① 東北の蝦夷(えみし)と被差別部落

https://news-hunter.org/?p=10220 【東北の蝦夷(えみし)と被差別部落――菊池山哉が紡いだ細い糸】より

歴史は勝者によって綴られる。敗れ去った者たちの声が記されることは、ほとんどない。敗者の姿は歴史の闇の中に消えていく。

大昔、私たちが住む東北には蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちが暮らしていた。その東北に、畿内で成立した大和政権の勢力が本格的に進出してくるのは古墳時代の後期、7世紀からである。

大和の勢力は北関東と越後の2方面から北上していった。8世紀、奈良時代になると、陸奥(福島、宮城、岩手)や出羽(山形、秋田)に「城柵(じょうさく)」と呼ばれる行政・軍事拠点を次々に築いて支配領域を広げ、先住民である蝦夷をのみ込んでいった(図参照)。

*『詳説 日本史』(山川出版社、1982年から)

生活圏に侵入された蝦夷との間に軋轢が生じ、争いになるのは避けられないことだった。奈良時代末期から平安時代の初期にかけて、「38年戦争」が勃発する。それは長く、激しい戦いだった。

戦争はどのようにして始まり、どのような経過をたどり、どう決着したのか。それを知るためには、大和政権側が残した古事記や日本書紀、続日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(こうき)といった正史や関連史料をひも解くしかない。蝦夷は文字を持たず、記録するすべがなかったからである。

それでも、大和政権側の史書を丹念に読み込み、そこから蝦夷たちが歩んだ道をたどろうとした研究者がいた。岩手大学の古代日本史研究者、高橋崇(たかし)教授(2014年没)である。

それは労多くして実り少ない、落穂拾いのような作業ではあったが、その労苦は中公新書の3部作『蝦夷(えみし)』『蝦夷の末裔』『奥州藤原氏』として結実した。深く首を垂れずにはいられない労作である。高橋が残した著作を頼りに、揺れ動いた古代東北の歴史をたどってみる。

◇     ◇*斉明天皇〈女性天皇〉(ウィキペディアから)

蝦夷とは、どういう人たちだったのか。それを知る手がかりの一つが『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)の条にある。

この年、大和朝廷が中国の唐に派遣した使節団が東北の蝦夷男女2人を同行させ、唐の高宗に謁見した。遣唐使の渡航日誌によれば、高宗は強い関心を示し、次のような問答が交わされたという(問答の概要を筆者が現代語訳)。

高宗:蝦夷の国はどの方角にあるのか。

遣唐使:東北です。

高宗:蝦夷は幾種あるのか。

遣唐使:3種あります。遠くにいる者は都加留(つかる)、次の者は麁(あら)蝦夷、近くにいる者を熟(にぎ)蝦夷と名付けています。今回連れて来たのは熟蝦夷です。毎年、大和朝廷に朝貢しています。

高宗:その国に五穀はあるか。

遣唐使:ありません。肉を食って暮らしています。

唐の高宗は、蝦夷の身体や顔つきが遣唐使たちと異なるのを見て興味津々の様子だったという。この謁見については中国側の史料にも記録されており、事実と見ていい。

都加留は青森県の津軽、麁蝦夷は岩手や秋田に住み大和朝廷に服属しない蝦夷、熟蝦夷とは東北南部にいて大和朝廷に帰順した蝦夷を指すと見られる。当時の東北の政治状況をうかがわせる問答である。

東北の蝦夷と大和勢力との争いは7世紀半ば、斉明天皇の頃から激しくなった。将軍、阿部比羅夫が軍船を率いて日本海沿岸を北上して蝦夷と戦い、投降・帰順した者多数を都に連れ帰ったことが記録されている。遣唐使が中国に連れていったのも、こうした蝦夷だったと見られる。

大和勢力が北へ進むにつれ、抗争はより激しくなっていく。774年、蝦夷が桃生(ものう)城(宮城県石巻市)を襲い、38年戦争の口火を切った。780年には大和側についていた蝦夷の族長、伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)が反旗をひるがえし、陸奥の最高責任者である紀広純らを殺害、多賀城を焼き討ちにするという大事件が発生した。

この翌年に即位した桓武天皇はこれを深刻に受けとめ、「蝦夷討伐」の号令を発した。789年、大和政権は関東などから5万余の軍を派遣し、蝦夷の拠点・胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧をめざして進軍した。

ところが、北上川を挟んでの合戦で大和側は胆沢の族長、阿弖流為(あてるい)が率いる蝦夷のゲリラ部隊に惨敗した。多数の溺死者と戦死者を出し、将軍たちまで逃げ出す始末だった。

