http://gakuyou.jp/doumotosan/saranarusinsouomotomete17.pdf 【17 「秦氏」と「応神」、そして「蘇我氏」との関係?!いよいよ、大本命?「秦氏」の怪に迫る?!】より
(1)謎の豪族?「秦氏」は、改めて何者なのか?そして、どこから来て、どういう役割を果たしたのか?!
さて、いよいよ、大本命?「秦はた氏」の謎(怪?)に迫る時がきた?!とにかく、この「秦氏」は、応神天皇の御世(「記紀」の、この時期の年代と史実?は、120 年ほど食い違っているとされるので、実際は5世紀前半?!)、その先祖?である「弓月の君(融通王)」が、辰韓(後の新羅の地?実際は、百済?)から大挙して(120 or27?県の民と一
緒に!)、倭国へ渡来してきたとされるが(それ以前は、中央アジアの「大月氏国(パルチア)」から移動し、ユダヤ教・キリスト教(ネストリウス派=景教)を伝えたともされる?!また、いわゆる「(イスラエルの)消えた10 部族」の末裔とも?、
さらには、秦の始皇帝の末裔とも?)、気味が悪いくらいに?不思議な氏族(勢力)なのである?!
周知のように、まずは、この秦氏は、豊前国(福岡県東南部・大分県北東部)に最初の扶植地(→「秦王国」?)を作り、後に列島各地へ拡散していったとされる?!ちなみに、その中心地(根拠地)は、播磨国(赤穂市坂越さこし)の「大避おおさけ神社」辺り、そして、最終的には?、「太秦うずまさ」と表記される、京都市西部地域(葛野かどの地方)である(→広隆寺、木嶋坐このしまにます天照御魂神社及び大酒おおさけ神社等あり!)?!それにしても、改めて、この「秦氏」は、我が国の古代史において、どのような役割(存在)を果たしたのであろうか?!
それについては、例えば、蘇我氏との親密な関係(→秦河勝)、そして、氏寺広隆寺・関係神社等の異様な光景、それにまとわる聖徳太子の幻影?、さらには、平安京を開いた桓武天皇との関係等々、そしてまた、その中での、松尾大社(京都)や稲荷大社(伏見)、金比羅さんで有名な、香川県金刀比羅宮等の建立や経営があり、さらにはまた、「秦」の名を帯びる、全国の秦名・秦地名(秦・幡・旗・羽田・畑・波多・波田・機、秦野市・幡ヶ谷市?等)の多さが注目される!故に、そういうことが、彼らの役割(素性?)の解明にヒントを与えている?!
そのそれぞれについては、ここでは詳しく紹介することは出来ないが、以上のように、秦氏が、我が国古代史において、まさしく重要な(しかし、怪しげな?)役割を果たしていたことは間違いないのである?!だが、何故か、歴史の表舞台(「記紀」の物語?)に、正面切っては、顔を見せないのでもある(そこがミソ?これは、藤原不比等も同じ?!つまり、大事な局面?に深く関わっている、あるいはその当事者であったからこそ、そのようにした?! )?!
一体、そこには、どのようなことが隠されているのか(このことは、例の関裕二氏の指摘でもあるが!)?!
そこで、ここでは、まったくの妄想?となるのかもしれないが、一つの大きな仮説として、古代(史)における第3波?の、西(半島?→九州)から東(近畿・大和)への、(ある)氏族・勢力の移動・進出(それは、「応神」のそれなのではあるが!)、そこに、「神功皇后」や「武内宿禰」、そして、それと多分関わっている?「継体」や「息長氏」(香春岳周辺の精銅勢力。その後、近江・琵琶湖西岸に本拠地を移した?!)、そして「秦氏」(『隋書』に見える、
俀たい国東部の「秦王国」?!)の移動・進出が投影されているとしたら、果たしてどうなるのか?!
何を言いたいのかというと、「応神(百済王族?)」と「息長氏」、そして「秦氏」の(東への)移動・進出が、同じ時代・同じ勢力の移動・進出であったのだとしたら、そこが一番大きな事件?(隠されていること!)であり、そこの解明が、この時期の謎を解く最大の鍵なのではないか?!そして、それは、(北部九州での)「神功皇后」「武内宿禰」「住吉大神」の物語(実は、神武の子・神八耳命の後裔である「多おお(意富)氏」の九州進出の反映譚?)、そ
して、そこから見えてくる?「継体」以降の動き?の解明につながるのではないかということでもある?!
