①日本に来た契約の箱と三種の神器

http://hideki816.blog.fc2.com/blog-entry-139.html 【 日本に来た契約の箱と三種の神器】より

 「契約の箱」は、イスラエル人の宗教上の象徴の中で最も古くかつ神聖なもので、ヤハウェの箱、証の箱としても知られ長方形の木箱で金でおおわれていました。

 彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。

 長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。

 あなたは純金でこれをおおわなければならない。

 すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。

 また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。

 すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。

 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。

 そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。

 さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。

 そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。

 また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。

 また二つの金のケルビムを造らなければならない。

 これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。

 一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。

 ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。

 あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。

 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。 (出エジプト 25:10-22)

 キュビットは、ヘブル(ヘブライ)人が一般に用いた長さの単位で、もともとは肘から手の指先までの長さに由来する身体尺で約45cmです。キュビットの名称は、ラテン語で「肘」を意味する言葉に由来します。ヘブル語(ヘブライ語)では前腕を意味するアンマとよびます。 新共同訳の聖書はアンマ表記です。

イスラエル人と聖約を結んだヤハウェは、神殿の製作を指示します。使用する材料はもその寸法にいたるまで細かく啓示します。聖なる祭器と神殿の建設者として聖任されたのは、ユダ族のベザレルと助手としてダン族のオホリアブが作業にあたり、エジプト脱出から1年後にはすでに完成していました。箱は長さ約110cm、幅と高さがそれぞれ約67cm、内側も外側も全面に金箔が貼られました。地面に直接触れないよう箱の下部四隅に脚が付けられ、箱の四隅に金環を作り、そこに担ぐための金箔を施したアカシア棒を通しそのままにしました。

蓋の部分に当たる贖罪所は、ヤハウェが地上で住まわれる所とみなされていました。

 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。 (出エジプト 25:22)

 契約の箱は、幕屋が完成するとその中の最も神聖な所である至聖所に置かれました。

 箱の中には、シナイ山でモーセに与えられた十戒の石板が納められていました。

            十戒石版

 そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。 (出エジプト 25:16)

 彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。

 主がモーセに命じられたとおりである。 (出エジプト 40:20-21)

  十戒

 あなたは私のほかに、何ものをも神としてはならない

 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない

 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない

 安息日を覚えて、これを聖とせよ

 あなたの父と母を敬え

 あなたは殺してはならない

 あなたは姦淫してはならない

 あなたは盗んではならない

 あなたは偽証してはならない

 あなたはむさぼってはならない

 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

 上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

 主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。

 あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

 あなたは殺してはならない。 あなたは姦淫してはならない。 あなたは盗んではならない。 あなたは隣人について、偽証してはならない。 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。 隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。 (出エジプト 20:3-17)

 預言者のアビナダイはノア王のな祭司たちに向かってこの十戒を引用しています。

あなたがたは心を注いで理解しようとしてこなかった。したがって、あなたがたは賢明ではなかった。あなたがたはこの民に何を教えているのか。」

 すると彼らは、「我々はモーセの律法を教えている」と言った。

 そこでアビナダイはまた彼らに言った。

 「もしあなたがたがモーセの律法を教えているのならば、なぜそれを守らないのか。

 なぜあなたがたは富に執着するのか。なぜみだらな行いをし、娼婦と過ごして精力を費やすのか。また、なぜこの民に罪を犯させるのか。

 それゆえ主はこの民に対して預言を、まことにこの民に対して大きな災いの預言を述べるために、わたしを遣わされたのである。あなたがたは、わたしが真実を語っているのを知らないのか。いや、あなたがたは、わたしが真実を語っているのを知っている。だからあなたがたは、神の御前で震えおののかなければならない。そしてあなたがたは将来、自分の罪悪のために打たれるであろう。あなたがたはモーセの律法を教えていると言っているからである。

 モーセの律法についてあなたがたが知っているのは何か モーセの律法によって救いが与えられるのか。あなたがたは何と答えるか。」

すると彼らは、モーセの律法によって救いが与えられると答えた。そこでアビナダイは彼らに言った。「あなたがたが神の戒めを守れば救われることを、わたしは知っている。まことに、主がシナイの山でモーセに告げられた戒めを守るならば、あなたがたは救われる。その戒めは次のとおりである。

 『わたしは主なるあなたの神であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出した者である。あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。 上は天にあるもの、下は地にあるものの、どのような形をも造ってはならない。』」

 そしてアビナダイは彼らに言った。「あなたがたはこれをすべて守ってきたか。いや、守ってこなかったとわたしはあなたがたに言う。あなたがたはこの民に、これらのことをすべて守るように教えてきたか。 いや、教えてこなかったと、わたしはあなたがたに言う。」 (モーサヤ 12:27-37)

 さて、あなたがたに神の戒めの残りの部分を読んで聞かせよう。これらの戒めが、まだあなたがたの心に書き記されていないことが分かるからである。あなたがたがこれまで人生の大半を、罪悪を習い、教えることに費やしてきたことを、わたしは知っているからである。

