下野の仏教文化

https://www.ritsumei-fubo.com/fudoki/st06/ 【下野の仏教文化】より

 8世紀初頭、下毛野子麻呂(しもつけののこまろ)なる官人が、刑部親王や藤原不比等らと共に大宝律令の撰定に携わり、諸王・諸臣に対して大宝令を講説した。その功績により禄や田・封戸等を賜った子麻呂は、兵部卿や式部卿などの要職を歴任したが、下毛野氏という氏族は下野国(現・栃木県)の国造で、その祖先は、崇神朝に東国に派遣された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)であるという。君(きみ)姓の下毛野氏は、天武13年(684)に朝臣の姓が与えられる。この天武朝に、一族の故郷である下野の地に薬師寺が建立された。一説には、子麻呂の創建と伝える。

 下野薬師寺がいつの時点で官寺としての扱いを受けることになったのかなど、定かでない部分も大きいが、天平5年(733)にはこの寺院の造営にあたる官司が存在しており、次第に伽藍が整えられたと考えられる。天平勝宝元年(749)、寺院単位で開墾の許される田地の面積が、法隆寺や四天王寺など中央の官寺や筑紫の観世音寺と並び、500町と規定され、間違いなく東国の官寺として扱われていた。

 同6年(754)、唐より鑑真が来朝した年に、薬師寺の行信なる僧が厭魅(えんみ)を行ったかどでこの寺院に流された。行信と言えば、聖徳太子の功績顕彰や斑鳩宮跡地に法隆寺東院伽藍を造立することに尽力した僧で、現存する法隆寺夢殿にその塑像(国宝)が安置されている。天平十年代には、僧綱として仏教行政を取り仕切った痕跡を留めるが、その出自など謎の部分が大きく、宇佐八幡神の神官と結託して引き起こしたという厭魅事件も、具体的な中身は分からず、下野に配されて以降の動向も全く定かでない。

 行信配流の16年後の宝亀元年(770)に、同じくこの地に配流となったのが、著名な道鏡である。称徳天皇の寵遇を受け、太政大臣禅師から法王へと昇任し、さらには、宇佐八幡神の託宣により皇位の継承が取り沙汰された道鏡であるが、女帝の崩御により失脚を余儀なくされ、造下野薬師寺別当としてここに遣わされることになる。道鏡は2年後に死去し、庶人の扱いでこの地に葬られた。

 一人前の僧侶となるには、得度と受戒の二つの階梯を経る必要があり、朝廷の公認する受戒の場は、大和の東大寺と、東国の下野薬師寺、西国の筑紫観世音寺の三寺院に設置された戒壇に限られていた。下野の地に東国の戒壇が置かれた理由としては、先述の下毛野子麻呂といった中央で活躍した官人の動向もさることながら、天武朝に多くの新羅人が配されるなど、この地が文化的に先進性を有したことに注目する必要がある。

 下野薬師寺に戒壇が置かれたのは、一説には天平宝字5年(761)とされるが、このころ東国出身で鑑真の教えを受けた道忠という僧が下野に赴き、戒壇の設立に尽くしたと言われる。道忠は、延暦16年(797)に十禅師に任じられて比叡山を下った最澄の要請を受け、一切経の書写を助けたとされる。この道忠門下の円澄が最澄の高弟となり、天長10年(833)第二代天台座主の地位に就く。同じく道忠門下の広智は、弘仁8年(817)東国巡化に訪れた最澄より下野国大慈寺で大乗戒を受けるが、広智が育成した円仁が天台宗の発展に大きく寄与するなど、下野にゆかりのある僧が初期天台教団で要職につき、平安仏教の胎動を導く要因となるのである。


http://sskmszm.com/?p=20804 【[神社] 八幡神社が一番多い理由、その2】より

歴史上とても大きな出来事が起きます。聖武天皇の登場です。仏教に帰依し、大プロジェクトを計画します。奈良に大仏を建立し、そこを中心にした仏教による国家統制 諸国を区分けし、その県庁所在地的なところに県庁ならぬ、寺院を建てるべしとの大号令。

これは、聖徳太子のときの宣言どころではありません。極めて大々的で実践的な仏教国家構想。神社はもう存在価値がありません。普通の神社は恐怖におののきますがこれをチャンスと考えた唯一の神社そうです。八幡神です。

