「大化の改新」は宗教戦争

https://ameblo.jp/okusamakiiteyo/entry-10018819222.html 【【連載閑話】日本にもあった宗教戦争!?・・・「大化の改新」は宗教戦争】より

世界で起きている戦争や紛争の多くが、実は宗教を背景にしたトラブルに由来していることは知る人ぞ知る事実です。そもそも欧米諸国とアラブ諸国がいがみ合っているのは、キリスト教とイスラム教が古代から反発し合っている宗教だからです。旧ユーゴスラビアでセルビア人と

クロアチア人などが虐殺の応酬を繰り広げたのは、やはり宗教上の対立が根っこにありました。さらに同じイスラム教内でも宗派の違いで殺し合いが起きています。復興中のイラクでいまだにテロが絶えないのは、スンニー派とシーア派が元々対立している宗派だから。インドとパキスタンの関係が緊張しているのはヒンズー教とイスラム教の対立があるから。タイ南部地域の治安が悪いと言われているのは仏教とイスラム教の対立があるから。世界では人を幸せにするために存在するはずの宗教を理由にして、今も誰かが殺し合いをしています。過去の多くの戦争にしても宗教上の理由から起こった戦争が非常に多いのです。

宗教に極めて鷹揚で寛容な日本人は、お墓が仏教だけど初詣は神道で、クリスマスまで祝ってしまう・・・よく言われるようにそれほど宗教に対して、悪く言えばあまり熱心ではなくいい加減な国民です。

しかし諸外国の常識はそうではありません。自分が信じる宗教はすべての価値観に優先するような教育を受けてしまっていることが多いのです。

政治体制に宗教が組み込まれているイスラム圏のような例もあります。そういう人々にとって異教徒とは憎むべき存在で、平和な時代ならともかく、ちょっとした揉め事が起きた場合には憎悪が膨らみ戦争へと突入してしまいます。日本に住む我々にはなかなか理解し難い感情です。

日本では歴史の授業で習うとおり、一部の例外を除けば、さほど宗教に対して過剰な反応をしたことがありません。神仏習合(しんふつしゅうごう)と言って、本来まったく異なる宗教の神道と仏教を合体させてしまうくらいだったのですから・・・。神宮寺という言葉がありますが、これは神社の中に設置したお寺のことを指します。本来ならばありえないことでしょう。

ただし、豊臣秀吉がキリスト教を禁止してから江戸時代が終わるまではキリスト教はご法度でした。しかし、これはポルトガル、スペインなどが、キリスト教の布教と、侵略・占領・植民地化政策がセットになっていることが判明したからであって、特にキリスト教の教義に反応したわけではありません。実際にキリシタン大名が増えた時代には、各大名が勝手に教会へ土地を寄進したりするなど、かなり日本の国土が外国人宣教師の手に渡っていた事実もあります。これは止むを得ない政策だったのでしょう。

さらに3代徳川家光の時代には「島原の乱」といって九州のキリシタンが天草四郎という少年を旗頭にし、大規模一揆を起した事件もありました。これも裏の事情を明かせば実はけっして宗教的な動機ではなかったようです。徳川将軍家によって取り潰された大名の家臣団残党たちが、謀反を起すために、たまたま領主から経済的に搾取されていたキリシタン農民たちを利用したのだと言われています。 

また明治政府が一時期行った施策「廃仏毀釈」があります。それまでは混然一体となっていた神道と仏教を分離する政策です。天皇を神格化するために、その祖先を祭る神道と仏教が一緒ではまずいという判断で、数多くの仏教施設と文化財が破壊されました。しかしこれもしばらくすると政策転換によって取りやめになっています。 

日本の歴史上で起きたと公に言われている宗教トラブルはこんな程度で、宗教を理由に国を二分するような戦争はついぞ起きませんでした。・・・とおそらく歴史の授業では習ったことと思います。戦争をしたとしても相手を徹底的に大虐殺することなく、「負かしてしまえば明日からは同じ天皇陛下の下の日本人」という意識が強く、勝ち負けも曖昧だったことが多いのです。