 さて、あなたがたが覚えているように、わたしは前にこう言った。『あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。』さらに、このようにある。『あなたはそれらにひれ伏してはならない。それらに仕えてはならない。

 主なるあなたの神であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎む者には、先祖の罪悪を子孫に報いて、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、千代に及ぶまで憐れみを示すからである。

 あなたは、主なるあなたの神の名をみだりに唱えてはならない。主は、その名をみだりに唱える者を、罪のない者とはしないからである。安息日を覚えて、これを聖なる日として保ちなさい。六日の間働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。

 しかし、七日目、すなわち主なるあなたの神の安息日には、あなたはどのような仕事もしてはならない。あなたもあなたの息子、娘、僕、はしため、家畜、それにあなたの門の内にいる来訪者もそうである。主は六日の間に、天地と海と、その中にある万物を造ったからである。それで、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 あなたの父と母を敬いなさい。主なるあなたの神があなたに与える地で、末長く暮らせるためである。 あなたは殺してはならない。 あなたは姦淫してはならない。あなたは盗んではならない。 あなたは隣人に対して偽証してはならない。 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻も、僕も、はしためも、牛も、ろばも、何であっても隣人のものをむさぼってはならない。』」

 さて、アビナダイはこれらの言葉を語り終えると、彼らに次のように言った。

 「あなたがたはこれらの戒めを守るために、これらのことをすべて努めて行うようこの民に教えてきたか。いや、教えてこなかったと、わたしはあなたがたに言う。

 もしあなたがたが教えていれば、主はわたしを遣わして、この民について災いを預言させるようなことはされなかったであろう。 

 さて、あなたがたは先ほど、救いはモーセの律法によって与えられると言った。わたしはあなたがたに言う。今はまだモーセの律法を守る必要がある。しかし将来、もはやモーセの律法を守る必要のない時が来ることを、あなたがたに言っておく。そしてさらに、わたしはあなたがたに言う。救いは律法だけで与えられるものではない。もしも神御自身が民の罪と不義のために行われる贖罪がなければ、たとえモーセの律法があっても、彼らは滅びるほかはない。

 さて、わたしはあなたがたに言う。イスラエルの子らに律法が、まことに非常に厳しい律法が与えられたのは必要なことであった。

 彼らは強情な民で、罪悪を行うことは早いが、主なる彼らの神を思い起こすことの遅い民であったからである。そこで、彼らに律法が、まことに、勤めと儀式の律法が与えられた。その律法は、神と、神に対する義務を思い起こさせるために、日々厳密に守らなければならないものであった

 しかし見よ、わたしはあなたがたに言う。 これらのものはすべて、将来起こることの予型であった。さて、彼らは律法を理解しただろうか。いや、すべての者が理解したわけではないとわたしはあなたがたに言う。 それは、彼らの心がかたくなであったからである。

 神の贖いによらなければだれも救われないことを、彼らは理解しなかった。見よ、モーセはメシヤの来臨について、また神が御自分の民を贖われることについて、彼らに預言しなかったであろうか。また、世界が始まって以来、預言を述べてきたすべての預言者たちも、これらのことについて多少にかかわりなく述べてこなかったであろうか。

 神御自身が人の子らの中に降って来て、人の形を取り、偉大な力をもって地の面に出て行かれることを、彼らは述べてこなかったであろうか。また、神が死者の復活をもたらされることと、神御自身が虐げられ、苦しめられることも、彼らは述べてこなかったであろうか。」 (モーサヤ 13:11-35)

 また、同じ原則は新約聖書のマタイによる福音書の5章17~37節にあります。わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。

 しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 わたしは言っておく。

 あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。

 よくあなたに言っておく。 最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 

 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 しかし、わたしはあなたがたに言う。 だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。 それ以上に出ることは、悪から来るのである。 (マタイ 5:17-37)

 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、こう述べています。

「……主は体の各部位について語られた。それが、私たちを正しい道から、また主が与えられた戒めへの従順という道からそれさせようとする友や親族のことを指すのは明らかである。

 友や親族が戒めからそれさせようとするときは、その人に従って邪悪な行いをし、やがては滅びにいたるよりも、その人との関係を断ち切ったほうが良い。

このような比喩による表現は、現在と同じように昔も広く使われた。 したがって、『新約聖書』に書かれている古い時代の表現法を読むとき、マルコが記録したこの救い主の言葉のようなものを文字どおりの意味に解釈すべきではない。

 正しく理解されたときにそれは人々に強い印象を残すのである。」 (『福音の質疑応答』 

神がこれほどまでに繰り返して強調していることから、これは間違いなく重要なことです。主は御自身の指で石の板の上に十戒を書かれました。この十戒は全能の神の基本的律法であって、以来、法律および宗教的律法の根幹をなす要素となっています。

 また、神と私たちの関係にとっても最も基礎となるものです。十戒は、回復されたイエス・キリストの福音の絶対必要な部分であって、私たちが天父のように完全な者となるために欠くべからざるものです。この十戒が少し変った形でレビ記と申命記の中に、規則という形をとって与えられており、個々の事体に対応できるようになっています。しかし、一般的に言うなら、十戒は全人類の行動模範なのです。

