『相馬遷子の百句』(そうませんしのひゃっく)

https://furansudo.ocnk.net/product/3070 【仲寒蟬著『相馬遷子の百句』(そうませんしのひゃっく)】より

◆百句シリーズ

名句が気軽に読める百句シリーズに夏相馬遷子が登場!

◆一人の医師として

相馬遷子と言えば「馬酔木」の高原派としか知らなかった。その遷子と同じ佐久に住むこととなり、同じ地域で医師として働くようになって俄然その俳句に興味を持ち始めた。

読み進めるうちに遷子という作家の俳句は一括りにできるほど単純ではなく、信州の自然を中心とした自然詠から社会性俳句、境涯俳句、それに著者が医師俳句と呼ぶもの、さらには闘病俳句に至るまで幅広いジャンルに亙ることが分かった。

職場俳句運動とか教師俳句などが遷子の所属する「馬酔木」でも声高に叫ばれていた。また遷子が兄事した石田波郷は「境涯俳句」を提唱し、遷子は「馬酔木」だけでなく波郷が主宰する「鶴」にも投句していた。遷子が自分の職業である医師とその業務を俳句で表現しようとしたのはごく自然の成り行きだったのである。

(解説より)


https://fragie.exblog.jp/34114263/ 【わが山河まだ見尽さず、、、】より

6月12日(水)  旧暦5月7日

今朝の沙羅の花。仕事場への途中に咲いていたもの。自転車をとめて撮る。沙羅の花は大好きな花だ。

仲寒蟬著『相馬遷子の百句』が出来上がる。

執筆者の仲寒選さんは、本著の解説の冒頭にこう書く。

相馬遷子と言えば「馬醉木」の高原派としか知らなかった。その遷子と同じ佐久に住むこととなり、同じ地域で医師として働くようになって俄然その俳句に興味を持ち始めた。

きっかけは筑紫磐井氏からインターネット上のブログ「─ 俳句空間─ 豈weekly」の「遷子を読む」に参加しないかと誘われたことであった。この企画は二〇〇九年三月から二〇一〇年七月まで中西夕紀、原雅子、深谷義紀、筑紫磐井と著者の五人(当初は窪田英治も加わっていた)による研究であり、その成果は二〇一一年に『相馬遷子─佐久の星』(邑書林)という書物に纏められた。

読み進めるうちに遷子という作家の俳句は一括りにできるほど単純ではなく、信州の自然を中心とした自然詠から社会性俳句、境涯俳句、それに著者が医師俳句と呼ぶもの、さらには闘病俳句に至るまで幅広いジャンルに亙ることが分かった。

相馬遷子は、俳誌「馬醉木」において水原秋櫻子の信頼もあつく「馬醉木」の後継者として嘱望されながらも、病に倒れた俳人である。

この度、同じ佐久にすみ、同じ医師ということから、本著は仲寒蟬さんでなければ書けない一書となった。仲寒選さんは、作品の時間軸にそって鑑賞をこころみている。

一句鑑賞をすこし紹介しておきたい。

 黙々と憩ひ黙々と汗し行く   『草枕』(昭和一七年作)

召集された遷子は大陸へ渡る。

このリズムは富澤赤黄男の「戛々とゆき戛々と征くばかり」を思わせる。赤黄男も陸軍少尉として中国へ出征した。こちらは昭和一二年の作だから遷子はどこかで読んでいたかもしれない。

この句の前にある「一本の木蔭に群れて汗拭ふ」と共に行軍の大変さを詠んだ句である。だがこの句が「馬醉木」に発表された時すでに遷子は病を得て内地に送還されており、筑紫磐井の考察によれば国内で戦地の日々を回想して作った戦火想望句ではないかという。

 吾子とわれ故山に立つる鯉幟   『山国』(昭和二一年作)

その後遷子は函館を離れる。『草枕』の前書をたどると「病中」「長男病む」「妻と幼児二人を暫く郷里に托す」「函館を去らんとす」とあり、そこで句集が終わっている。『草枕』が上梓されたのは昭和二一年五月。

同じく東大医学部を出て海軍将校となった弟、愛次郎の回想録によると、兄弟共に結核を病み妻子を養っていかねばならず、昭和二一年早春に父の遺した佐久は野沢の土地に兄が内科医、弟が外科医として医院を開業した。

故郷とは言え二八年も離れていた地である。この鯉幟は単純に「故郷に錦を飾る」というものではなかった。

 家を出て夜寒の医師となりゆくも   『山国』(昭和二八年作)

医師が家を出るということは往診の句であろう。『山国』の時代に入ってずっと往診の句が続いている。それも大概夜である。これは当時の医療事情から現在のような夜間救急の体制がまだなく、開業医の往診がその役割を担っていたからであろう。

「夜寒の医師」という呼称は孤独でさびしい後ろ姿を彷彿させる。一国一城の主として医院を構える医師から、ただ一人の人間として自然の中へ踏み出してゆく。「馬醉木」の万葉調を代表する「も」という詠嘆の終助詞がよく効いている。「も」は「かも、かな」と同義である。

 ころころと老婆生きたり光る風    『雪嶺』(昭和三三年作)

遷子にしてはユーモアあふれる句。

「ころころ」は文字通り肥った老婆の形容だろう。最近では年老いてから痩せるとフレイルや認知症になりやすいということから多少肥っている方がよいとされる。

この老婆は何歳くらいだろうか。当時なら傘寿を迎えるのはかなり珍しかった筈。体重を支え切れずに曲がった腰、変形してO脚となった膝、体型は球に近い。そういう患者が転がるように診察室に入って来たのだ。