良いですねぇ素晴らしいじゃないですか、大賛成。大々的に協力させていただきます。

聖武天皇としてもほっと胸を撫で下ろしたんではないでしょうか

少し前に、八幡宮は官幣(かんぺい)というのを賜っています。

これによって完全に形式的にも、伊勢神宮と肩を並べたことになります。

その堂々のNo2が、反発すれば寺と神社の全面戦争というのもあり得た訳です。

途中で金(きん)が足りなくなるや分かりました。八幡宮が何とかしましょう。

八幡宮には全く頭が上がらなくなりました。

天平勝宝元(750)年11月19日には、八幡大神が奈良へと大行列を従えてやって来ます。

朝廷も大々的におもてなし。ガッチリタッグ

全国の県庁に当たる国分寺・国分尼寺の横には

鎮守(ちんじゅ)と言うんですが、寺を守るための神社を全てセットで建設することになり

八幡宮が独占。これによって、元々九州の一地方の神様だったのに全国津々浦々に行き渡る神社となった訳です。

厭魅事件(えんみじけん)

もう怖いもんなし。イケイケだっ、と言いたいところですが、ちょっと失敗

天平勝宝6(756)年11月24日ですから、奈良の大仏が出来たすぐあと厭魅事件(えんみじけん)というのがおきます。

薬師寺の僧行信が八幡神宮の主神大神田麻呂らと共謀し、厭魅(呪詛)を行ったということで逮捕

現代人にはとても分かりにくい事件ですが誰かを呪い殺そうとした殺人未遂事件です。

八幡宮の神主さんたちは流罪等々 せっかくの絶頂期が水の泡

ここで、八幡神は、お告げによって積極的に喋れるという特性を活かします。

私はけがらわしく、過ちがございました。

よって、反省するため、海の向こうの四国へ行って12年間謹慎してきます。今回色々頂いた土地とかも返納します。すぐに潔く、神様自らが、記者会見って事です。

神様なのに非を認めるってすごいですね。しかも12年間も謹慎。

他の宗教なら神様が過ちをおかすって理論的にあり得ません。

もしこうしていなかったら、日の出の勢いだっただけに、やっかみから総スカンを喰らっていたかも。

12年間、宇佐八幡宮では神様自体がいないという異常事態を、力を合わせて乗りきります。

大事件

謹慎明け 厭魅事件を上回る大事件が起きます。

日本史の三大不思議のひとつに数えられるんじゃないでしょうか。

現代人の我々には全く理解不能です。

時の天皇は女帝。称徳天皇です。当時は今と違って、女性の天皇が認められています。

ところが、女系の天皇はダメ すなわち、女性の天皇が産んだ子供は次期天皇とは認められない。

従って、女性の天皇は子供を産んじゃうと話がややこしくなるので、産んじゃダメと言われる。

結婚できないんです。称徳天皇は愛した男性がいました。道鏡というお坊さんです。

結婚できないとなると余計に募る恋心。愛してるわ 僕もだよ 当然、世間では知らぬものはおりません。

宇佐八幡の主神(かんづかさ)習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が忖度(そんたく)したんでしょうね

私は八幡神のこんなお告げを聞きました。道鏡を次の天皇にせよ。しからば世は安泰。

世の中上へ下への大騒ぎになります。

万世一系ということになっている天皇家の権威を守るため結婚できないのどうのと言っているのにそもそも、天皇家でも何でもない人を天皇に据えろと。これってものすごいことですよね。

大騒ぎになるってことは統治の仕組みの根本部分まで八幡神が決められる権威と権限を持っていると誰しもが認めている事になります。

称徳天皇は、和気清麻呂(わけのきよまろ)を呼んだ。

あなたが九州に行って、八幡神に直接聞いてきなさい。分かっているわね(と目配せ)

もし、吉報がもたらせるなら、あなたも出世させてあげようじゃないの。

和気清麻呂は、宇佐で、お告げを聞く 必ず、天皇の血筋を持ったものを天皇とすべし。

帰って報告

称徳天皇も道鏡も大激怒

お前は今日から、和気清麻呂ではなく、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と名前を変えよ。

名前を変えさせられた上、流罪 何と言われようが、黒を白とは言えませんっ

翌年、称徳天皇崩御 名誉回復がなり、名前も戻ります。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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