 十戒は人に、人生において優先させるべき3つの大事なことを教えてくれています。

最初の4つの戒めは、神と人間とのあるべき関係について教えていて、5番目の戒めは家族と適切な家族関係の重要性について教えており、最後の5つの戒めは人とその同胞との関係を規定しています。

 それゆえ、神との関係、家族との関係、そして同胞との関係を完全なものにしようと決心した人は、あらゆる点で完成の道を歩んでいると言えるでしょう。

 新約聖書の中には、イエスが自分を殺そうとした人々に向かって次のように述べています。

 もしあなたがたがモーセを信じたならば、私をも信じたであろう。

 モーセは、私について書いたのである。

 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうして私の言葉を信じるのだろうか。 (ヨハネ 5:46-47)

 このことは現代のキリスト教にもいえ、十戒を奨励しながら実際には遠く離れている教会がかなり多いのが現実です。

 つまりそのような教会はモーセの律法から離れているので、キリストをあるいは神を信じてはいないことになります。

 十戒を下された直後、神は現在モーセの律法と呼ばれている一連の律法と戒めを啓示しました。

 モーセの律法はイスラエル人が出エジプトの旅をし、シナイ山で野営を張っているときに神からモーセに与えられた律法です。

 この律法は、福音の基本原則である従順と犠牲を強調しています。

 モーセの律法は、当時は備えの福音でイスラエルの子らに将来イエス・キリストとして現れるメシヤに関する知識をもたらすことを狙って与えられた教え導く律法です。

 預言者ニーファイは、次のように述べています。

 見よ、わたしは、キリストの来臨が真実であることを、わたしの民に立証することに喜びを感じる。 モーセの律法は、まさにそのために与えられたのである。

 世の初めから神が人に与えてこられたすべてのものは、キリストの予型である。 (2ニーファイ 11:4)

 もし福音を神殿にたとえれば、モーセの律法は土台です。モーセの律法の何にも勝って重要な面は愛です。契約の箱は、証の箱ともよばれました。そののち、マナの壺と奇跡的に芽を出したアロンの杖も契約の箱の内部に納められました。

        三種の神器

 さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。

すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。

これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。

 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。

 これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 (ヘブル 9:1-5)

 契約の箱は、イスラエルの民からは最大の敬虔の念を払って見守られ、動かしたり所定の場所に置いたりする前には、祈りが唱えられました。

 こうして彼らは主の山を去って、三日の行程を進んだ。

主の契約の箱は、その三日の行程の間、彼らに先立って行き、彼らのために休む所を尋ねもとめた。彼らが宿営を出て、道に進むとき、昼は主の雲が彼らの上にあった。契約の箱の進むときモーセは言った、「主よ、立ちあがってください。あなたの敵は打ち散らされ、あなたを憎む者どもは、あなたの前から逃げ去りますように」。またそのとどまるとき、彼は言った、「主よ、帰ってきてください、イスラエルのちよろずの人に」。 (民数 10:33-36)

 神はモーセに契約の箱の蓋の部分の贖罪所の上の2つのケルビムの間でモーセと会いモーセと語ると言われました。

 一対のケルビムの翼が三角形を描いています。 そこからヤハウェが臨みます。 それは「すべてを見通す神の目」です。「すべてを見通す神の目」は、ユダヤ密教(カバラ)の命の木の象徴図形の最上部である日の栄えの王国から臨むヤハウェ=イエス・キリストを意味しているのです。「すべてを見通す神の目」は、フリーメイソンリーの象徴となりました。

 おお、わたしの愛する同胞よ、わたしの言葉を覚えておきなさい。

 見よ、わたしは自分の衣を脱いで、これをあなたがたの前で振り、わたしの救いの神に、そのすべてを見通す目でわたしを見てくださるように祈る。

 それであなたがたは、すべての人が各自の行いに応じて裁かれる終わりの日に、わたしがこうしてあなたがたの罪悪をわたしの身から振り払ったのを、イスラエルの神が御覧になったことと、わたしが神の御前に輝いて立っており、あなたがたの血から免れていることを知るであろう。 (2ニフ 9:44)

 イエス・キリストが再臨するときについての記述です。

 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。

 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。

 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。 (マタイ 25:31-46)

 ヒンドゥー教でも、食事は右手にかぎって、左手は不浄としています。「すべてを見通す神の目」が、聖なる右ではなく、なぜ左かという答えは日本だけに存在します。

 天岩戸神話では、天岩屋の前に大きな榊(さかき)を立て、そこに「八咫鏡(やたのかがみ)」を吊るすとともに周りで「常世の長鳴鶏(とこよながなきどり)」を鳴かせます。

 準備が整い、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が裸踊りをすると、これを見た神々が大笑いをして大変な騒ぎとなりました。 騒動が気になった天照大神は、少し岩戸を開いて外を覗きました。 榊にかけられた鏡に映った神の右目は「鏡像反転」で左目になります。