「光る風」という季語から暖かく気分のよい春の一日と思われる。遷子が医師としてこの人を見る目も温かい。

 わが山河まだ見尽さず花辛夷   『山河』(昭和四九年作)

この年の四月、遷子は胃癌の手術目的で入院する。掲出句は「万愚節おろそかならず入院す」の二句後にあり、自分の生涯とそれを育んでくれた大地への感慨を詠った

遷子の四句集の最後『山河』の集中に「山河」の語を使った句は四句のみで「雪嶺」や「噴煙」の方が多い。この句の山河には殊更「わが」と冠してあるので、佐久の地への格別の親しみ、熱い思いが込められたものであろう。

辛夷は日本と韓国の済州島に分布、早春に花を咲かせる。田の神の依り代として田仕事を始める目安とされた。堀辰雄の『信濃路』にもこの花が登場する。

仲寒蟬さんの巻末の解説は、「相馬遷子の医師俳句・闘病俳句」と題し、いくつかの項目をたて、それぞれの句集における遷子の俳句に言及している。

「一、はじめに」「二、『山国』医師俳句の習作」「三、『雪嶺』医師俳句の深化』「四、『山河』医師俳句の変貌」「五、医師俳句の終焉」「六、闘病俳句」の六項目である。ここでは、「六、闘病俳句」より抜粋して紹介しておきたい。

今でこそ遷子が亡くなった原因は胃癌とその肝転移と判っているが、遷子の生前彼には遂に正式の病名が明かされなかった。縦令根治が絶望的でも告知するとの意見が大勢を占める現在とは隔世の感がある。遷子の俳句を読んだだけでは彼にどの程度まで真実が語られていたのかいま一つはっきりしなかった。だが遷子没後に編集された「俳句」昭和五一年四月号の特集「相馬遷子追悼」を読み疑問が氷解した。遷子は知人に対し自分の病気を「肝硬変」と説明していたようだ。つまり胃は手術したけれど悪性(癌)ではなかった、ただその時受けた輸血の合併症で肝硬変となりそれが長引いているのだ、と。矢島渚男氏によると「癌の疑いを捨て回生に希望を持」たせるために主治医は偽のカルテを示したと言う。肝硬変は治癒しないまでも悪化をくいとめることができると信じ込まされたのだ。

 入院す霜のわが家を飽かず見て   冬青空母より先に逝かんとは

 あきらめし命なほ惜し冬茜     死は深き睡りと思ふ夜木枯

最後の入院となった昭和五〇年一一月一七日のそれは完全に死を覚悟しての入院であった。もう二度と戻ってくることはあるまいとの思いでわが家を見たのである。

 冬麗の微塵となりて去らんとす

この句のよさはすぐ消え去るのでなく微塵という小さくとも存在する物を提示した点にある。この微塵にはダイヤモンドダストのイメージがあったと考えるがどうであろう。ただの埃と考えるより朝日を浴びて七色に輝くダイヤモンドダストと取った方が遷子の清々しい生き様に相応しいのではないか。

長野県・佐久に医師として生き医師として死んだ相馬遷子の俳句百句とその鑑賞の一冊が、仲寒蟬さんのご尽力によって実現したことを喜びたい。

 薫風に人死す忘れらるるため    相馬遷子


https://ameblo.jp/masanori819/entry-12356269524.html 【一日一季語 二月尽(にがつじん《にぐわつじん》) 【春―時候―初春】】より

いま消えし樅に雪飛ぶ二月尽 相馬遷子

相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 1976年1月19日)

長野県出身の俳人、医師。本名・相馬富雄。

東京帝国大学医学部卒。水原秋櫻子に俳句の指導を受け、1940年より「馬酔木」同人。

1945年より同人会長。同時に1938年から「鶴」同人、石田波郷に兄事する。

同年斎藤玄の斡旋で句集『草枕』を出版。故郷の自然を詠み堀口星眠、大島民郎などとともに馬酔木高原派と呼ばれたが、山本健吉は遷子の句に他の「高原派」にはない、「鶴」との関わりからくる境涯性を指摘している。以後の句集に『山国』(1956年。一般にはこれが第一句集とされている)、『雪嶺』(1969年)、『山河』(1976年)、『相馬遷子全句集』(1982年)がある。1969年、『雪嶺』で第9回俳人協会賞受賞。

医師としては1943年北海道市立函館病院内科医長に赴任。1946年、故郷の長野県佐久市に医院を開業。1976年佐久病院で死去。68歳。

【傍題季語】

二月果つ(にがつはつ《にぐわつはつ》) 二月尽く(にがつつく《にぐわつつく》)

【季語の説明】

新暦二月の終わり。短い月が慌ただしく過ぎゆく感慨と同時に、寒さがゆるみ、春本番に向かうほっとした気分もただよう。

二月の終わること。しだいに日が長くなり、寒さが緩んでくるころ。

【例句】

いま割れしばかりの岩ぞ二月尽     飯田龍太

落選の友あり二月尽寒し        日野草城

校正に雁字搦めや二月尽      星野麥丘人

木の股の明りと影や二月盡       岡井省二

川波の 氷片まじえ 二月尽       伊丹三樹彦

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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