https://shunan-city.note.jp/n/n783ed9a7779f 【四季を楽しみながら何気ない日常を慈しむ時間を大切に。俳人 宇多 喜代子 さん】より
俳人|宇多喜代子さん
935(昭和10)年、周南市(旧徳山市)生まれ。1953(昭和28)年、父の転勤で大阪府に移り住み、俳誌「獅林」の主宰・遠山麦浪(ばくろう)氏の教えで俳句を始める。1970(昭和45)年、桂信子氏主宰の「草苑」創刊に参加し、1978(昭和53)年に同誌編集長へ就任。
現在は、現代俳句協会特別顧問、一般社団法人の俳句同好会「草樹会」の会員代表を務める。1982(昭和57)年、デビュー作句集「りらの木」が第29回現代俳句協会賞受賞。2001(平成13)年、第35回蛇笏賞受賞、2012(平成24)年、第27回詩歌文学館賞受賞、毎日芸術賞、紫綬褒章など多数受賞。2019(令和元)年、日本において文化の向上発達に関し特に功績顕著な方として文化功労者に選ばれる。2021(令和3)年、周南市特別文化功労賞受賞。句集に「夏の日」、「象」、「記憶」など。著書「ひとたばの手紙から」、「里山歳時記 田んぼのまわりで」、「戦後生まれの俳人たち」、「俳句と歩く」、「厨に暮らす」など。
初めての師、俳句との出会い
俳句の出会いは、旧徳山市から大阪へ引っ越した高校3年生の時。俳句を習っていた祖母が親しくしていた僧侶・遠山麦浪さんとの出会いがきっかけです。
昔、祖母から短歌を詠んで聞かせてもらってはいたものの、馴染めなかったという宇多さん。「でも祖母と一緒に麦浪さんにお会いしたとき、勧められて作った俳句が褒められて、それがとてもうれしくって。麦浪さんは、非常に高潔で洒脱(しゃだつ:俗気がなくさっぱりしていること)な人で素敵だなと思ったこともあり、俳句を始めました」
それからは俳句を持ち寄って批評しあう「句会」へ参加するようになりました。当時、若い女性が句会に参加するのは珍しかったそうです。
「私にだけお菓子を出してもらえて、シュークリームなどをいただきました。当時シュークリームなんて見たこともなかったから、おやつに釣られて句会へ行っていました」と笑顔で話します。
俳句を続けるためにアルバイト
趣味でたしなむ人は多いが、生業にするのは難しい俳句の世界。俳句にすっかり魅了された宇多さんは、続けたい一心で、歯科医院でアルバイトをしながら俳句を続けたといいます。
1950年代後半になると新聞社などが主催するカルチャーセンターが開設され始め、俳句教室で講師を務めるようになりました。
俳人としての歩み
そんな宇多さんに転機が訪れたのは1970(昭和45)年。俳人・桂信子さんが俳誌「草苑」を創刊する際、声がかかり本格的に俳人活動を開始することになります。
45歳となる1980(昭和55)年には、デビュー作の句集「りらの木」を発表し、現代俳句協会賞を、2001(平成13)年には、句集「象」が俳句界で最も権威ある賞とされる蛇笏(だこつ)賞を受賞します。
また、2006(平成18)年には、俳句界で最も歴史ある全国組織の団体「現代俳句協会」で会長を就任。紫綬褒章や文化功労者に選ばれるなど、俳人として歩み続けます。
花の色は水上にあり夜市川
父までの瓦礫を越えるりらの枝
俳句の魅力は
「これからも5年に一度は句集を出すつもり」と話す宇多さんに、俳句の魅力について尋ねてみました。
「短歌と違い、俳句は短くて、点で捉えられるところがいい。型が決まっていて制限があり、余計なことを言わなくていいので私の性分に合っていました(笑)。短歌だと少し知識が必要ですけど、俳句は特別な教育は必要ありません。字が書けたら詠めますよ。それに吟行と称して戸外に行っても、家にこもっていても俳句が詠めます」
特別な道具も必要なく、ペンとメモ帳があればどんな場所にいても詠めるのも俳句の魅力の一つです。
俳句を詠む上で欠かせないのが、季節を表す「季語」です。季語の魅力について宇多さんはこう話します。