ただし、織田信長だけは違いました。彼は宗教勢力の真の怖さを理解していたようで、徹底的に宗教勢力を殲滅することに力を注ぎました。有名な比叡山延暦寺の焼き討ち事件は、古代から権威と軍事力を持って政治に口を出してくる仏教勢力を抑えるための施策でした。さらには多数の武士を雇い入れていた石山本願寺。城主の顕如は、当時全国に流行していた一向宗という仏教の一派を自由自在に操って政治の実権を握ろうとしていたようですから、信長の野望と完全にぶつかり合ったのです。結局、石山本願寺は破壊されて、今の大阪城になっています。本願寺は京都に移設されて現代に至っています。 

さらに全国各地で起きていた一向一揆。これは一向宗という宗派の信者たちが領主を殺したり追い出したりして、自分たちで政治実権を握る地域が続出していた現象です。これがまかり通ってしまうと武家政権が崩壊してしまう・・・そこで織田信長は加賀(石川県)や伊勢(三重県)を中心に一斉に信者の大虐殺を行います。これも一見すると宗教戦争のように見えますが、実のところ宗教の名を借りた経済の主導権争いでしかありません。 

では・・・日本では「宗教戦争」なるものはかつて起きなかったのでしょうか。

おそらく学校で習う歴史の授業では「なかった」と言われるか、そもそもが宗教戦争というテーマについて教えないでしょう。

しかし・・・誰もが知っているあの歴史的な事件が、実は「宗教戦争」だったという事実を今回は「こういう説もある」という観点でご紹介しようと思います。

ここからが本題です(前置き長くてごめんなさい)

大化の改新・・・これは誰でも知っている古代日本のクーデター事件です。

645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を中心とした勢力が、当時絶大な権力を握っていた蘇我氏を滅ぼして、天皇に権力を集中させた出来事です。このときに発布された「大化」というのが日本で始めての元号だと言われています。それまでは「~天皇**年」という数え方でした。

学校で習ったのは以下のような内容ではなかったですか?

「天皇をないがしろにして大きな顔で権力を振り回していた蘇我氏。それを快く思っていなかった中大兄皇子が藤原鎌足らの援護を得て、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、やっと正常な天皇制度が回復された。これ以来日本は本格的な律令制度の道を歩み始めることになる・・・」 

おそらく中大兄皇子と藤原鎌足を善玉として学び、暗殺された蘇我入鹿のことを悪玉として学んだのではないでしょうか。これははっきり言って完全に間違った教え方です。公式な歴史教育は後世に残された歴史書をもとにされていますが、負けた側のことをよく書くはずがないのです。当然ながら蘇我氏の悪口オンパレードでしょう。本当は違うのに・・・。

「大化の改新」とは単な政治体制のクーデターではありません。「宗教戦争」という意味合いの方がはるかに強かったのです。いえ・・・日本で唯一の本格的な宗教戦争だったと言っても過言ではありません。 

以下に書く内容は、右翼的思想の方や朝鮮半島嫌いの方が読むと頭の血を沸騰させてお怒りになるかもしれませんが、そういう学説もあるのだという程度に読み流して下さいませ。

日本に仏教が伝来したのがいつのことか、実は本当ははっきり分かっていません。公式には欽明天皇(きんめいてんのう=聖徳太子の祖父)の時代に当時朝鮮半島にあった古代王国・百済(くだら)から経典がもたらされたということになっています。しかし本当はもっと以前から仏教の陰はちらちらしているのです。当時は朝鮮半島が仏教の先進国で、日本は古代から続く呪術的な宗教・神道が主な宗教でした。仏教はインド生まれの聖人・ブッダの教えに基づき、死者の魂を崇拝する比較的新しい宗教。神道は自然界のあらゆるものに神が宿るとして、それを崇め敬い、さらにすべての神々の頂点に立つのが天皇家の祖先であるという宗教(どちらもざっくり大まかに解釈しています)。

