https://note.com/okumansama_2023/n/nd548710603eb 【登彌神社と生駒市のニギハヤヒの墓】より
矢田坐久志玉比古神社から富雄川を越えて東に行った場所、奈良市石木町(いしきちょう)648ー1に登彌(とみ)神社があります。この神社では毎年2月23日に筒粥(粥占い)神事が行われます。
春日造の本殿が2棟あり、東本殿には高皇産霊神と誉田別命、西本殿には神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋根命が祀られています。かつては木嶋(このしま)大明神や鳥見明神と呼ばれました。現在は奈良市ですがかつては生駒郡木嶋(このしま)村でした。京都の太秦にある「蚕の社」は正式には「木嶋坐天照御魂神社」と言いますが関係はなさそうです。
社伝によると、神武4年春2月23日に神武天皇がこの場所で皇祖大神(アマテラス)を祀ったことに始まり、その後、登美連が祖先のニギハヤヒの住居地(白庭山)であるこの地にニギハヤヒとミカシキヤヒメを祀って創建したということです。神武がここで皇祖神を祀ったのは、ナガスネヒコを滅ぼして4年たって戦後処理も一段落したのでニギハヤヒが住んでいたこの場所で先祖に感謝をしたということでしょう。
登彌神社は、近鉄、JR奈良駅から「奈良県総合医療センター」行きバスで終点下車徒歩10分。薬師寺の西、薬師寺と久志玉比古神社の中間にあります。
ニギハヤヒが住んだという白庭山の伝承地は矢田にもありますが、生駒市にもあります。そしてお墓もあります。
ニギハヤヒは伝承記録によると、亡くなった後に天に届けられて七日七夜の葬儀が行われたとか、妻のミカシキヤヒメがウマシマヂを産む前に亡くなり、住んでいた場所に葬られたとか伝わっています。ニギハヤヒが住んだのは白庭山で生駒市や大和郡山市、奈良市(登彌神社)などに伝承地があります。ニギハヤヒの墳墓をウィキペディアには白庭山として墳墓の写真を載せています。この項目の筆者は実際に墳墓を訪ねているようです。この場所は生駒市白庭台5丁目9ー1にあります。「白庭台」は近鉄不動産が開発した住宅地で、地名はニギハヤヒの伝承に由来します。近鉄けいはんな線に「白庭台(しらにわだい)」駅があります。墳墓の場所は生駒市小明町(こうみょちょう)にある「生駒市立総合運動公園」から山道を登って行きます。運動公園から三本の鉄塔が見えますがその下にあるそうです。運動公園のグラウンドの端にサッカーゴールがあり、その先に小径の入口があり、その道を行き、最初の分岐点を右に、さらに進むと左手に柵に囲まれた赤白の鉄塔が見え、さらに進むと再び分岐点があり、ここを右に行くとまもなく墓だそうです。案内標識はなさそうです。運動公園のグラウンドから片道15分程度で行け、比較的平坦な道だそうです。墓石には「饒速日命墳墓」と刻まれていて、風化して読めないということではなさそうですから、誰が建てたのでしょうか古くはなさそうです。墳墓の後ろには無数の小石が積まれているとのこと。この墓のある場所は「桧窪山(ひのくぼやま)」といい、日の窪山とも言うそうです。また塚の名前は「山伏塚」。修験者が関係していたのでしょうか。
先ほども書きましたが、ニギハヤヒの遺体は天に上げられたとあります。墓には遺体の代わりに、天羽羽弓、神衣(かんみそ)、帯、手貫(たまき)等の形見の品が納められたそうです。なかなか念入りな話です。
この墓の場所は生駒山の北側になります。近鉄けいはんな線は石切神社の近くの「新石切駅」から生駒山をトンネルで抜けて「生駒駅」で奈良線に接続し、ここから北に進んだ最初の駅が「白庭台」です。終点は「学研奈良登美ヶ丘」で、この路線はナガスネヒコの本拠地を横断しています。「白庭台」の西側は大阪府四條畷市。その北に交野市の磐船神社があります。ニギハヤヒの足跡が残る場所です。
ちなみに相棒のナガスネヒコの墓は葛城市竹内(たけのうち)にある鍋塚(なべつか)古墳という直径46mの円墳だそうです。
ニギハヤヒの墳墓のある一帯にはニギハヤヒやナガスネヒコにゆかりのある場所がたくさんあります。
