https://note.com/nostalgic_japan/n/n60e0f7bd1baa 【本善寺 吉野・上市ぶらり散歩】より
水田 壮彦
吉野は古くから林業で栄んな地。500年以上にわたって植林と伐採が行われる独自の造林技術によって、良質の「吉野材」を生み出し続けています。吉野川沿いの上市は吉野の山で伐採された材木が、吉野川上流から降ってきて、集積した場所です。上市に集まった材木は本数は長さがチェックされて、日本各地へと送られていきました。上市は伊勢街道筋にあり、山上詣・高野詣・伊勢詣の拠点でもあり、吉野川筋の奥の山里を商圏とした市場町・街道町でした。現在も繁栄を偲ぶことができる建物が立ち並ぶレトロな雰囲気の街並みが残っていて、ノスタルジックな気分を味わいながら歩くことができます。また製材所が今も操業していて、木の香りも感じることができます。
そんな上市の高台にあるお寺が本善寺。かつての料亭旅館をリノベーションしたゲストハウス三奇楼内にある「TENJIKU吉野」に泊まった時、窓から眺めると、対岸に立派なお寺が見えて、気になったので足を運んでみました。
お寺は浄土真宗本願寺派。室町時代の文明8年(1476)に真宗本願寺第8世宗主で、中興の祖といわれる蓮如によって創建されたという由緒あるお寺。戦国時代に浄土真宗本願寺勢力と織田信長が戦った石山合戦の際に、織田信長の命を受けた筒井順慶が石山本願寺に呼応した吉野の浄土真宗(一向宗)を制圧した吉野攻めによって、寺は焼けてしまいますが、江戸時代に再建されました。
寺の本堂をはじめ、山門、庫裡、蓮如堂、鐘楼など11棟の建物が国指定登録有形文化財に指定されています。本堂は入母屋造本瓦葺の建物で重厚で風格も抜群です。
吉野は「森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ~美林連なる造林発祥の地 吉野 ~」というストーリーで日本遺産に認定されていて、お寺も日本遺産の構成資産の一つになっています。
吉野の魅力の奥深さを感じることができること間違いなし。足を運ぶ価値ありです。また郡山市にある奈良県立民俗博物館では吉野の林業で使われた道具が約1,900点収蔵・展示されていて「吉野林業用具と林産加工用具」として国指定重要有形民俗文化財に指定されています。吉野杉の伐り出しの様子やジオラマは圧巻です。
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story031/ 【森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ】より
~美林連なる造林発祥の地“吉野”~
我が国造林発祥の地である奈良県吉野地域には、約500年にわたり培われた造林技術により育まれた重厚な深緑の絨毯の如き日本一の人工の森と、森に暮らす人々が神仏坐す地として守り続ける野趣溢れる天然の森が、訪れる人々を圧倒する景観で迎えてくれる。
ここに暮らす人々が、それらの森を長きに亘って育み、育まれる中で作り上げた食や暮らしの文化が今に伝わり、訪れる者はそれを体感して楽しむことができる。
https://www.youtube.com/watch?v=0iS4VCE971U
天然の森から人工の森へ
奈良県南部の吉野地域に古代から広がっていた豊かな天然の森は、我が国屈指の多雨地帯であり、湿潤であるために多様な植物が密生していた。それ故に、そこで育つ木々が大径になるには他の地域より時間を要して、細やかな年輪と強靱な性質を持っていた。中世までは、そのような森の木を伐採することは、山や森に坐す神仏を祭祀する金峯山寺(きんぷせんじ)などの寺社を造営する必要に迫られた時に限られ、伐採しても自然の回復を待つことが常であった。
戦国期に至って、この地域の森と暮らしに大きな変化が訪れた。近畿各地で城郭や寺社の建築が増え、その用材として吉野の森林資源が注目されるようになった。それを効率的に運び出すために、蛇行する河川の岸壁を開削することで河川の流路改修が進められた。その結果、吉野の天然林は次々と伐採され、筏に組まれて運び出されていった。
このような流れの中で、伐採可能な天然林が徐々に減少したため、需要に応えるためには植林の必要に迫られるようになり、天然林が伐採されたあとに、建築材としてより価値の高い杉や桧が植えられるようになった。室町後期、川上村で初めて植林が行われたことが最古の記録であり、現に樹齢約400年の植林の森が川上村下多古(しもたこ)地区にある。
