衆を迎え入れ、一段と華やかな色を添えていただいています。 こうして比良八講を開催できることは、関係者の皆様の多大なご協力の賜物と感謝いたしております。

毎年、「春を告げる行事」としてメディアにも取り上げていただいていますが、今は亡き、箱崎文応大僧正が比良八講を再興されたときの 本旨【水難者の回向法要、命の水瓶・びわ湖への感謝報恩、水源の山々の保全】をこの時代の1人でも多くの方に知っていただき、 宗派を越えてともにお祈りいただきたいと願っております。

比良八講事務局   比良八講近江舞子の会

https://hira-hakkou.net/history/ 【比良八講の歴史的背景】より

最澄が開いた天台宗

天台宗の開祖である最澄(伝教大師)は、767年、現在の大津市下阪本で誕生されたと伝えられています。 12歳の時、近江国分寺(石山寺)の高僧、行表(ぎょうひょう)の門に入り、得度して名を最澄と改めました。 最澄は19歳の時、奈良の東大寺で具足戒を受けましたが、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、 その同じ年、一人ふるさと近江の比叡山に庵を編んで山林修行を行い天台の思想を構築していきます。

比叡山と法華八講

794年、平安京に遷都した桓武天皇は、志の高い聡明な青年僧・最澄を全面的に庇護し、 日本仏教の母山と称される比叡山に天台宗の比叡山寺(延暦寺)が開かれました。

この天台宗のよりどころとなる教典は「法華経」です。法華経は八巻二十八品からなり、天台宗では法華教八巻を講説する法要を「法華八講」といいます。

古代の神々と仏教の習合・比良八講の起源

平安時代の天台宗の隆盛に伴い、比良山においても「比良三千坊」といわれるほど多くの僧坊が建てられました。 この比良の地には、古代より多くの神々が祀られていましたが仏教の隆盛とともに古代の神々が仏教と習合し、 「比良明神」「比良権現」「次郎坊」等と名前を変え、仏の化身として人々に信仰されるようになりました。 ここにいたって、比良の寺々では冬から春に季節の変わる時期に「比良明神」「比良権現」に対し、 五穀豊穣、風雨順時などを祈り法華八講法会が行われたといわれます。これが「比良八講法会」の起源となります。

比叡山焼き打ちのインパクト

しかしながら、時代が下るにつれ、天台宗の勢力も衰え、山中の寺々もその数を減らしていきました。 ついには、織田信長の比叡山焼き討ちに遭い、時を同じく比良においても天台の寺は灰燼に帰したといわれています。 村々の寺も鎌倉期に興った庶民救済の仏教宗派(浄土宗、真宗、禅宗等)へ転宗していったといわれています。 こうした時代の変遷の中で、比良八講法会がいつの間にか途絶えていきました。

https://hira-hakkou.net/revolution/ 【比良八講の再興】より

比良八荒(八講)、荒れじまい

「歴史的背景」で述べたような経緯があり、「比良八講」という言葉のみが残りましたが、いつしか春の荒々しい比良颪(ひらおろし)と呼ばれる季節風と重ね合わせて「比良八荒」とも呼ばれるようになりました。 「比良八講」が営まれる3月下旬には、激しく吹きすさぶ季節風もこの頃を最後に収まり、いよいよ春本番の到来で田畑の準備に追われる日々が始まることから 関西では、「比良八荒、荒れじまい」といわれるようになり「奈良のお水取り」と並んで春を表す季語として親しまれるようになりました。

再興者・箱崎文応大僧正

こうした情況の中、箱崎文応大僧正が「比良八講」再興に尽くされました。戦時中に千日回峰行を満行された箱崎行者は、福島県の小名浜(現いわき市)に生まれ、幾多の変遷の後、 水難事故に遭い、多くの仲間を失いました。行者は、このことを契機として40歳になって仏門に入った希有の経歴を持つ出家者でした。 吉野大峰山、御嶽山など日本各地の行場をも回峰され、最後に厳しく自分を指導してくれた亡き師の夢告により、比良山を終の行場にする決意をされ、蓬莱山の山頂に籠もり修行を続けました。 「再興者・箱崎文応行者」に詳細

