③日本に来た契約の箱と三種の神器

http://hideki816.blog.fc2.com/blog-entry-137.html 【10 日本に来た契約の箱と三種の神器 3/5】より

  日本に来た契約の箱    

 ユーラシア大陸の果て、東アジアの始祖伝説に登場する「黄金櫃」があります。

 新羅の始祖伝説は大きく3つあります。

 1つは「赫居世(ヒョッコセ)」、もう1つは「脱解(タルへ)」、そして「金閼智(キムアルジ)」です。

 彼らは、それぞれ「朴(パク)氏」「昔(ソク)氏」「金(キム)氏」の始祖です。

 皆、朝鮮の原住民ではなく外国から来ました。赫居世の伝説はこうです。

 「かつて辰韓には6つの国があった。それぞれ、天から降臨した神人が治めていた。

 彼らは王を遣わしてほしいと天に祈る。すると、楊山のふもとナジォンの近くに、雷光のようなものが大地に降り注ぐ。

 異様な気配を感じ取った人々がその光の下へ行ってみると、一頭の白馬が跪いていた。

 不思議に思って見ると、そこには一個の紫色の卵があった。

 そこで卵を割ってみると、中から男の子が現れた。 人々はおどろきながらも、男の子を東泉寺(トンチョンサ)に連れて行き、そこで沐浴させると、体から光が放射。 鳥獣が舞い、天地は震動。 日月は明るく輝いた。 人々は故事に因んで、男の子を赫居世と名づけた。」

 天から降臨した卵の奇妙な話は、史実ではありません。

 始祖が卵から生まれるのは南方特有の神話で、朝鮮の先住民が南方系の海洋民族で、朝鮮半島がちょうど北限です。

 一方、天から降臨する神話は、北方系神話の典型で秦人たちが持ち込んだ神話です。

 つまり、南方系の先住民と北方系の秦人たちの神話が融合してできた伝説なのです。

 それゆえこの天子降臨と卵生神話は、秦人の流入した地域、すなわち新羅と伽耶に共通して見られるパターンです。

 新羅の王は赫居世の子孫が世襲し、3代続きましたが、4代目は娘婿の「脱解」が王に即位しました。

 脱解王(在位紀元57年‐80年)は赫居世の子孫ではなく、もともと新羅人ではありません。

 伝説では、以下のようにあります。

 昔々、倭国の東北千里の彼方に、多婆那国、またの名を龍城(ヨンソン)国があった。

 龍王の含達婆(ハムダルバ)は積女国(チョクニョ)から王妃を迎えたが、長いこと子供に恵まれなかった。 7年たって、やっと産気づいた。 ところ、おどろくことに大きな卵を産んだ。 無気味に思った龍王は、長さ20尺(約4,5m)、幅13尺(約2,9m)の櫃を1つ作る。そこに、奴隷と7種類の宝物とともに問題の卵を入れると、そのまま船に乗せて海に流してしまった。

 流された櫃は波間を漂い、辰韓の阿珍浦(アジンボ 慶尚北道慶州市)沖へと来た。すると、どこからともなく鵲(かささぎ)が集まってきて、船の上に止まった。これを見たある老婆が不思議に思い船に近づき櫃を発見する。祈りながら蓋を開けてみると、そこには光り輝く男の子がいた。 老婆は男の子を家に連れて帰り、育てることにした。 やがて、男の子は成長して知恵者となり、それが認められて王位に就いた。

 ここでも出てくるのは卵で倭国や海の彼方の国など、南方系の要素が強いですが、この神話にはもう1つ重要な要素の「流され王伝説」が加味されています。

 お伽話の「桃太郎伝説」も「流され王伝説」の一種です。

 桃太郎伝説の舞台となった岡山の吉備地方に、エルサレムから新羅をへてきた渡来人である原始キリスト教徒の秦氏が、朝鮮半島の始祖伝説を持ち込んだのです。

 秦氏が伝える物語の中にも「流され王伝説」があります。

 秦氏の長で別名が聖徳太子の「秦河勝(はたのかわかつ)伝説」によると、大和の初瀬(はつせ)川が氾濫したとき、上流から大きな壺が流れて来て、その中に男の子がおり成長して秦河勝になったといいます。

 これを記したのが能楽の原典『風姿花伝(ふうしかでん)』で、筆者の世阿弥(ぜあみ)は秦元清(はたもときよ)といい秦氏です。

 そして、「流され王伝説」は、さらに古い時代にさかのぼれます。

 モーセが生まれたとき、エジプトではイスラエル人に生まれた男の子をすべて殺せと命令が下っていました。

 モーセの母は、やむなく子供をパピルスの籠に入れ、ナイル川に流しました。

 籠船は流れに乗って、王女のもとへ来ました。

 王女は籠船に乗っている男の赤子を見つけ、男の赤子を育てました。 (出エジプト 1‐2章)

 秦河勝とモーセの伝説の間には、いくつかの共通点があります。

 秦河勝の「河勝」とは「河に勝つ」で、河から拾われ、河に流される境遇を克服したことを示唆します。

 『旧約聖書』によると、モーセの名前は「水の中から引き上げた(マーシャー)」に由来します。 どちらも、名前の由来は同じです。 秦河勝もモーセも、どちらも異国で育ち成功しました。

 「流され王伝説」はメソポタミア地方では、アッシリアやアッカド、シュメールの始祖伝説にも見られ「流され王伝説」の原型は「ノアの箱船伝説」です。

 「流され王伝説」の構造は、王が船に乗って流されて、多くの場合は王は始祖となり民族を率いていきます。 秦河勝の例のように洪水をともなうこともあります。 

 史上最大の「流され王伝説」とは、全地は水でおおわれ、預言者ノアが船に乗り人類の祖となった「ノアの箱船伝説」です。

 契約の箱は、英語で「Ark of the Covenant」でアークとはラテン語で「箱」を語源として、ノアの箱船の意味をもちます。

 原始キリスト教徒である秦氏が新羅におり、その始祖伝説に「流され王伝説」が存在するのは、モーセの伝説とノアの箱船伝説が下敷きにあったのです。

 そして、契約の箱(アーク)もあったのです。 

 新羅第3の始祖「金閼智(キムアルジ)」には、これまでのような卵生神話や流され王伝説が見られない代わりに、天から降臨する北方系神話の要素が強いことが分かります。

脱解王3年8月4日のことである。天空から紫の雲が降り「鶏林(ケリム)」を照らしていた。 これを見た、瓠公は、ただちに現場へ駆け寄った。 見ると、そこには紫の雲に包まれた黄金の櫃があった。それは、ちょうど樹の枝にかかって光り輝いていた。

 知らせを受けた脱解王が鶏林に赴き、櫃を開けてみると、中には端正な男の子が1人寝ていた。王は男の子を引き取り、彼を抱いて戻る途中、鳥獣が先を競って連れ立ち嬉しそうに舞い踊った。 

 男の子は成長して金閼智(キムアルジ)と名づけられ、彼の6世孫は新羅王に即位。

 以来、新羅の王位はその一族が継いだ。

 彼らは始祖が黄金の櫃から生まれたので、皆「金氏」と名乗りました。韓国の人には金の名が多いです。

 中国系の金氏は別にして、朝鮮には大きく2つの金氏、慶州金氏(キョンジュギムシ)と金海金氏(キムヘキムシ)があります。  このうち、慶州金氏の祖が、この金閼智(キムアルジ)です。

 伝説によれば、金氏の名の由来は金閼智が入っていた「黄金櫃」にあります。

 天から降臨して木にかかっていた黄金櫃は、契約の箱のことです。契約の箱の長さは約110cmで、子供ならこの中に入ります。 また、脱解王の場合、櫃を乗せた船には鵲(かささぎ)がいて、金閼智が入った黄金櫃は鶏林に降臨しました。

 どちらも鳥にかかわり、契約の箱の贖罪所には鳥の翼をもつ2体のケルビムがあります。

 「黄金櫃伝説」では、鶏林の木は「命の木」であり、十字架を意味するので、そこにかかった黄金櫃は、礫になったイエス・キリストの象徴です。

 契約の箱は、ヤハウェが臨在するのです。契約の箱に臨在するヤハウェはイエス・キリストです。 金關智の「黄金櫃伝説」を作り上げたのは秦氏で、秦氏は契約の箱をたずさえて朝鮮に来たことを表しています。

  伽耶の黄金櫃神話

 韓国第2の大都市の釜山(プサン)に金海(キメ)市は伽耶の王宮があった場所とされ、始祖「首露(スロワン)」の陵墓があります。   

 金海は、朝鮮における金氏の本拠地の1つで、金海金氏発祥の地であり始祖が首露です。

 新羅の金氏の祖「金閼智」は、自分が入っていた黄金櫃にちなんで金氏を名りました。

 そして、金海金氏の祖「首露」も、黄金櫃の「聖約の箱」にちなんでいます。

 昔々、人々が水辺で厄除けの沐浴をしていると、北の「亀旨峰(クジボン)」(金海市)から誰かを呼ぶ声がする。

 奇妙に思った多くの人々が、駆けつけてきた。

 だが、声はすれども姿形は見えない。やがて、その見えない声は、こう語りかけてきた。

 「天帝は私に、こう命じた。この地に降り、国を開き、王になれ。従って、私は降臨した」

 そう告げると、謎の存在は、このような歌を教えた。「亀よ亀よ、首を出せ。出さねば、焼いて食べてしまうそ」言われたとおりにそれを歌い、踊っていると、やがて天空から紫色の縄がするすると降りてきた。 見れば、その先端には、紅の布に包ぎれた黄金の櫃があった。

