ハイクノミカタ

https://sectpoclit.com/ginkan-43/【神保町に銀漢亭があったころ【第43回】浅川芳直】より

楯野川  浅川芳直(「駒草」)

この連載に登場している方々に比べると、私は銀漢亭初心者の域を出ていない。両手で数えられるくらいだろうか。

学生ということでうんと割引していただいたと思う。「たくさん飲んで籠に2000円入れてお会計するお店だと思っていた」と言うとかなり誇張はあるが、遠方から来た学生に気を遣ってくださっていたのではないかと、今思うと汗顔の至りだ。大分甘えて飲み過ぎてしまったことを今でも反省している。

初めてお邪魔したときのことをのちのちまで「笊のように飲む人だと思った」と伊那男さんに言われたが、実はその後急性アルコール中毒を起こして人生初の救急車に乗ったのであった。大学四年間の運動部でもなかったことであった。2015~16年頃だろうか。私はけっして大酒食らいではないのだが、料理のおいしいことおいしいこと、それでついついお酒が進んだわけであった。

さて、表題の楯野川である。伊那男さん一推し、銀漢亭と言えばというお酒こそ、楯野川にほかならない。楯野川は山形の地酒で、宮城県でも人気のある銘柄。辛口のすっきりした味わい。最初の飲み過ぎの言い訳をもう一つすると、東京に来て楯野川というのも芸がないと思って、いろいろなお酒を次から次へ飲んだのが悪かった。

大正生まれの祖父から「酒は~飲め飲~め~」と教育されてきた私は「おいしければいいや」という人なのだが、そのときいただいた美味しい銘柄の数々をきちんと覚えていないのが今となっては惜しい。

沖縄のお酒でとてもまろやかなものをいただいた気がするのだが、何というお酒だったろうか。誰かご存じの方がいたらぜひお教えいただきたい。ああ、美味しそうなカクテルもあった。洋酒への苦手意識でついに飲まずじまいであったのが悔やまれる(いや、飲んだけれども記憶がないだけかもしれない)。

その後は平日に上京する機会があると銀漢亭に足を運ぶようになったのだが、行くと句会やパーティが開催されていることが多くて、伊那男さんがささっと出してくれる小皿料理に舌鼓を打てないことが毎度残念であった。

ただ、句会に飛び入りで参加することになれば畢竟飲み過ぎは抑えられ、見方を変えればラッキーであったかもしれない。一度だけ参加したOh!月見(ではなかったかもしれない)句会で高点になったので伊那男さん染筆の葉書をいただいたのもいい思い出である。

ただ、断じておいしいお酒を割引していただけるという、そんなさもしい思いで銀漢亭に足を運んでいたのではないことだけは、はっきり申し上げておきたい。あたたく迎えてくださるお店と常連さん、本棚においてある俳句関係の書籍、そういった安心感のある店内の雰囲気に、お店として惹かれていた。

田舎者の私にとって、銀漢亭は人との出会いの場でもあった。堀切克洋さんとの出会いも銀漢亭、宮城県俳句協会で仲良くさせていただいている小田島渚さんとの繫がりも、今思えば銀漢亭でいただいた「大倉句会」記念冊子の感想をお店にお送りしたのがきっかけである。

宮城県では、楯野川は比較的容易に入手できる。明日は久々に楯野川を買ってきて、良い句を作って、割引価格で銀漢亭というサロンに迎えてくださった伊那男さんにご恩返ししようと思いを新たにお酒を飲むつもりだ。

【執筆者プロフィール】

浅川芳直(あさかわ・よしなお)

1992年宮城県生まれ。「駒草」所属。蓬田紀枝子・西山睦に師事。平成29年より、東北ゆかりの平成生まれで俳誌「むじな」を発行。俳人協会会員。第8回俳句四季新人賞。


https://sectpoclit.com/asakawa-4/ 【一瞬の雪墜のひかり地にとどく 真島楓葉子【季語=雪墜(冬)】】より

2023/12/28 ハイクノミカタ, マンスリーゲスト 1928年生まれ, 1967年没, 「むじな」, 「駒草」, しずれ, とどく, に, の, ひかり, 一瞬, 仙台, 俳人協会, 冬の季語, 地, 届く, 浅川芳直, 現代俳句協会, 真島楓葉子, 雪墜

