蘇我氏はスサノオの末裔か?

https://books.j-cast.com/topics/2023/07/21021540.html 【スサノヲは蘇我氏の祖先だった⁉ 「日本書紀」に隠された謎】より

 2023年7月18日、歴史作家として古代史研究に取り組んできた関裕二さんの新著『スサノヲの正体』(新潮社)が発売された。

『日本書紀』でスサノヲは「悪神」として生まれるのに対して、『古事記』では「貴子」として誕生する。また、スサノヲが高天原を去る場面についても、意味付けに差がある。どちらも亡き母親がいる「根の国」に行くように父イザナキから促されるのだが、『古事記』では「派遣する」という意味の言葉が使われているのに対して、『日本書記』では「追放する」という意味の言葉が使われている。

 なぜこうした違いが出てくるのか。関さんは、その理由はスサノヲの子孫の存在にあると論じている。『日本書紀』編纂の中心にいたのは、中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに乙巳(いっし)の変(大化の改新)で蘇我入鹿を滅ぼした藤原鎌足の子どもである藤原不比等。そして、スサノヲが蘇我氏の祖先だとすれば......。藤原氏は政敵である蘇我氏の祖神であるスサノヲを徹底的に貶め、そのつながりを消すことに全力を尽くしたというのだ。

 本書ではスサノヲの正体を探っていく中で、なぜ実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやったのか、そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのか、なぜ歴代天皇は明治になるまで伊勢神宮を訪れなかったのか、明治天皇が東京に遷御したあとスサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)を武蔵国の鎮守勅祭の社と定めたのはなぜなのか、大阪の住吉大社にある「住吉大神と神功皇后が夫婦の秘め事をした」という言い伝えは何を意味するのか......などなど、多くの謎を解いていく。古代史研究の鬼才による謎解きを存分に楽しめる1冊だ。

【目次】

序 章 スサノヲはどこに祀られているか

氷川神社は出雲の流れを汲む/天皇家とスサノヲの不思議な関係/なぜ伊勢ではなく熊野なのか/大自然と同じ恐ろしい神/弥生的ではなく縄文的

第一章 なぜ古事記で敬われ、書紀で蔑まれるか

考古学が示した「出雲国譲り神話」の現実味/本居宣長から始まるスサノヲ研究史/『古事記』は『日本書紀』のウソを告発する書

第二章 ヤマト建国の立役者は誰だったのか

ヤマト建国の地・纏向に北部九州の土器は流れ込んでいない/建国のきっかけは近江・東海の勃興/『播磨国風土記』に残された出雲とタニハの戦い/住吉大神と神功皇后の秘め事/崇神が神武・応神をヤマトに呼び寄せた

第三章 天皇家の祖神はスサノヲなのか

「アマテラスと大物主神は一体分身」/なぜ崇神はアマテラスを遠ざけたのか/持統の伊勢行幸に反対した三輪氏/明治まで歴代天皇は伊勢に参っていない/スサノヲと蘇我氏の共通点/新羅王子のアメノヒボコ 

第四章 なぜスサノヲは「抹殺」されたか

スサノヲはタニハからやって来た/タニハと新羅/「出雲の国譲り」タケミカヅチは尾張系?/発展しなかった尾張/天香具山とナガスネビコ/住吉大社が続ける神事の意味/持統天皇の万葉歌の真意/ヤマトの真の太陽神

終章  甦る縄文の魂とスサノヲ

縄文の神/文明的価値体系への疑問/スサノヲの問いかけ/古代人のシンボル的存在

■関裕二さんプロフィール

せき・ゆうじ/1959(昭和34)年、千葉県柏市生れ。歴史作家、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅了されて奈良に通いつめ、独学で古代史を学ぶ。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『神武天皇vs.卑弥呼』『古代史の正体』など著書多数。 


Facebook横田 とみ子さん投稿記事物部氏の 正体   関裕二氏

そら見つ日本(やまと)の国。この名はニギハヤヒによって作られた。そのニギハヤヒを祖とする物部氏。かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。

物部の謎は、日本の謎である。

数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。

 研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。

 いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。

 だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。

 なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。

 いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。

 けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。

 一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。

 物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。

 まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。

 では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。


https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/57b1a685d6d9ad504d4bafcb4647fb31 【蘇我氏はスサノオの末裔か?】より