https://note.com/okumansama_2023/n/ndbc261651fe6 【熊野は神武が天皇になる資格を得た場所】より
『日本書紀』は『古事記』よりはるかに詳しく神武天皇の熊野での行動を伝えています。地元ではこの記述を基にしてたくさんの伝承が残されています。神武天皇がとても身近な存在として。しかし戦後の歴史学では神武天皇の存在が否定されてきました。しかしながら現在でも皇室では重要な儀式として橿原市にある神武天皇陵に参拝して、初代天皇に敬意を表しています。実在したかどうかは別として、熊野を含めた神武天皇の伝承に光を当てて見ることで、何らかの史実が浮かびあがってくるということを知って頂きたいと思います。
『日本書紀』では、熊野で暴風に遭って二人の兄が亡くなります。熊野市には二人の死骸を見つけて祀ったという神社があります。三毛入野命は故郷の高千穂に帰ったという伝承もありますが、いずれにしてもここで二人の兄が脱落して、神武は皇子のタギシミミと二人で軍勢を率いることになります。そして暴風のあと荒坂津、別名丹敷浦に上陸し、丹敷戸畔を滅ぼしたあと気を失います。神武天皇の上陸地だと伝える場所はたくさんあります。ただ丹敷戸畔は那智海岸の浜の宮に地主神として祀られていますから、丹敷浦は那智かもしれないです。
タケミカヅチがタカクラジに剣を託す場面は『記』のほうが詳しく書いています。剣の名前を3つ挙げていることからも『記』はこの剣を重要視しています。
『記』ではタカミムスヒがアマテラスと相談してタケミカヅチにもう一度下界に行くように言ったり、八咫烏もタカミムスヒが遣わします。『紀』ではどちらもアマテラスの単独行動です。『記』ではタカミムスヒの存在が際立ちます。
八咫烏は、熊野の神の使いとして重要な存在ですが、『記』のほうがその役割を重要視しています。神武軍は八咫烏の先導を受けて進軍しますが、『紀』では実際の行軍を指揮するのは大伴氏の遠い祖先の日臣であり、無事に難所を突破できたのは日臣の功績であるとして道臣の名を与えます。これには大伴氏の伝承が反映されています。
神武軍が紀伊山地を突破して到着した場所も、『記』では吉野川の下流(現在の奈良県五條市付近?)となっていて、そこで三人の国つ神に会った後に宇陀に行きます。そしてエウカシ•オトウカシのエピソードになりますが、『紀』ではダイレクトに宇陀に到着します。新宮から熊野川•十津川のルート、現在の国道168号線で行くと『記』にある吉野川の下流に着きます。一方熊野川から北山川沿いの国道169号線で行くと宇陀の近くに着きます。
『紀』の記述で最も特徴的なのはアマテラスの神武への肩入れです。『記』ではタカミムスヒの存在が大きいですが、『紀』ではアマテラスが単独で神武を支援します。その契機となったのは、暴風で二人の兄が脱落してから。それ以前のイツセの負傷の際にもアマテラスは行動を起こしていません。
私は『日本書紀』の熊野のストーリーは、神武が天皇になる資格かあるかどうかのテストだと考えます。そしてそれに合格したからこそアマテラスは積極的に神武への支援をはじめたということが読み取れます。
『記紀』では最初から神武が後継者であったように書いていますが、聖徳太子ですら皇太子であったかどうか疑わしいとありますから、神武が最初から皇太子であったとは考えられません。テストに合格して国の指導者にふさわしいとなったからこそ、アマテラスが積極的にサポートするようになったのであり、そしてその場所が熊野だったということ。それを『日本書紀』の編纂者は言いたかったのだと思います。
https://note.com/okumansama_2023/n/na81b2f72c055 【高倉下はニギハヤヒの子供?孫?】より
タカクラジは神武にとっては人生最大の危機を救ってくれた恩人ですが、それはタケミカヅチが大切な剣をタカクラジに託したからです。高天原にいるタケミカヅチがどうして熊野に住むタカクラジの存在を知っていたのか?、さらにタケミカヅチが彼に大切な剣を託すという提案をどうしてアマテラスやタカミムスビ(『日本書紀』ではアマテラスだけ)が同意したのか?この三者の信頼を得ていたタカクラジ。その正体は?
