https://news-hunter.org/?p=11044 【追い詰められ、侮蔑され、東北の蝦夷は蜂起した】より
大昔、東北の地で暮らす人々のことを大和政権側は「えみし」と呼んだ。なぜ、そう呼んでいたのかについては諸説あるが、定説はなく、不明である。
「蔑称だった」と唱える研究者もいる。だが、違うだろう。7世紀、飛鳥時代に権勢を誇った蘇我一族に蘇我蝦夷(えみし)がおり、当時はほかにも「えみし」の名を持つ貴族がいた。蔑称を名前にする貴族はいない、と考えるのが自然だからだ。
大和政権が編纂した正史に「えみし」という言葉が初めて登場するのは、『 日本書紀』の神武天皇紀である。神武紀の中に大和の軍人たちが戦勝を祝って口にした次のような歌謡が収められている(*注)。
愛瀰詩烏(えみしを) 毗攮利(ひたり) 毛々那比苔(ももなひと)
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毗毛勢儒(たむかひもせず)
「えみしは一人で百人を相手にするほど強いと人は言うけれど、俺たちには抵抗もしない」という意味である。古代から、「えみし」の戦闘能力の高さは恐れられていたようだが、「俺たちはそれよりもっと強い」と歌いあげているのだ。
日本書紀は全文、漢文で書かれている。ただ、こうした歌謡については言葉をそのまま借字で収録している。その際、「えみし」を「愛瀰詩」と記したことから見ても、蔑称という見方は的外れであることが分かる。
ただ、時を経るにつれて、「えみし」は「毛人」あるいは「蝦夷」と表記されるようになる。大和政権との軋轢が増し、戦争が続く中で「侮蔑」の意味合いが込められるようになっていったと考えられる。
◇ ◇
大和政権は7世紀に入ると東北の支配領域を急速に広げ、蝦夷勢力と激しく衝突するようになった。城冊(じょうさく)を築き、守るため各地から多くの移民を送り込む。蝦夷側では抵抗することをあきらめ、帰順して大和政権の下で生きる道を選ぶ者も増えていった。
8世紀の後半になると、大和側の支配は宮城県北部に達した。その最前線に築かれたのが桃生(ものう)城(現在の石巻市)と伊治(これはり)城(栗原市)であり、支配をさらに北へ広げるための前進基地だった(図参照)。
774年、摩擦は発火点に達し、38年戦争に突入していく。最初に蜂起したのは、宮城県北部から三陸地方に住む「海道(かいどう)蝦夷」だ。桃生城を攻撃して城郭の一部を焼き払った。帰順した蝦夷の一部も造反し、大和側は大混乱に陥る。
蝦夷を戦争へと駆り立てたものは何だったのか。自らの生活圏が侵食されていくことへの焦慮、大和政権の官人による収奪と腐敗、そして侮蔑だったのではないか。
近畿大学の鈴木拓也教授は著書『 蝦夷と東北戦争』で、陸奥・出羽両国から天皇に献上されたものとして馬と鷹を挙げている。鷹狩りは当時の天皇家にとって重要な行事の一つである。軍馬の重要性は言うまでもない。
また、交易品として陸奥の砂金や毛皮、昆布を挙げる。熊やアシカ、アザラシの毛皮は都の貴族にことのほか喜ばれた。現地の官人は公式ルートで献上するほか、私的な取引にも精を出していたようだ。『続 日本後紀』には、任期を終えて帰京する国司が大量の「私荷」を運んだことが記されているという。
辺境に赴任した官人による収奪や腐敗は、洋の東西を問わない。そして、彼らの住民への横暴と侮蔑もまた、繰り返されてきたことである。
大和政権に帰順し、現地の蝦夷を束ねてきた族長たちは屈折した思いを抱いていたに違いない。官人の横暴にさらされる配下の者たちからは突き上げられ、北方で抵抗し続ける蝦夷からは「裏切者」扱い……。
そうした蝦夷の族長の一人、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年、ついに反旗をひるがえす。伊治城で陸奥の最高責任者、紀広純らを殺害し、さらに反乱軍を率いて 多賀城を略奪、焼き討ちにしたのである。
大和政権にとって、 多賀城は陸奥・出羽を支配するための最大の拠点である。武器や兵糧も大量に蓄えられていた。それらをすべて奪われ、城も焼け落ちてしまった。城下の民衆も四散した。
反乱の急報が都に届いたのは6日後である。光仁天皇はただちに征東大使や副使らを任命し、坂東諸国に数万の兵の動員を命じた。それまで、陸奥と出羽の治安は現地の兵力でまかなってきたが、それでは対応できなくなり、蝦夷政策の転換を余儀なくされた。