天皇家とは、神道でもっとも格の高い神社である伊勢神宮の祭神である天照大神(あまてらすのおおみかみ)の子孫であるというのが、その権威の根拠です。だからこそ、「神の子孫」として長年にわたって不可侵な存在であり続け、それは現在も続いています。つまり神道=天皇家崇拝ということなのです。これはかなり大事なこと。押さえておいて下さい。

神武天皇から現代までずっと血脈を守っていると伝えられる天皇家ですが、実は多くの学者が「途中で血統交代、政権交代があった」と指摘しています。それは第26代継体天皇(けいたいてんのう=聖徳太子の曽祖父、欽明天皇の父)のとき。25代武烈天皇(ぶれつてんのう)には子供がなく、それまでの初代から16代仁徳天皇(にんとくてんのう)を経て続いた血統が途絶えたのです。これは、最近女性天皇問題で報道でも何度か扱われていたのでご存知かもしれません。   

公式な歴史では系図をかなり昔に遡って、15代応神天皇(おうじんてんのう)から分家した北陸在住の皇族で5代目の末裔が、継体天皇として即位したことになっています。しかし・・・系図の途中4人の皇族は「王」という名前がなかったり諸説入り乱れていてあまり信憑性がありません。北陸というのも実は明確ではなく、越前(福井県)という説があったり近江(滋賀県)という説もあります。ただし日本海方面からやってきたことは確かなようです。これ・・・けっこう大事なこと。

そもそもたくさんの側室がいたはずの天皇に跡継ぎがまったくいないという事態は本来ありえないのです。5代遡った親族。そんな親族なんて他人と同じ。もっと近い親戚がいないほうがおかしいのです。なぜ親戚が全員消えてしまったのでしょうか・・・。

こうなると武烈天皇とその一族は誰かの手によって皆殺しになってしまったのではないかと思えてきます。そして継体天皇とその一派が天皇家を乗っ取ってしまったのではないか・・・そう思えるのです。よくよく考えてみると武烈天皇までの天皇のお墓はほとんどが古墳でした。あの大きな前方後円墳とういうやつです。

しかし継体天皇から急に埋葬方法が変わります。これは文化が異なる民族が征服したと考えるのが普通でしょう。事実、公式歴史書でも継体天皇が即位のために北陸から当時の都である奈良に入るのに、かなり苦労したことが書かれています。諸豪族の抵抗にあい事実上の戦争状態になり、結局は途中で諦めて樟葉(大阪府枚方市)で即位をしたことになっています。これは異常ですね。かなり怪しい。日本海から攻めてきた継体天皇・・・その正体は?

そして継体天皇は即位してすぐに百済王国の求めに応じて朝鮮半島に軍隊を送ったりなど、非常に朝鮮半島との関係が深い天皇でした。さらにこの時代から仏教の影がちらちらしてくるのです。仏教=朝鮮半島の宗教、だと思って下さい。

継体天皇に反抗したのは物部氏(もののべし)・中臣氏(なかとみし)など古くからの豪族だと言われています。物部氏・中臣氏はいずれも神道を祭る役目を持った一族で、だからこそ天皇家との関係が深かったと言えます。天皇家の祖先を敬う仕事なのですから、その子孫と親しいのは当然ですね。

継体天皇の頃から急に勢力を伸ばしてきたのが蘇我氏です。蘇我氏は新興勢力だったのです。蘇我氏が大きな勢力を持つのは継体天皇の息子である欽明天皇時代に活躍した蘇我稲目(そがのいなめ)の頃。蘇我稲目の父親の名前は蘇我高麗(そがのこま)、祖父は蘇我韓子(そがのからこ)。

この名前を見てピンと来るでしょうか。要するに蘇我氏は朝鮮半島からの渡来系一族である可能性が高いのです。高麗とは朝鮮半島の古代王国の名称です。もうはっきり言いましょう。継体天皇と蘇我氏やその他一族とは、朝鮮半島にあった百済王国から日本を征服するために派遣された一群だったのです。その一群が信仰していた宗教が仏教だったのです。日本海から近畿に攻め入った・・・朝鮮半島から日本海を渡ってきたと考えるのが自然でしょう。

