蘇我氏の出自の謎 ~ベールに包まれた血脈の正体~

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【物部守屋・母は弓削の連の祖・倭古の娘(阿佐姫】


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【乙巳の変】


https://www.rekishijin.com/19662 【蘇我氏の出自の謎 ~ベールに包まれた血脈の正体~】より

蘇我氏・葛城氏の勢力基盤と渡来人集団の結集が権力の源

蘇我稲目の墓と伝わる都塚古墳(みやこづかこふん)

6世紀後半の方形墳で、一説では蘇我稲目の墓であると言われている。別名は「金鳥塚」。一辺約42メートルあり、盛り土は全6段以上の石段に覆われていた。玄室内には二上山の凝灰岩で造られた家形石棺が安置され、柵越しに見学することも可能。

 蘇我氏は大和国高市(たけち)郡曾我(そが)を本拠とする豪族であったが、葛城一帯を基盤とした同祖同族の葛城(かづらき)氏の血脈を受け継いで豪族として自立した。それは蘇我氏の初代・稲目(いなめ)が葛城氏の女性を妻に迎え、馬子(うまこ)という後継者をもうけたことに始まる。馬子は葛城氏と蘇我氏をともに継承するという絶大な地位と権力を生まれながらに手にしていたわけである。

 その蘇我氏が朝鮮半島の百済(くだら)から渡来したのではないかという仮説がある。それは蘇我氏の祖先系譜において蘇我石川宿祢(そがのいしかわのすくね)に続く3代の名前が満智(まち)・韓子(からこ)・高麗(こま)といずれも朝鮮三国に関わり深いものであったことに由来する。高麗の子が稲目とされている。だが、満智に始まる3代はあくまで系譜上付け加えられた架空の人物と考えられ、蘇我氏が実際に朝鮮半島から渡来したことを意味するものではない。稲目以前の系譜は他の豪族と共有されるものであったことから考えて、蘇我氏が朝鮮三国や半島出身者と職掌(しきしょう)上深い関わりをもった事実が反映されているのが、この3代と見なすのが妥当である。

 特に蘇我石川宿祢から高麗までの4代の系譜は、河内国石川地域を本拠とした蘇我倉(そがのくら)氏(後の石川氏)が作り出した祖先系譜と考えられよう。

 また、蘇我氏権力が強大化することになった要因は、外来の文化・技術をもたらした渡来人集団を支配下に置いていたことによる。例えば稲目は、欽明(きんめい)天皇の命により吉備(きび)に派遣されて白猪屯倉(しらいのみやけ)や児嶋屯倉(こじまのみやけ)などの設置・管理にあたったとされている。屯倉とは地方支配の拠点となる公共建物のことである。稲目の配下には王辰爾(おうしんに)の一族など大勢の渡来系書記官がおり、屯倉の設置・維持に関わる文書の作成・管理などに関与したはずである。

 稲目と蘇我氏はこのような各地への屯倉の設定を通じて、地方豪族との関係を深めていき、他の豪族に比べて地域利権の吸収を有利に進めることができたと見られる。

 蘇我氏と渡来人集団との接点は、蘇我氏が葛城氏から血脈と利権を継承して成立したことにより、葛城氏がその支配下の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の四邑(むら)に強制連行した渡来人をそのまま受け継いだことに始まる。さらに稲目の時代に百済から公式に伝来した仏法の管理を稲目と蘇我氏が王権から委任されたことにより、仏法に付随して伝来した外来の文化・技術をもその管理下に置くことになり、ひいては渡来人集団全体が蘇我氏の管理下に入ることになったのである。


https://www.fben.jp/bookcolumn/2006/06/post_1126.php 【謎の豪族、蘇我氏】より

著者:水谷千秋、出版社:文春新書

 私は奈良に行ったことはありますが、残念なことに飛鳥地方にはまだ一度も行ったことがありません。石舞台古墳とか飛鳥寺(588年に蘇我馬子によって建立された日米最古の本格的な寺院)、そして蘇我氏の本拠地であった甘樫岡の発掘現場をぜひ見てみたいと思っています。

 著者は天皇中心で日本の歴史をみるべきではないと強調しています。なるほど、と思いました。飛鳥寺を建立した蘇我馬子は崇峻天皇(大王)と反目し、ついに馬子は大王を殺害してしまいました。ところが、当時の王族や豪族は、馬子が大王を殺させたことを知っていたのに、馬子を糾弾した形跡がないというのです。

 馬子は対立する穴穂部皇子と物部守屋を殺し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を大王に立てた。だから、崇峻は馬子によって大王になれたのに、馬子に反抗した。だから馬子から殺されても、周囲の者は誰も馬子を批判することはなかった。崇峻が殺されて1ヶ月後には推古天皇が即位している。この間に混乱はなく、かえって王権は安定したように見える。