新年早々に人畜無害とも云えないが、荒唐無稽な話で恐縮である。

蘇我氏の祖は、6世紀前半の蘇我稲目であるが、それ以前は種々取沙汰されているがよくわからない。神功皇后伝承に登場する武内宿祢を祖とするとも云うが推測の域を出ない。葛城氏に連なる説が有力とされるが、渡来人説も存在する。要するに分からないことからスサノオに結び付けてみた。『日本書紀』の蘇我氏の系譜に、高麗(こま)や韓子(からこ)といった渡来系の名が記されている。

『日本書紀』は、蘇我氏は大王家(天皇家)をないがしろにして専横を極めたと記す。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を誅滅する乙巳(いっし)の変が記されている。つまり大王家に弓牽く大逆無道の徒との表現である。

スサノオに話を移す。スサノオは朝鮮半島と繋がる。『日本書紀』では、新羅に天降ったあと、御子の五十猛命(いそたけるのみこと)と共に出雲に渡り、八岐大蛇を退治した。スサノオがクシナダヒメと共に宮居を構えたのが須賀で、現在は須我神社が在る。

(スサノオ像:出雲市駅前通り)

(スサノオと清之湯山主三名狭漏彦八島野命を祀る須我神社)

その主祭神は、スサノオと御子神の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、一般的には八島土奴美神(やしまじぬみのかみ)と呼ばれている。一説によれば、これらの呼称はオオナムチ(オオクニヌシ)の別名とされている。この神は但馬一之宮の粟鹿(あわが)神社の書物『粟鹿大明神之記』には、『蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻奴(そがのゆきやまぬしみなさむるひこやしましぬ)』と表記されているという。

(大国主命像:出雲大社境内)

『清・すが』が『蘇我・そが』となっている点に注目したい。また出雲大社の摂社で、スサノオを祀る『素鵞社』は、『そがのやしろ』と読まれている。また蘇我氏の神社である奈良県の『入鹿神社』には、入鹿と共にスサノオが祀られている。そう云えば、蘇我氏の勢力範囲には、なぜか多くの出雲神が鎮座している。

(スサノオを祀る素鵞社:出雲大社境内)

(入鹿とスサノオを祀る入鹿神社:橿原市)

以上、やや荒唐無稽で根拠に薄い話しであるが、上述のことは妙に符号する。但し、証明不能の話である。

証明不能と云えば、以下の異説も存在する。『出雲と蘇我王国』なる斎木雲州氏の著書が存在する。ことの発端は、司馬遼太郎氏の『歴史と小説・出雲のふしぎ』に登場するT氏が語った事柄からである。T氏とは産経新聞に勤務していた富當雄氏のことである。その子息が著者の斎木雲州氏である。そこには以下のように記されている。要点のみ掲載する。

出雲王国は、二王制であり主王と副王があった。主王の職名は『大名持』と呼ばれた。王家には、向家と神門臣家があった。そして主王は向家と神門臣家から交代で就任した。紀元前3世紀末に秦國から徐福(じょふく:スサノオ)の集団が、石見国の五十猛に上陸した。高照姫は大国主の姫で、徐福(スサノオ)に嫁ぎ五十猛命を生んだ。ここまでを要約すると、大名持=大国主=出雲王、大国主の娘が徐福すなわちスサノオに嫁いだ。出雲王家は向家と神門臣家であった・・・と云うことになる。

更に下記の如く記述が続く。北陸蘇我家は、向家から嫁や養子を迎えた親族であった。出雲王家にオホドノ御子が生まれ、成長したのち越前国造家の養子に迎えられ、蘇我刀自の婿君になった。蘇我国造オホド王は日本海交易で力をつけ、オホド王は出雲王家出身であり、関東の出雲系国造群の勢力が支援し、その勢力はヤマトの大王の勢力に匹敵した。

平群王朝の後期の大王は、重臣の大伴氏や物部氏に見限られ、大伴金村と巨勢臣男人が、越前三国に出向き、大王就任を申し込んだ・・・とある。

つまり、オホド王は出雲王家出身で越前蘇我家に婿入りした。出雲王家はスサノオに繋がる。ココにスサノオと、蘇我家、オホド王が繋がることになる。しかし、この説は異端とは云わないが異説の類である。しかし、異説にせよ繋がるのは、何かしらの因縁が背景にあったと考えてもよさそうだ。

(オホド王像:福井市足羽山 Wikipediaより)

(物部神社:島根県大田市)