前にも書きましたが、タカクラジは越後国一宮彌彦(やひこ)神社の祭神天語山命アメ(マ)ノカグヤマノミコトと同じと言われています。これには異論もあるようですが、ここでは多数説に従って同一として話を進めます。その理由としてアメノカグヤマの伝承のほうが詳しいということがあります。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ)』巻五の『天孫本紀』にニギハヤヒの子であり尾張連の祖先である天香語山命の割註に「天降り以後の名は手栗彦命(タクリヒコ)または高倉下である」としています。アメノカグヤマは父のニギハヤヒが高天原からの日本への天降りに同行します。日本に着いてからは、手栗彦または高倉下と名乗ったということです。
『先代旧事本紀』(以後は『旧事本紀』と書きます)は、徳川光圀や本居宣長らは偽書だとしていましたが、その後の研究で序文を除いた本文は史料として価値が認められました。神道では『記紀』と共に聖典とされます。平安時代初期の成立で、はっきりした著者は分かりませんが、物部氏や尾張氏に関する系譜に詳しく、また物部氏の事柄を多く載せることから物部氏に関わる人物が書いたものと考えられます。その構成は、神皇系図一巻(現在、欠けて伝わらない)。本文は10巻からなり、①神代本紀、神代系紀、陰陽本紀ー天地開闢、イザナギ神話。②神祇本紀ーウケイ神話、スサノオ追放、③天神本紀ーニギハヤヒ神話、出雲の国譲り。④地祇本紀(一云、地神本紀)ー出雲神話。⑤天孫本紀(一云、皇孫本紀)ー物部氏、尾張氏の系譜。⑥皇孫本紀(一云、天孫本紀)ー日向三代、神武東征。⑦天皇本紀ー神武天皇から神功皇后まで。⑧神皇本紀ー応神天皇から武烈天皇まで。⑨帝皇本紀ー継体天皇から推古天皇まで。⑩国造本紀ー国造家135氏の祖先伝承。上記のアメノカグヤマの話は物部氏や尾張氏の系譜の中に書かれているということです。
京都府宮津市の天橋立にある丹後国一宮の「籠(この)神社」の社家に伝わる『海部氏(あまべし)系図』の「勘注系図」では、海部氏の始祖天火明命(アメノホアカリ)の子供の天香語山命の註に、「(天香語山命が)大屋津比賣命(オオヤツヒメ)を娶り高倉下を生んだ」と記述しています。そして始祖の孫天村雲命(アメノムラクモ)の弟として、「弟熊野高倉下母大屋津比賣命」と記されています。アメノホアカリはニギハヤヒだとされていますから、ここではタカクラジはアメノカグヤマの子供ということになっています。海部氏はアメノホアカリの子孫であり、尾張氏はニギハヤヒの子孫ですから、『旧事本紀』のアメノホアカリ=ニギハヤヒということから両氏は同族ということになります。
『海部氏系図』は国宝に指定されており、『籠名神社祝部氏系図』1巻と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻から成っています。前者を「本系図」、後者を「勘注系図」と言います。
『旧事本紀』ではタカクラジはニギハヤヒの子、『海部氏系図』ではニギハヤヒと同神とされるアメノホアカリの孫で、アメノカグヤマの子ということになります。いずれにしても高倉下はニギハヤヒの直系ということになります。
ニギハヤヒとはどういう存在なのでしょうか。熊野にも関わりのある重要な存在です。
https://note.com/okumansama_2023/n/n2ba1e1da09c6 【藤白神社の主祭神はニギハヤヒ(1)】より
和歌山県海南市藤白466にある「藤白(ふじしろ)神社」はニギハヤヒを祀る神社です。この神社がニギハヤヒを祀っているのは、ニギハヤヒを祖神とする穂積氏の嫡流の藤白鈴木氏が代々神職を務めたからです。
電車で和歌山駅から白浜方面に向かい、海南駅を過ぎると間もなく左手に藤白神社の看板が見えます。海南駅からは徒歩20分くらい、JRの高架に沿って行き、JRのガードをくぐると石段がありその上に鳥居がありますが、そのまま少し急な坂を上がった右側にも神社への入り口があり、鳥居が立っています。反対の左側には鈴木屋敷があります。石段を上がるのが正式な入り口ですが、坂を上がったところから境内を横切る参道は中世の熊野参詣道です。