「若い頃は季語はいらないと思っていたけど、今では季語を作ったのは俳句の大きな手柄だと思います」
続けて「私が誰かに本をお薦めするときは『歳時記』を、日本人の必携の本として紹介しています。今は季節感が薄れてきていると言われますが、日本にいたら季節を楽しまないと!」と話します。
春 立春の今日あれをしてこれをして
夏 夕立の半透明をふりかぶる
秋 田をめぐり来し朔日の赤柏
冬 なにもかも倒れて真冬深みたる
さらに、俳人には「定点観測が重要」と宇多さん。
「私はよく『自分の木を一つ決めること』とお伝えします。庭に生えている木でも、駅や公園の木でもいい。その木を観察すると、3ミリの芽が5ミリや1センチに伸びていく。毎日の変化がおもしろいのです」
季節の移ろいや日常の些細な変化を感じ取ることから俳句作りが始まっているのだと感じました。
徳山での戦禍の記憶
1935(昭和10)年に生まれ、幼少期は徳山一番丁で過ごしていましたが、特に心に残っているのは戦争の記憶だということでした。
第二次世界大戦中である1945(昭和20)年の7月、徳山に軍燃料廠(しょう)があったことから爆撃を受け、町は火の海になりました。当時、宇多さんは10歳。
「今では徳山の町が丸焼けになったことを知っている人も少ないかもしれません。B29爆撃機から焼夷弾がパラパラと落ちてきて…私が住んでいた家も全焼しました」
八月の赤子はいまも宙を蹴る
「あの日、道で赤ちゃんが手と足を広げたまま転がっていて…。今もあちこちで戦争が起こっているけど、赤ちゃんが戦場で亡くなるときはこういう姿なんだと思いました」
宇多さんの中で戦禍の記憶は、今も深く刻まれています。
稲の原祖母と二人の敗戦日
戸田での田んぼの記憶
空襲直後、祖父母が住んでいた戸田の家に、母と共に引っ越しました。田畑に囲まれ、農業を営んでいた祖父母の家で過ごした記憶も深く根付いています。
「子どもながらに手伝いをよくしていました。薪を使ったお風呂沸かしやニワトリの世話、米作りなど、工夫しながら作業した経験は農業を好きになるきっかけでした」
戸田で過ごした日々は、宇多さんにとって俳句作りの大きな礎となりました。
いつしかに余り苗にも耳や舌
早苗饗(さなぶり)のいちにち湯野の湯の熱き
「田んぼにまつわる俳句は、全部がこの頃の記憶につながっていると言っても過言ではありません」
俳句雑誌の編集長時代には、田んぼの特集を組まれたそう。
宇多さん自身も、お米が好きすぎて、田んぼを借りて珍しい品種の米を育てたり、中国まで米のルーツを訪ねに行ったりしたこともあるそうです。
「俳人の中でも米と言えば私ですよ」と笑顔で話します。
旧徳山市で過ごした学生時代の思い出
戸田で約3年を過ごした後、福川へ引っ越し、桜ヶ丘中学校(現:桜ケ丘高校)へ通うことになりました。
「私の人間形成において、最も影響を受けたのは中学時代です。本当に素敵な先生がたくさんいらっしゃり、自由な校風で伸びやかに過ごすことができました。私はエッセイのような文章をよく書いていましたが、それを先生が大変褒めてくださって。その先生に出会わなかったら、文章を書いたり読んだりしていなかったと思います」
福川から徳山まで列車で通学していた宇多さん。
「徳山駅前は戦後で焼けてしまったけど、復興の勢いがすごかったですね。大規模な区画整理でできた駅前の広場には青森からトラックでリンゴを売りに来ていたんですよ」そのうちに商店街も栄えていきました。
その後、徳山高校へ入学しますが、宇多さんの父が復員し1学期の途中には仕事の関係で大阪へ引っ越すことになります。
「友達がたくさんいたから離れがたくて、泣きの涙で大阪へ行きました。1週間すれば新しい暮らしに慣れましたけど(笑)」
徳山高校の応援歌「山は岐山」の一節をよどみなく暗唱する宇多さん。
「『山は岐山の初紅葉 海は鼓海の波の音』いいフレーズだと思って」覚えていたのだそうです。
徳山(現:周南市)は住みよい街
親戚が周南市に住んでいるため、よく帰省するという宇多さんに現在の印象を伺いました。