(2)「乙巳の変」に関わっていた秦氏(河勝)?!そうであれば、幾つかの謎は解ける?!
ところで、改めて、「秦氏」については、関裕二氏の、誠に大胆な?、しかしながら、十分可能性のある推理がある!それは、ここで、余りに簡単に紹介させてもらうのは、甚だ申し訳ないとは思うが、古代史上最も激変をもたらした、いわゆる645 年の「乙巳の変」(中大兄皇子と中臣鎌足による、当時の実力者「蘇我入鹿」の暗殺?
事件→クーデター?)の実際上の実行犯が、実は「秦河勝」ではないかという指摘である!その惨劇を目撃していたという「古人大兄」の目撃談?、「韓人からひとが鞍作臣(入鹿)を斬った!」というところの、まさにその「韓人(半島からの渡来人)」が、「秦河勝」だったというのである!
しかるに、こういう背景(経緯)の中で、その後も隆盛?を極めた秦氏が、件の修史作業(記紀編纂、とりわけ「日本書紀」)に、陰に陽に、その影響力を行使したことは想像に難くない(内容のチェック等)?!端的に、記紀、
とりわけ「日本書紀」は、藤原氏の正義・正統性を演出するものであるが、他の多くの証拠(傍証?)からも、結果的に、秦氏が、藤原氏の権力奪取?に加担・協力したという結論が導き出されるということでもある?!
例えば、あの「聖徳太子」の存在もそうであるが、その子の「山背大兄皇子」の実在も危ういものである(その傍証の一つに、彼の膨大な一族は、この時全員が自死し、その後の子孫は一人もいないとされる?!実在していたならば、こういう奇妙なこと?は起こらない!)?!すなわち、「秦河勝」は、「聖徳太子に寵愛されていた」ということであるが、その聖徳太子自体は、蘇我氏を悪者に仕立て上げるためのダミー偶像だと考えられるので(もちろん、そのモデルは、蘇我氏の誰かであり、多分それは、他ならぬ入鹿である?!)、本当は、秦氏(河勝)は、蘇我氏を疎ましく思っていたということでもある?!ただし、蘇我氏(入鹿)に頼られていたということは事実であろう?!その意味では、ある種の「裏切り?」ということでもある?!だから、恨まれている?!だから、歴史の表舞台に出てこない(これない?)ということである?!
しかも、これについては、面白い話がある!それは、実物の聖徳太子像と言われる、秦氏(氏寺)の広隆寺の「弥勒菩薩像」について、当寺(秦氏)は、その菩薩像に、天皇の着衣(天の羽衣?)を、毎年かどうかは忘れたが、着せ替えさせてきた?ということである?!もし、そうであれば、それは、他ならぬ、大いなる「懺悔」「罪滅ぼし?」の形であることは間違いない?!要は、世人が認める大義名分が、その殺人?(クーデター)にはなかった?!つまり、蘇我氏は、正当な権力者(王家?)であり、まさしく善玉であったということでもある?!
と言うことは、そこには、壮大なからくり?があり、聖徳太子(の存在)は、日本書紀を編纂した藤原氏(不比等)によって創作された蘇我氏(入鹿?)の虚像であり、本来の王族(上宮王家)であった蘇我氏(本宗家)を悪逆な手法で葬り去った藤原氏の、まさに歴史の捏造(事件の隠蔽)であったということである?!しかも、そのからくりは、聖人「聖徳太子」がそうであればあるほど、その子「山背大兄皇子」を滅ぼした(とされる)蘇我氏(入鹿)は、極悪人となっていくという、考えてみれば、まことに恐ろしいドラマ仕立て?だったのである?!
あまりに狡猾な?、歴史改竄?の手口だったのでもある?!それに、秦氏が、一枚噛んでいたわけである?!
したがって、そのことと、すべてが結びつくかどうかは分からないが、秦氏(本宗家)が、(そうした罪悪?によって?)俗世の人達からは疎まれ(恨まれ?)、公け(政治)の場には、直接顔を見せることがなく(出来なかった?)、産業振興や商業あるいは宗教・文化的な面で、大いに活躍(暗躍?)し、財力もつけ、例えば、桓武の「平安京」遷都に際しては、広大な土地と費用を提供したのでもある!いずれにしても、歴史の前面に出ることがなかった(出来なかった)ということである(これらも、基本的には、例の関裕二氏の本からである!)?!
(3)「素戔嗚命」(辰王国の宗家?)と関わる「秦氏」?!しかし、列島では、百済系(縢→応神)と組んだ?!