藤白は藤代とも表記され、九十九王子の中で格式の高い五体王子の一つである「藤代王子」の旧址で、「藤代神社」、「藤白権現」、「藤代若一王子権現」とも呼ばれました。
主祭神は饒速日命、配祀神は天照大神、熊野坐神、熊野速玉神、熊野夫須美神、祓戸大神です。アマテラスは熊野では若一王子と呼ばれていました。「藤代若一王子権現」と呼ばれていたところから、アマテラスが主祭神であった時期もあるのでしょう。熊野坐神は、熊野本宮大社がかつて熊野坐神社と称していたところから本宮の祭神、家津美御子神。祓戸大神は明治時代に祓戸王子を合祀したことにより祀られています。祓戸王子は後述します。
藤白神社は熊野参詣が盛んな頃、熊野一の鳥居と言われました。この「一」はトップではなくファースト。つまり聖地である熊野への入り口という意味です。それが五体王子の一つ藤代王子です。そうなると神社の祭神は熊野の神ということが前面にでてきます。熊野参詣の貴族たちは藤代王子で、和歌の会や里神楽や相撲などで楽しんだようです。ここからいよいよ熊野まで苦行の旅が始まります。
藤白神社の創建年代は不詳だそうですが、伝えによると景行天皇の代とされます。社殿は斉明天皇の牟婁の湯(白浜町の湯崎)行幸の際に建てられたと言われます。斉明天皇のこの行幸は658年のことで、有間皇子に勧められたのがきっかけです。
和歌山県神社庁のサイトによると、聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を参らせ、熊野三山に皇子誕生を祈願させたところ、高野(たかの)皇女が御誕生。喜んだ光明皇后は神域を広め整備し、三山の御祭神を勧請し、ここを末代皇妃夫人の熊野遙拝所と定めたところから、子授け、安産、子育ての守護神として崇められてきたとあり、また称徳天皇玉津島行幸に際して、熊野広浜供奉し、祖神である当社に詣で「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号して、以来「藤白王子」或いは「藤白若一王子権現社」とも呼ばれたとあります。さて、この記事の内容ですが、聖武天皇が玉津島神社のある和歌の浦に行幸したのが神亀(じんぎ)元年(724)10月、即位して8か月後のことです。その時に行基に参らせて皇子誕生を祈ったところ高野皇女が誕生したとあります。高野皇女は即位して孝謙天皇となり、譲位した後にもう一度即位してからは称徳天皇となります。同一人物です。孝謙天皇の誕生は718年。聖武天皇の行幸の6年前です。この時代になると記録もはっきりしていますから、それぞれの年代には誤りはありません。称徳天皇も和歌の浦に行幸していますから、混同されている部分があるのかもしれません。後で述べますが、藤白神社には子授け、子育ての守護神である子守楠神社がありますから、その由来として語られたのかもしれません。ただ孝謙天皇は熊野の神とは関係があったようで、熊野の神に「日本第一大霊験所」の称号を授けたのは孝謙天皇だと言われています。称徳天皇の行幸に供奉した熊野広浜という人物はよくわかりません。ニギハヤヒを祖神としていますから、熊野三党につながる人物でしょう。また「権現」という言葉がありますが、権現は平安時代後期の神仏習合により確立された概念であり、それにより若一王子という祭神も登場しますから、奈良時代にはどちらの言葉もなかったはずです。
https://note.com/okumansama_2023/n/n17e98362b832 【藤白神社の主祭神はニギハヤヒ(2)】より
藤白神社は平安時代後期からの熊野詣での盛行で賑わいます。ただ戦国時代になると戦乱に巻き込まれ社殿が焼失します。江戸時代になってだんだんと復興されてきます。現在の本殿は徳川頼宣の命により寛文3年(1663)に再建されたものです。『紀伊続風土記』には、「藤白若一王子権現社」と記載され、和歌山霊蓋院末の寺院が別当をつとめていました。明治時代になると神仏分離•廃仏毀釈が行われるなかで、当社にあった熊野権現の本地仏は被害を免れました。旧社格制度においてまず村社となり、その後郷社、県社と昇格しました。