 榊にかけられた目=天照大神は、木で作られた十字架にかけられるイエス・キリストを意味し、イエス・キリストが男神で天照大神が女神なのも鏡像反転で左右を逆に見よとの示唆です。 (参照)

 吉事があると「目出たい」といいます。 物部氏の歴史が記されている一書の『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)』は偽書とされていますが、多くの真理を含んでいて正しい内容も多いです。 『先代旧事本紀大成経』には、天照大神が岩戸を開いて「目を出した」ことから、「目出たい」というとあります。

 紀元前10世紀のソロモン神殿の至聖所に契約の箱を安置したとき、レビ人によって内部が確認されています。その模様について、こう記されています。

 箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。

 これはイスラエルの人々がエジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。 (列王上 8:9) 

 本来、契約の箱には「イスラエルの三種の神器」の「十戒石板」のみならず、「マナの壺」と「アロンの杖」もあったはずです。それらはいったいどこへいったのでしょうか。

  マナの壺

「マナの壺」に関して、こう記されています。 イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は密を入れたせんべいのようであった。

 モーセは言った。 「主の命じられるところはこう である。『それを一オメルあなた方の子孫のために蓄えておきなさい。それは私が、あなた方をエジプトの地から導き出した時、荒野であなた方に食べさせたパンを彼らに見せるためである』と。 そしてモーセはアロンに言った「一つのつぼを取り、マナ一オメルをその中に入れ、それを主の前に置いて、子孫のためにたくわえなさい」。

 そこで主がモーセに命じられたように、アロンはそれをあかしの箱の前に置いてたくわえた。 イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。 (出エジプト 16:31-35)

 「マナの壺」とは、マナを入れた壺です。

 「マナ」とは、モーセが民を率いてエジプトを脱出したときに、作物のない荒れ野で神が民を養うため40年間にわたって用意した食物です。

 これは、蜜を入れた菓子や油菓子のような味があり、良質のフレーク状の食物だといわれています。

 「マナ」の語源は、イスラエルの民が「これは何であろう」という意味のヘブル語「マンフー」からきています。マナは、命のパンとなるキリストの象徴でした。

 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。

 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。

 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。

 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。

 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。

 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。

 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。

 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。

 夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。

 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。

 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。

 その翌日、海の向こう岸に立っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなく、またイエスは弟子たちと一緒に小舟にお乗りにならず、ただ弟子たちだけが船出したのを見た。

 しかし、数そうの小舟がテベリヤからきて、主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所に近づいた。

 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。

 そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。

 わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。

 それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。

 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。

 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。

 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。

 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。

 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。

 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。

 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。

 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

 ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。 そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。 預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。

 神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。

よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。 わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。

 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」

 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。

 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。

 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。

 このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。

 これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。 (ヨハネ 6:1-59)

https://www.youtube.com/watch?v=mUGg41UsaXA

D・トッド・クリストファーソン長老は、イエス・キリストが命のパンであることを教えました。「命のパンであるイエス・キリストが生きておられること、そしてキリストの贖罪には無限の力があり無限の領域におよぶことを証します。

 結局のところ、主の贖罪、主の恵みこそが私たちの日ごとの食物なのです。」 (「日々の祝福に神の手を認める」 『リアホナ』 2012年1月 p.31)

 「イエスは、弟子である私たちに、その日に必要な食物、すなわち助けや支えを得られるよう神に頼るべきであると教えておられます。

 〔この〕主の勧めから、神が愛にあふれた御方であられることが分かります。

 神は御自身の子供たちの日常的な小さな必要までも気遣い、一人一人を助けたいと願っておられます。 主は、『とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える』御方に信仰をもって願い求めれば『与えられるであろう』と述べておられます。(ヤコブの手紙 1:5)」 (「日々の祝福に神の手を認める」 『リアホナ』 2012年1月 p.25)

 ブルース・R・マッコンキー長老は、こう述べています。

 「神の御子の肉を食べ血を飲むということは、まず最初に何のためらいもなく、永遠の御父の肉体をもつ個人的な御子として、最も逐語的かつ完全な形で御子を受け入れること、第2に御子の福音を受け入れる、御子の教会に加わる、そして従順と義をもって終わりまで堪え忍ぶことによって御子の戒めを守ることである。

 この過程によって御子の肉を食べて血を飲む者は、永遠の命、つまり日の栄えの世における最上の昇栄を受ける。」

 たとえば使徒パウロは古代イスラエルの民についてこう語っている。

 『みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。』 (1コリ 10:3-4)

 聖徒たちは、バプテスマの水に入ることによってキリストの名を受ける。

 すなわち、イエスを神の御子として、人類のとして一点の疑いもなく受け入れるということである。

 そして、キリストの戒めを守り、その律法に従うことを聖約する。 (モーサヤ 18:7-10)

 主は聖徒たちが主を受け入れ、主に従うこと、すなわち主の肉を食し主の血を飲むという義務をけっして忘れないようにと、聖餐の儀式を定めてくださった。

 主の裂かれた肉と流された血を記念するためのこの儀式は、キリストが神であられることを宣言し、主の戒めに従うことを再度決意するために正式に繰り返し行われるのである。

 言い換えれば、この儀式において、人は文字どおりの意味でではないが、霊的な意味において主の肉を食し、主の血を飲むのである。」 (Doctrinal New Testament Commentary 1:358)