「新幹線があるから帰りやすいですね。今は随分変わっていて戸惑いますが、海と山がはっきりした土地だから、どこに何があったのかと察しが付きます。商店街を歩けば、知っている名前のお店もありますし。徳山は小ぢんまりした地方都市だから住みやすいと思います」
宇多さんの人生観
今回の取材で宇多さんの人生観に触れることができました。
「昔は空を見て明日は雨が降りそうだとか、寒くなりそうだとか察知して次の日の予測を立てていたんですよ。今は天気予報を当てにするけど、観天望気も大事です」と話します。
観天望気とは、自然現象を観察して天気を予測することをいいます。
文明の利器に頼りすぎる現代人は、観察力や洞察力、自分自身で考える力を高めることが大切だと感じると共に、四季を楽しみながら何気ない日常を慈しむ時間も必要なのではないかと思わせられました。
また、折に触れ「私は生まれてから意地悪な人に出会ったことがないんです。身内にも恵まれていたし、周りの人もいい人ばかり」と話す、気さくで温かい人柄の宇多さん。そんな宇多さんに、誰もが心を許し多くの人が惹きつけられるのではないでしょうか。
百歳は花を百回みたさうな
記事:西山優歌 / 写真:高木美杜
https://www.sankei.com/article/20220722-FV52Y4GQQJMDXGGFPSPUMECV2Y/ 【「退屈」も「あいにく」もない 宇田喜代子が紡ぐ俳句の世界】より
70年近くにわたって四季折々の自然や、暮らしの営み、人間の息づかいを句に紡いできた俳人で文化功労者の宇多喜代子さん(86)。このほど刊行したエッセー『厨(くりや)に暮らす 語り継ぎたい台所の季語』(NHK出版)には、稲作を中心に山海の幸に恵まれた日本の食文化や、そこから生まれる俳句の世界が描き出される。「『退屈』もないし、『あいにく』もないのです」と語る宇多さんが俳句の奥深い世界にいざなう。
うだ・きよこ 昭和10年、山口県生まれ。28年、句作を始める。「草苑」で桂信子に師事。57年、句集『りらの木』で現代俳句協会賞。平成13年に『象』で蛇笏(だこつ)賞。令和元年、文化功労者。平成18~24年、現代俳句協会会長を務める。句集に『夏月集』『記憶』『森へ』など。『里山歳時記』『古季語と遊ぶ』など評論やエッセーも多数。大阪府池田市在住。
本書には台所や食卓にまつわる俳句や季語、エピソードが紹介されている。
例えば、夏の季語である「鰹」。はるか南方の海で生まれ、春から夏にかけて黒潮の流れに乗って日本列島を北上する鰹は、各地の食卓を彩り、また数々の名句をも生んできた。
«大江戸や犬もありつく初鰹»
江戸っ子の狂乱ぶりが伝わる小林一茶の作品だ。そして、宇多さんにもこんな句がある。
«散らばるは十中八九鰹船»
また、料理好きで栄養士の資格を持つ宇多さんお薦めのレシピも必見だ。メバルの煮付けや冷やし汁、沢庵(たくあん)の炒り煮、ワカサギの南蛮漬けといった、季節ごとの家庭料理が満載で、作ってみたくなる。
「旬をいただくことが大事です。春夏秋冬、せっかくおいしい旬の食べ物に恵まれた日本に住んでいるのですから」
稲作の世界とのつながり
『厨に暮らす』(NHK出版)
豊かな食文化を育む農業は命の源、かけがえのないものであり、宇多さんにとって大きなテーマでもある。とりわけ、稲作の世界は俳句と関係が深い。「この時期、水田に苗が顔を出した風景を見ると安心します。田植え、秋の刈り入れ。日本の稲作は、俳句に欠かせない歳時記に大きな影響を与えていますからね」と話す。
«新米を掬(すく)うて深きたなごころ»
山口県で生まれ育ち、母親の実家が農家だったこともあり、農村の風景が心に焼き付いているという。「夏の夜は、水田に風が通ると涼しくて、それは気持ちがよかった」と思い出を語る。
中国に稲作のルーツを訪ねたり、全国農業新聞の連載で全国に出向いて各地の代表的な農作物を紹介したりと、精力的に活動してきた。そんな宇多さんが憂うるのは、37%という日本の食料自給率の低さだ。「農業を農家に任せないで、会社組織にして農業が誇り高い仕事になってくれたらいいと思う」