もちろんそれに反抗する古い一族がいます。物部氏です。以降、蘇我氏と物部氏は、新勢力と旧勢力の代表格としてライバル関係になり、蘇我稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)のとき、物部守屋(もののべもりや)を殺し、物部一族は完全に滅ぼされてしまいます。蘇我氏は、大陸から渡ってきた新しい武器や人材を多数抱えており、さらには朝鮮半島からの金銭的援助もあり、かなり強力な軍事力を持っていました。旧勢力の物部氏はひとたまりもなかったことでしょう。たいした軍事力を持たなかった中臣氏はひっそりと隠れたまま、新しい権力者・蘇我氏に嫌々ながら従ったと言われています。ちなみに中臣氏(なかとみし)は鎌足の時代に藤原氏(ふじわらし)と改名し、その後に藤原道長などを輩出し昭和時代には近衛文麿首相が出ています。 

継体天皇の子孫と蘇我氏による天皇家乗っ取りは大成功しました。聖徳太子も継体天皇のひ孫で蘇我氏とも親戚関係でしたから、実は乗っ取り組だったとも言えます。仏教を公に信仰するということは、実は天皇家を崇拝しないということ。つまり聖徳太子をはじめ蘇我氏はいずれ天皇家から政権を奪うつもりだったとも考えられます。  

途中、皇族の中でもその危険性に気づいた人物は何人かいました。崇峻天皇(すしゅんてんのう)は蘇我氏の命を受けた百済からの帰化人である東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が暗殺。聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)は蘇我軍に攻められて滅亡。仏教のために多くの人物が死んでいきます。蘇我氏の命を受けた人物が帰化人だという事実は、蘇我氏が朝鮮半島出身氏族だという証拠の一つになりましょう。

形式上では天皇家を継いでいた継体天皇の子孫ですが、その権威の根拠が消滅すれば天皇家の危機になります。そこに登場したのが、かつて物部氏が滅ぼされた際には隠れていた中臣氏の中臣鎌足(藤原鎌足)。彼は皇族で同じく危機感を覚えていた中大兄皇子とともに、蘇我氏と仏教の殲滅をはかったのです。それが「大化の改新」。中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)として即位しました。神道の権威を取り戻すために・・・。天皇の権威を回復する

ために・・・。

その後は天皇家の儀式から仏教は遠ざけられ、今に伝わる神道式に集約されたと言われます。また神社制度の整備が行われて、各地域に必ず一つ大きな神社があるような体制が作られました。「一宮(いちのみや)」というのは各地域で一番格の高い神社という意味です。仏教は衰退はしませんでしたが、その後神仏習合を経て、神道とぶつからない形になり、ゆったりとしたペースで日本に浸透することになりました。明治政府が廃仏毀釈を行ったのは、仏教に潜んでいる隠れた「天皇軽視」のワナを忌避したからだった言えます。

日本を仏教布教で支配下に置こうとしたとした百済王国は、大化の改新直後に他国(新羅・唐など)に滅ぼされて消滅します。日本もかつての義理で応援軍隊を派遣しましたが大敗して逃げ帰って来ます(白村江の戦)。それ以来九州沿岸の防備をするために派遣されたのが「防人(さきもり)」です。

私の説明が下手くそなので、しっかりご理解いただけたかどうか不安です。以上は少しでも日本史が好きな方ならだいたいご存知の、かなり信憑性のある学説をもとにしていますが、これを大きな声で主張すると国粋主義など右寄りの方に命さえ狙われるために、現在は学校で教えられていません。

なぜ平安美人や平安美男の顔が一重で釣り目なのか・・・なぜ朝青龍もどきの顔つきが美しいとされていたのか・・・その出自を考えてみれば現代に続く日本の天皇家と高級貴族の由来は誰でも想像がつきます。一重まぶたと釣り目というのはモンゴロイド(黄色人種)の中でも、朝鮮半島北部からモンゴル一帯に分布した、寒冷地適応したグループの特徴なのです。あとはご自由にご想像を・・・。

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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