 ブルース・R・マッコンキー長老は「わたしにおり、わたしもまたその人におる」という表現が何を意味するかを説明しています。

 「1つとなった者は、同じように考え信じ行動するため、同じ特質と特性をもつ。……

 それゆえに、彼らは比喩的にお互いの中にいる、つまりお互いのうちに存在するのである。」 (Doctrinal New Testament Commentary 1:766)

 デビッド・A・ベドナー長老は、こう述べています。

 「私たちはこの世の汚れに染まらず、染みのない状態になるために、主の聖なる日に祈りの家に行き、聖式をささげるように命じられています。(教義 59:9-12参照)

 主の体と血の象徴であるパンと水が、祝福され、聖められることをよく考えてください。

 『永遠の父なる神よ、わたしたちは御子イエス・キリストの御名によってあなたに願い求めます。

 このパン〔または水〕を頂くすべての人々〔のために〕このパン〔または水〕を祝福し、聖めてください。』(教義 20:77,79参照)

 聖めるとは、純粋で神聖にすることです。

 聖餐の象徴は、キリストの純粋な聖さと、私たちが完全に主の贖罪に頼っていること、そして『終わりの日に〔主〕の前に染みのない状態で立てる』よう、私たちに儀式や聖約を尊ぶ責任があることを覚えるために聖められます。(3ニフ 27:20)

 聖餐の儀式は、心から悔い改め、霊的に再び生まれるように繰り返し招く神聖な儀式です。

 聖餐を受けるという行為自体が罪を取り除くわけではありません。

 しかし、意識して備え、打ち砕かれた心と悔いる霊をもってこの神聖な儀式を受けるなら、いつも 主の御霊がともにあると約束されています。

 また、常に聖霊を伴侶とし、その聖めの力を受けることで、いつも 罪の赦しを保つことができるのです。

 私たちは毎週本当に祝福されて、聖餐の儀式を通して生活を吟味する機会を得、聖約を新たにし、この聖約による約束を受けることができます。」 (「いつも罪の赦しを保つ」 総大会 2016年4月)

  聖餐と贖罪 ジェームズ・J・ハムラ長老 七十人

  いつも罪の赦しを保つ デビッド・A・ベドナー長老 十二使徒定員会

  聖餐―霊の更新のとき チェリル・A・エスプリン 中央初等協会会長会第二顧問

  聖餐会と聖餐 ダリン・H・オークス長老 十二使徒定員会

本心に立ち返る:聖餐、神殿、奉仕による犠牲 ロバート・D・ヘイルズ長老 十二使徒定員会

 末日聖徒イエス・キリスト教会の教会員にとって聖餐とは、キリストの贖いの犠牲を記念するパンと水にあずかる儀式を指します。

 裂かれたパンは主の引き裂かれた肉を象徴し、水は人の罪を贖うために流された主の血を象徴しています。

 教会員は聖餐を受けるたびにこの聖約を更新します。(教義 20:77-79参照)

 バプテスマのときに交わした聖約を守るときに、主は教会員の忠実さに対して祝福を与えてくださいます。

 教会員に与えられる祝福の中に、聖霊を常に伴侶とすること、罪が赦されること、そして霊的再生の特権にあずかることがあります。

 続けて忠実であれば、永遠の命を受けると約束されています。(2ニフ 31:19-20参照)   

 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。

 すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 食ことののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 (1コリ 11:23-25)

 

 ふさわしい教会員はこの聖餐にあずかるときに、キリストの名を受け、いつもキリストを覚え、その戒めを守ることを約束します。

 教会員はこの儀式を通して、バプテスマの聖約を新たにするのです。

 

  バプテスマの聖約――王国にあって王国のものとなる ロバート・D・ヘイルズ 十二使徒定員会会員

 聖餐の儀式を単なる表面的なものでなく、あなたの身も霊も聖める霊的な機会とするには、どうしたら良いでしょうか。

 さて見よ、わたしがあなたがたに与える戒めはこれである。

 すなわち、あなたがたは、わたしの肉と血を分け与えるとき、だれであってもふさわしくないままでわたしの肉と血にあずかることを、承知のうえで許してはならないということである。

 ふさわしくないままでわたしの肉を食べ、血を飲む者は、そうすることで自分に罰の定めを招くからである。

 だから、ある人がわたしの肉を食べ、血を飲むのにふさわしくないと分かったならば、あなたがたはその人に禁じなさい。

 それでもあなたがたは、その人をあなたがたの中から追い出すことなく、教え導き、またその人のためにわたしの名によって父に祈りなさい。

 もしその人が悔い改めて、わたしの名によってバプテスマを受けるならば、あなたがたはその人を受け入れて、わたしの肉と血を分け与えなさい。

 しかし、悔い改めなければ、その人がわたしの民を滅ぼすことのないように、あなたがたはその人をわたしの民の中に数えてはならない。

 見よ、わたしは自分の羊を知っており、わたしの羊は数えられているからである。

 それでも、あなたがたは引き続き教え導くことができるように、その人を会堂や礼拝の場所から追い出してはならない。

 彼らが立ち返って悔い改め、十分に固い決意をもってわたしのもとに戻って来るようにならないとは言い切れないからである。

 彼らがそうするならば、わたしは彼らを癒そう。

 だからあなたがたは、彼らに救いをもたらす者になりなさい。 (3ニフ 18:28-32)