熊野詣でのルートとして重要な場所に位置したということの表れとして、現在でも当社は阪和道の海南インターからすぐのところにあります。インターを海南市街方面に出て、国道42号線に合流して次の信号を右折してすぐの脇道に入り、道なりに進みJRのガードをくぐって坂を上がると右手に広い駐車場があります。ただガードの道幅が狭いので注意がいります。
藤白神社の境内に入りますと大きなクスノキが目に入ります。そこには子守楠神社が祀られています。祭神は熊野杼樟日命(クマノクスビ)です。神名の「杼(ちょ)」は「ドングリ」、「樟」は「クスノキ」。いずれも木にちなんでいます。この千年楠は、子供が生まれたときここにお参りして、楠、藤、熊の名を授かると長生きして出世すると言われ、畿内各地からお参りに来ました。それによって名付けられた人に南方熊楠がいます。彼は熊と楠と二つもついていますから効果満点だったようです。長命(74歳。当時としたら長生きの部類に入るのではないでしょうか)と出世(学者としての名声)を得ました。私の祖母の兄も名前に藤がついていましたから、百歳近くまで生きました。皆さんも子供が生まれたら、ここにお参りして名前を授かりませんか。
駐車場から境内に入ると、左手に授与所があり、そこを抜けると拝殿があります。境内社は拝殿に向かって左側に一つの覆屋の中に祇園神社、秋葉神社、住吉神社、塩釜神社があり、右側には藤白王子権現本堂かあります。権現堂とも呼ばれ、ここに廃仏毀釈の嵐を通り抜けた仏像が安置されています。熊野三山の本地仏の阿弥陀如来、薬師如来、千手観音、それに若一権現の十一面観音です。平安時代後期の作で和歌山県の文化財に指定されています。堂々とした仏像です。神仏分離で神社から仏教関連のものはなくなってしまいましたが、こうして神社に仏像が祀られているのは熊野権現らしいです。少し離れて藤白坂の入り口に有間皇子神社があります。有間皇子は悲劇の皇子として知られていますが、藤白坂で命を落としています。ほかに恵比須神社、もと市内の名高(なたか)蓬莱丁にあったのを明治に遷したものです。あとは巳神社、石が祀られています。
配祀神の祓戸大神ですが、明治42年(1909)に祓戸王子を合祀したものです。祓戸王子は室町時代には鳥居神社と呼ばれ、またこの辺りの地名も鳥居と言います。古くは熊野一の鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る前に心身を清めるために祓の神が祀られたということになります。なお鳥居は天文18(1549)年に失われました。場所は海南市鳥居257ー1。
https://note.com/okumansama_2023/n/n8d35214a47af 【鈴木さんは穂積さんー穂積さんの先祖はニギハヤヒ】より
数多い日本人の名字のうち、「佐藤」さんについで二番目に多いのが「鈴木(すずき)」さんです。和歌山県では14番目だそうです。この鈴木さんのルーツは藤白神社の神職であった藤白鈴木氏です。この藤白鈴木氏はもともとは穂積氏(ほづみうじ)でした。そして穂積氏のルーツがニギハヤヒです。したがって鈴木さんのご先祖はニギハヤヒになります。このブログでニギハヤヒについていくつかの章に亘って書いていますから、ニギハヤヒとはどういう存在なのかお分かり頂けたのではないでしょうか。鈴木氏の話に入る前にまず穂積氏について説明します。
穂積氏の本拠地は大和国山辺(やまべ)郡穂積邑および十市(とおち)郡保津邑です。山辺郡は石上神宮の所在地で、現在の天理市が中心です。十市郡は橿原市や桜井市や田原本町のそれぞれ一部です。山辺郡からは南になります。