しかし、出雲国と国境を接する石見国安濃郡川合村に物部神社が鎮座している。継体天皇8年に社殿が創建されたとある。この物部神社は、出雲の監視がその目的であったと云われている。出雲の監視と云えば、スサノオ、大国主、出雲王家すなわち蘇我氏を監視する意味はあるが、その創建が継体天皇によるとすれば、辻褄が合わない。継体天皇が蘇我氏につながり、ひいては出雲王家に繋がるのに、なぜ継体天皇の時代に、自分の出自とつながる出雲を監視するのか。

最後は、訳の分からない話となったが、蘇我氏はスサノオの末裔か?・・・とのテーマで証明不能の話をまとめてみた。歴史(私文書や口承伝承)は、多方面で伝えられ、互いに照合されたものではないことを物語っている。当該ブロガーによる好き放題の表現をするなら、歴史は各氏族に都合の良いように勝手に作られ、真相は闇状態で将来的にも解明不能であろう。


https://hassaku01.net/2021/12/02/%E3%80%90%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%81%A8%E8%98%87%E6%88%91%E5%85%A5%E9%B9%BF%E3%80%91%E9%AC%BC%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%8C%E4%BA%BA/ 【【スサノオと蘇我入鹿】鬼にされた二人】より

こんにちは、はっさくです。今日は、島根県大東町にある須我神社に行ってきました。

ここは古事記に記される、日本で最初のお宮です。よく神社巡りをするのですが、須佐、須我...似たような名前が多く、混乱することがあります。そこで、はっさくなりの考察をしてみようと思います。似ている名は、音韻が変化して元は同じ意味なのでは?

それでは、スサノオの時代より後の蘇我の名前も音韻が変化したものでは?さあ、スサノオと蘇我氏の共通点探しに行きましょう!

日本書紀の中の二人 まずは、スサノオから。

スサノオが天上界から追放される場面

長雨が降る中、青草を束ね蓑笠として、宿を神々に乞こうた

次は蘇我入鹿。

大空に竜に乗った者がいた。(ちなみにスサノオ系は龍神信仰)

唐人に似ていて、青い油の笠を着て...

蘇我入鹿はもうひとつ。

斉明天皇の葬儀の場面

葬儀に「鬼」が現れた。

朝倉山の上で鬼が大笠を着て葬儀を見ていた

「日本書紀」ではこの鬼の正体は分かりませんが、「扶桑略記」に蘇我入鹿の霊魂とあります。はっさくが思うに、笠を着ているのは醜いからだ(あの世から戻ってきた為にゾンビのような見た目をしている)をかくすため。笠を着ている者は鬼である。

スサノオも蘇我入鹿も笠を着た鬼というわけです。なぜ鬼にされてしまった?

はっさくの考察はこうです。

出雲大社のスサノオの社は「素鵞そがの社」といいます。蘇我入鹿はスサノオの子孫なのでは?だって、同じ苗字ですもの。初めにスサノオが文化や技術を広めた「出雲」後から日本に入ってきた「大和」(はっさくはアマテラス軍だと思っているよ)そりゃあ、スサノオ系の人たちを悪者にしたいよね...アマテラス系を正当化したいよね...

だけど、鬼になって戻ってくるかもしれないなんて思っていたのは、スサノオ系の人たちを相当恐れていたんでしょうね。

昔は疫病や戦の敗北など、祟りだと思っていたのでしょう。

祟りを鎮めるために(元々の勢力の反抗をかわないように)、神武天皇は出雲神系の娘を嫁に迎えたり、崇神天皇(一説には神武天皇と同一人物)の時代には疫病が蔓延し大物主命(大国主命ともいわれているよ)を祀まつったり...

鬼にしてしまったことを後ろめたく思っていたのでしょうね😥

神と鬼

全く関係ないのですが、「九鬼文書」というものがあります。くかみもんじょと読みます。

鬼を神と読む!!!!鬼もまた神なのです。ひとの手によって鬼にされてしまった神様なのです。鬼門というものがありますが、これもまた神様の門なのでは?

目に見えない力を、畏れ敬い今日の日本人の考え方や文化が出来上がってきたのではないでしょうか。

終わりに

今まで、日本書紀や古事記は「神話」という括りでした。しか~し、はっさくはこの目で見てしまったのです!数年前、たまたま出雲大社に参拝に行った時境内の地下から「こんにちは」している、杉の大木三本をひとくくりにした巨大な柱を!

あれを見た瞬間、神は物語でなく先人として実在したんだと思いました。古代日本にどれだけのドラマがあったのだろうと考えるととても面白いじゃないですか!

神話には史実が隠されている...ん~、ロマンです。

みなさんも、はっさくと共に出雲神話ロマンを旅してみませんか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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