桓武天皇は激怒し、2回目の討伐軍を派遣する。平安京に遷都した794年、今度は10万の大軍が胆沢に押し寄せた。激しい戦闘になったと見られるが、史料は乏しく、「457人の蝦夷を斬首し、150人を捕虜にした」との戦勝報告が残る程度である。阿弖流為は降伏せず、胆沢も陥落しなかった。

坂上田村麻呂を征夷大将軍とする801年の第3次遠征によって、ようやく蝦夷の抵抗は鎮圧され、阿弖流為らも投降、処刑された。東北一帯での蝦夷との戦争が収束したのは811年、足かけ38年に及んだ。

この戦争で注目されるのは、戦闘で捕虜になったり投降したりした蝦夷が多数、西日本の各地に移送されたことである。彼らは「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、四国の伊予に144人、九州の筑紫に578人、畿内の摂津に115人、太宰府管内に395人、日向に66人といった記録が断片的に残っている。家族ごと移送された例もある。総数は不明である。

*蝦夷が俘囚として移送された地方(高橋崇『蝦夷』から複写)

大和朝廷はなんのために移送したのか。史書には「蝦夷の野蛮な風俗を変え、文明化するため」といった趣旨の記述もあるが、高橋は捕虜や反抗的な者たちを彼らの根拠地から連れ去り、蝦夷勢力を分断することを狙ったのではないか、との見方を示している。捕虜を賎民として扱った可能性も否定しない。

当然のことながら、移送先となった地方にとっては大きな負担となる。田を持たない彼らから租税を取り立てるわけにはいかない。集団で住まわせることによって、周辺の住民との摩擦も起きる。騒乱もしばしば起きた。

こうしたことに配慮して、朝廷は受け入れた地方に農民から「俘囚料」を取り立て、それで移送された蝦夷の面倒を見るよう命じた。高橋はこの俘囚料についても史書を丹念に調べ、その記録から逆算して、「少なくとも4565人の俘囚を養うのに相当するものだった」との推計を明らかにしている。記録として残されなかった移送も数多くあったことを考慮に入れれば、東北から移送された蝦夷の総数は万単位であったと見ていいだろう。

そもそも、蝦夷とはどういう人たちだったのか。「大和政権の支配地からの逃亡者や落伍者」といった説もあるが、説得力はない。蝦夷の言葉は日本語とはまるで異なり、大和側が交渉する際には通訳を必要とした。風俗や生活習慣もまるで異なるものだった。

アイヌ語地名の研究者として知られる山田秀三の調査によって、北海道だけでなく東北の各地にアイヌ語源と見られる地名が多数残っていることも明らかになっている。

高橋は、こうした地名研究や北海道と東北各地で発掘された土器の共通性にも着目し、蝦夷とは「アイヌ人か、あるいは控え目にいってアイヌ語を使う人、といってよいだろう」と結論づけている。

◇      ◇

西日本の各地に「俘囚」として移住させられた蝦夷たちは、その後どうなったのか。史書は何も語らない。彼らがたどった道を知るすべはない。

だが、この問題の解明にまったく異なる立場から挑んだ人物がいた。在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)(1890―1966年)である。

山哉は明治33年、東京府府中市の富農の4男として生まれた。工学院大学の前身である工手学校の土木予科を卒業した後、東京府の土木技師に採用された。後に東京市役所に移った。

技師として工事に携わっている時、作業員の中に「あいつは筋が悪い」とうとまれる者がいることに気づき、奥多摩にあるその人の村を訪ねていった。村人の話を聞いても、差別される理由は見当がつかなかった。

若き日の菊池山哉(『余多歩き菊池山哉の人と学問』から複写)

同じ頃、沖積層の中に分厚い貝塚がある現場に幾度か出くわし、「先史時代にこの巨大な貝塚をつくったのはどういう人たちか」との疑問を抱く。勤務のかたわら、被差別部落と古代史の研究にのめり込んでいった。在野の民俗学者、菊池山哉の誕生である。

何事であれ、現場を訪ね、自分の目で確かめる。山哉は生涯、その流儀を貫いた。全国の被差別部落を訪ね回り、そこに住む人たちの話に耳を傾け、そこから自分の仮説と理論を構築していった。

大正12年(1923年)7月、その成果を『穢多(えた)族に関する研究』と題した本にまとめ、自費出版した。「穢多・非人」と呼ばれ、差別されてきた人たちの状況を詳細に報告し、その歴史的な経緯についての自説を次のように展開した。

「エタとはエッタのなまったもので民族名である。彼らはわが国の先住民族と考えられる」「後からやって来たヤマトが彼らを駆逐した」「ヤマトに抵抗し、俘囚として移送された蝦夷は被差別民にされた」

