「ばらもん凧」

https://www.rekishijin.com/23884 【「ばらもん凧」に描かれた渡辺綱にかぶりつく鬼の正体とは?】より

放送中の連続テレビ小説『舞いあがれ!』の主人公・舞をパイロットの世界へと導こうとしたのが、長崎県・五島列島に古くから伝わる伝統工芸品「ばらもん凧」だった。鬼が武者にかぶりつくという奇抜な絵柄は、いったい何を意味するのだろうか?

 NHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』が放送中だ。ものづくりの町・東大阪で生まれたヒロインの舞が、パイロットになる夢を叶えようとする物語。そのきっかけとなったのが、五島列島で古くから伝えられている伝統工芸品「ばらもん凧」だったというのをご存知だろうか? 五島の広い空を力強く舞いあがる、その勇姿に心躍らせたからというのだ。

 ではその「ばらもん凧」とは、いったいどのようなものなのだろうか? まずは、その姿から見てみることにしよう。

 ひと言で言えば、実に「奇抜な凧」である。おそらく誰もが、一目見たら忘れることのできない、インパクトの強い絵柄だ。描かれているのは鬼。ギョロッと目を見開いて真正面を向く鬼が、口を大きく開けて武者の兜にガブリ! 少々ユーモラスではあるものの、迫力満点である。

 描かれている兜が後ろ姿というところから、正面からかぶりつこうとする鬼をものともせず武者が立ち向かっていると見なされることもあるようだ。

 ちなみに、その名にある「ばらもん」とは、荒々しいとか元気者を言い表す五島の方言「ばらか」に由来するのだとか。絵柄もまさに荒々しくその名にふさわしいが、これが大空に舞いあがる光景は、さぞや豪快であるに違いない。男の子の初節句の際、子が元気に育つよう願いを込めて揚げるという、古くからの習わしだとか。

蒙古討伐軍大将・百合若大臣は蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、勝利するが、部下に孤島に置き去りにされる。しかし妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗したという伝説。『木曾街道六十九次之内 深谷』/都立中央図書館蔵

武者は蒙古討伐軍大将・百合若大臣か、渡辺綱か、源頼光か?

 それにしてもこの凧、いったいどうしてこんな奇抜な絵柄なのだろうか? これだけでは判断しきれないが、ヒントとなるのが、五島列島のばらもん凧同様、鬼が武者にかぶりついている姿を描いた壱岐の「鬼凧(おんだこ)」や、平戸の「鬼洋蝶(おにようちょう)」である。こちらの兜には、武者の顔までもがしっかりと描かれているからだ。

 その武者というのが、鬼の大将・悪毒王を退治した蒙古(もうこ)討伐軍大将・百合若大臣(ゆりわかだいじん)や、嵯峨源氏の流れを汲む武将・渡辺綱(わたなべのつな)だと伝えられることもある。退治したはずの鬼が、最後のあがきとばかりに武者にかぶりついたとも伝えられているから、あくまでも主役は鬼を退治した側の武者だろう。

 ただし、百合若大臣はあくまでも伝説上の人物でしかないが、渡辺綱は実在の人物。嵯峨天皇の第12皇子・源融の子孫で、鬼の中の鬼と恐れられた酒呑童子(しゅてんどうじ)や、その配下の茨木童子 (いばらきどうじ)を退治したことでも知られる御仁である。この綱の主君は源頼光(みなもとのよりみつ)で、こちらは清和源氏の3代目。酒呑童子を退治した際、綱は頼光に命じられて共々力を合わせて酒呑童子を退治。その際、鬼がかぶりついたのは、実は頼光の方だ。

 それが、ここではなぜか綱として伝わっているのが不思議だ。もちろんそれは史実ではなく、あくまでも伝説上のお話だけに、指摘するほどのものではないのかもしれないが、なんとも奇妙なのだ。

鬼とは、松浦水軍を苦しめた元寇のことか?

 ここではたと思い起こすのが、綱の後裔(こうえい)のことである。そのひ孫に久という名の御仁がいるが、これが1069年に松浦郡宇野御厨(うののみくりや)の荘官に任じられ、松浦へと移り住んだことで松浦姓を名乗ったという。これが松浦氏の始まりといわれている。九州北西部を席巻した松浦水軍(松浦党)のことである。

 ちなみに、五島列島を席巻した五島氏は、もともと五島列島北部の宇久島(うくじま)で旗揚げした宇久氏が始まりで、後に南下して五島列島全域を掌握。その後、五島姓を名乗ったとされる。

 前述の松浦氏とこの五島氏が、具体的にどのような系譜で繋がるのか分かりにくいが、五島氏が松浦氏の支流にあたると言われることもある。何(いず)れにしても、松浦党という武士団の連合体の一員だったようである。このことから鑑みれば、この凧に描かれた武者とは、五島氏を含む松浦一族の象徴として描かれたのではないか?