一瞬の雪墜しづれのひかり地にとどく

真島楓葉子

掲句は私が忘れられない雪の句である。掲句は句集『地は秋』(昭和35年)より。石原八束の『現代俳句の幻想者たち』(昭和37年、三雲書店)には20頁に及ぶ「真島楓葉子論」が収められているが、八束もこの一句から楓葉子を論じ始めている。

楓葉子には、宮城刑務所を訪れて詠んだ

この窓に囚愁こめて雪降れり 『地は秋』

もあり、こちらは暗い。病に苦しんだ作者だけに、自然の生命感を捉えるのに長け、しかも自然のかげりを、作者の心象として提示する。

一瞬の雪墜しづれのひかり地にとどく 

 どさっと落ちる雪。景色はそれだけ。「ひかり」と開いた箇所に、かつては技術的に眩いばかりの冴えを感じたが、今となってはそれ以上に、重く沈んだ心象の影があっての「ひかり」と思っている。雪の眩さと墜落の暗。対比と言ってしまえば一言だが、詩心の閃光を捉えるために何が大事なのかと、憧れをもった句である。

思うに、溢れてしまうほどの哀しみ。それが楓葉子の俳句世界を魅力あるものにしているようだ。今回は「駒草」に鋭い軌跡を描いて早世した抒情の人、楓葉子の話をしたい。

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真島楓葉子はは昭和3年仙台市生まれ。本名清視。戦時中は技術者として徴用され、満洲にて終戦、シベリヤに抑留。復員後仙台電波高校教員となり、その頃俳句を始める。昭和28年より阿部みどり女に師事、昭和30年7月号より「駒草」編集人となる。現代俳句協会会員。

楓葉子の編集方針は、駒草誌の充実を計るとともに、一地方俳誌たることを脱却して、みどり女始め駒草作家の作風を世に問う、というもの。今の駒草誌の原型を整えた人物のように思う。昭和30年秋には、新人顕彰の「一力五郎賞」を設定、翌31年には「駒草賞」(結社賞)、二十句競詠を設定。駒草賞と二十句競詠は現在も続いている。さらに、初夏に「緑蔭特集号」、10月に特集号を組み、前者では他結社作家の作品や論を掲載して結社内の視野を広げ、後者には結社内の評論を集めた(現在は秋の特集号のみが続く)。もう一つ、楓葉子時代の編集は、特集号以外にも駒草作家の作家論が各月を飾り、批評が充実していたことも特徴である。

ところが昭和34年夏、東北大学抗酸菌研究所に入院、闘病。昭和42年5月28日逝去。行年39歳。闘病中、句集『地は秋』(昭和35年)、句文集『斑雪』(昭和40年)を出した。石原八束の内観造形論の影響を受けて「秋」にも関係したようだが、詳しい事情を筆者は知らない。佐藤鬼房は彼を「重厚緻密」と評した(「駒草」昭和41年1月号24頁)。辛口人物評で知られる志摩芳次郎は「誠実で、朴訥」な人柄が好きだと述べている(「駒草」昭和36年9月号18頁)

余談ながら、「現代俳句協会会員」の肩書に、(「駒草」なのに)俳人協会ではないのか、と思う方がいるかもしれない。みどり女は俳人協会設立後もしばらくは現代俳句協会にいた。当時の現代俳句協会入会のハードルは高く、選挙に通ってやっと会員となれるシステムであった。「駒草」からは阿部みどり女、只野柯舟、世古諏訪、眞島楓葉子の四名のみ、楓葉子没後は三名参加の体制が続いている。みどり女が現俳協を退会して俳人協会に移ることを決意したのは昭和47年のことで、退会理由については「みどり女が推薦した駒草人が十年間来誰も承認されない」ということだったという諏訪の証言がある(「駒草」2012年2月号19頁)。数えてみるとこの十年はちょうど現俳協分裂後の十年であり、いろいろと想像を掻き立てられるエピソードではある。

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楓葉子がみどり女から受けたもっとも大きな影響は、自然諷詠の態度であり、また実から入って虛を摑むのだというみどり女の写生観(芭蕉とは逆なのが面白い)ではなかったかと思われる。