その翌年、光仁天皇は高齢と病気のため譲位し、桓武天皇が即位した。大和政権と蝦夷勢力が全面対決の状態になるのは、この桓武天皇の治世下である。
軍の動員もけた違いになる。789年の第一次征討で5万、794年の第二次征討では10万、801年の第三次征討でも4万の兵力を投入した。徴兵は坂東にとどまらず東海道の諸国にも及び、兵糧も各地から調達した。
征討の対象は、アテルイ(阿弖流為)が率いる胆沢(いさわ=岩手県南部)の蝦夷である。38年戦争の発端も呰麻呂の反乱もその背後にいたのは胆沢の蝦夷勢力、と大和側は見ていた。
第一次征討が蝦夷勢力の巧みな作戦で惨敗に終わったことはすでに紹介した。北上川を挟んでの戦いで大和側は1,000人余の溺死者を出し、指揮官まで逃げ出す醜態をさらした。桓武天皇が激怒したのは言うまでもない。
苦い教訓を踏まえて、第二次征討は兵力を倍増し、陣立ても一新した。征東大使に大友弟麻呂、副使には百済王俊哲や坂上田村麻呂ら4人を充て、地方の豪族を指揮官として抜擢した。
ただ、第二次と第三次征討については、これを記録したはずの『 日本後紀』が欠落(全40巻のうち10巻のみ現存)しており、詳しいことは分からない。
関連史料によって、第二次征討では大和側が勝利したものの胆沢は陥落しなかったこと、坂上田村麻呂が征夷大将軍として率いた第三次征討についても、アテルイが500人の蝦夷を連れて投降し、胆沢が陥落したことが分かる程度だ(アテルイは都に連行され、802年に処刑)。38年戦争のもっとも重要な部分は、正史の欠落によって知り得ないのである。
◇ ◇
桓武天皇は大規模な軍事遠征で東北の蝦夷勢力を屈服させ、大和政権の支配領域を北へ大きく広げた。裏返せば、東北の蝦夷は再び立ち上がれないほどの打撃を受けた。
しかも、三次にわたる遠征によって多数の蝦夷が囚われの身になり、「俘囚(ふしゅう)」として関東や西日本の各地に移送された。移送は陸奥と出羽を除いた全国64カ国のうちの7割に及ぶ。その総数は万単位と見て、間違いない。
俘囚の一部は、九州の太宰府で防人として生きる道を与えられたりしたが、大多数は集落の外れの狭い土地に収容され、悲惨な境遇に落とされた。当然のことながら、周辺の大和側の住民との軋轢も絶えなかった。
移送先からの逃亡や騒乱も相次いだ。記録に残るだけでも、814年に出雲、848年に上総、875年に下総と下野、883年に上総で俘囚の反乱が起きている。下野の反乱では100人以上の俘囚が殺された。
彼らの多くは田を与えられなかった。従って、コメを収める租は課されなかったが、特産品や布を納める調庸の義務はあった。それも容易には納められなかった。
徴収がままならない事情について、798年の太政官符は次のように記している。
「俘囚たちは常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(荒々しい心)を改めようとしません。狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています」(『 蝦夷と東北戦争』)
隷属状態に追いやっておきながら、「雲のように浮遊」と責める。俘囚たちの心が静まるわけはなかった。
桓武天皇は「征夷の天皇」であると同時に、「造都の天皇」でもあった。都を平城京から長岡京に移し、さらに平安京に移した。これほどの大事業を二つも遂行したエネルギーのもとは何か。「数奇な運命」が桓武天皇を突き動かしたのかもしれない。
先帝の光仁天皇は、聖武(しょうむ)天皇の娘を皇后に迎えた。皇后には他戸(おさべ)親王という皇太子がいた。ところが、この皇后が「光仁天皇を呪詛した罪」でその地位を追われ、皇太子も廃された。2人は幽閉先で同じ日に謎の死を遂げる(藤原一族による陰謀・暗殺説がある)。
それによって、光仁天皇と百済系渡来人一族の女性との間に生まれた山部親王が急遽、皇太子になり、後に桓武天皇として即位することになるのである。天皇の生母は皇族か貴族の出という慣例がある中では異例の即位だった。
2002年の日韓共催サッカーワールドカップを前に、明仁天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言し、話題になったが、それはこのことを指している。