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 悔い改めとは、現世と永遠の幸福に不可欠の要素で、ただ単に悪い行いを認める以上の行為です。

 それは人に神とその人自分自身、そして世の中に対する正しく新しい見方を伝える思いと心の変化です。

 悔い改めには、罪から離れ、神に赦しを求めることが含まれます。

 悔い改めへと人を動かすのは、神の御心に従って行動する力を受けられる神をの能力と愛を信じる正しく考え行動する信仰、神への愛と神の戒めに従いたいという心からの望みです。

 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。

 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。

 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。

 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。

 イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。

 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。 (ヨハネ 6:60-66)

 弟子たちの中には、これは「ひどい言葉だ」と言う者もあり、このとき以降多くの弟子たちが「去っていって、もはやイエスと行動を共に」しませんでした。(ヨハネ 6:60,66)

 彼らは、すでに与えられていた教え、すなわち「まず神の国……を求めなさい」(マタイ 6:33)という教えを受け入れていなかったようです。

 現代でも、自分はクリスチャンだと公言する人の中には、地上での生活の足しにはなっても永遠の命の糧とはならないこの世の物に、より引き寄せられている人たちがいます。

 あるいは、今も主の御言葉を「ひどい言葉だ」ととらえて、イエス・キリストに従わない人たちがいます

 マナは安息日を除いた毎日、地に降ってきたとなっています。

 また主の指示により、マナを集めるのは朝のうち、暑い日差しに溶けてしまわないうちで、しかもその日の食物として十分な量だけを取るように定められていました。

 安息日の前日には2倍の量を集めても良いことになっていました。

 マナの味は新鮮な油、もしくは蜂蜜でできたウエハースに似た感じでがしたといいます。

 これが約40年間、約200万のイスラエルの民の食料として用いられました。

 食べるときは粉にし火を通しました。

 マナは自然の産物よりも、天からの賜物とみなされていました。

 この「マナ」は、プラズマによって生成されたフラクタル物質の食物だと思われます。

 フラクタル物質とは、大気中のエアロゾルがプラズマによって化学反応し、高分子のゼリー状になった物です。

 プラズマが大気に当たりマナを生じたもので、この物質は気化するので日光が当たると溶けてしまいます。

 「天使の髪」ともよばれ、しばしばプラズマの飛行が目撃されたのちに、このゼリー状や繊維状の物体が地面で発見され数時間後には蒸発してしまいます。 (参照)

 ハワイで「マナ」という語は現代では正体が不明ですが、神からの助けの力とされていて正しい目的以外で用いるとなくなってしまうとされています。

 マナの壺は、日本にあります。

9 東へ移動した10部族 2/3

 前方後円墳 

 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥古墳群の古墳の1つで、日本で最大の規模を誇る前方後円墳で墓域面積は世界最大です。

 墳長およそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m、後円部は直径245m、高 約35m。 

 1872年(明治5年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。 (参照)

 前方後円墳は、何をかたどったか分からない学者が名づけた呼び名です。

 前方後円墳を、「逆転」させると、本来の「マナの壺」の形になります。

 しかも、この前方後円墳には、真ん中辺りの両脇にでっぱり「把手(とって)」があります。

 イスラエル10部族のガド族は、マナの壺を継承したと伝えられています。

 邪馬台国を併合した神武天皇はガド族でした。

 天皇陛下は「ミカド」といい、本来は「ミガド」といい、ヘブル語では「ガド族出身」という意味です。

 そして、ヘブル語で「カド」は「とってのついた壺」です。

 神武天皇は自らがイスラエルの神器「マナの壺」を継承する者であることを示す必要がありました。

 王権のシンボルと合わせて、それを最も効果的に表現するモチーフが巨大古墳でした。

 そして、空から見ると「マナの壺」と分かる形にしたのです。

 それは、10部族の本体が空からやって来ることを知っていたからです。 (参照)

 神武天皇が日本に渡来し先住民の徐福集団の末裔の海部氏に入り婿したときに、海部氏が統括する神殿である籠神社にマナの壺を安置しました。

 籠神社では、宮司が新しく襲名する際、黄金でできた真名之壺を神殿から運び出してきて、襲名の杯に真名之壼からわずかに削った金粉を入れて飲む儀式があります。

 イスラエルの神器マナの壺もまた黄金でできており、形状は同じです。

 あるとき、真名之壺は籠神社から籠神社から伊勢神宮の外宮へと移されました。

 現在は、真名之壺は伊勢神宮の外宮にあります。

 外宮の御神体は、一説によると米であり、米を入れている容器、それがマナの壺のことです。「マナの壺」は、黄金製です。

 さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。

 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。

 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。

 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。

 これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 (ヘブル 9:4-5)