 開けてみると、そこには6個の黄金の卵があった。 やがてその卵は孵化し、6人の男の子になった。 最初の男の子は名を「首露」、黄金櫃から生まれたので姓を「金氏」とした。

 ほかの5人の男の子も、それぞれ5つの伽耶諸国の王になった。

 天空から降臨した黄金櫃と、そこにいた始祖が姓を金氏と名乗る点も含め、新羅の「黄金櫃伝説」と類似しています。

 新羅のみならず、伽耶にも「黄金櫃伝説」が存在する事実は、両方の国に秦氏が存在した事実と一致します。

 事実、馬韓から誕生した百済には、卵生神話も黄金の櫃伝説もまったく存在していませんが、秦氏がかかわる新羅と伽耶だけには残されているのです。

 黄金櫃である契約の箱は、新羅から伽耶へと移動したのです。 ほかにも黄金の櫃伝説がありますが、こちらは王の名が相当な意味をもってきます。

 紀元前61年、天帝の子が、五色に輝く五龍車に乗って天降り、自ら王となった。そして、その名を北扶余と定めた。そののち、神からの「自分の子に国を譲り、汝らはさらに南下して国を興しなさい」との命令に従い、南下して東扶余国を建国することになる。 金蛙(クムワ)が扶余の王だったころ、水神の河伯の長女をえて身籠もらせ、やがて大きな卵を生むことになる。そして、やがて卵は卿化し美しい童子が誕生する。

 この扶余の「卵生神話」にしても「黄金の櫃伝説」も、五色に輝く龍車で象徴として登場します。 五色とは光り輝く太陽色を象徴し、つまりは黄金のことです。 その光り輝く五色車に人が乗る以上、箱であり童子が乗っていた櫃ということになります。 黄金の櫃に乗っていたのは、「解慕漱(ヘモス)」の名の王です。

 ヘモスのように末尾が「ス」で終わる人名・神名・地名は、パレスチナからエジプト地域で多く、聖書にも、アモス、テトス、パメンケス、マテノス、ホルスなど数多くあります。 

 つまり、イスラエル民族の流れとして、エルサレムから天山山脈を越えてユーラシア大陸を渡った民族が、やがて朝鮮半島に到着した証拠となるのです。

  天孫降臨神話

 伽耶の始祖伝説で、黄金櫃が降臨したのは「亀旨峰(クジボン)」です。峰とありますが、山というよりは丘で、この丘こそ日本と朝鮮を結ぶ重要な丘です。

 記紀神話によると、天照大神の孫、ニニギ命が高天原から「久士布流多気(くしふるたけ)」に降臨しました。金首露が降臨した「亀旨峰」は「クジボン」といい、ニニギ命が降臨した「久士布流多気」は「クシフル岳」といいます。「クジボン」と「クシフル」は、語源は同じです。 神話学的に見て、日本の天孫降臨神話は明らかに大陸の北方系神話です。

 さらに、『古事記』編纂に新羅伽耶系渡来人「秦氏」がかかわっていることを考えると、日本の天孫降臨神話の直接的なルーツは伽耶の「黄金櫃伝説」です。

 朝鮮半島における最後の「黄金櫃伝説」に登場する「亀旨峰(クジボン)」と、日本の九州にある「クシフル岳」、秦氏が朝鮮半島から渡来したことを考えると契約の箱も日本の九州かへ持ち込まれたのです。

 つまり、エルサレムから消えた契約の箱は、ユダヤ人原始キリスト教徒エルサレム教団によって、東アジアをへて中国経由で朝鮮半島へ移動し新羅から伽耶へ秦氏とともに南下し日本にもたらされました。

 そして、朝鮮半島の金海から海を挟んだ対岸、九州北部にも「黄金櫃伝説」が存在します。

 一般に筥崎宮とよばれる「筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)」は、博多湾に面しており海に向かって鳥居が立っています。

 朝鮮半島に向かって立つ筥崎宮は、まさに大陸への玄関口であり、それゆえ歴史は古く伝説では秦氏が渡来した紀元4世紀ごろにまでさかのぼります。

 筥崎宮は秦氏の神社で、筥崎宮の宮司は代々秦氏が務めてきました。

 伽耶から渡来した秦氏が上陸した地点に、自らの神殿を建てたのが始まりだと見られ、やがて筥崎宮となったのでしょう。

 「黄金櫃伝説」は、この筥崎宮に伝わっています。

 由来書には、こうあります。

 「その昔、神功皇后の三韓出兵ののち、凱旋せられ、筑紫の蚊田(かだ)の里で応神天皇を出産され、その御胞衣(おえな 胎盤)を筥(はこ)に容れ白砂青松(はくしゃせいしょう)のこの地に納められ、その上に標(しるし)として松を植えられ、やがて地名を筥崎と改められた」

 御胞衣は本人の分身とも解釈でき、御胞衣を納めたとは、応神天皇が入っていたとも解釈できます。王が幼いころに櫃に入っていたのは、新羅・伽耶の「黄金櫃伝説」の流れをくみます。秦氏による「黄金櫃伝説」の連続性は、契約の箱を持った原始キリスト教徒の秦氏の移動でもあるのです。 

 日本における契約の箱の行方を知る手掛かりは、筥崎宮の「黄金櫃伝説」に登場する御胞衣の主、応神=神武です。応神天皇は、朝鮮半島の伽耶から秦氏を日本に招き入れました。

 つまり、神武(応神)天皇たち先発隊は契約の箱とともに日本に来て、以前から朝鮮半島と交流のあった九州北部の物部氏(東ユダヤ人の徐福集団の末裔)と緊密な連絡を取り、1つの連合国家を築いたのち、朝鮮半島へ帰還し伽耶にいた秦氏とともに渡来したのです。

  弓月君とヨシュア

 秦氏は自分たちの歴史を見る人が見れば分かるような伝承に残します。

 契約の箱をたずさえて渡来したことも、実は『日本書紀』の中に載せています。

 秦氏を率いて渡来してきたのは「弓月君」です。弓月君は秦氏一族の象徴であり、象徴には意味があって、秦氏一族の思いが込められています。弓月の名前は、弓月国に由来します。

 西域諸国のオアシス国家「弓月国」がシルクロードにおける秦氏の中継国家です。 

  9 東へ移動した10部族 1/3~3/3

 弓月王は「融通王(ゆうずう)」とも表記し、弓月王が「ユズキ王」で融通王は「ユウズウ王」です。 一読した感じではとても同じ名前には思えませんが、京都の大酒神社(おおさけじんじゃ)に掲げられた案内板には、弓月王の読み仮名を「ゆんずのきみ」と書いています。

 「ユンズ」とは、何でしょうか。 弓月王は、預言者ヨシュアがモデルです。

 預言者モーセのあとを継いだ預言者ヨシュアはイスラエル12部族を率いてヨルダン川を渡り、約束の地カナンへと来ました。

 一方、弓月王は秦氏120県(あがた)を率いて対馬海峡を渡り、約束の地日本へとやって来ました。ヨシュアはアラム語でユンズであり、漢字を当てれば弓月君なのです。

 秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒であり、イスラエルの血統でイエス・キリストを心から信じるという意味でもイスラエルです。 12部族と120県、ちょうど10倍です。

 対馬海峡は川にたとえることができます。

 預言者ヨシュアはヨルダン川を渡る際、こう命じています。

ヨシュアは祭司たちに言った、「契約の箱をかき、民に先立って渡りなさい」。そこで彼らは契約の箱をかき、民に先立って進んだ。 (ヨシュア 3:6)

 こののち、レビ人が契約の箱を担いで川に入ると上流で水がせき止められ、川底を通ってイスラエル12部族が渡ります。

 主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。

 あなたは契約の箱をかく祭司たちに命じて言わなければならない、『あなたがたは、ヨルダンの水ぎわへ行くと、すぐ、ヨルダンの中に立ちとどまらなければならない』」。

 ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。

 そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。

 ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。それゆえ、今、イスラエルの部族のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選びなさい。

 全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。

 こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、――

 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。

 すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。 (ヨシュア 3:7-17)

 「かく」とは担ぐという意味です。

 秦氏がヨルダン川を想定したうえで自らを率いてきた人物の名にヨシュアを選び、契約の箱をたずさえて渡来したからこそ、ヨシュアのヨルダン川をモデルとして、自らの渡来伝承を作り上げたのです。

 原始キリスト教徒は戒めに従うなら、むやみに人を殺しません。先住民に対して平和のうちに伝道したいのです。 相手が攻撃的な場合、最も効果的な方法は、相手が攻撃しないように圧倒的な戦力の差を分からせることです。 そのために、神武天皇は敵を倒す兵器にもなる「契約の箱」とともに渡来しました。  九州では「契約の箱」は「八幡神」として表現されていましたが、畿内に入ってから天照大神として表現されました。

 数ある神社の中で、八幡宮は稲荷神社に次いで2番目に多いです。

 八幡神をまつった神社は「八幡神社」であり、八幡神社の総本山といえば、大分県宇佐市の「宇佐八幡宮」です。

 宇佐八幡宮の神職は、古来より「宇佐氏(うさし)」「大神氏(おおがし)」「辛嶋氏(からしまし)」の三氏が担ってきたといいます。 これら三氏のうち、最も古いのは「辛嶋氏」です。宇佐八幡宮に関して最も古い資料の814年に記された「太政官符(だいじょうかんぷ)」には、こう記されています。