比良八講の再興

箱崎行者が比良山での修行に入った頃は、時あたかも終戦の混乱期。「国破れて、山河あり」であらゆるものが破壊され、物資が不足した人々は飢餓との戦いの日々でした。 しかし、眼下に広がる琵琶湖は満々と水をたたえ、比良の山は全山琵琶湖の一大水源となって人々を育んでくれる。行者は「これぞ仏様のお慈悲以外の何者でもない」と感得し、 古人が山や湖に抱いていた敬虔な気持を人々に思い起こしてもらい未来の人々にこの自然を残していってもらいたい、と強く思われるようになりました。 そして、比良山の回峰修行を重ねるうちに地元の古老から「比良八荒」の昔話を聞き、この「比良八講」再興を決意されました。

水難者の回向と湖上安全祈願

昭和30年、まだ雪の残る打見山に登り、「寺屋敷」と呼ばれる山頂付近の古寺跡の湧き水を取水し、そこで法華論議法要を行い、 そして、3月26日、衆僧、山伏、稚児娘、信者が乗り込んだ船が、浜大津港より一路ほうらい浜を目指します。湖上では、打見山で取水した「法水」を湖上に流して湖水の清浄を祈り、 同時に箱崎行者の出家のきっかけともなった水難者の回向と湖上の安全が祈願されました。

そして、近江舞子・雄松崎へ

船がほうらい浜に着くと、一行は地元の人々が待つ八所神社に参拝。浜辺にて山伏が採燈護摩を奉修し、ここに中世以降400年以上も途絶えていた「比良八講」が再興しました。 八所神社ではその後2年、そのあと浜大津、雄琴、唐崎、堅田(琵琶湖タワー)と場所を変え、2002年より、ようやく本来の発祥の地、比良の裾野の近江舞子で行われるようになりました。

文責・東岸滋応

https://www2.memenet.or.jp/kinugawa/huigo/02125.htm 【ふいご 鞴】より

 金属などを製錬、加工するとき、火をおこしたり、火力を強めたりするのに使用する 簡単な送風装置で、(ふいごう)ともいう。古くは(ふきかわ)(はぶき)とも呼ばれ、 《日本書紀》の天岩戸の条に、シカの皮で(天羽鞴=あまのはぶき)を作ったことが見える。

 その起源は金属器が現れてから、そう遠くない時期と考えられる。日本の鞴は、多く皮袋型で、 タヌキの皮が最上とされたが、しだいに改良され、のち長方形の箱の中を気密に作り、 ピストンを往復させて風を押し出す差鞴(さしふいご)や手風琴型のもの、天秤(てんびん)鞴などが作られた。 また⇒たたら(鑢、蹈鞴)と呼ばれる大型の足踏式のものもあった。動力も手動から、てこ応用の足踏式に進み、 さらに家畜や水車の使用となり、やがて蒸気や電力の利用も行われ、機械的装置となっていった。

 鍛冶屋、鋳物師、石工など鞴を使う職人たちは、旧暦11月8日を鞴祭と呼び、この日は、一日中、仕事を休み、 鞴を清めて、お神酒、赤飯、ミカンなどを供え、守護神の稲荷神を祭った。この行事は、昔、三条小鍛冶宗近が刀を打つとき、 稲荷神が現れて相鎚を打って助けたとか、この日の卯(う)の刻に天からたたらが降ってきたので、その記念に祭るのだと伝えている。  一方、この鞴祭を金山講、金山様祭ともいい、職人の祭日として、戸口に粉糖、コショウ、ニラなどをつるす習俗もある。

  宮本瑞天

国民百科事典  平凡社  1979年



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