二つの偉業を成し遂げることで「異例の即位」という陰口を吹き飛ばす。そんな思いがあったのかもしれない。
とはいえ、二つの大事業の負担は民衆に重くのしかかった。それは朝廷の屋台骨を揺るがしかねないほどだった。さすがの桓武天皇も第四次の征討はあきらめざるを得なかった。
811年の嵯峨天皇による征夷は、現地の陸奥・出羽の兵力だけで行われ、38年に及ぶ東北の戦火はようやく鎮まったのである。
https://news-hunter.org/?p=11599 【東北の蝦夷が歩んだ道は現代と未来につながる】より
戦争とは、生身の人間が集団で殺し合うことである。兵士の数が多く、武器をたくさん持つ方が有利なことは言うまでもない。だが、それにも増して重要なことがある。
それは、戦いに身を投じる一人ひとりの人間が「この戦争は命をかけるに値するか」と自問し、納得できるかどうかだ。自ら納得し、覚悟を決めた集団は侮りがたい力を発揮する。
強大な軍事力を誇ったアメリカは、なぜベトナムで敗れたのか。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍は、なぜ全面撤退に追い込まれたのか。9.11テロの後、アフガンに攻め込んだ米軍も撤退せざるを得なかったのはなぜか。
それは、攻め込んだ米兵にもソ連兵にも命をかける理由が乏しく、一方でベトナム側とアフガン側には「自らの土地を守り、同胞を守る」という揺るぎない決意があったからである。戦いが長引けば長引くほど、その差は戦況に如実に表れていった。
ロシアによるウクライナ侵攻でも、同じことが起きている。ロシア兵の多くは、なぜここで戦わなければならないのか、戸惑っているのではないか。ウクライナの兵士たちの頑強な抵抗に「なぜ、ここまで」と驚愕しているのではないか。
この戦争が最終的にどのように決着するかは見通せない。だが、戦場で命をかけるのは一人ひとりの兵士であり、その兵士たちの「覚悟の差」が戦争の帰趨に大きな影響を及ぼすことをあらためて示すことになるだろう。
◇ ◇
古代東北の地で繰り広げられた蝦夷(えみし)と大和政権との戦争もまた、覚悟を決めた集団とそうでない集団との戦いだった。
戦争は、都が平城京(奈良)にあった774年から長岡京(京都)、平安京(同)と移った後の811年まで、足かけ38年に及んだ。その中で、戦う者たちの「覚悟の差」をもっともよく示しているのは、789年(延暦8年)の桓武天皇治下での第一次征討である。
それまでの戦いで苦杯をなめた朝廷側は、この征討で5万余りの兵を動員し、蝦夷の拠点である胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧を目指した。迎え撃った蝦夷側の兵力は数千人と推定されている。兵力だけを見れば、朝廷側が圧倒的に優位に立っていた。
『続日本紀』によれば、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする朝廷軍は北上川の西岸を北上し、支流の衣川を越えた地点に陣を構えた。蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の拠点・胆沢が西岸にあったからである。
ところが、この時、蝦夷側は胆沢を捨て、東岸に陣を敷いた。このため、朝廷側は征討軍の一部を前軍と中軍、後軍の三つ分け、北上川を渡河する作戦を立てた。3軍それぞれ2,000人で計6,000人。これで十分と見たのだろう。
蝦夷側にはモレ(母禮)という優れた軍師がいたとされる。兵力の差は歴然としている。正面から戦いを挑んだのでは勝つのは難しい。そこで、朝廷軍を北上川の両岸に分断する策略をめぐらしたと思われる。
戦端が開かれたのは5月である。北上川は雪解け水で増水していた。6,000人の将兵を舟やいかだで渡河させるのは容易なことではない。前軍の2,000人は蝦夷側に妨害されて河を渡ることができず、東岸の巣伏(すふし)に達したのは中軍と後軍の4,000人だけだった。
この後の蝦夷側の戦術も巧みだった。最初に迎え撃った300人ほどの部隊は小競り合いの後、後退した。朝廷軍は勢いに乗って追撃し、部隊は縦に長く延びた。そこに800人ほどの蝦夷が襲いかかり、さらに潜んでいた400人ほどが背後から挟撃した。