 そして、聖書中の「1オメル」の単位が、外宮の神宝の壺と同じ寸法なのです。

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 古来より、代々天皇家には伝わる「黄金の壺」があったといいます。

 籠神社の極秘伝では、応神(神武)天皇は朝鮮半島からの渡来人であり、先住民の物部氏に入り婿の形で王権を継承したといいます。

 ガド族の応神(神武)天皇がガド族が継承したマナの壺を王権継承の意味で、入り婿した王朝に差し出したのです。

 現在は、マナの壺は伊勢神宮の外宮に安置されています。

 神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)は、古事記』では比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)です。

 彼女は伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれています。

 ヒメタタライスズヒメの兄の天日方奇日方(アマノヒガタクシヒガタノミコト)は、日本の第4代天皇である懿徳天皇の事績を記した『懿徳天皇紀』に「鴨王」と記されています。

 天日方奇日方は、『先代旧事本紀』「地祇本紀」によれば、父は都味歯八重事代主神です。

 都味歯八重事代主神は「事代主神」であり、大国主(別称オオナムチ)の子です。

 アブラハムやモーセの時代は、ヤハウェに名をつけることができないので、ヤハウェ(私はある)とし、神の名をみだりによんではいけないという「十戒」を頑なに守るために、ヤハウェを意味する神聖四文字「YHWH」をあえて「主」を意味する「アドナイ」と発音を言い換えて、主(アドナイ)とよんでいました。

 このため、ヤハウェ=イエス・キリストは便宜上、さまざまな名でよばれることとなります。

 ヤハウェやヤハウェのときの出来事を表スサノオ、イエス・キリストとして天照大神、国を支配する神として大国主、食べ物をもたらす神としての豊受大神などの呼び名が生まれます。 

 物部氏の祖神である大物主は、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』では大物主櫛甕玉といいます。

 大物主は『日本書紀』の一書では、大きな国を築いた神、大国主の別名としており、籠神社と並び日本最古の神社の三輪山の麓の大神(おおみわ)神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神としてまつったとあります。 (詳細参照)

 徐福を表している大国主(別称オオナムチ)の子が事代主神であり、「鴨王」です。

 本当の儀式ともいえる裏の儀式を担当するのは、賀茂氏です。

 神道祭祀を一手に握る賀茂氏は「鴨族」ともよばれ、全国の神社を支配しています。

 中でも京都の下鴨神社と上賀茂神社の鴨族「賀茂氏」は事実上、神道の元締めです。

 徐福とともに渡来した東ユダヤ人の海部氏もレビ族で鴨族です。

 この「鴨王」(天日方奇日方)の妹が、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命であり、「五十鈴(いすず)」は「イエス」の古代ギリシャ語での「イエースース」に似ています。

 マナの壺は、代々籠神社の奥宮「天真名井(あまのまない)神社」に極秘裏に受け継がれてきました。

 籠神社の現在の海部光彦宮司は、マナの壺は、戦後のあるときにどこかに移されたといいます。

 マナの壺は、現在、天真名井神社から移動され、伊勢神宮の外宮に安置されています。

 「マナ」を古代ヘブル人に与えたヤハウェは豊受大神なのです。

  豊受大神

 徐福集団の末裔の海部氏の神社、籠神社の82代宮司ノ海部光彦氏は、海部氏が代々が理解し信じてきた「豊受大神(トヨウケノオオカミ)」の正体について、豊受大神は、旧約聖書に記された神、イエス・キリストが地上に生まれる前の霊体だったヤハウェと証言をしました。   

 鎌倉時代(紀元1185年ごろ‐1333年)ののち室町時代の初期の紀元1336年に皇室が南北に分裂しました。

 歴史上、籠神社は南朝側に就いた経緯があります。

 実は、その南朝の忠臣として知られる北畠親房(きたばたけちかふさ)は『神皇正統記』において、伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)の祭神である豊受大神は「国之常立神(クニノトコタチノカミ)」と同一神であると述べています。 (参照)

 

 鎌倉時代(紀元1185年ごろ‐1333年)の末期の伊勢神道(いせしんとう)とは、伊勢神宮で生まれた神道の説です。

 外宮の神職の度会(わたらい)氏の間で唱えられるようになっため、度会神道、外宮神道ともいいます。

 伊勢神宮では、古来は豊受大神宮(外宮)が皇大神宮(内宮)に優先して供進の品を受け取る慣習があり、そこから鎌倉時代までには参詣者が外宮に参拝してから内宮に行くことが通例となっていました。

 しかし、外宮先拝の礼が定着してしまうと、今度は外宮の神官の間に、実は外宮の神は内宮の神よりも上位の神格なのではないかと思われ始めます。

 そこで、外宮では鎌倉時代に伊勢神道を広め、豊受大神、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、国常立神が同一で世界の根源の神であるという宣伝を行うようになったのです。