穂積氏の始祖は、『新撰姓氏録』ではニギハヤヒの六世の孫の大水口宿禰(オオミナクチノスクネ)とされます。『新撰姓氏録』の「左京神別 天神 穂積臣」条では伊香賀雄命(イカガシコオ、物部氏の祖)と新河内小楯姫命の子とも神饒速日命の六世の孫とあります。一方『旧事本紀』「天孫本紀」や『物部系図』では、出石心大臣命(イズシココロノオオオミ 饒速日尊三世孫)と新河小楯姫の子とされており、さらにこの史料ではイカガシコオはニギハヤヒの六世の孫としています。母親はどちらも同じですが、父親が異なっています。前者ではイカガシコオの子供とされていますが、後者ではニギハヤヒの三世の孫のイズシココロの子供とありますから、オオミナクチはニギハヤヒの四世の孫で、イカガシコオより古い人になります。また前者では物部氏から分かれたことになりますが、後者では物部氏とは別系統になります。物部氏側では穂積氏とは別だと言うことを言いたいのかもしれません。
さらにニギハヤヒからオオミナクチまでの孝元天皇の時代の穂積氏に内色許男命(ウツシコオ)がおり、彼の同母妹の鬱色謎命(ウツシコメ)は孝元天皇の皇后となり、大彦命と開化天皇を生んでいます。また彼女は物部氏の祖のイカガシコオの父の大綜麻杵命(オオヘソキ)の姉または妹でもあります。したがってイカガシコオからいえば穂積氏のウツシコオとウツシコメは父方の伯父叔母(または伯母)の関係になります。いずれにせよ物部氏とは関係が深いということです。
また『古事記』には穂積氏の祖とされる建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)は娘の弟財郎女(オトタカラノイラツメ)が成努天皇の妃となり、皇子を生んでいるほか、タケオシヤマタリネは『日本書紀』に日本武尊の妃で、海が荒れたため海神の怒りを鎮めるために入水した弟橘媛(オトタチバナヒメ)の父の穂積忍山宿禰(ホヅミオシヤマノスクネ)と同一人物とされます。
なんとなく複雑な話ですが、鈴木さんの本家にあたる穂積氏の始まりはニギハヤヒ、そしてその子供であるウマシマヂということになり、それぞれ同じ伝承をもつ物部氏と先祖を同じくします。「兄弟は他人の始まり」と言いますがその例にあてはまります。そしてウマシマヂの母はナガスネヒコの妹ですから、その血も受けています。また物部氏同様に霊能者として神に仕える人としての役割を持っています。それが神職としての鈴木氏につながっていきます。
https://note.com/okumansama_2023/n/nfce5ccd7ae6d 【ニギハヤヒが住んだ白庭の意味するもの】より
「石船神社ーニギハヤヒの最初の降臨地?」で石船神社のある櫂峰がニギハヤヒの最初の降臨地であり、そこから河内の哮峰に移り、さらに大和の鳥見の白庭山に行ったとされています。
一般的にはニギハヤヒの降臨地として最初に登場するのは、河内の河上の哮峰です。「河内の」とわざわざことわっています。「哮峰」は生駒山とされていますから、生駒山の西側になります。そしてここには交野市の磐船神社があります。ニギハヤヒはそこから大和国の鳥見の白庭山に遷ってそこに住みます。その場所としては、生駒市と奈良市西部の富雄川流域とそれよりは南になりますが大和郡山市の矢田町があります。前者には、神武とナガスネヒコの決戦場であったとする伝承があり、それにちなんだ石碑もあります。そして『大和志料』には長弓寺はもともとニギハヤヒが住んでいた場所であり、真弓塚はニギハヤヒの墓だとの説を唱えています。後者には矢田坐久志玉比古神社があり、この場所はニギハヤヒが住む場所を決めるために天磐船から三本の矢を放ち、二の矢が落ちた場所であり、この場所の土が白かったので白庭山と呼んだとあります。この矢が落ちた一帯を地元では「宮処(みやんど)」と言っており、それは高貴な人が住んでいたということを意味し、その人物がニギハヤヒであり、鳥越憲一郎氏の葛城王朝説によれば邪馬台国であったとされます。邪馬台国は南にあった狗那国と緊張状態にあり、狗奴国が最終的に邪馬台国を滅ぼしたというのが神武とナガスネヒコの戦いの真相であるとしています。これを受けて大和郡山市観光協会では毎年「邪馬台国の女王」を選び観光大使に就いてもらっています。一方の生駒市では住宅開発でできた新しい住宅地に「白庭台」と名付け、近鉄では新しく駅を造りました。こういう事例をみると、神武とナガスネヒコの戦いを単なる伝説とは言えない気がします。何らかの史実が投影されている可能性が高いと考えます。