 「八幡大神が鷹の姿をして現れた。ところが御心が大変荒々しかった。 人が5人行けば3人を殺し、10人行けば5人を殺した。崇峻天皇の時代、辛嶋勝乙目(からしまのすぐりおとめ)が3年間祈祷して、御心を和らげ、官柱を立てて、斉敬した。 八幡神が鷹の姿をして現われたところから、神社の名前を『鷹居社』と名づけた。 そこで、祝(はふり)に辛嶋勝乙目、禰宜(ねぎ)には辛嶋勝意布売(からしまのすぐりおふめ)がなったと言う」 

 ここから、宇佐八幡宮において、八幡神を一番最初にまつったのは「辛嶋氏」であることが分かります。辛嶋氏は「秦氏」です。

 八幡宮発祥の地である九州の東北部の宇佐一帯は、かつて豊国(とよのくに)とよばれました。実際、豊国には多数の秦氏が住んでいました。

 戸籍には「〇〇勝」と称した者が多数いて、「勝部(かつべ)」ともよばれる人々は、「秦部(はたべ)」であり、秦氏の下にいた人々です。

 唐の使者「斐世清(はいせいせい)」は豊国にやって来て、ここを「秦王国」とよび中国のような高度な文化が花開いているが、その理由は詳らかではないと語っていると紀元7世紀の『隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)』に記されています。

 豊国の文化の担い手は、秦朝から流れて来た東ユダヤ人とローマ帝国から来たユダヤ人原始キリスト教徒との秦氏です。

 あまりにも秦氏が多いので、中国人は思わず秦王国とよんでしまったのです。

 豊国一帯にはいたる所に八幡宮があり、八幡神社の総本宮「宇佐八幡宮」は、秦氏の支族、辛嶋氏の創建です。大分県宇佐市の「宇佐八幡宮」は八幡宮の総本山ですが、もともとここにあったのではありません。 原始八幡信仰は、大分県宇佐市のほかの地にありました。

 その1つが、福岡県築上郡の「金富神社(きんとみじんじゃ)」です。

 この神社はかつて「矢幡八幡宮(やはたたちまんぐう)」と称しており、創建当初は単に「やはた」とよばれていたと伝えられ、宇佐八幡宮以前の元の八幡宮でした。

 そして、宇佐八幡宮の本社より奥にある神社奥宮は、背後にそびえる「御許山(おもとさん)」の山頂に鎮座する「大元神社(おおもとじんじゃ)」です。

 このほかに福岡県田川郡の古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)や福岡県田川郡の香原(かわら)神社もかつて八幡神社で元宇佐でした。

 八幡神の移動は、そのまま八幡宮の移動です。宇佐に鎮座する以前、八幡宮は各地を転々としています。かつて八幡神と表現された契約の箱がいた場所には、八幡宮が建立されています。これら元宇佐八幡宮は今でこそ八幡宮が建っていますが、古記録には社殿がなかったと記されています。元宇佐とは、宇佐八幡宮が、現在地へうつる以前に一時的にせよまつられた神社です。 八幡宮は移動式の神殿「幕屋」だったのす。

 元宇佐のすべてが八幡宮を名乗っているのではなく、大元神社のように表立って八幡宮を冠しない神社もあります。

 香春神社には、古より伝わる絵図がいくつかあり幕屋が描かれています。

 八幡神の移動とは幕屋の移動であり、幕屋があった場所に八幡宮が建立されたのです。

 さらに、幕屋が存在すれば契約の箱もあります。

 九州を動き回った契約の箱は、最後には大分県宇佐市の宇佐八幡宮に落ち着きました。

 「契約の箱」は日本で「本物の神輿」という意味の「本神輿」ともよばれます。

 福岡県にある元宇佐の年毛(としも)神社の関係者は、こう語ります。

 「現在、本神輿は宇佐八幡宮にはありません。宇佐八幡宮から伊勢へと移されました」

 紀元761年、女性だった孝謙(こうけん)上皇(天皇が生前に位を退かれると、『太上天皇』略して『上皇』の尊称でよばれます)は、近江国(滋賀県)の保良宮(ほらのみや)に移っていたとき、にわかに体調を崩して寝込んでしまいました。

 そのとき、悪僧の道鏡(どうきょう)という俗物僧侶が祈祷を上げたため孝謙上皇の健康が回復したとされ、そののちに上皇の恩を逆手にとり取り入った道鏡は、一挙に権力への階段を駆け上がることになります。

 第47代淳仁(じゅんにん)天皇の淡路への島流しで、孝謙上皇が再び天皇陛下の座に就き第48代の称徳(しょうとく)天皇になりました。

 そして、次に道鏡は天皇陛下の地位を狙おうと画策するのです。道鏡は物部氏です。

 物部氏は中臣氏とともに神道護持派として蘇我馬子と対立して破れた過去があります。

 中臣氏は藤原氏の祖の中臣鎌足の末裔でしたが、藤原氏を名乗れたのは鎌足の子の藤原不比等の末裔だけであり、その不比等の末裔が政治の中枢で権力を握り、中臣氏は祭祀のみを担当しました。

 中臣氏は古代の日本において、忌部氏とともに神事をつかさどった中央豪族です。

 中臣、忌部に加え、完全に中央から排除されたのが物部氏です。道鏡は物部氏の復権させようとしていたようであり、道鏡が皇位を狙ったのもそのためでしょう。

 淳仁天皇側だった藤原仲麻麿(ふじわらのなかまろ)への風当たりは強く最後は反乱を起こしたところを、越前国(えちぜんのくに)で討たれてしまいます。

 紀元769年、増長した道鏡は、福岡県西部の大宰府(だざいふ)で九州の神社を司っていた中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそんあそまろ)に命じ、自分を天皇陛下にせよと大分県宇佐市の宇佐八幡宮の宇佐八幡神が神託したといわせたのです。

 しかし、宮中で大問題になり、和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣し八幡神からの御神託を確かめさせました。

 すると、八幡神は「皇室の血筋でない臣下で天皇の地位を狙う者は賊としてただちに追い払え」と告げたため、その御神託をもった和気清麻呂はただちに宮中で報告したのです。

 道鏡は、その報告を聞くや怒りはじめ和気清麻呂を鹿児島に流し途中で殺そうとします。

 清麻呂は道鏡の追っ手に足の腱を切られ、立つことすらできなくなりましたが、宇佐八幡へ立ち寄ることにします。

そして、豊前国(福岡県東部)で、天地雷鳴がとどろき、どこからか三百頭もの猪が現れます。猪たちは清麻呂の輿の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(40km)の道のりを案内したのです。清麻呂が宇佐八幡での参拝を終えると、猪たちは去り、清麻呂の足は回復し再び歩けるようになりました。

 紀元770年、第48代称徳(しょうとく)天皇が死去するや、第49代光仁(こうにん)天皇は称徳天皇によって混乱した政治の立て直しを図り、道鏡は失脚し栃木県へ追い払われてしまいます。

 そして、称徳天皇によって島流しにされた和気清麻呂を都へ呼び戻しました。

 宇佐八幡宮に出向いた和気清麻呂は、のちに第50代垣武(かんむ)天皇を鹿狩りに連れ出し平安京遷都を進言した人物です。

 和気清麻呂は、出生が秦氏の重要拠点の1つがあった岡山県美作(みまさか)国で、平安遷都に大きくかかわる秦氏の山背派の重要メンバーでもありました。

 このときに、大分県宇佐市の宇佐八幡宮に契約の箱がありました。

 宇佐八幡宮に契約の箱があったからこそ、御神託は下ったのでしょう。

 契約の箱に触れることを許されているのはアロンの子孫の「祭司」だけであり、「宿禰」の称号は「祭司」やアロンの家系の長子を通して受け継がれた「大祭司」にあたえられた可能性が高いです。

「八幡」とは「ハチマン」「ヤワタ」と読んだりしますが、「ヤハタ」が本来の読み方です。

 「八坂神社」の「八坂(ヤサカ)」を「弥栄(イヤサカ)」と言ったりしますが、同様に「八幡(ヤハタ)」を「弥秦(イヤハタ」といいます。 

 「弥秦」に「秦」が含まれています。「八幡」の語源こそ「弥秦」であり、秦氏の名称でもあります。

 平安時代(紀元794年‐1185年)の神道資料『古語拾遺(こごしゅうい)』には、秦氏の名の由来が「秦の字を訓みて、これを波陀(はだ)と謂ふ(言う)」とあります。

 秦(はた)氏は、もともと「ハダ氏」であったのです。 秦氏の発音が正確には「ハダ」氏だったので、弥秦は「イエハダ」です。 原始キリスト教団が話していたアラム語で「ユダヤ」は「イエフダー」です。