 度会氏は、物部氏、海部氏と同族で古代の物部神道の奥義を知っていたらしいです。

 伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(世界の根源の神)に位置付けました。

 吉田神道(よしだしんとう)とは、室町時代(1338年‐1573年)京都の吉田神社によって大成された神道の一流派で、唯一神道、宗源神道ともいいます。

 海部穀定宮司は、こう述べています。

 「天照大神は、豊受大神とともに、元初の神であり、国常立尊(クニノトコタチノミコト)であるという古伝もある。」 (『元初の最高神と大和朝廷の元始』)

 豊受大神=ヤハウェ=国常立神

 「豊受」の「豊」は、「豆(たかつき)」に供え物を整えておいたことを意味します。

 「豊受」の「豊」とは、「~の」という語で、物事が豊かである意を表しほめる意をそえます。

 「豆」の字はもともと、「まめ」の意味はありませんでした。

 たかつき(=食物などを盛るのに用いられた脚の付いた器)を描いた象形文字で、この「たかつき」を表す文字が「豆(トウ/ズ〈ヅ〉)」でした。

 「たかつき」は多くは木製や素焼きの物で細長く作り立てて使用し、神仏への供え物を乗せたりもします。

 のちに、真ん中がくびれている、たかつきの形に似た「まめ」の意味も含むようになり、現在では意味の逆転現象が生じ「まめ」の意味で使われることの方が多くなったのです。 

 「受」は「受ける」とも「受かる」ともいいます。

 ここから「受け」=「ウケ」「ウカ」となります。

 ヘブル語では、「ウカ」は食物を意味し音と意味が一致しています。

 ヤハウェが、なぜ食物の神の豊受大神のかというと、モーセの時代にヘブル人はエジプトから脱出して40年間砂漠での生活をしますが、そこでは移動式神殿「幕屋」とともに移動しました。

 その間、天から降って来た食物「マナ」のおかげで、ヘブル人は食料の危機を脱しました。

 原始キリスト教徒のエルサレム教団と原始キリスト教徒になった10部族のガド族の神武天皇の秦氏が、マナの壺を海部氏に渡します。

 かつて籠神社の宮司は代々神職を継承する際、秘密の神宝で儀式を行いました。

 その神宝の名を「真名之壺(まなのつぼ)」といいます。

 真名之壺はマナの壺のことで、マナの壺とはユダヤの三種の神器の1つであり、出エジプト後のモーセ一行の飢餓を救った食べ物を入れた壺のことです。

 室町時代(紀元1336年‐1573年)末期に編さんされた事典『塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)』4巻に、「蛇」を「ウカ」というとあります。

 豊受大神は天照大神と並んで伊勢神宮の外宮にまつられる神です。

 また、外宮の元伊勢(以前に一時的にまつられた場所)である籠神社に伝わる『籠大明神縁起秘伝(このだいみょうじんえんぎひでん)』に「豊とはすなわち国常立尊、受とはすなわち天照大神なり」とあります。

 ヤハウェは「蛇」として表現されました。 (参照) 

 籠神社の極秘伝によると、豊受大神(ヤハウェ)と天照大神(イエス・キリスト)は同一神です。

 マナの壺の「壺」は「コ」と音読みします。

 「籠神社」という社名の由来については、火明命(徐福)が竹で編んだ「籠船」で海神の宮(竜宮、常世)に行かれたという故事に因んだ物と伝えられています。

 「籠」は、日本の古代音では「コ」と発音されていました。

 「コノ」は、ハワイ語の「大きな船」の言葉に由来するのではないかとする説を、仏教大学文学部の黄當時教授が発表しました。

 ハワイ語で「コ」は「船」を意味することから、「コノ」は古代ハワイ語で「大きな船」を指すと推測されたようです。

 徐福集団は、大きな船で渡来しました。

 「籠」を「コノ」と読み、籠は籠船でありコノは大きな船です。

 コノ神社の読み方は、徐福集団が先住民のニーファイ人の言葉を大切にして残したのでしょう。

 籠神社は、伊勢神宮にまつられている豊受大神と天照大神)を一緒にまつっています。    

 丹後といえば「天橋立(あまのはしだて)」ですが、その橋の由来は、もともと天と地とを結ぶ橋だったのが外れて落ちたとされています。

 しかし、立てた橋なら元は梯子だったことになり、「橋立て」は「梯(はしご)立て」とも書き、立った梯子を意味する言葉でした。

 そして、天にかけられた梯子となると、有名なのはヤコブが示現を受けて見た天から降りた梯子と重なります。

 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。

 時に彼は夢をみた。

 一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。

 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。

 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。

 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう」。

 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。

 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。

 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。 (創世 28:10-22)

 天橋立は「ヤコブ(イスラエル)の梯子」の象徴とも考えられます。

 さらに、イスラエル(ヤコブ)の名とかかわる以上、ヤコブの息子12人をも象徴しイスラエル12部族を意味することにもなります。

 つまり、ニーファイ人や徐福集団や10部族やエルサレム教団が日本に来たので、日本にイスラエル12部族が集合していることを暗示しているのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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