江戸中期になると、江戸などの大都市で灘や伊丹の酒の需要が高まり、その輸送用の樽の材料として吉野地方の木材の需要が増え、海上輸送をはじめとする長期の輸送にも耐えうるよう更に品質を上げるために、植林、育林方法に工夫がなされるようになった。植林は、他の地域では1ha当たり3千本から4千本の植え付けが一般的だが、吉野地域では1ha当たり1万本の苗を植え付ける「密植(みっしょく)」という方法がとられた。その後は、「多間伐(たかんばつ)」という方法がとられ、成長が悪い木を除伐しながら、木の生長に合わせて間伐を何度も繰り返す作業を行う。
そして、一般的には40年から50年とされている最終伐期を、吉野では80年から100年以上に引き延ばす「長伐期(ちょうばつき)」施業という独自の技術を創造した。その結果、木の外回りが真ん丸に近い真円で、まっすぐに育った木々は年輪幅がほぼ一定で密であるために強度が強く、色艶や香りの良い、どの地域の材よりも美しい杉桧の「吉野材」を生み出すこととなった。この優れた林業技術によって、この地域の山々には、等間隔に、且つ真っ直ぐに立ち並ぶ見事な人工の美林が作りあげられることとなった。
森に生きた人々のこころの証
しかし、吉野の人々は全ての山々を人工林に変えることはしなかった。人々は、山々を神仏と仰ぎ、その頂は神仏の頭であり、稜線伝いの道は神仏を巡る修行の道として、その周辺の天然の森には手を着けることなく守り続けた。
古代から人々は、神仏と仰ぐ森や山、そこから流れ出る水などの依り代として祠を設けて祀った。中には、平安時代以降、皇室や摂関家など貴顕の尊崇を受けることとなった吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)や丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)、金峯山寺などように豪壮な寺社に発展したところもある。
山の神の信仰
また、人工林は、山の暮らしに富をもたらしてくれる有難い存在として、人々は山の神と仰ぎ、ささやかな祠を設けて、今もその祭事が各所で執り行われている。
森の資源を活かした生活文化
吉野建
吉野地方の多くは、急峻な地形が多く、宅地や田畑となる平地や緩斜面は極めて少なく、それ故に、石垣を積んで宅地や田畑を造り、あるいはまた、谷側を背にして斜面に張り付くような「吉野建(よしのだて)」と呼ばれる建築様式が形成された。
吉野町や下市町を除く村部には大規模な集落は少なく、緩斜面を削平した宅地に建つ民家や吉野建の民家が集まる小集落が谷間や山の中腹に点在し、大抵は山仕事を生業としてきた。しかし、中には山や森などを神仏と仰ぐ修験者が修行する前進基地として、その山の入り口に当たる稜線伝いの吉野町吉野山地区や、河川伝いの狭隘な地域である天川村洞川(どろがわ)地区のように旅館や山修行の手伝いを生業とする民家が混在する集落も形成された。
これらの集落での生活に必要な道具は、自ずと森の木々を利用した物が多い。下市町の三宝(さんぼう)などに代表される曲物(まげもの)が室町中期から作られたほか、江戸中期からは全国に先駆けて、黒滝村などでは樽丸(たるまる)という樽の側板材が盛んに生産され、全国生産量の殆どを明治期に至るまで吉野地方が担っていた。明治初期からは、樽丸生産や製材の過程ででる端材を利用した割箸作りが下市町で考案され、吉野町や下市町などで割箸が盛んに生産されるようになり、これもまた全国生産量の殆どを担っていた。
傾斜地や谷間に暮らすこの地域の人々は、米作に適さない土地柄であるが故に、森の恵みに食材を求め、あるいは環境に合う作物や加工食品をつくり、食生活を充たしてきた。また、保存効果や殺菌効果が高いとされる柿や朴(ほう)の葉などを利用した寿司を作る文化が形成されて、吉野川に沿った地域では柿の葉寿司、黒滝村・天川村・下市町などでは朴の葉寿司が今に伝わっている。下北山村や上北山村などは栃餅に代表される森の恵みに栄養源を求めることもあった。また、吉野地域で生産された葛は、「吉野葛」として料理に利用されるほか、葛湯、葛餅、葛菓子、葛きりなどの材料として全国にその名が知られる。
造林発祥の地“吉野”で車を走らせれば、人工の常緑の森が、重厚で一糸乱れぬ装いで広がるかと思えば、天然の森の色形ともに変化に富む景観が現れる。この地域の二つの壮大な美林連なる景観の中で、人々はその造林技術と育み育まれた森への祈りを今に伝え、訪れる者はその森とともに暮らす生活を実感することができる。
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