 イエフダー (ユダヤ) → イヤハダ = ヤハタ(八幡) = 弥秦 → 秦氏

 言語学上、ヤ行とア行の母音は欠落しやすく「イヤ」は変化しやすく欠落しやすいのです。

 したがって「イエフダー」は「フダー」となり「イヤハダ」は「ハダ」となり「ハダ」は「秦(ハタ)氏」になります。つまり「秦氏」「八幡」とは「ユダヤ」なのです。

 「八幡神」とは「ユダヤ神」となり、その正体はイエス・キリストです。

 「宇佐」という地名は『古事記』にも登場するほど古く語源は不明ですが、『旧約聖書』にあるのです。

 ペリシテ人に奪われていた契約の箱が返還されたとき、一時アビナダブの家に置かれました 彼は、契約の箱を扱える祭司ではありませんでした。それゆえ、ダビデ王が運びだす際、契約の箱を牛の背に乗せそばに、アビナダブの息子ウザが付き添いました。そのとき、事件が起こったのです。

 彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。 牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。 彼は神の箱のかたわらで死んだ。

 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。 (サムエル下 6:6-8)

 「ウザ」と「ウサ」で音が濁るかどうかの違いです。

 今でこそ濁る字には濁点を付けていますが、古代において濁る字には濁点を付ける習慣はなく「ウザ」も「ウサ」と表記したのです。 宇佐の地名は「ウザ」にちなんで命名された可能性があるのです。 

 ウザと同じように不用意に契約の箱に触れたために、プラズマで殺された人間がいたのかもしれません。

 それを見て多くの秦氏が昔のウザから戒めを込めて、その地を「ウザ、宇佐」と命名したのかもしれません。

 『旧約聖書』のこの出来事は神の性質や神聖さを理解できない、あるいはしない人にとって非常に不思議で理解のおよばないかもしれませんが、契約の箱は神聖な器で、その中にはイスラエルの歴史上最も神聖で重要な物が納められています。

 箱やその中身に触れることは、神の命令によって厳格に禁じられており、権能を与えられたレビ人の祭司だけが、特定の条件下においてのみ、その聖なるものに触れることを許されていました。(民数 4:15)

 ウザはレビ人でしたが祭司ではなかったと思われ、契約の箱を載せた車を自分たちの家から引いて行きました。

 祭司以外は、神が触れてはならないと禁じていたものに手を出してしまったウザには、何かしらの思い上がりがあった者と考えられるでしょう。

 もしウザの思いが純粋に箱が車から落ちないようにすることであったとしても、神がそうしようとするなら、自身の契約の箱を支えることなどはたやすいことであることを覚えておく必要がありました。

 この出来事については詳細な点まで記録されてはいませんが、神の戒めは神聖であって、神が命じたままに厳格に守らなければならないことを教える例です。

  紀元8世紀の天災

 奈良時代、宇宙環境に変動がありました。地球上で炭素14は、宇宙線と窒素原子が衝突することで絶え間なく作り出されています。本来大気中における炭素14の割合は一定に保たれているはずです

 紀元775年に地球外から飛来した宇宙線が前年比で急増し、原因が特定できないことを名古屋大学、太陽地球環境研究所の増田公明准教授(宇宙線物理学)らが明らかにしました。

 樹齢約1900年の屋久杉に取り込まれた炭素14濃度から分かりました。

 中国の研究グループは、このときに炭素14の濃度が上がった理由を、彗星の衝突によるものではないかと推測しました。

 彗星にはアンモニアの氷を含んでいることがありますが、その場合宇宙線との反応によってわずかに炭素14を含みます。

 彗星が衝突することで地球に炭素14が降り注いだという説です。

 しかし、フィンランド、オウル大学のイリア・ウソスキンとヨッフェ物理技術研究所のゲンナジー・コワルツォフがこの説を否定しています。

 紀元773年に増えた炭素14の量は18kgほどですが、この数値から彗星のサイズを割り出すと、直径100kmを下らないという結果になり、そんな巨大な彗星が地球に衝突したのだとしたらクレーターのような証拠が残っているはずですが、クレーターの証拠がない以上、彗星由来説はありえないというのです。

 原因として、星が寿命を終える前に起こす超新星でのガンマ線の大量放出や太陽表面の超巨大爆発スーパーフレア(太陽フレア)による高エネルギー陽子の放出などが考えられますが断定はできません。

https://www.youtube.com/watch?v=j8SG59R65e8

太陽フレアが原因だった場合、775年前後に世界各地でオーロラが見えたに違いないとされます。中国の歴史書『旧唐書』で、オーロラとも思える記述があります。

 「夜 東の方角の月の上の辺り、ぎょしゃ座からふたご座、うみへび座にかけて10あまりのまるで絹のような光沢のある白い光の帯が現れた。」 

 紀元774年に書かれたイギリスの歴史書『アングロサクソン年代記』に、次のような記述があります。「今年は日没後、天に赤い十字架像も見え、マーシア人とケント州の男たちがオットフォードで戦い、不思議な蛇が南サクソンの地に見えた。」

 さらに紀元776年に書かれたドイツ語の文書では、赤く燃えながら教会の上を動く赤色の2枚の盾のようなものについて記されています。

 さらに当時の唐の天体観測の記録もある歴史書『新唐書』にも、次のように記されています。「大暦2年(767年)の7月、太陽の脇に青と赤の気があり、長さが四丈ほど。

 太陽の上に赤い気があり、長さが2丈ほど。9月にも太陽に青と赤の気が、3年正月には太陽に黄色の冠のような気があり、赤と青の気もまわりにあった。」

 『続日本紀』には、神護景雲元年(767年)に「雲本朱に末黄に稍五色を具へつ」、註曰く「天平神護三年(767年)を改めて神護景雲元年とする称徳の詔」という記述があり、6月から7月にかけて各地に朱色や黄色などの雲のようなものが出現したのを受けて改号したようです。

 赤い十字架の像、蛇、動く2枚の盾、赤気や青気、朱色の雲のようなものなどは、太陽フレアによって放出され、それが強い南向き磁場をともなって地球磁気圏に吹きつけた場合に発生する磁気嵐の発生にともない出現した、低緯度オーロラと思われます。

 https://www.youtube.com/watch?v=sBWPCvdv8Bk

https://www.youtube.com/watch?v=fVsONlc3OUY

紀元794年、現在の京都市に平安京遷都が行われた前後の時期、宇佐八幡宮から御神託の話は突如として消えます。

 そして、平城京末期から平安京遷都にかけて、不気味な事件や洪水などの災いが次々と起きます。

 奈良時代末期、まずは第50代垣武天皇の親族が続々と怪死するや巷でもすさまじい疫病が蔓延し多くの人々が死亡しました。

 そのすさまじい有様を見て垣武天皇は恐怖します。

 第49代光仁(こうにん)天皇の皇后(一夫多妻制の複数の妻の最上位の者)であり、第45代聖武天皇の第1皇女でる井上内親王(いのえないしんのう)は、井上の子の他戸(おさべ)を皇太子(皇位継承の第1順位)に立てました。

 国政を担う最高幹部であった藤原百川(ふじわらのももかわ)は山部(やまべ)皇子(のちの桓武)を皇太子にしようと、光仁天皇に井上内親王が天皇を呪い殺そうとしているとうそを密告し、光仁天皇は井上と他戸皇子を捕らえて幽閉し、2人は3年後に同時に死にました。

 百川の思惑とおり、山部皇子が皇太子になり、紀元781年に第50代桓武天皇として即位しました。

 桓武天皇は、本来は即位するはずだった他戸皇子と井上内親王の怨霊の祟りを恐れました。

 さらに、桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40kmの長岡に遷都して造営された長岡京へ都が移されてまもなく桓武天皇の優秀な部下であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてしまいます。

 藤原種継は長岡京遷都の推進派だったため、犯人は遷都反対派の仕業であろうと大伴継人(おおとものつぐひと)、佐伯高成(さえきのたかなり)らと共に桓武天皇の父、光仁天皇の指示で皇太子だった桓武天皇の弟の早良(さわら)親王までもが捕らえられ、早良親王は殺人の罪を否定し無実であると訴えて絶食までし淡路への流罪の途中で衰弱し死んでしまうのです。

 皇太子だった桓武天皇の弟の早良親王が死に、自分の息子が皇太子になりました。

 自分の息子を次の天皇陛下にするために、息子のライバルに殺人の濡れ衣を着せ結果的に殺してしまったのかもしれません。

 桓武天皇の周りの人々が次々に怪死しました。

 桓武天皇の即位に手を貸した藤原百川の娘、桓武天皇の妻の藤原旅子(ふじわらのたびこ)が亡くなったのです。

 翌年には、桓武天皇の生母が亡くなり、また翌年には皇后まで亡くなってしまい息子まで重い病気になりました。

 こうして、桓武天皇の周りの人々が次々に謎の死に巷でもすさまじい疫病が蔓延し多くの人々が死亡し、これらはみな井上内親王・他戸親王・早良親王の怨念が原因ではないかとの噂が広まります。

 そして、桓武天皇は怨霊の祟りを避けるため、それまでの遷都先だった長岡京を短期間に捨て去り、呪い封じの完壁な新しい都への遷都を切望するのです。

 崇りの被害は、旧約聖書に記された契約の箱を勝手に持ち込んだときに起こる怪奇現象と酷似します。

  契約の箱のレプリカ

 元宇佐の1つの年毛(としも)神社の関係者の証言によれば、宇佐八幡宮の「本神輿=契約の箱」をモデルに、その昔に宇佐八幡宮に八幡宮の神官が集結し数多くのレプリカを作り、レプリカをほかの八幡宮の神輿としたといいます。