邂逅のこころの芽木を雨濡らし

春の闇うしろの人語ふと絶えし

精靈船ゆきつくところあるごとし

秋蝶のひかりとなりて草に消ゆ

秋風の野の明るきに蝶死すや

秋光へなほ大幹の伸び止まず

夜の蝶無月の灯し慕ひくる

            句集『地は秋』

阿部みどり女に〈光陰は竹の一節蝸牛〉〈北上の空へ必死の冬の蝶〉などの佳吟があるが、自然へ寄せる愛情の深さはまさにみどり女のものであり、具象性を重んじつつも思い切った表現があるところは、確かにわが駒草の同門の先輩である。「大衆の理解を求めるあまり、作品が低俗化することを欲するものでもないし、また難解は必ずしも非とすべきものでもないと考えます。(略)元来文学は客観的真実の反映であり、この客観的真実を呵責なく追求するところにこそ真の文学が生れ出づる所以があると思われます」(「松川浮木兄へ―難解性への提言」「駒草」昭和30年8月号19頁)

加えて特色があるとすれば、孤独の影が、さまざまな光をキャッチして逃さないこと。光を求めるにおいて切実である点だろうか。

そんな彼の代表作として筆者がもっとも愛誦するのは

地は秋のゆふべの露を昇らしむ

            『地は秋』

露の命は、かくも儚い。ただそれだけの内容なのに形状しがたい心象の影が胸に残る。「地は秋のゆふべの……」とフェイントのように言葉を展開していく叙法で、夢幻の世界を見せられているようでもある。みどり女の〈青葡萄気温いよいよ昇るかな〉という句と比較してみると、みどり女の飾らない良さに比べて、楓葉子の美意識のような、病のなかでも気力でつくるという意思も感じられる気がする。

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楓葉子は論客でもあって、彼の抒情の背景を読み解くヒントになりそうな文章をいくつもものしている。興味ぶかいのは「模倣と独創」(「駒草」昭和32年9月号12-15頁)。近年よく話題になる、俳句の避けがたい間テクスト性(あるいは参照性)とも関連するので紹介しておく。

楓葉子は、当時話題となった寺山修司の短歌が俳句からの剽窃であるという時事を引きながら、過去の作品の模倣が創造へと転化するには何が必要か、ということに関心を寄せる。陶淵明の漢詩の一節「帰去来兮田園将蕪」をそのまま俳句に移植したような蕪村の〈帰りなん田園まさに蕪かな〉とか、前衛詩人の先駆的存在として知られる平戸廉吉の詩と高柳重信の多行形式の俳句を例に挙げて「試行的剽窃」に留まっているとしつつ考察を進める。その結論は「結局真の新しさというものは自己に共感を得た先駆的作品の超えようとする古い部分の真実さにあり、この真実を温め得ずして、新しい創造へと転化することはできない」というもの。やや明快さを欠くが、「古人の求むるところを求めよ」に近いようだ。

ただ、後年の入院生活のなか、八束の内観造型への傾倒を深めていく際、やや類想感を免れない弱さも混じるようになり、彼の寿命は、結局その方向に進むことを許さなかった。

呼吸難しきり野分に何を駆る

詩に呆け病みて孤高の秋を知る

死は無遠慮にひたすら銀杏散り急ぐ

『斑雪』

先に挙げた句群と比べると、どうしても不熟というか、「心境の吐露」というスタイルの類型性を免れないような気がする。

*****

昭和30年代、駒草の若手作家の先頭を切って進んだ楓葉子。その最晩年の句で見るべきは、やはりどこかさみしさを湛えた光を捉えた句ではないかと思う。

『斑雪』から、私の好きな句を挙げてこの回の締め括りとしたい。

山茶花の色づく闇はかたくなに

ぎんなんの累の日溜痛みけり

雪嶺の翼を胸にひるがへす

曠き斑雪眠りの中に踏みてゆく

             『斑雪』

抒情とか象徴とか、理屈でまとめるのをためらうような、闇の中から光を求めてやまないような俳句を作り、楓葉子は死んだ。

楓葉子はいまや忘れられた俳人だが、その作品は不滅の光芒を放っている。

深く濃きいのちおもふ空は秋 楓葉子

                『斑雪』

(浅川芳直)


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