 要するに、当時は馬子政権だったというわけです。これは推古朝になっても変わらなかった。推古天皇は自分の意志から厩戸皇子(聖徳太子)に王位を譲らなかった。これは直木孝次郎の説であり、著者も賛成しています。実子の竹田皇子を後継者に考えていたというのです。厩戸皇子は推古天皇が死ぬより前に、49歳で天皇になれないまま死んでいました。ところが、蘇我馬子が80歳で亡くなった。石舞台古墳は馬子の墓とみられる。

 大化改新があったことには否定的な見解も有力です。著者は、皇極4年に蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされ、政権中枢が一新したこと、クーデターのあと、部民制の廃止、畿内制の成立、冠位の改訂、官制の改革などがあったことは争いがない、としています。

 蘇我氏の出自が渡来系かどうかについて、著者は否定的です。渡来系は、自らの系譜を隠そうとしなかったからです。蘇我氏の祖先を渡来人とする説に私は魅力を感じてきましたが、著者は史料上の根拠に乏しいと切って捨てます。うむむ、残念です・・・。

 蘇我氏渡来人説が一般に信じられてきた背景には、この説が古くから日本人に定着してきた蘇我氏逆賊史観とうまく適合してきたことにあるのではないか。つまり、蘇我氏は渡来人なので日本の天皇への忠誠心が薄かった。だから、天皇をないがしろにし、これにとって代わろうとしたのだという理解だ。うーん、そういうことか・・・。

 蘇我氏は、もとは、葛城氏の傘下にいた。大和に入った継体大王の一族を大伴氏と蘇我氏とが積極的に自らの勢力圏に迎え入れた。葛城氏とちがって、継体大王を支持し、その大和定着を積極的に支援した。いや、継体の支持・不支持をめぐって、蘇我氏と葛城氏は対立し、結局、蘇我氏が勝利をおさめたのだろう。そこで、蘇我氏は、葛城氏の正当な後継者として認められ、葛城氏がもっていた権益と地位を受け継いだ。

 そのころ、王権には混乱が相次いだ。弱体化していた王権が蘇我氏と連携することによって実力を回復していった。つまり、蘇我氏あっての王権、蘇我氏と結びつくことによって王権が力を回復していったのだ。なるほど、そういう見方ができるんですね・・・。

 物部姓を名乗る百済の官人がいた。物部と名乗っていたが、あくまで百済国の中級官人だった。倭から百済に移住した物部氏の男性と百済人女性との混血児とみられ、主として両国の外交交渉に介在していた。

 6世紀末以降、飛鳥地方は政治・経済・文化の一大中心地となっていった。その開発をはじめにすすめたのは倭漢氏(やまとのあやうじ)だった。彼らには、これを可能とするだけの土木・建築の技術力・動員力があった。一方で彼らは蘇我氏の配下にあって、事実上、その私兵として働いていた。蘇我氏を軍事面、土木建築面で支えた。

 蘇我氏の配下にあって渡来系豪族が活躍した。倭漢氏は軍事と土木・建築、鞍作氏は仏教と仏像製作、王仁後裔氏族は実務官僚。大陸の先進文明を身につけた彼らの知的レベルは当時の倭人系豪族たちをはるかに凌駕していただろう。蘇我氏の比類なき権勢は、こうした渡来人の能力の上にあった。彼らをつかいこなした蘇我稲目・馬子にも相当な才があっただろう。そして、蘇我氏のもとにいた渡来系豪族の多くは、大化改新後も変わらずに重用されていた。

 日本に仏教が伝来したのに当時の大王や豪族たちがどう対応したか、諸説がある。著者は次の二つを指摘しています。一つは、国内に仏教受容に抵抗する勢力が存在した。二つは、仏教受容は天皇ではなく、蘇我氏の主導ですすめられた。つまり、仏教の受容は天皇以下の支配層の一致した意思ではなかった。

 冠位十二階制定の実質的な主体は、厩戸皇子というより、むしろ馬子だった。十二階に組織された官人=中央豪族の頂点に立ち、実質的にこれを統率していたのは馬子だった。中央豪族によって構成される官僚集団の、いわばトップの座に君臨していた。

 馬子は、冠位をもらう側ではなく、与える側だった。ただ馬子には、大臣の地位のあかしとなる紫の冠が天皇から与えられていた。

 蘇我氏が逆賊ではなかったとする指摘は大いに納得できるものでした。

 アガパンサスの隣りにポワポワっとした毛糸の花のようなリアトリスの紫色の花が咲いています。ヒマワリがぐんぐん伸びてきました。今年は食用ヒマワリも植えているので楽しみです。コスモス畑にもなりつつあります。梅雨空の下で、水田の苗が勢いよく毎日伸びています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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