朝廷軍は総崩れになった。北上川に飛び込んで本隊に逃げ帰ろうとする者が続出し、1,000人余りが溺死した。その数は戦死者をはるかに上回った。
蝦夷にとっては「自らの土地と生活を守る戦い」である。一方の朝廷軍は坂東や東海道の各地から徴兵された寄せ集めの部隊だ。双方の戦意の差は大きく、4,000人の大部隊が1,500人ほどの蝦夷に蹴散らされたのである。
征東将軍の紀古佐美は戦意を喪失し、ほどなく軍を解散した。にもかかわらず、『続日本紀』によれば、古佐美は朝廷に「戦さで蝦夷の田は荒れ果て、放置しても滅びる」「わが軍は兵糧の補給が困難で、これ以上戦うのは得策ではない」などと〝戦勝〟の報告を送った。
桓武天皇は激怒した。「蝦夷の首級は100に満たず、官軍の死傷は3,000人にも上る」として報告を虚飾と断じ、敗戦の責任を追及している。
雪辱を果たすため、桓武天皇が794年の第二次征討で10万、801年の第三次征討で4万の軍勢を陸奥に送り込み、蝦夷の制圧に執念を燃やし続けたこと、さらにこの時期の正史である『日本後紀』の写本が欠落していて第二次、第三次征討の詳しいことがほとんど分からないことは、すでにお伝えした。
次々に押し寄せる大軍との戦いに疲れ果てたのか、アテルイとモレは802年、500人の部下を伴って征夷大将軍の坂上田村麻呂に投降した。2人は都に連行され、田村麻呂が助命を嘆願したものの朝廷は受け入れず、河内の杜山(もりやま)(大阪府枚方市)で処刑された。
◇ ◇
「覚悟」を固めたとて、勝てない戦さもある。指導者と軍師は賊徒として斬首された。だが、朝廷がどのように貶(おとし)めようと、忘れ去られることはなかった。人々はアテルイとモレたちの戦いに心を揺さぶられ、語り継いできた。
京都の清水寺に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」が建てられたのは1994年、平安遷都から1200年後のことである。関西在住の水沢市や胆沢町などの出身者で作る同郷会が資金を募って建立した。
清水寺は、蝦夷と戦い続けた坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。戦いながらも蝦夷の窮状に心を寄せたとされる田村麻呂の思いをくんで、当時の貫主が快諾したという。
岩手県の地元紙、胆江(たんこう)日日新聞も供養碑設立の運動を支え、その除幕式の様子を「蘇った古代東北の歴史」「この日はあいにくの雨模様だったが、関係者の表情は晴れやかだった」と報じた。同郷会の会長、高橋敏男(故人)は同紙に「5年の歳月をかけたことだけに、感慨も無量」と語っている(1994年11月7日付)。
水沢市と江刺市、胆沢町など5市町村は2006年に合併して奥州市になった。北上川の河畔には、延暦8年にアテルイらが朝廷軍を敗走させた「巣伏の戦い」を記念する櫓(やぐら)と碑が建てられ、地域おこしのシンボルになっている。
岩手出身の作家、高橋克彦は1999年に小説『火怨 北の輝星アテルイ』を出版し、史書からこぼれ落ちた蝦夷たちの戦いに光を当てようと試みた。
「敵はほとんどが無理に徴集された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空を守るために戦っている」
「いかにも我らの暮らしは獣並みやも知れませぬ。白湯を啜(すす)り、わずかの芋を分け合うて凌(しの)いでおりまする。なれど獣にはあらず。人を獣と見下す者らに従って生きることなどできぬ」
こうした言葉はすべてフィクションである。だが、どの言葉にも北の大地から湧き出したような味わいがある。小説は吉川英治文学賞を受賞し、刷を重ねている。
この小説を基に、NHKは2013年の1月から2月にかけて、BS時代劇「アテルイ伝」を4回にわたって放送した。最終回で主演の大沢たかおが叫ぶ。「帝は我等(わあら)をなにゆえ憎む。なにゆえ殺す。同じ人ぞ。同じ人間ぞ」。深い問いだった。
2015年夏には歌舞伎で市川染五郎がアテルイを演じ、2年後、宝塚歌劇団のミュージカルとしても上演された。アテルイをテーマにした作品は読む者の心を揺さぶり、観る者の心をとらえてやまない。その生き方に、時を超えて語りかけてくるものがあるからだろう。