折しも、その前年に被差別部落の人たちは「全国水平社」を立ち上げ、部落解放運動に乗り出したばかりだった。運動は「差別は江戸時代にかけて形成された身分制度が起源」とする見解を唱える。山哉の説はこれを真っ向から否定するものだった。

出版予告の広告を見た水平社の幹部は、融和事業を担当する内務省に「差別図書だ」と猛烈な圧力をかけた。部落の起源は江戸時代と唱える京都帝大の喜田貞吉教授らも動き、本は「安寧秩序を乱す」として発禁処分になった。直後に関東大震災に見舞われたこともあって、すぐには改訂もかなわなかった。

興味深いのはこの後である。山哉は出版をあきらめなかった。内務省の高官や水平社の幹部に会い、この本は純粋な学術書であること、差別がいわれなきものであることを世に問うものである、と訴えた。内容にも手を加えて4年後、『先住民族と賎民族の研究』と改題して出版した。

今度は応援してくれる研究者もいた。水平社の平野小剣(しょうけん)・関東執行委員長に至っては「先に糾弾したのは自分らの誤りであった。根本思想についての研究のあった方がむしろ良い」と推薦文まで寄せてくれた。

にもかかわらず、この本が市中に出回ることはなかった。中央融和事業協会がすべて買い取ってしまったからである。「部落差別は近世の政治的所産」と主張する水平社も相手にしなかった。

刺激的すぎたという点に加えて、山哉の立論自体にも難点があった。彼はこの本で、当時有力だった「東北の蝦夷はアイヌである」という説を否定し、「日本の先住民族のうちで多数を占めたのは北方ツングース系の少数民族、オロッコ(ウイルタ)である。蝦夷と呼ばれた人たちもその多くはオロッコと見られる」と唱えたのだ(戦後、調査を重ね、この部分は撤回している)。

「日本列島にはアイヌ以前に住んでいた民族がいた」という説は目新しいものではない。大森貝塚を発見したことで知られるエドワード・S・モースが明治初期に最初に唱え、「プレ・アイヌ説」と呼ばれた。その後、日本の人類学の先駆者、坪井正五郎(しょうごろう)も「アイヌ民族の伝承に出てくるコロボックルこそ日本の旧石器人である」と唱え、大論争を巻き起こしている。

山哉の立論はこうした論争に影響を受けたものと思われるが、それを支える材料に乏しく、荒唐無稽な印象を与えたようだ。考古学会にも民俗学者にも黙殺された。

だが、山哉は少しもひるまなかった。「東京史談会」という郷土史研究の会を主宰し、全国の被差別部落を訪ね歩き、その成果を会報に発表し続けた。

戦前から戦後にかけて、四国から九州まで、山哉が訪ねた被差別部落は700を超える。車ではたどり着けない山奥の村から吊り橋を渡らなければならない村まで、気の遠くなるような行脚を重ねた。

1966年、死の直前に山哉は半世紀に及ぶ研究の集大成とも言える大著『別所と特殊部落の研究』を出版した。調べ尽くしたうえでたどり着いた結論は、次のようなものだった。

①東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる②西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸」「別所」の四つに大別できる③別所とは東北の蝦夷を俘囚として移送したところである。

四つのルーツそれぞれについての説明は複雑きわまりないので割愛する。重要なのは、大和政権と戦い俘囚として西に移送された蝦夷は、被差別部落民のルーツの一つである、と結論づけたことである。

著書には、全国に散在する「別所」と呼ばれる部落を訪ね、そこに住む人々から聞いた話が克明に記録してある。それは、歴史の闇に消えた人々の姿を浮かび上がらせるものだった。 被差別部落について、これほど網羅的かつ詳細に調べた研究者は、菊池山哉以外にはいない。にもかかわらず、歴史学会でも民俗学会でも、山哉の業績が正面から議論されることはなかった。

水平社の運動を引き継ぎ、戦後、部落解放同盟として再出発した人たちも無視し続けた。無視しただけではない。近世政治起源説に固執し、それ以外の幅広い視点から研究に踏み出すことができないような状況をつくり出した。

なぜ、このような状況が長く続いたのか。文芸誌の編集長をつとめ、菊池山哉の再評価に力を注ぐ前田速夫は、編著『日本原住民と被差別部落』に次のように記した。

「こうした当たり前のことを誰も言えなかったのは、私が思うに、天皇制と被差別部落は近代日本の二大ダブーだったからだろう。両者が表裏の関係にあるとは、よく言われることだが、それを突き詰めて考えた人は驚くほど少ない。(中略)賢明な学者はみな用心深くそれを避けた。山哉はそこが他のどの研究者とも違っていた」