翻って、実は、本号(17)を書き進めるにあたって、もう一度、あの難解な、斎藤忠氏の本『消された日本建国の謎』を読み込んでみた!もちろん、そこには、彼の偉大なる?理論、つまり「列島における『ヤマヒト』と『ウミヒト』の相克史」が、驚くばかりの視点や切り口(分子生物学の知見や倭人の「戯訓術」の解析等)によって展開されているのであるが(正直言って、かなりの予備知識と理解力、そして辛抱強さが求められる?)、その相克(史)?における「秦氏」の存在・役割が、半島(史)と列島(史)の関係の中で示されているのである!
「倭」「倭人」、「倭国」「日本国」、「邪馬壹いち国」「邪馬臺だい国」、さらには「大八洲国」「葦原中つ国」、あるいは「日華国(対馬?)」「月氏国(壱岐?)」等の概念、相互関係、その版図等、そしてまた、そこにおける「スサノオ(牛頭天王)信仰」、八坂神社や日吉大社(「大山咋」信仰)、さらには松尾大社や稲荷大社等、その信仰の背景や意趣等に関わる、「大倭人おおあま族」の、半島及び列島(壱岐・対馬を含む!)における、各々の氏族・勢力の関係や移動・進出の実相?が、実に細かに描かれているのである?!とにかく、改めて、そのような知見?の中で、秦氏(の事績)と応神(の人格・事績)、そして蘇我氏は、一体どのような結びつきがあるのか?
繰り返すように、私は、記紀の「万世一系づくり」の中で、「応神」(の存在・役割)が最も重要な部分であり、それはまた、ある特定の人物(勢力)の存在・役割の投影であると睨んでいるのであるが、そこに、秦氏や蘇我氏が、どのように絡んでいるのかということである?!すなわち、応神の母親とされている「神功皇后(息長帯姫)」や、その父親とされている「仲哀」(ないしは「武内宿禰」?→私は、こちら方ではないかと思っている!)について
は、その信憑性(史実性?)はないと思われるが、氏の所論からは、通説の枠組み(手枷足枷?)を越えた、半島と列島の、まさしく「大倭人族」の国(連邦?)と、そこにおける各部族・勢力(半島側では、後の馬(慕)韓・辰(秦)韓・弁韓<弁辰→伽耶6国?>)。列島側では、倭奴国、倭国、邪馬壹いち国、邪馬臺だい国といった国または諸国)の全体の関係や、そこにおける交流や衝突の足跡が、驚くほどの枠組み?の中で示されているのである?!
「応神」、そして「秦氏」は(もちろん「蘇我氏」も?!)、その大きな枠組みの中で捉えられるべきものだということであるが、たとえそれが、今はまだ「勇み足?」であったとしても、これまでになかった、新たな可能性(史実?)を示すものであることは間違いない?!蓋けだし、そこに「秦氏」と「素戔嗚命系?→蘇我氏」の関係(双方は、「辰王国」の連枝?)が横たわっているのである?!そして、そのことは、一方で、例の兼川晋氏の指摘、すなわち、百済の王族(本宗家沸流びりゅ系余氏)・縢とう(久留米市のの「高良大社」の祭神「玉垂命」or「高良大菩薩」とされている?!)が、まさに「応神」に仮託されているということがあるが、その辺りの知見(推理?)と重ね合わせていけば、「蘇我氏」と「秦氏」が、実は、のっぴきならない「因縁」で結びついているということにもなる?!
例えば、件の「蘇我氏」であるが、そこには、まさに「蘇る我れ!」という戯訓が込められているというが(これも、関裕二に拠る!実際には、多くの用字・当て字も存在するが?)、(北)九州において?「上宮王家」として蘇った?「蘇我氏」が、「応神(縢?)」を介して、稲目・馬子の代に、大和飛鳥に拠点を移した?!すなわち、「武内宿禰」の末裔とされる「蘇我氏」(葛城・平群・紀氏等も!)は、大きくは「出雲系」とされるが、その「蘇我氏」
が、(北)九州で、そしておそらく、百済の王族(縢)の渡来との絡みの中で、具体的には、「貴(基肄きい?)国→大倭たいヰor 俀たい国」において、まさしく「蘇る我れ!」となった?!そんな構想(夢想?)も、今新たに頭を擡げている状況なのでもある(繰り返すが、そこの辺りが、記紀においては一番暈されている?!)!なお、これが解明出来れば、ほぼ私の古代史の旅も終わる?!しかし、まだまだその途上であることは言うまでもない?!
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