 では、それにかぶりついた鬼とは誰か? 伝説から推察すれば、悪毒王や酒呑童子らと考えられそうだが、それはあくまでも象徴に過ぎない。

 鬼が、対象者にとって害を為す勢力の象徴であることはいうまでもないが、対象者が権力者であれば「まつろわぬ」一群のこと、庶民とすれば恐ろしい「略奪者」のことだろう。

 ここでの対象者を五島氏及び松浦氏とすれば、推測できそうなのが「元寇(げんこう)」のことである。1274年を皮切りとして大挙九州北部に押し寄せた元寇。3万とも4万とも言われる大軍を率いて押し寄せた蒙古と高麗の連合軍である。

 対馬、壱岐を経て、さらに南下する蒙古軍たち。ここで松浦水軍が果敢に抵抗するも、多くの陣が打ち破られ、ついには数百人もの人的被害を被ったとか。そんな一幕があったことを思い出していただきたいのだ。

 とすれば、その時の思いがこの凧に込められているのではないか。もちろん、これは筆者の推測にすぎない。真偽のほどは定かではないが、この奇妙な鬼と武者の対峙する凧を見て、ふとそんな妄想に駆られてしまったのである。


http://www.taishitsu.or.jp/kyoto/sozoro37.html【37.頼光と四天王の鬼退治(貳)羅城門の鬼】より

 芥川龍之介の名作、『羅生門』は、その楼閣のうえに住む盗賊のいきざまを描くことで、平安時代の世相を見事に描きだしているが、この羅生門は、羅城門というのが正式の名称である。羅城に設けられた門という意味で、羅城とは大きな城の城壁のことである。だから「羅城門」は固有名詞ではない。洛陽の正門は、北魏では宣陽門といい、随・唐では定鼎門と名付けられた。長安の正門は明徳門と呼ばれた。

 それに較べて、日本都城の正門には固有の名前は付けられなかった。それはともかく、羅城門は平安京では正門の役割を果たしたのである。ただし平安京羅城門の位置は、正確には決定していない。今は住宅の密集地で、発掘調査ができないからである。

 正門だということは、ここを外へ出れば、そこはもう、外界・異界だということである。どんな事態が起こるか想像もできない。その接点の羅城門は鬼が出る場所とも認識されるのは当然であろう。現在、この羅城門跡に程近い真言密教の東寺の寺宝に、八世紀の唐代の作といわれる、「兜跋(とばつ)毘沙門天立像」がある。「兜跋」とは、「吐番(とばん)(チベット)」につながり、シルクロ-ドの要衝であったキジルが吐蕃によって攻められた時、密教僧であった不空が祈祷をすると、城の北門に毘沙門天が出現して吐蕃を撃退したいう故事に基づいた像とされる。この像は日本に伝来すると、平安京の羅城門の上に安置された。中国の故事にちなんで、外敵追放を祈ってのことと考えられる。それが奇しくも東寺の寺宝になったのは、羅城門が倒壊したため、毘沙門天だけが東寺に移されたからであろう。