◇ ◇
歴史は勝者によって記され、勝者は自分たちに都合の悪いことには触れようとしない。だが、本当に大切なことは「触れられなかったこと」の中に埋もれているのかもしれない。古代東北の歴史を調べ、蝦夷が歩んだ道を思う時、心に浮かぶのは北アメリカの先住民たちがたどった運命である。
米国の人類学者ヘンリー・ドビンズによれば、コロンブスがアメリカ大陸に到達した15世紀当時、北米には推定で1,000万人前後の先住民が暮らしていた。そこに移民としてやって来たのはヨーロッパで迫害され、貧困に打ちのめされた人たちだった。
1620年、イギリスからメイフラワー号でマサチューセッツ州のプリマスにたどり着いた101人の清教徒は、飢えと寒さで冬を越すことができず、春までに半数が亡くなった。
生き残った者たちに食糧を与え、トウモロコシやジャガイモの栽培法を教えて助けたのは、その地に暮らすワンパノアグ族の人たちである。「飢えた旅人には、自らの食を割いてでも手を差し伸べる」という古来の慣習に従ったのだった。
翌年の秋には豊かな収穫に恵まれ、白人たちは先住民と共に祝った。それがアメリカにおける感謝祭の始まりとされる。
だが、共に祝う日々はすぐに終わった。移民たちは「土地の所有」を主張し始めたからである。「大地や空は誰のものでもない」と考える先住民には理解できないことだった。
移民が持ち込んだ天然痘や赤痢、コレラといった伝染病も脅威となった。先住民には未知の病であり、治療のすべもないまま次々に倒れていった。
流入する移民と疫病が先住民を西へと追いやる。イギリスやフランス、スペインなど欧州の国々による植民地の争奪戦が始まり、先住民も巻き込まれていった。
1763年、英国王のジョージ3世が「英国の領土はアパラチア山脈まで。その西はインディアンの居住地」と宣言し、両者は住み分けることになったが、この後ほどなく独立戦争が勃発して宣言は雲散霧消した。
入植者は広い土地を求めてインディアンの居住地域に入り込む。金鉱が発見されれば、ならず者が殺到する。それを白人の側から描けば、「開拓を妨害するインディアン、騎兵隊と入植者がそれを追い払う」という、西部劇でおなじみの図式になる。
武力衝突が起きるたびに協定が結ばれたが、そうした約束が守られることはなかった。どのような協定が結ばれ、どのように破られていったのか。白人側が残した記録を基に、その内実を克明に記したのがディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』である。
非道な協定破りの数々。その典型の一つが「チェロキー族の涙の旅路」である。この部族は白人たちと戦うことをやめ、18世紀後半には指定されたジョージア州などの居住地に住んでいた。
ところが、居住地で金鉱が発見されるや、数千人が1,000キロ離れたオクラホマ州に追いやられた。老人や女性、子どもを連れ、真冬に徒歩での旅。4人に1人が命を落とした。
戦うことをやめない部族には、容赦ない殺戮が待っていた。インディアンの戦士たちとの戦いが難渋すれば、騎兵隊は後背地にいる彼らの家族を殺害した。インディアンの人口は、19世紀末には25万人まで激減した。
軍隊と、家族を抱えた生活者との戦い・・・・。いかに決意が固かろうと、インディアンたちが抗(あらが)い続けることは困難だった。東北の蝦夷たちもまた、同じ苦しみを抱えて戦うしかなかった。
カナダ・アルバータ大学の教授、藤永茂は著書『アメリカ・インディアン悲史』に、彼らは「自分たちをあくまで大自然のほんの一部と看做(みな)す人たちだった」と記した。
「森に入れば無言の木々の誠実と愛に包まれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心に支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた」
だから、「インディアン問題はインディアンたちの問題ではない。我々の問題である」と藤永はいう。
そうなのだ。古代東北の蝦夷たちの営為も、遠い歴史のかなたに置き去りにするわけにはいかない。彼らがたどった道は今を生きる私たちにつながり、さらに未来へと延びている。
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