Facebook玉井 昭彦さん投稿記事 (天声人語)ムーミンと梅雨入り
ムーミンパパは悩んでいた。家族のみんなに、自分は頼りにされていないのではないかと。何とか現状を変えたい。そんな彼の思いで、一家はムーミン谷を離れ、小さな島に移住する。ところが、島には不快な雨が降り続く。家族はみな気が滅入ってしまった。
トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ海へいく』は、煩悶する家族の物語である。著者による挿絵は、彼らを冷たく打つ雨を、繊細な斜線によって印象的に描いている。まるで、ムーミンたちのふさいだ気持ちを雨で表しているかのように……。
こうした斜線による雨の描き方は、歌川広重の「大はしあたけの夕立」など、浮世絵が元祖と言われる。ヤンソンも影響を受けていたのだろうか。ムーミンは雨を通じ、日本文化とつながっていたのかもしれない。
さて、今の世に話を移せば、すでに暦では入梅を過ぎながら、今年は斜線の季節の到来が遅い。かつて高浜虚子が詠んだ〈今年は時序の正しき梅雨の入り〉とは、大きく異なる年のようだ。
梅雨を「つゆ」と読むのは、湿気の多さを表す「露けし」からともいう。確かにジトジトした雨はうっとうしい。でも、なかなか梅雨入りしないのも、なぜだか落ち着かない。
悩めるムーミン一家は、ママの提案でピクニックに行く。またもや雨が降ってくる。不思議なことに、みんなもう気にしない。「すべてがごく自然で、それでよいのだという気がしてきました」。再生の象徴もまた、雨である。そうヤンソンは言いたかったか。
朝日新聞6月14日
https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S15958313.html
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_12_jp.html 【高浜虚子:季節のうつろいと自然を素直に詠んだ俳人】より
高浜虚子(たかはま きょし。1874〜1959年)は、四季のうつろいや自然の事象を素直に見つめ、客観的な描写による俳句を数多く詠むとともに、俳人の育成にも力を入れた。
高浜虚子(以下「虚子」)は、1874年、現在の愛媛県松山市に生まれた。中学生の時に同郷の俳人・正岡子規*(1868〜1902年。以下「子規」)に師事して俳句を学ぶようになる。これは、同級生で、後に子規門下で虚子と双璧をなす河東碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873〜1937年。以下、碧梧桐)の紹介であった。「虚子」という俳号は子規が名付けたもの。20歳の時、碧梧桐と共に東京に住む子規を頼って上京。その当時、重い病により自らが人生の最期を迎えようとしていることを悟っていた子規は、俳句の才能を認めた虚子に自分の後継者になってほしいと頼んだが、まだ若かった虚子はこれを受け入れなかった。しかし、子規と虚子との師弟関係は子規が亡くなるまで続いた。
1898年、虚子は、子規の協力で前年に創刊した俳句雑誌『ホトトギス』の編集発行を全面的に引き受けることになる。結果、虚子が手掛けるようになった『ホトトギス』は、俳句だけではなく、小説なども掲載する総合文芸誌になった。
虚子は、『ホトトギス』の編集において、読者から投稿された俳句を選句するようになる。虚子は後に「選は創作なり」と述べている。数多くの句の中から何を選び、どこに着目し、どのように評価するのかは、選ぶ側の審美眼にかかるのであり、立派な創作行為なのだと虚子は言う。彼にとって、俳句を選ぶことは、俳句を詠むこととと同様に創造的な行為だったのである。
虚子が詠んだ俳句の特徴とはどのようなものだったのか。虚子記念文学館の学芸員・小林祐代(さちよ)さんは、こう説明する。
「虚子は、自身の句の主眼は『花鳥諷詠』(かちょうふうえい)と『客観写生』にあると記しています。花鳥諷詠は虚子の造語ですが、春夏秋冬の季節のうつろいや自然界のさまざまな事象を素直に見つめ、敬い、季語を大切にするという俳句創作についての理念です。客観写生とは、自分の主観で物事を表現するよりも、客観的な描写を積み重ねることを通して、作者の心情を浮き彫りにすることとされます」
虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても能力を発揮するほか、俳句の入門書を著し、多くの弟子の育成にも努めた。また、まだ俳句を詠む女性が少なかった1910年代から、女性のための句会の開催やホトドキスに女性を対象とした投稿欄を設ける等、女性俳人の育成にも力を入れた。
虚子は、1954年、日本政府から、俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。虚子は生涯で3万を超える句を詠んだという。俳人として長く活躍して、19世紀末から現代へとつながる俳句の世界をけん引し続けた生涯を全うした。
* Highlighting Japan 2022年9月号「正岡子規:俳句を革新した俳人」参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202209/202209_12_jp.htmlOpen a new window
白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか
1925年、51歳の作。季語は「白牡丹」で初夏。虚子の代表的な句の一つである。「白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差している」という意味。白い花を観察している時、少しだけ紅くなっている部分があることに気づく虚子の眼差し(まなざし)に、自然に対する客観的な観察とともに賛美の心も感じられる。
遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな
1900年、26歳の作。季語は「枯野」で冬。「遠い山には冬の日が当たっていて明るいが、目の前には寒々とした枯野が広がっている」という光景を詠んでいる。虚子は、「激しく日が照るような人生も悪くないが煩わしくもある。遠い山の端に日が当たるような静かな景色。それが私の望む人生である」という意味の言葉を記し、「この句によって私の俳句を詠む心境が定まった」と語っている。若い時の句であるが、最晩年に至るまで虚子が繰り返し揮毫(きごう)した句である。
時ものを解決するや春を待つ
第一次世界大戦が勃発した1914年、虚子40歳の作。季語は「春待つ」で冬。この句について虚子は、「なまじ紛糾を解こうと急ぐとますますもつれる。ただ自然にまかせていると月日が経つうちにほぐれてくる。寒い冬の日はじっと耐えて暖かい春の日が来るのを待つことにしよう」と注釈を付けている。虚子の人生観が読み取れる句である。
https://www.okuraken.or.jp/study/area_studies/kouhoku/103.html 【第103回 武蔵野探勝 -菊名で吟行-】より
シリーズわがまち港北
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
十日市場の相澤雅雄(あいざわまさお)さんから、高浜虚子(たかはまきょし)編『武蔵野探勝(むさしのたんしょう)』(甲鳥書林、1942年)をいただきました。この本には、菊名池の辺りで催された探勝会(句会)の記録が載せられています。港北区域の資料としては、これまでに使われたことがないようですので、相澤さんに代わって、御紹介しましょう。相澤さんは、『タウンニュース』緑区版で、間もなく100周年を迎える横浜線の歴史について連載を始めておられます。港北区では入手困難ですが、必読です。
高浜虚子と、虚子が主宰(しゅさい)した俳句雑誌『ホトトギス』の同人たちは、昭和5年から14年(1930~39年)にかけて、100回にわたり武蔵野を散策し、俳句を詠(よ)みました。『武蔵野探勝』はその成果をまとめたものです。会のメンバーが菊名池を訪れたのは、第69回、昭和11年(1936年)4月5日のことです。幹事の安田蚊杖(やすだぶんじょう)が記録を担当しています。詠まれた俳句から数えると、この日の参加者は26名、残念ながら高浜虚子は不参加だったようです。
さて、安田蚊杖は、菊名は「大きな池もあれば、木も多い、南傾斜の山を控えたところだ」(旧仮名遣いを訂正しました、以下同様)という話だけを頼りに、事前の準備もなくふらりと菊名駅に降り立ちます。