 八幡宮の神官たちが、契約の箱のレプリカを作ったのが神輿の起源です。

 全国の八幡宮が同じようにレプリカを作り、それを見た人々がまた己の神社の神輿を作りました。

 その過程で、八幡宮以外の神社でも、神輿を作るようになりました。

 原始キリスト教徒である秦氏たちは、契約の箱を思い出して神輿を作ったのです。

 レプリカを作ったおかげで、日本中が契約の箱だらけとなったのです。

 また「ミコシ」は、エルサレム教団が使用していたアラム語で「聖所」を意味する「ミコダシュ」が訛ったのかもしれません。    

 神輿を担ぐ風習は、世界に日本とイスラエルの2つしかありません。

 神輿の上には鳳凰がいます。鳳凰は、本来2対いました。 2対の鳳凰は、鳳が雄、凰が雌です。 契約の箱の上にも翼を広げた2対のケルビムがいます。 ケルビムとは、天上の生き物の象徴です。正確な姿は知られていません。ケルビムは神聖な場所を守る召しを与えられています。

 本殿のうちにオリブの木をもって二つのケルビムを造った。その高さはおのおの十キュビト。そのケルブの一つの翼の長さは五キュビト、またそのケルブの他の翼の長さも五キュビトであった。一つの翼の端から他の翼の端までは十キュビトあった。

 他のケルブも十キュビトであって、二つのケルビムは同じ寸法、同じ形であった。

 このケルブの高さは十キュビト、かのケルブの高さも同じであった。

 ソロモンは宮のうちの奥にケルビムをすえた。ケルビムの翼を伸ばしたところ、このケルブの翼はこの壁に達し、かのケルブの翼はかの壁に達し、他の二つの翼は宮の中で互に触れ合った。彼は金をもってそのケルビムをおおった。 (列王上 6:23-28)

 契約の箱は全体を金でおおいますが、日本の神輿も全体か部分的に金でおおいます。

 四国の香川県にある寺には、神輿行列を描いた古い絵が伝わっています。

 そこには、白い服を着た神官たちが担ぐ神輿が描いてあるのですが、1羽の鳳凰ではなく2体一対のケルビムがあり「契約の箱」そのものです。

 また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。

 すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。

 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。

 そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。

 さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。 (出エジプト 25:12-15)

 イスラエル人は棒を通して契約の箱を担ぎます。日本人も同じように棒を通して神輿を担ぎます。担ぐための2本の棒は絶対に契約の箱から抜いてはならなかったように、神輿の棒も抜かれることはありません。祭りが終わったのちも棒を差し込んだまま保管されます。 

https://www.youtube.com/watch?v=mgS5I2UrW74

契約の箱が移動する場合、人々は大いに騒ぎ踊りました。日本人も祭りのときに神輿の前で同じように歌い踊ります。 これが祭の際に演奏される音楽神輿での「祭囃子」です。

 日本では笛や太鼓を奏でますが、イスラエルでも同様でした。

そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。 その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。 (サムエル下 6:14-15)

 こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、立琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。 (歴上 15:28)

 かき上がったとは、担ぎ運び上げたという意味です。ここでダビデ王は人々とともに契約の箱の前で楽器の演奏とともに歌い踊っています。

 そして、神輿祭りの中には、川にかかった橋の真ん中で立ち止まったり、川や海の中に入ってしまう「神輿洗い」があります。これは、ヨルダン川を渡るヨシュアと契約の箱を記念しています。

 九州では契約の箱は八幡神として表現されていましたが、畿内に入ってから天照大神として表現されました。奈良時代末期に、秦氏が契約の箱を畿内に持ち込んだのです。

 エルサレムを出発した契約の箱は、中国から朝鮮をへて九州へ上陸し瀬戸内海を通って畿内へ入り、そこから各地を転々として伊勢にやって来たのです。 

 そして、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に鎮座しているのです。

 元伊勢から伊勢神宮まで契約の箱を守ってきたのは、原始キリスト教徒の秦氏です。

 現在、これらの比定地には神社が存在し、伊勢神宮の神の天照大神=イエス・キリストが一時的にしろまつられたので「元伊勢」とよばれています。

  元伊勢伝説 

 第10代崇神天皇=初代神武天皇のころに全国に疫病が大流行し国民の約半分が死亡しました。農民をやめ体制に反逆する者が続出し、まれに見る政情不安が起こりました。

 崇神天皇は、天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまかみ)の2人の神を皇居の中でまつっていました。倭大国魂神は、地上に住む国の地霊で勝手に作ったものを神としてしまったのです。

 政府は何とか天下が乱れるのを防こうとしたのですが不安は一向に収まりません。天照大神の霊力が強すぎたと判断した崇神天皇は、天照大神の神器の契約の箱を皇女「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」に託しました。豊鍬入姫は自ら天照大神の巫女として奉仕し、大和の「笠縫邑(かさぬいむら)」に契約の箱をまつりました。

  元伊勢

 しかし、それでもまだ、天下が乱れる原因とした荒らぶる天照大神の影響力は静まりません。仕方なく豊鍬入姫は天照大神に仕え、契約の箱とともに大和を離れます。

 最初に彼女が向かったのは、但波国(丹波国)、丹後半島の付け根辺りに腰を下ろし、天照大神をまつる「吉佐宮」を建立しました。

 しかし、それも長くは続かず再び大和へ戻ると、いくつかの箇所を回りその間21年にもおよぶ大巡幸となったのです。

 年老いた豊鍬入姫に代わって、「倭姫命(やまとひめのみこと)」が契約の箱とともに移動します。 大和国の宇太秋宮(うたのあきのみや)から佐佐波多宮(ささはたのみや)、そこから伊賀国、近江国(おうみのくに)淡海国(おうみのくに)、美濃国、尾張国、伊勢国にいたります。 

 伊勢国でもいくつか転々とし、最後、五十鈴川のほとりにやって来たときに天照大神がこう啓示します。「この伊勢は、常世の波が寄せる誠に美しい所。大和のかたわらにあり好ましい地である。ゆえにこの国に鎮座したい」 こうして天照大神は、最終的に今の伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に鎮座されました。 

 「五十鈴(いすず)」は、「イエス」の古代ギリシャ語では、イエースースに似ています。

 実に26か所、倭姫命が訪れたという志摩国の伊雑宮(いざわのみや)を含めると、27か所も鎮座の場を求めてさまよったことになります。

 『日本書紀』によれば、元伊勢第1は大和地方の「笠縫邑(かさぬいむら)」です。

 奈良盆地一帯に笠縫邑がありましたが、笠縫邑、もしくは笠縫村なる地名が見当たらないので具体的にどこかは分かりません。

 間接的な証拠ではあるが、確かに笠縫邑につながる伝説をもつ神社がいくつか存在します。

 中でも学者の間で有力視されているのは、笠縫神社、多神社、巻向山の穴師坐大兵主(あなしにいますおおひょうず)神社、大神(おおみや)神杜、もしくは摂社の檜原(ひばら)神社です。

 笠縫神社は笠縫邑の「笠縫」を冠し、地元の伝承でも古来より笠縫邑と称して来ました。

 笠縫神社は現在、秦楽(じんらく)寺という秦氏の創建したお寺の境内にあります。

 秦楽寺一帯は古くから秦氏の拠点だった所で地名も秦庄といいます。

 多神社は、豪族「多氏」がまつる神社です。

 主祭神は『古事記』を執筆したとされる太安万侶(おおのやすまろ)です。

 太安万侶は「太氏」と名乗っていますが、元は「多氏」です。

 『多氏古事記』という『古事記』が存在していて『多氏古事記』が『古事記』のもとになったとも考えられています。

 この多神社は笠縫邑1の笠縫神社からさほど遠くありません。

 多神社に付属し、その支配を受ける小神社(摂末社)ということで、笠縫神社の横には春日神社の祠もあります。

 多神社と笠縫神社の関係は、そのまま多氏と秦氏の関係でもあります。

 秦氏の中には、多氏と名乗った者が存在します。

 記紀によれば、多氏は神武天皇の息子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の末裔と称します。

 「大、巨、多、衆」を古代朝鮮語に意訳すると「ハタ」になるといいます。

 秦氏の「ハタ」は、まさに「偉大」の意味でのハタで、本来の意味での漢字「多」を当てたのが多氏なのだといいます。多氏は秦氏の支族なのです。

 穴師坐大兵主神社については、その祭神「兵主神(ひょうずかみ)」とは渡来系で中国道教の神。

 徐福村があった山東半島の赤山法華院(せきざんほっけいん)が総本山ですが、それを開いたのは張保皐(ちょうほこう)という人物で、秦氏と同じ新羅の人間です。

 そのせいか、日本では秦氏が兵主神をまつるケースが多いです。

 事実、穴師坐大兵主神社がある巻向山の別名を「弓月嶽(ゆつきがたけ)」といい、秦氏を率いてきた弓月君の名を冠しています。

 大神(おおみわ)神社と檜原神社は、いずれも三ツ鳥居があります。  三ツ鳥居は三柱鳥居の変形です。      

 秦氏の本拠地、京都の「太秦(うずまさ)」には秦氏創建の広隆寺がありますが、広隆寺はもともと「太秦寺」とよばれていました。

 イエス・キリストやエルサレム教団が日常的に使っていた言語は主にアラム語です。

 アラム語でイエス・キリストは「イシュ・メシャ」と発音します。

 ところが、アラム語は、メソポタミアからオリエント一帯に広く使われていた言葉であるため、地方による設りが非常に強いです。 

 東へ行くと、「イズ・マシ」とか、「イザ・マサ」などと発音されます。

 さらに東へ移動してインド北部辺りまで来ると、「ユズ・マサ」などと発音されるようになります。

 エルサレム教団が東へと移動して行ったならその過程で言語が訛って行ったはずで、「イエス・キリスト」「イシュ・メシャ」も、いつの間にか「ユズ・マサ」「ウズ・マサ」と転訛して行ったのです。