彼の著作と業績にあらためて光が当てられるようになるのは、1990年代になってからである。山哉の大著『別所と特殊部落の研究』は、批評社から『特殊部落の研究』(1993年)と『別所と俘囚』(1996年)の2冊に分けて復刻された。先の前田の編著が出版されたのは2009年である。

私は山形大学に勤めていた2013年に山哉のことを初めて知り、その後、2018年に出版された『被差別民の起源』を手にした。この本は、大正12年に発禁処分となった山哉の最初の本『穢多族に関する研究』を改題、復刻したものである。その目次を見ただけで圧倒され、山哉が費やしたであろうエネルギーと時間を思って身が震えた。

私は長く新聞記者として働き、現場に足を運んで人の話に耳を傾け、なにがしかのものを書く仕事をしてきた。この本にはそういう職人の心を揺さぶるものがあった。前田が記すように、山哉の著作は「空前絶後の民俗探求の宝庫」である、と感じた。

同時に、イデオロギーや利害にからめとられ、愚直に事実を追い求める心を失った時、社会で何が起きるかを見せつけられた思いがした。

これほどの宝を黙殺する社会、これほどの業績に目を向けようとしないアカデミズムとは何なのか。私たちは今も、身近なところで同じような過ちと失敗を繰り返しているのではないか。そうした思いが身の震えを大きくしたのかもしれない。

救いは、ごく少数ではあっても、山哉の偉業を忘れず、それを後世に伝えるために力を尽くした人たちがいたことだ。そして、その志を引き継ぎ、広めようとする人たちがいることに勇気づけられる。

大きな歴史の流れから見れば、菊池山哉が紡いだ糸はか細いものかもしれない。けれども、それは強靭な糸である。より多くの人が自らの糸を持ち寄り、撚(よ)り合わせれば、太い糸となって豊かな輝きを放つのではないか。そう信じて、私も一本の糸を持ち寄る列に加わりたい。


https://news-hunter.org/?p=10695 【続・被差別部落のルーツ なぜ東北にはないのか

2022/1/28社会喜田貞吉, 守戸, 東北, 菊池山哉, 被差別部落】より

被差別部落とは何か。そのルーツはどこにあるのか。明治生まれの在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)は生涯かけて、それを追い続けた。

山哉がすごいのは、その探求を書斎にこもって行ったのではなく、実際に自分の足で全国の被差別部落を訪ね歩き、人々の言葉に耳を傾けて考え抜き、公表していったことだ。

大正時代から昭和の戦前戦後を通して、彼が半世紀かけて訪ねた被差別部落の数は700を上回る。並行して古事記や日本書紀などの史書や古文書類に、可能な限り目を通している。その研究は質、量ともに群を抜いている。

もちろん、山哉よりも先に被差別部落の歴史をたどる書籍を出した人はいた。柳瀬頸介の『社会外の社会 穢多(えた)非人』(1901年)と京都帝大の歴史学者、喜田貞吉教授が主宰する研究誌『民族と歴史』特殊部落研究号(1919年)である。被差別部落の解放を目指して全国水平社が結成されて2年たった1924年には、高橋貞樹が『特殊部落一千年史』という啓蒙書を出版している。

ただ、それぞれ優れた研究ではあったものの、難点があった。3人とも、古代律令国家の頃から賎民制度があり、奴婢(ぬひ)と呼ばれる奴隷がいて、囚われの身となった東北の蝦夷(えみし)が賎民にされたことは承知しており、書籍で触れてもいる。

だが、そうした古代の賎民制度が江戸時代の穢多・非人へと連綿とつながっている、とは見なさなかった。貴族政治から武家政治へと激変した平安から鎌倉時代への移行、さらに戦国時代の下剋上によって社会の階層は流動化し、いわゆる「穢多・非人」は江戸時代に身分制度が固定される中で新たに生み出されたもの、と唱えたのだ。

それをもっとも明確に主張したのは喜田貞吉である(下の写真)。

『民族と歴史』特殊部落研究号に喜田は次のように記した。

「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の坂上田村麻呂も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」

「もともと武士には蝦夷すなわちエビス出身者が多かったから、『徒然草』などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを『夷(えびす)』と云っております。鎌倉武士の事を『東夷(あずまえびす)』と云っております」

「世人が特に彼らをひどく賤(いや)しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」

戦後定説になる「被差別部落=近世政治起源説」の原型とも言える学説である。喜田はこれを皇国史観に立って唱えたのだが、「同じ日本人なのになぜ差別する」と憤る水平社の人々にとっても、運動の基盤として好ましい学説だった。