もしもニギハヤヒが矢田に住んでいたとしたら、ナガスネヒコの本拠地であった富雄川流域とは少し離れた場所に住んでいたということになります。ニギハヤヒは亡くなったともありますから、ウマシマヂが住んでいた可能性があります。神武軍は南から北へと進軍してきますから、ウマシマヂはナガスネヒコより先に神武に会ったことになります。そして神武軍にはウマシマヂにとっては異母兄にあたるアメノカグヤマ(すなわち高倉下)がおり、アメノカグヤマは父から託された布都御魂剣をウマシマヂに渡し神武への降伏を薦めた。そういうドラマが展開したとしても不思議ではありません。
白庭の名前ですが、久志玉比古神社の土も白くないそうですし、生駒市は白谷の地名を根拠に白庭としたわけですが、ニギハヤヒと白い庭には関連性があるようです。それで思いついたのですが、だいぶ前に書きましたが、花窟神社や、産田神社、まないたさま、十津川村の玉置神社の末社の玉石社に白い石が敷かれているということです。白い石が敷かれた場所、それが白庭。その場所にニギハヤヒが住み、そこで日の神を祀る。そこに光がさすと白い石に映えて一層の輝きを増す。そういう状況が目に浮かびます。
https://note.com/okumansama_2023/n/n5bf0c4c6ee6c 【ニギハヤヒがもらった十種神宝、ニニギがもらった三種神器】より
石切神社の社伝にある「十種の瑞宝(みずのたから)」は一般には「十種神宝(とくさのかんだから)」と呼ばれます。『旧事本紀』巻3「天孫本紀」に「天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」として登場します。『記紀』にはこの宝物の記述はありません。これはニギハヤヒが天降りする際に天神御祖(あまつかみみおや、アマテラスのこと。スサノオという説もありますがアマテラスとして話を進めます)から授けられたものです。同様にニニギが天降る時には「三種神器(さんしゅのじんぎ)が与えられてています。質はともかく量はニギハヤヒに軍配が上がります。三種神器の内容は、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)で各1個。八咫鏡の八咫は八咫烏の八咫と同じく大きさを表します。本体は伊勢神宮内宮に置かれ、レプリカが皇居の賢所(かしこどころ)に祀られています。天叢雲剣はスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したときにその尻尾から出てきたもので、スサノオがアマテラスに献上しました。その後伊勢神宮に置かれていましたが、日本武尊の東国遠征にあたり倭姫が武尊に渡し、焼津で敵に火攻めにあったときにこの剣で草を払って危機を脱したことから草薙剣と呼ばれるようになり、武尊が東国からの帰り尾張で妃のミヤズヒメのもとにこの剣を置いて伊吹山の悪神退治に出かけて亡くなってしまったので、ヒメが熱田神宮に納めたため熱田神宮で祀られています。レプリカは皇居にあり、八尺瓊勾玉とともに剣璽(けんじ)と呼ばれ天皇の践祚の際には真っ先にこの二つを引き継ぎます。まさに皇位の象徴です。勾玉だけがアマテラスから授けられた物とされます。鏡と剣は早くからレプリカになっていましたが、源平合戦で平家が都落ちしたときに安徳天皇と一緒に壇之浦で海に沈みました。その後の捜索の結果、鏡と玉は発見されましたが、剣はどうしても見つからず、伊勢神宮から献上されたものが現在皇居にある剣です。三種神器は天皇家にとってはかけがえのないものですから、大切に守り伝えられています。
一方の「十種神宝」の中身ですが、鏡が2種、剣1種、玉4種、比礼(ひれ)3種の合計10種、各1点の合計10点です。三種神器と比較すると、鏡が1点、玉は3点多く、剣は同数。三種神器に入っていないのは比礼です。比礼というのは、ストール状の女性の衣装で、首に結ばずに肩に掛けて左右同じ長さで前に垂らして使うものです。竜宮城の乙姫さんのイラストで肩から垂れ下がっている布がありますが、あれが比礼です。