雨には雨の句を作る
宇多さんが俳句と関わるようになったのは、17歳のとき。父の転勤で大阪府に移り住み、祖母が親しくしていた禅寺の僧侶で俳人の遠山麦浪(ばくろう)氏から俳句を教わり、俳句雑誌「獅林」で腕を磨いた。30代半ばで俳人の桂信子氏に師事。「高潔な人格を持つ優れた方でした。麦浪和尚も情のある人格者で、句会に来る市井の人々からも、たくさん勉強させてもらいました」と語る。45歳で第1句集『りらの木』、その後『夏の日』『半島』『森へ』など現代性と伝統を兼ね備えた作風で句集を刊行してきた。
旺盛な俳句活動とともに、「目貼(めばり)剝ぐ」「大根配」など使われなくなった古季語の発掘に励み『古季語と遊ぶ』として本にまとめたほか、先の大戦で戦死した片山桃史(とうし)ら埋もれた俳人の評伝にも取り組んできた。「いい句を作りながら騒がれもせず、一生を閉じた俳人がたくさんいる。そんな俳人の作品は読み継がれてほしい」
次なる句集のテーマは、「雨」を考えているという。「雨が降るとホッとする。外出しなくていいし、食事もあり合わせのものでいいと思える。雨降りは農民の休日。私は農耕民族の末裔(まつえい)なんだと思う」
雨の名一つとっても、時雨に夕立、小雨、霧雨…奥深く多彩だ。雨が降っても「あいにく雨」とは思わない。雨には雨の句を作る。句材になることがいっぱいある。
「俳句という文芸には、『退屈』もないし、『あいにく』もないのです」(横山由紀子)
https://hamayashiki.com/blog/2087/ 【日本語の美 宇多喜代子さんと過ごす初めての句会】より
7月15日(月・祝)浜屋敷で【日本語の美 宇多喜代子さんと過ごす初めての句会】が開催されました。
日本俳句協会特別顧問である宇多喜代子先生と、いつもこどもたちの句会【五七五であそぼう】で講師を勤めてくださっている木割先生のお2人をお招きして、18名の参加者さんの句を講評していただきました。
今年は夏の句をテーマとして、参加された皆さんには事前に句を作ってきていただきました。
集まった句に目を通して、自分以外の作品から、良いと思った句を3つずつ選んでいきます。これを『選句』というそうです。
選句の投票で一番高得点だった句がどうしてみんなの心に響いたのかなど、解説と講評を行い、次に全員の句についても見ていきました。
季語が二つ以上の『季重ね』になった句は、どちらを残してアレンジするとより良い俳句になるのか。時間を入れてみたり、場所を表す言葉を入れてみたりすると良い等、わかり易くアドバイスをされていました。
他にも、ひらがなと漢字を使い分けて、言葉の重さをコントロールする事。
同じ蝶でも、梅雨の蝶と夏の蝶は飛んでいる高さが違うことで句の雰囲気も変わってくるという事など。
去年の句会でもお話されていた、『俳句は理科である』というお話。
俳句自体は言葉を使って表現するので、科目で言うと“国語”なのだそうですが、その表現するもの自体は、植物や天気など自然のもので、それは理科で学ぶものだそうです。いかに俳句では観察することが大切か伝わりました。
また俳句は、いつでも始められるもので、さらに毎日を楽しく過ごせる趣味だとおっしゃっていました。
例えば、雨が降っていても、俳句をやっていれば雨を観察して句を作れるので“生憎”の雨などにはならず、毎日が退屈を感じさせないものになるそうです。
今回の句会では、お一人2句作ってきていただいたので、全部で36句もの句があつまりましたが、二つとして同じ句は無く、それぞれ違う夏を感じさせてくれるものばかりでした。
同じ句会に行くと、同じ人たちと句を作ることになり、似たような句が生まれてしまうことも、しばしばあると宇多先生は仰ってました。
宇多先生との句会は今年で最後になりますが、催しをきっかけに、浜屋敷が新しい交友を結べる場になれば幸いです。
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