 さて、ある春雨のしとつく夜のことである。源頼光とその四天王たちが、彼の屋敷に集まって酒を酌み交わしていた。例によって、この日も藤原保昌が席に加わっていた。

 彼らが大江山の鬼を退治して以来、都は平穏であった。ここしばらく春の長雨で、いっこうに晴れ間も見えぬ。そこで頼光がいささかの無聊を慰めるため四天王たちをねぎらうことにしたのである。「近ごろ、都になにかかわりはないか」、話がすこし途切れた時、頼光が口を挟んだ。保昌が答えた。「このごろ、おかしなことを申しております。九条の羅城門に鬼が棲みついているとの話です」。鬼と聞いて渡辺綱はだまってはいない。「これ保昌、おかしなことを言うでないぞ。そもそも、羅城門はこの都の正門ではないか。土も木もすべては我らが大君の国であろう。どこに鬼のすみかが定められるものか。たとえ鬼が棲もうとしても、棲ますはずもないではないか。なんとうかつな申されようよ」。言葉をあげつらわれた保昌はいきり立った。「それでは、それがしがうそを申したと言われるのか。このことは世間に隠れもないことでござるぞ。まこと不審があれば、今夜にでも羅城門におでかけ召されよ」。「さては、それがしが行くまいと思っておられるのだな。それなら今夜、門に行って本当かうそか見てくることにいたそう。しるしを頂戴したい」。こう言って立ちあがる綱を、一同はおしとどめようとしたが、綱は、彼らに向かって言う。「いや、保昌に対して野心はござらぬ。一つは君の御為なればこそ。そのしるしをいただこうと申したのだ」。この言葉を聞いた頼光は、金札を取り出して綱に与えたのである。「いかにも綱が申すように、一つは君の御為なればこそ。このしるしを立てて帰るがよかろうぞ」。頼光からしるしの「金札」を受領した綱は、鬼を退治せずに二度と人の顔を見るまいと悲壮な決心をして、その場をひきとったのである。

 さて、こうして渡辺綱は、ほんの仮初(かりそめ)の口論から鬼神の姿を見なければならない羽目になり、物具取って肩に懸け、鎧の縅(おどし)糸と同じ色の錣(しころ)を付けた兜を着用し、祖先伝来の太刀を佩き、たけの高き馬にうち乗って、口取りの従者(とも)も連れずに唯一騎、二条大宮を南に向けて進んだ。春雨の音も頻りに更けた夜も、いつか鐘の音の聞える暁に近く、綱は東寺の門前をうち過ぎて、ようやく九条おもてにうって出て、羅城門に到着した。おりあしく物すざましく雨が落ちる中で、俄に吹き狂う風の轟音に、乗馬はただ屹立して、高くいななき身ぶるいをするだけの有様であった。たちまち、綱は、馬を乗り放って、ひとり羅城門の石檀にあがるならば、さっとしるしの金札を取りいだし、檀上にしっかりと立て置きて、さて、帰らんとするその瞬間、「むんず」、と後より兜の錣(しころ)をつかんで引き留められた。すはや、鬼神と、太刀を抜き放って斬らんとすれば、鬼のつかみし兜の緒がひきちぎれ、思わず綱は壇上より飛びおりる。鬼は怒りをなして、持っていた兜をかっぱと投げ捨て、綱をにらんで立ちはだかる。その背丈は、中国の都城の高門の軒と等しく、両眼は月と日の如くらんらんと輝いている。綱は少しも騒がず、太刀をかざして叫んだ。「大君の国を犯す、その天罰を知らぬのか。逃がすまいぞ」。斬りかかる綱を、鬼は鉄杖を振り上げて、えいやとばかり打ってくる。綱は飛びちがいざまに斬ろうとすると、鬼は腕を振りかざして組みついてきたが、その瞬間、鬼の伸ばした手を、綱は太刀を振るって斬り落としてしまった。「時節を待って、また取り返しに来るぞ」、と呼ばわる鬼の声がいんいんと闇にひびき渡る。

 かくして、渡辺綱の名はますます高くなるばかりであった。


http://www.chinshinryu.or.jp/ryugi/23/0105/kiji.html 【平 戸 の 凧】より

松浦史料博物館/館長:木田 昌宏 

 「お正月には凧あげて、コマを回して遊びましょう」と童謡にも歌われるように、凧あげはお正月の風物詩です。

 平戸には「おにようちょう」と呼ぶ凧があります。漢字では鬼洋蝶と書かれています。

 凧の図柄は平安時代中期、松浦家第5代にあたる渡辺綱の鬼退治の様子を描いています。 当時京都に勢力のあった鬼同丸という悪漢を倒したことで有名ですが、これがいつしか鬼退治の話になったようです。 綱は坂田金時、臼井貞道、平季武と共に源頼光の四天王の一人ですが、豪傑として知られています。

 一昔前までは、畳何畳もある大きな鬼洋蝶を上げていたそうですが、最近はほとんど見られず、 郷土のお土産品として、携帯に便利なミニチュアが販売されています。

 凧の後部に豪壮な唸りが出るように、弦を張っています。同じ様式の凧として、壱岐の「おんだこ」、 五島の「バラモン凧」などがあります。

 写真は松浦史料博物館に展示中の畳1畳ほどの「鬼洋蝶」です。

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