三種神器は皇室で大切に守られていますが、十種神宝はニギハヤヒが神武に帰順した際に献上されて、皇室に伝えられ、天皇の息災を祈る祭事に使われていると言いますが、三種神器よりも秘密性が高いのではっきりしたことは分かりません。面白いのは、大阪市平野区喜連(きれ)6丁目1ー38にある式内楯原(しきないたてはら)神社内の神寳十種之宮に、偶然に町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られているそうです。そういう話を聞くと、なんとなく親しみを感じます。なぜ石上神宮に伝わった十種神宝がこの神社に祀られているのかはウィキペディアに載っています。興味のある方はご覧ください。
十種神宝は石上神宮の祭神である布留御魂神(フルノミタマ)だとする説があります。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えるそうです。
十種神宝とはどういうものなのでしょうか。
https://note.com/okumansama_2023/n/nb16b395b3d4f 【パワー抜群!十種神宝】より
十種神宝の内容です。①沖津鏡(おきつかがみ)。高い所に置く鏡で、太陽の分霊とも言われ、裏面には掟が彫られており、使用する人の道しるべの役割をしているそうです。②邊津鏡(へつのかがみ)。いつも身辺に置く鏡で、顔を映して生気•邪気の判断を行います。この鏡にふぅーっと息を吹きかけて磨くことが、自分自身を磨くことに繋がるとされています。③八握剣(やつかのつるぎ)。国家の安泰を願うための神剣。悪霊を祓うことができるとも言われており、スサノオが持っていた剣とも言われています。④生玉(いくたま)。この玉を持つと、願い事を神に託したり、神の言葉を受け取ったりできます。神様の言葉が心で聞ける神秘的な玉で、神と人をつなぐ神人合一の玉とも言われています。⑤死返玉(まかるかへしのたま)。死者を蘇らせることができると言われている玉です。左胸の上に置き、手をかざして呪文を唱え、由良(ゆら)由良と回すとその効果が発揮できるそうです。⑥足玉(たるたま)。全ての願いを叶える玉。足玉を左手にのせて、右手に八握剣を持ち、国家の繁栄を願います。⑦道返玉(ちがへしのたま)。悪霊封じや悪霊退散の効果がある玉。ヘソの上1寸(約3cm)の
ところにこの玉を置き、手をかざしながら呪文を唱えます。⑧蛇比礼(おろちのひれ、へびのひれ)。魔除けの布。古代鑪(たたら)製鉄の神事の際に、溶鋼から下半身を守るための前掛けであったものが、後に地から這い出して来る邪霊から身を守るための神器となったもの。毒蛇に遭遇したときにも使用します。⑨蜂比礼(はちのひれ)。蛇比礼と同様に魔除け効果のある布です。この比礼は振ったり身を隠したりして、天空よりやって来る悪霊から身を守ります。また邪霊や不浄なものの上にかぶせて魔を封じ込める効果もあるそうです。⑩品物比礼(くさぐさのもののひれ)。物部の比礼。この比礼の上に物を置くと、その品物が清められます。また病人やケガ人、死人をこの比礼を敷いた上に寝かせて、死返玉を使い蘇生術を施すと病気やケガは癒え、死者は蘇るそうです。他にも魔物から大切な品々を隠すときにも使われます。
三種の神器と比べたとき、十種神宝は呪的な性格が強いと言えます。病気やケガを治したり、究極には死者を蘇らせるとあります。現実には死んだ人が蘇るということは、意識不明の状態の人に人工呼吸や心臓マッサージやAEDをを施すことで蘇生することはありますが、完全に心肺停止してしまえば蘇生はあり得ません
。これは肉体的な死の場合ですが、精神的な死の場合はどうでしょうか。生きる気力を失ってしまった人に「十種神宝」の持つマジカルパワーを使うことで、気力を取り戻すことは可能ではないでしょうか。もしも気力を失った原因が、悪霊や魔の仕業であれば一層効果的です。そしてこの「十種神宝」のパワーを引き出すために祝詞と祓詞があります。それはどういうものなのか?みていきましょう。
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