「うらゝかや 藁屋(わらや)直して 喫茶店」参加者の一人、富安風生(とみやすふうせい)の句です。菊名駅前でしょうか、調べたのですが、確認できませんでした。蚊杖(ぶんじょう)は、道を尋ねながら、菊名駅から綱島街道の旧道に沿って妙蓮寺駅(みょうれんじえき)近くの菊名池まで歩きました。菊名は、「半ば拓(ひら)けた分譲地帯」であり、「分譲地に山の切り拓(ひら)かれてゆくのが見えるのは淋しい」と感想を記しています。分譲地とは、東急が錦が丘(にしきがおか)一帯を開発していた菊名分譲地のことです。
菊名池では、ボート屋が営業していました。当時としては「一寸(ちょっと)しゃれている」風景です。「ボート漕(こ)ぐ 春のショールを かけ流し」富安風生(とみやすふうせい)はこのように詠(よ)みましたが、蚊杖(ぶんじょう)は「池の岸が桶(おけ)の縁(ふち)のようになっていたり、コンクリートの橋が歴然(れきぜん)としていたり、木らしい木とて見あたらない」様子にがっかりしています。コンクリートの橋は、完成間もない菊名橋です。東急の「沿線案内」には、「水面一万二千坪、ボート数十隻、池の周囲に遊歩道、遊園施設があります」と書かれています。ヒョウタン型をした菊名池が埋め立てられて、小さな池とプールになるのは、昭和48年(1973)のことです。ボートと菊名橋は、その時まで菊名池の名物でした。
池のほとりでは句会の会場にふさわしい建物が見あたらず、「村の青年会の幹部の思いがけぬ好意」によって、妙蓮寺(みょうれんじ)の書院を借りることになります。妙蓮寺は、「門を入るなり両側に大きな桜の並木があって、その樹下(じゅか)には床几(しょうぎ)が配して」あり、「左に方丈(ほうじょう)、右に墓所(ぼしょ)、何れも籬(かき)がくれになっていて、つき当りの小高い丘に仏殿があり、そのうしろの丘陵(きゅうりょう)には柏(かしわ)が茂り、又(また)芽のほぐれかかった雑木(ぞうき)が交叉(こうさ)して」いました。赤星水竹居(あかぼしすいちくきょ)は、寺の様子を「観音の 像ある離れ 木の芽寺(このめでら)」と詠(よ)んでいます。好天と地域の人々の厚情により、会は成功裏に終わりました。
安田蚊杖等がしたように、景色の良いところや名所旧跡へ出かけて詩歌を詠むことを「吟行(ぎんこう)」といいます。「吟行」が俳句の作句法として確立されたのは、この『武蔵野探勝』によるといわれています。文学史の画期となる出来事でした。高浜虚子等の足跡を、1984年から93年にかけて100回全てたどり直して吟行したグループがいます。野村久雄編『新武蔵野探勝』(籐椅子会、1993年)がその記録です。両著を読み比べると興味深いです。
港北区域では、菊名池の外に、小机泉谷寺(せんこくじ)にも来ています。それについてはまた別の回で御紹介しましょう。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2007年7月号)
参加者
蚊杖..................安田蚊杖(幹事)(やすだぶんじょう)
越央子(越央子さん)......大橋越央子(おおはしえつおうし)
風生..................富安風生(とみやすふうせい)
素十(新潟の素十)......高野素十(たかのすじゅう)
今夜..................
椎花(椎花翁)......麻田椎花(あさだすいか)
あふひ(あふひさん)......本田あふひ(ほんだあうい)
水竹居(水竹居翁)......赤星水竹居(あかぼしすいちくきょ)
東子房............市川東子房
夢香............柏崎夢香(かしわざきむこう)
韮城............遠藤韮城
花蓑............鈴木花蓑(すずきはなみの)
五郎............
つる............
奈王............片岡奈王(かたおかなおう)
眉峰(朝鮮の眉峰)......佐藤眉峰(さとうびほう)か
白山............浅野白山
凡秋............加賀谷凡秋(かがやぼんしゅう)
拓水............小林拓水
霞人............奥村霞人(おくむらかじん)か
蓬矢............矢野蓬矢か
未曽二............宇津木未曾二
喜太郎............真下喜太郎(ましたきたろう)
除夜子............
藤羽............
まさを............
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