 「ウズ・マサ」=「イエス・キリスト」です。

 秦氏は、首長を示す「太秦」を「大秦」とも表記していたことが記録的にも確かめられています。

 「大秦」は、中国における「古代ローマ帝国」の呼び名です。

 当時は、ユダヤの地はローマ帝国の属国でした。

 「大秦」を漢字破字法なる手段で分解すると意味を読み取れます。

 「大秦」を漢字破字法なる手段で分解してみると、「大=一・人・ノ」「秦=三・人・ノ・木」となり、それを漢文読みで合わせてみると「三人の木の一人」となります。

 太秦にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は、呉服屋の三井家によって崇拝されているところから、地元では「蚕の社」として知られています。

 この「蚕の社」は、秦氏によって創建され「三柱鳥居」があります。

 三柱鳥居は、ユダヤ密教(カバラ)の命の木の象徴図形を表しています。

 当時、日本に建てられたいくつかの三柱鳥居の場所は、秦氏が東に移動したルートにあります。 

 三柱鳥居の建っていた場所には、かつて水が湧き出ていました。

 ここを「元糺の池」といい「元糾の森」がこの神社一帯に広がっています。

 第52代嵯峨(さが)天皇の時代(紀元809年‐823年)に下鴨神社に糺の森を移してからは、こちらは元糺の森といわれます。

 元糺の池は、鳥居の中央より清水が湧き出す池で「糺す」は罪の有無を追及することであり、池で罪が赦される儀式を行っていました。

 つまり、かつて蚕の社の「元糺の池」では、バプテスマが行われていました。   

 イエス・キリストを信じる信仰をもち、悔い改めてバプテスマを受けるときに、罪はイエス・キリストの贖罪により赦されます。

 権能をもつ人が執行する、水に沈めるバプテスマは、福音の第一の救いの儀式であり、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になって永遠の救いを得るために必要なものです。

 永遠の命を得たいと願うすべての人々は、救い主の模範に倣ってバプテスマを受け、聖霊の賜物を受けなければなりません。

 バプテスマを受ける人は、イエス・キリストの御名を受け、主の戒めを守り、最後まで主に仕えるという聖約を神と交わします。(モーサヤ 18:8-10、教義 20:37参照)

 教会員は聖餐を受けるたびにこの聖約を更新します。(教義 20:77-79参照)

 バプテスマのときに交わした聖約を守るときに、主は教会員の忠実さに対して祝福を与えてくださいます。

 教会員に与えられる祝福の中に、聖霊を常に伴侶とすること、罪が赦されること、そして霊的再生の特権にあずかることがあります。 続けて忠実であれば、永遠の命を受けると約束されています。(2ニフ 31:19-20参照)   

 救いの計画を理解しバプテスマを受けた教会員が生涯を通じて、主に従い聖霊の影響力を受け、神のように成長する改心をするために、悔い改めを続け聖餐を受け奉仕するために、教会に活発に集う決意をしてそれを守るように定着する必要があります。

 確かに決意した人は、決意したことを本気で実行します。

 自分は変わるという、まじめな決意をします。

 救いの計画を理解し大切にして忘れないなら、神の道を歩む人生を神の立場と永遠の観点で見ることができるでしょう。

 観点とは物事をある距離から見たときの見え方であり、物事の本当の意義を理解させてくれます。

  救いの計画

  福音 

  イエス・キリストの福音 L・トム・ペリー長老 十二使徒定員会

 天の御父は私たちが御自身のようになれるように、計画を備えてくださいました。

 この計画のおかげで、私たちは贖いを通して完全な者となって、満ちみちる喜びを得、永遠に生きることができるようになりました。

 リーハイは「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」と宣言しました。(2ニフ 2:25)

 最も偉大な喜びは、永遠の命です。

 主は「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である(モーセ 1:39)」と宣言されました。

 ブリガム・ヤング大管長は、こう説いています。

 「現世に私たちが存在しているのは、父なる神のもとに戻って昇栄するという唯一の目的のためだけである。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.37)

 預言者ジョセフ・スミスは、次のように述べています。

 「幸福は、私たちが存在する目的であり、計画である。

 また、そこへと続く道を歩み続けるならば、私たちの存在理由となる。

 この道は、徳、高潔さ、忠実さ、神聖さ、そして神のすべての戒めを守ることである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith p.255-256)

 救いの計画を理解するとき、私たちは永遠の観点を得て、聖さ、神のすべての戒めや儀式、聖約、そして試練を尊ぶことができます。

 ボイド・K・パッカー長老は、こう述べています。

 「福音の計画の知識がなければ、罪は自然で無邪気であり、正当化さえできるものであるように思われます。

 真理を知る、つまりこの計画を知ること以上に、私たちを敵から守ってくれる強力な保護はありません。」 (Our Father’s Plan 1994年 p.27)

 主にとっては、私たちの楽しい時間よりも私たちが正しく苦しんで成長する幸福のほうが大事です。

 楽しい人生を送りたいだけの人々もいます。

 このような目標を第一にする人々は、一時的な快楽に気を取られて永続的な幸福に注意が向かなくなります。

 霊的成長、奉仕、勤勉からもたらされる尽きることのない喜びを自ら奪い取ってしまうのです。

 この喜びは、感覚や脳内だけのものではなく、義にかなった生活から得られる非常に幸せな状態です。

 幸福になろうと努力するときに、真の幸福にいたる唯一の道は福音に従った生活を送ることだということを覚えておいてください。

 戒めを守り、強くなれるよう祈り求め、罪を悔い改め、健全な活動に参加し、有意義な奉仕を行おうと努力するときに、安らかで永遠に続く幸福を見いだすことでしょう。

  山上の垂訓 1/3~3/3

 ハロルド・B・リー大管長は、こう述べています。

 「あの比類ない山上の垂訓の中で、イエスは……喜び……を受けるための8つの明確な方法を、私たちに示してくださった。

 主が宣言されたこれらの教えは……八福の教え……とよばれ、これまでかずかずの聖書注釈者によって、天の王国へ入るのに必要な備えとして述べられてきた。……

 事実、この八福の教えは完全な生活への基本憲章を具体的に表現したものである。」 (Decisions for Successful Living 1973年 p.56-57)

 幸いである(blessed)という言葉で表現される喜びは、単なる幸福(happiness)以上のものです。

 幸福は外部からもたらされ、しかも状況に左右されますが、幸い(blessed)は人間の心の中で喜びの泉となるものであり、外的状況が重大な影響をおよぼすことはないのです。

 ジェームズ・E・タルメージ長老は、こう教えています。

 「この中に含まれている祝福と幸福とは、死後において初めて完全に実現することは明らかである。

 しかし、正しい生活をしているという自覚から生じる喜びは、この世においても豊かな報いになる。

 真に祝福された状態について説明しているこのすばらしい教えの大切な点は、快楽と幸福との違いを示していることである。

 単なる快楽はいくらよく見てもつかの間のはかないものであるが、幸福はそれを思い出すたびに喜びがまた新しく感じられるのでいつまでも存続する。

 最上の幸福はこの世で得られるものではない。

 約束された『満ちみちる喜び』は、死と復活ののちに得られるものである。……

 この『至福の教え』には、まだ未来に属するいっそうすばらしい世界に入る備えとして、この世でなさねばならないいろいろなことが示されている。

 主イエスがこの説教の中で2度言われた天国の中にこそ、まことの宝と変わることのない幸福が存在するのである。

 この天国こそ、このすばらしい説教のすべてを含む主題であって、この国へたっして、そこで永遠の国の民となる栄光を得る手段を与えることこそ、この体系的な教えの意図するところである。」 (『キリスト・イエス』 p.228-229)

 私たちは、単なる望みと聖約の間には大きな違いがあることを忘れないようにしましょう。

 ただ単に何かを望んでいるだけの場合、その達成に向かって努力するのは、都合の良いときだけということになるでしょう。

 しかし、バプテスマをはじめとする聖約のもとに置かれている場合には、従順を通してすべての障害を忍耐し克服することを学んで、幸福に成長しているのです。

 末日聖徒イエス・キリスト教会の末日とはイエス・キリストの再臨の直前の終わりの時という意味で、イエス・キリストが認める、この地上で唯一真の正統なイエス・キリストの教会です。

 末日聖徒イエス・キリスト教会は、イエス・キリストが頭であり預言者がいて、神権によって支えられ、聖霊によって導かれるイエス・キリストの救いを得させるために、忠実になろうと努める人々が愛し助け合う、この地上で唯一真の神の教会なのです。

  バプテスマの聖約――王国にあって王国のものとなる ロバート・D・ヘイルズ 十二使徒定員会会員  

  これからバプテスマを受けます

 四角形の人造池には石段があり下に降りて全身を水に沈めるバプテスマをするようになっていたのです。

 実はこのようなバプテスマフォント(バプテスマの浸礼盤)は、蚕の社の元糺の池、下賀茂神社の糺の池、宇佐神宮の若宮の前など多くの所で見られます。 

 宇佐八幡宮では、八幡神の使いを鳩としています。

 イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。

 そして、ヨハネが天を見ると、見よ、天が開かれ、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来るのが見えた。