菊池山哉はこうした中で、1927年(昭和2年)に『先住民族と賎民族の研究』を出版し、「エタはエッタがなまったもので我が国の先住民族である」「投降、帰順した東北の蝦夷(えみし)は西日本に移送され、賎民として扱われた」と唱えた。喜田の学説を真っ向から否定したのである。

インドのカースト差別がそうであるように、征服した民族が被征服民族を賎民に落とし込んでいくのは世界各地で見られることである。そうした観点から考えれば、山哉の立論は自然であり、説得力がある。

だが、山哉は当時、在野の無名の郷土史家で、相手は帝大の教授である。山哉の主張はまるで相手にされず、黙殺された。

◇  ◇  ◇

戦後も山哉の学説に目を向ける研究者は現れない。水平社の運動を引き継いで再出発した部落解放同盟も相手にしなかった。

それでも、山哉はめげなかった。全国の被差別部落をめぐる「巡礼」のような調査行を半世紀にわたって続け、その成果を亡くなる直前、1966年に大著『別所と特殊部落の研究』にまとめて出版した(90年代に『特殊部落の研究』『別所と俘囚』の2冊に分けて復刻)。

踏査を重ねた末に山哉がたどり着いた結論は①東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる②西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸(しゅこ)」「別所」の四つに大別できる③別所とは東北の蝦夷を俘囚(ふしゅう)として移送したところである、というものだった。

山哉がとりわけ力を注いだのが「別所」と呼ばれる部落の調査である。例えば、京都郊外の大原にある別所について、次のように記している(原文は読みにくいため筆者が要約)。

「ここには今は廃寺となった補陀落寺というのがある。『東鑑(あずまかがみ)』によれば、この寺に観音像があったが、奥州平泉の藤原基衡(もとひら)はこの観音像を模したものを作らせ、毛越(もうつう)寺の吉祥堂の本尊にしたという。この寺が奥州と密接な関係にあったことを裏書きするものだ」(『別所と俘囚』165ページ)

近世政治起源説の最大の弱点は、「被差別部落が豊臣政権から徳川政権への移行期に身分制度が固まるにつれて形成された」とするなら、「なぜ東北に部落がほとんどないのか」という問いに答えられない、という点にある。

山哉が説くように「大和朝廷側が古代東北の蝦夷を攻め、投降・帰順した者を移送したところが別所であり、被差別部落になった」のであれば、問いへの答えとして納得がいく。

もちろん、数は極端に少ないが、東北にも別所という地名はあり、被差別部落がある。下の表は、被差別部落の都道府県別の数と人口(1921年、内務省統計)を一覧表にしたものである。福島に6,山形に4,青森に1となっている。

山哉はこれらの被差別部落も一つひとつ調べている。そして、東北の被差別部落のほとんどは江戸時代に国替えになった大名が前任地から引き連れてきたものであることを明らかにした。古代からその土地にあったと考えられる被差別部落は、福島県南部の部落一つだけだった。

◇  ◇  ◇

天皇の陵墓に配置され、警護と維持管理にあたる「守戸」についての記述も興味深い。これは東日本にはなく、西日本、とりわけ畿内に集中している。

奈良盆地に「神武天皇陵の守戸をつとめてきた」という被差別部落があった。この部落の人たちは少なくとも持統天皇(7世紀末)の時代から代々、尾根筋にある陵墓を守ってきたが、明治2年(1869年)に新政府がこの人たちに何の相談もなく、平地にある小さな古墳を「神武天皇の陵墓である」と認定してしまった。「そこは違う」と思っても、口に出すことはできなかったという。

古代の天皇陵については、幕末から明治維新にかけての混乱期にあたふたと認定作業を進めたこともあって、「治定の誤りが多数ある」とされる。このため、考古学者は発掘調査を望んできたが、宮内庁は戦後も長い間「静安と尊厳を保つのが本義」と調査を拒んできた。大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界遺産に登録される動きが出る中で、2018年にようやくこれらの古墳の調査を認めたが、ほかの古墳群の調査が認められる見通しは立っていない。

山哉の調査は、そうした天皇陵の治定の誤りを被差別部落の側から照らし出している可能性がある。

自ら足を運び、人々の話にひたすら耳を傾ける。そうやって得た事実を愚直に記録する。それを基に仮説を組み立てていく――山哉が書き残したものは「学者たちが古文書から導き出した立論」などより、はるかに迫力があり、示唆に富む。

彼の著作は民俗学の枠にとどまらず、古代史や考古学にとっても「探求の素材の宝庫」であり、やがては被差別部落の歴史を考えるための古典になっていくのではないか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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