 また天からの声を聞いた。

 「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。彼に聞きなさい。」 (マタイ 3:16-17)

 これを思わせる出来事として宇佐神宮の託宣集である『宇佐神宮宣託集』には、八幡神が童子の姿になる直前、金色の鳩となって降りてきた伝説もあります。

 そして、宇佐神宮の社伝には興味深い記述があります。

 「欽明天皇32年(紀元571年)2月初卯の日、池の笹の上に光り輝く3歳の童子が現れた。

 そのとき、童子は、『我は第16代(誉田天皇広幡麿ほむだすめらみことひろはたまろ)なり。

 我をば護国霊験威力神通力大自在菩薩と申す』と託宣したが、すると童子は黄金の鷹となり、駅館川東岸の松の木に止まった」

 要約すれば、池の笹の上に現われた3歳の童子が自ら「応神天皇」=「八幡神」であると告げ、黄金の鷹となり松の木に止まったという伝説です。

 「第16代誉田天皇広幡麿」とは、「誉田天皇」の諡号をもつ「応神天皇」です。

 応神天皇は第15代とされていますが、ここでは第16代となっています。

 ここでの「池」は、大分県にある八幡宮の「薦(こも)神社の薦池」です。

 この「薦池」は、別名があり「三角池(みすみいけ)」だといいます。

 3歳の童子の姿とは、罪のない幼子の姿で現われることでバプテスマによって罪が洗い流され再び生まれたことを象徴しています。

 子供は罪のない無垢むくな状態で生まれて来ます。

 サタンは、子供が責任を負えるようになるまでは、彼らを誘惑する力をもちません。(教義 29:46-47参照)

 したがって、幼児は悔い改めやバプテスマの必要がありません。

 子供は8歳でバプテスマを受けるべきです。 (教義 68:25-27)

  幼児のバプテスマ

  【必読】 仏教解明 1/4~4/4

 元伊勢1の笠縫邑が設置されたとき、まだ国は荒れていました。

 悩む崇神天皇の夢に、大物主神が現れ、「自分を子孫であ「大田田根子にまつらせよ。そうすれば災いは収まる」と言いました。

 そこで、天皇は人を派遣し、大田田根子なる人物を見つけます。

 そこで、さっそくお告げにあったとおり、大田田根子を神主として大物主神をまつらせると崇りは鎮まり世に平安が戻りました。

 これが大神神社の由来です。

 大田田根子(『古事記』は意富多多泥古)の名前は、姓と名が分かりません。

 考えるに「大田田・根子」「大田・田根子」「大・田田根子」の3とおりがあります。

 まず、最初の大田田・根子の「根子」とは、第6~9代の古代天皇に「倭根子(やまとねこ)」とあるように、大王級の呼称です。

 大田・田根子は、現在でも大田さんは普通にある姓です。

 しかし、学界で最も有力視されているのは、大・田田根子です。

 田田根子とは奇妙な名前ですが、姓は「大氏」です。

 『古事記』では大田田根子を「意富多多泥古」と記します。

 『古事記』は多氏を「意富氏」と表記します。

 つまり「大=意富=多」で、大氏は多氏。

 大田田根子は多氏で秦氏だったことになります。

 大田根根子が秦氏で、大神神社を創建しました。

 大神神社の摂社(祭神と縁故の深い神をまつった神社)が檜原神社で秦氏が関与しています。海部氏は「根子」の言葉を重要視しています。

 海部氏の祖先の徐福集団は、アケメネス朝ペルシャにいた東ユダヤ人です。

  5 秦朝のユダヤ人 1/2~2/2

 ペルシャ語には、「neko (ネコ)」という語があり、意味は「善」です。

 元伊勢1の笠縫邑の有力候補1~4は、すべて秦氏が関係した神社です。

 元伊勢1の笠縫邑は、笠縫神社でしょう。

 そして、荒らぶる御魂、天照大神、つまり「契約の箱」は、33年間滞在した笠縫邑を出発し北方の海部氏の丹波へと向かいました。

 元伊勢2は吉佐宮(よさのみや)は「籠神社」です。 

 元伊勢3は伊豆加志本宮(いつかしのもとのみや)。

 専門家は、これを元伊勢1号笠縫邑と同一ではないかと見ています。

 元伊勢4の奈久佐浜宮(なぐさはまのみや)は紀伊国です。

 有力な比定地としてあげられているのが、和歌山県の日前(ひのくま)神宮と国懸(ひのかかす)神宮です。

 ちょうど伊勢神宮の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)のように、両神宮は2つで一組になっています。

 この辺りには、秦氏がいました。

 大神神社の大田田根子。

 大田田根子を「大田・田根子」と分解すると、多氏=大氏から派生して、大田氏と言う姓ができたとも考えられます。

 秦氏が住んでいた近所には、大田(太田)の地名があります。

 紀伊の大田村は、現在、和歌山市太田になっており、隣に日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)が1つの境内にあります。

 日前神宮は日像鏡、国懸神宮は日矛鏡をまつります。

 日矛とは、「天之日矛(アメノヒボコ)」と思われます。

 元伊勢5は吉備です。

 吉備国といえば、桃太郎の故郷です。

 地元の伝説や『日本書紀』によると、第10代崇神天皇は吉備国を平定するため、吉備津彦を派遣し地元の物部氏の温羅(うら)を討ち、この地を治めました。

 すなわち、吉備津彦が桃太郎、温羅が鬼となったのです。

 現代の桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがあります。

 ただし物語後半にある鬼との戦いの場面では、桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっています。

 桃太郎の出生に関しては、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合があり、のちに子供に性的な話はできないので、桃から生まれたとしたとされています。

 

 成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立ちますが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などにいわれて消極的に行う場合とがあります。

 出征時には両親から吉備団子をもらい、道中、遭遇するイヌ、サル、キジにそのキビ団子を分け与えて家来にします。

 鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利を収め鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さんとお婆さんのもとに帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられます。       

 桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からです。

 それまでは戦装束などしておらず、動物たちも道連れであって上下関係などはありません。

 明治の国家体制にともない、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされたとも考えられます。

 吉備津彦が桃太郎、温羅が鬼となったのですが、なぜ吉備津神社縁起を書いた人が温羅の名をつけたのでしょうか。

 一番有力な説は、物部氏の渡来(天降り)の際、船頭、梶取、舟子にマウラ、ウラと付く名前をもつ人物がおり、そこから物部氏は製鉄・鍛冶に関する部族といわれています。 

 温羅は、縁起の作者には物部氏と同系統の人という認識があったのです。 

 吉備の製鉄・鍛冶部族はスサノオ命を祖神とまつる一族であり、この点でも物部氏と共通です。

 『万葉集』『日本書紀』『古事記』の時代には、「鬼(オニ)」の言葉が存在しません。

 「鬼」の漢字はありますが、「オニ」とは読まないのです。

 『万葉集』の「鬼」の表記は15例もありますが、「もの」と読む例は11例、「しこ」と読む例は4例です。

 「おに」という読み方が一例もないことからも、『日本書紀』の「鬼」表記は「もの」もしくは「しこ」と読みます。

 『古事記』には「鬼」表記はありません。

 『古事記』の「もの」の漢字表記は「物」です。

 『古事記』の「者」表記を「もの」と読む人もいますが、平安時代初期までは「ひと」と読んでいたので、『古事記』の「者」も「ひと」と読むべきです。

 「オニ」の言葉自体は、「隠」「陰」から変化した言葉で、ユダヤ密教(カバラ)が基になっている陰陽師の安倍晴明が活躍したころに広まり始めたというのが定説になっています。

 「鬼」は、物部氏の「もの」と読んだのです。

 「桃」は桃源郷から導かれます。

 そして、桃源郷はアルザルのことも表していると思われます。

  行方の知れない10部族と月の住人 1/3

 アルザルの空は、ピンク色の上層大気がオーロラのようにプラズマが光っています。 

 『桃花源記』での漁師が迷いこんだ、いつもは存在しない桃だけの林とは、ピンク色のプラズマのことでしょう。

 『桃花源記』では林の尽きる水源の奥の洞窟をとおりぬけると、そこには秦の戦乱などを避けてこの地に隠れ住んだ人々の末裔が数百年にわたって世の中の推移も知らず、平和な別天地での生活を営んでいたとされています。 

 これはアルザルに秦にいた東ユダヤ人のユダヤ教徒が、アルザルにも移住していたことを記したのか、日本に来て移住したことを混ぜて、物語を作ったのかもしれません。

 紀元前3世紀末ごろ、秦にいた東ユダヤ人が秦人として、馬韓がある朝鮮半島に流入してきました。

 のちに秦人は集団で日本に渡来し、原始キリスト教徒となったので秦氏と名乗ります。 

 そして、桃太郎の物語は物部氏に対する秦氏の政略もあり、旧勢力を封じ込める意味も含まれている物語です。桃太郎は、聖徒なのです。

         鬼門

 ユダヤ密教(カバラ)が基である陰陽道では、桃太郎は「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する動物(申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ)を率いた、という解釈があります。

 しかし、丑と寅(艮・ウシトラ)の逆の方位に当たるのは、未(ヒツジ)と申(サル)であり、申、酉、戌ではなく、この解釈には多少無理があるため、率いている動物には別の意味があるともされます。

 陰陽五行思想では、桃、申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ)はどれも金を意味します。

 徐福も理解していた「道教」の根幹はユダヤ密教(カバラ)であり、秦の時代には陰陽五行思想もありました。

 「陰陽五行思想」とは、陰陽説と五行説が合わさった教えのことです。

 「陰陽説」は森羅万象のすべての状態において、能動・攻撃・昂進の「陽」と、受動・防衛・沈静の「陰」のバランスで成り立つ思想です。

 それは、すべての事物には反対のものがなければならないからである。

 荒れ野で最初に生まれた息子よ、もし事物に反対のものがなければ、義は生じ得ないし、邪悪も、聖さも惨めな状態も、善も悪も生じ得ない。

 そうすると、すべての事物は混じり合って一つとならざるを得ない。

 したがって、事物が一体となるならば、生も死も、朽ちる状態も朽ちない状態もなく、幸不幸も、意識も無意識もなく、死んだ状態で続かなければならない。

 そうすると、すべての事物は無用に造られたということになり、したがって、創造には何も目的がなかったことになる。

 そのため、この一体となった事物は神の知恵とその永遠の目的、また神の力と憐れみと公正を滅ぼしてしまうに違いない。 (2ニフ 2:11-12)

 「五行説」は、万物を成り立たせる5つの様態のことです。

 五行は「木・火・土・金・水」といい、「五行疎剋(相克)説」では、木は土を押し分けるので土に勝ち、土は水を塞き止めるので水に勝ち、水は火を消すので火に勝ち、火は金を溶かすので金に勝ち、金は木を燃やして抽出されるので木に勝つ相関系を形成します。

 「五行相性説」では、木は火を生み出し、火は木々を燃やして土を作り、土は土中から金を産出し、金は溶けて水を生み出し、水は木を育てるとなります。

 五行説に「五色」が加わると「五行五色」となります。

 「五行五色」は東西南北を示す色で、東は青、西は白、南は赤、北は黒で示します。

 「金」は方角では「西」を表します。

 神武(応神)天皇は東征しました、

 つまり、先住民の物部氏やアイヌは九州から東北にいたのです。

 そのために、鬼は丑と寅の間の方角(北東)である鬼門からやって来ると考えられたため、鬼の容姿は牛の角を生やし虎の皮の服を着ています。

 地元では英雄の吉備津彦を「吉備津神社」にまつっています。

 創建の詳細は明らかではないですが、伝説では吉備津彦の5世の孫、加夜臣奈留美(かやのおみなるみ)命が祖先のために社殿を建てたことになっています。

 この加夜臣奈留美命、頭に「加夜」の名称を戴いています。

 これは明らかに「伽耶」を示しています。

 秦氏は、日本に渡来する前に新羅から移動して伽耶にとどまっていました。

 吉備国には賀陽(かや)など伽耶に通じる地名が多く、吉備津神社の宮司も賀陽氏が務めていました。

 吉備津神社縁起物語によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)の三人の家来とともに、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅(うら)を倒したとされています。

 この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣= 雉」となるとする説があります。

 

 吉備国を発った契約の箱天は、今度は一気に東へ大和国へとやって来ます。

 元伊勢6の御室嶺上宮(みむろのみねのうえのみや)の「御室」とは「御室山」と呼ばれた三輪山でその頂上に宮を造ったのです。

 三輪山は大神神社の御神体で、秦氏の大田田根子をまつっています。

 元伊勢7の宇多秋宮(うたのあきのみや)、元伊勢8の佐佐波多宮(ささはたのみや)は、共に奈良県宇陀(うだ)郡にあります。

 佐佐波多の波多」は、『新撰姓氏録』にあるように秦氏のハタです。

 そして、東の伊賀国へ行き、元伊勢9の市守宮(いちもりのみや)、元伊勢10の穴穂宮(あなほのみや)、元伊勢11の敢都美恵宮(あえとみえのみや)が建てられました。

           伊賀忍者

 伊賀は忍者の里で、古来より、伊賀三上忍といえば、服部半蔵保長(はっとりはんぞうやすなが)、百地丹波(ももちたんば)、藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)です。

 これに加えて、歌舞伎でも有名な石川五右衛門(いしかわごえもん)。

 彼らは伊賀服部氏です。

 服部氏には大きく2つの流れがあり、それぞれ呉服(くれはとり)氏と漢服(あやはとり)氏です。

 呉(くれ)とは句麗で高句麗のことで、漢(あや)とは伽耶諸国の1つ安耶(あや)のことです。

 伊賀服部氏の由来について記した『伊乱記』には、こんな一文があります。

 「しかれば、服部氏の祖は酒ノ君なり」。

 「酒ノ君」とは、秦氏の首長にして秦河勝の先祖「秦酒公」です。

 服部氏は秦氏です。

 服部とは服飾を職業とする一族で、機織りが「ハットリ」の語源になったと考えられています。

 服部をハタのトリベと解釈すると、トリベはラテン語(古代ローマの公用語)で部族を意味します。

 秦氏はローマの属国ユダヤからやって来た原始キリスト教徒です。

 忍者には「上忍」「中忍」「下忍」があり、スパイ活動をしていました。

 忍者は、国の情報を集め権力者を監視する目的で、聖徳太子(秦河勝)が組織した「志能備(しのび)」が起源です。

 次に契約の箱は、琵琶湖へ行きます。

 元伊勢12の甲可日雲宮(こうかひぐものみや)、元伊勢13の坂田宮(かたのみや)は、近江国にありました。

 いずれも琵琶湖の東岸に位置し秦氏が多くいます。

 元伊勢14の伊久良河宮(いくらがわのみや)は美濃国、15中嶋宮は尾張国です。

 ここも、秦氏が多く奈良時代の戸籍台帳(702年)が残っていて、そこに記された家の半分以上が秦家です。

 尾張をすぎると、契約の箱は伊勢国へとやって来きます。

 元伊勢17の奈其波志忍山宮(なごわしのおしのやまのみや)だけは鈴鹿国ですが、少しだけ山間に寄っただけで、大きく見れば伊勢国の範疇です。

 元伊勢16の桑名野代宮(くわなののしろのみや)から元伊勢26の五十鈴宮=伊勢神宮の内宮、そして27伊雑宮(いざわのみや)にいたるまで、以後は伊勢国の中で動いています。 

 元伊勢は、原始キリスト教徒の秦氏の証と契約の箱による伝道によって、旧約の信仰から新約の信仰に改宗し神社(神殿)も更新しました。

 一方、伊勢神宮の外宮の豊受大神(ヤハウェ)が現在の地に来たのは、第21代雄略天皇の時代です。

 元伊勢でもある籠神社である吉佐宮から直接来ました。

 籠神社は、最も古い神社で旧約の物部神道の要です。

 そこから直接、豊受大神(ヤハウェ)が伊勢神宮に来るということは、旧約の物部神道が秦氏の新約の神道に変わっていくように全国の物部氏の神社に示したのです。

 このようにして、契約の箱は伊勢神宮に落ち付きますが、それも第40代天武天皇の時代までで、結局は20年に1度は動くこととなります。

      式年遷宮

 伊勢神宮では、20年毎に内宮、外宮の正殿などの正宮・別宮のすべての社殿と鳥居を建て替え、御装束・神宝も造り替え神体を移します。

 このことを神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)といいます。

 神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)のことです。

 伊勢神宮では、原則として20年ごとに行われます。

 2013年10月には正遷宮(神体の渡御)が行われました。

 伊勢神宮とは、内宮に天照大神、外宮に豊受大神をまつり、別宮や摂社、末社、所管社を含めると全部で125の社からなっています。

 すべての社が新品の材料を基に新築し、それまでの古い社殿は解体し破棄されます。

 新築するといっても杜殿が古くなりガタがきているわけではありません。

 事実、解体された材木はほかの神社の資材として再利用されているほどなのに、あえて建て替えるのです。

 現在、世界中を見渡して一国の神殿が移動を繰り返しているのは日本だけです。

 かつて荒れ野を移動していた幕屋は契約の箱とともに、ソロモン神殿が建設されるまでは移動していて、一か所に安置されていた時間は最高で20年です。

 ベテシメシの人々は、契約の箱をキリアテ・ヤリムに届け、そこで人々はアビナダブの家に運びました。

 以後、20年にわたって契約の箱は、アビナダブの家に置かれることになるのです。

 キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。

 その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。

 イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。 (サムエル上 7:1-2) 

  8 天照大神の正体

 歴史書『保暦間記』には以下の記述が残されています。

 平氏との戦いに勝利したのちに都に戻った源氏の武士たちが皇居の内侍所に入ったとき、そこにあった「辛櫃」に手をかけ蓋を取った瞬間、侍たちの両眼と口から鮮血が噴出しました。

 辛櫃の「辛」の字は、「十」を十字架とみなせば、そこに「立つ」ということは、そのまま十字架にかけられることを意味します。

  漢字の真相

 「辛」を「十干」でいう「カノト」と読めば、十干の甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の8番目で、陰陽五行思想では「庚」と「辛」に五行の「金」を配します。

 つまり「金」を「カネ」と読もうと「キン」と読もうと、「辛櫃」は「金櫃」となり、「黄金色の櫃」を表し黄金の契約の箱のことになるのです。

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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