https://hitakami.takoffc.info/2016/10/kitakami_hitakami/ 【北上川 -日高見(ひたかみ)とは何か-】より
◆北上川名称の沿革◆
(東北地建岩手工事事務所編「北上川 第一輯」(S48.3 同所発行)より)
はじめに
北上川は、その源を岩手県の北部山塊の中に在る北上山御堂観音の境内より湧出し、丹藤(たんとう)川等北上、奥羽両山脈より発する大小幾多の支川を合せ、岩手県を北より南へ貫流し、一関市地内狐禅寺(こぜんじ)において狭窄部へ人り、山の内26㎞を流下し宮城県に入る。…
北上川の名は、古来その呼ぶ所種々あり、北上川の文字を当てるに至ったのは鎌倉初期を以って上限とされ、それ以前における称呼は時代と共に推移するところである。
一、日河(ひのかわ)
北上川が大河川として史上あらわれるは、(続日本紀の)天平宝字4年(760)の条に《宮城県牡鹿郡より大河をわたり、峻嶺(しんれい)をこえて桃生柵を建置した。これによって賊は肝胆(かんたん)を奪われ伏した。》と記している(1)。この大河は北上川であることに誤りはないがその名称は明らかでない。…
岩手県内における河の初見は桃生城建置後20年を経た宝亀11年(780)2月2日の条に(1)…
《衣川以北に蛮居(ばんきょ)する胆沢の賊を討伐せんとせしが同年は例年より寒さきびしく河はすでに凍て船を通ずる事が出来なかった》ことを述べているが、軍船を通ずる程の河川は北上川以外にないのであるから北上川が凍結し通船出来ない事を伝えたものである。
更に、河川の名称が知られるのは、延暦8年(789)6月3日の条に《征東将軍紀古佐美、副将軍入間宿弥廣成、右中将池田真枚、前軍別将安倍援嶋等と計り、三軍協力し河(北上川)を渡り東岸に賊師阿弖流為(アテルイ)等を討つの時、巣伏村 (水沢市四丑(しうす))において官軍は前後に敵を受け戦死者25人、矢にあたり傷つくもの245人、河に入り溺死するもの1,036人裸で游(およ)ぎ帰るもの1,257人に及ぶ大敗を喫(きっ)した》とある。
此の時、右中将池田真枚が日上乃湊(ひのかみのみなと)において溺(おぼ)るる者を扶け、その功により敗戦の罪は免ぜられた(1) 。…
ここに言うところの「日上乃湊」は日上川(ひのかみかわ)の湊(みなと)であり、日高見川(ひたかみかわ)の船付場を指すものであって、石巻等の海港を言うのではない。
更に、日河と省略される場合もある。いずれも日高見川を指すものである。延暦16年(797)6月桓武天皇に上表するところに(1)…
「威振二日河之東一」は日高見川の東に桃生城を建置してより、毛狄(もうてき)(蝦夷)のそむくことがないというのであるが、日高見川を日河、日上河と略称し理解される程熟語化していたことは、古代国家においてひろく用いられていた日高見川の名称であろう。
二、日高見川(ひたかみかわ)
目高見川は、日高見の国の河の意であり、日上河(ひのかみ河)即ち日高見川である。
日高見川を夷語の「ヒタラカムイ」であり「河床の神の義」と称するものもあるが、日高見は大和言葉であり、日高見国は日立国(常陸国)と同じく、都より路はるかにしてようやく到達し得る国の意とされる。
日高見の名が国名として史上にあらわれるのは、景行天阜27年(97)のことである。武内宿弥が東国を巡り日高見の国状を奏上するところを(日本書紀に)次の如く記している(2)。
《二月十二日
武内宿弥自二東国一還之奏言。東夷之中。有二日高見国一。其国人。男女並椎結文レ身。為レ人勇桿。是摠曰二蝦夷一。亦土地沃壊而曠之。撃可レ取也。》
とある。これを以って初見とするのである。
更に、日本武尊(やまとたける)が東夷を平定し、日高見国より帰るを次の如く記している(1)。…
日高見の国は陸奥国より進んでさらに奥地であって、蝦夷(えぞ)(注1)の住む宮城県仙北及岩手県内陸部の総称と考えられている。
日本武尊の到達した日高見の地は宮城県桃生附近と称されているが、北上川の左岸桃生郡桃生村太田(桃生町)に日高見神社がある。同社は延喜式神名帳所載の古社であり、祭神は天照大神、日本武尊並に武内宿弥の三柱である。
此の外、日高見を称する神社は、本吉郡に日高見神社がある。その由緒(ゆいしょ)によれば古代本吉地方は、桃生の内であり日本武尊を祀り日高見神社と称している。
又、水沢市にある日高神社は弘仁元年火満瓊命(ほむすびのみこと)を祀る処の妙現社であるが、その社地周辺の古名が日高であるところより日高妙現社と称せる所である。
地名、日高は日高見であって蝦夷の住む東奥の地を総称した日高見国の一部である。
此処に流るる河が日高見川である。喜田貞吉博士はその論説において日高見川が北上川と訛(なま)った、後まで、日高又ハ日高見の古名が一部に保存された証拠とすべきものであろうと述べているのである。
三、神水(かみかわ)又は神川(かみかわ) …(略)…
四、加美川(かみかわ) …(略)…
五、来神川(きたかみがわ) …(略)…
六、北神川(きたかみかわ) …(略)…
七、北上川(きたかみかわ)
北上川の名は、古い時代における日高見川の転化するものであることは、さきにも述べる如く、喜田貞吉博士(注2)が
《北上川は疑もなく日高見河であって、而して、その日高見河の名が蝦夷の住む日高見の国の河の義であることは疑を容れないのである。》と、論説されるとおりであり既に定説とされるところである。
北上川の名称が北上河又ハ北上川として史上にあらわれたのは(5) (「吾妻鏡」に)
《文治五年(1189)九月二十七日…至二于四五月一。残雪無レ消仍號二駒形嶺一。麓有二流河一而落二于南一。是北上河也。衣河自レ北流降而通二于此河一。…》
とあるのが初見である。
更に、同二十八日の条に《延暦の昔、坂上田村麻呂田谷窟(達谷窟)の前面に九間四面の精舎を建立し、多聞天を安置しその寄進状の中において「北上川を限り」と記すところ》というが、此の事は信じがたいものがある。
おわりに
北上川の名称は馬渕川(まべちがわ)等と異なり夷語、又は土俗語によるものではない。従って、蝦夷、土豪等の称呼せし処は不明である。ただ、陸奥話記によれば前九年役において盛岡周辺の北上川が、大沢と呼ばれたことは推定されるが、その他の地域においては古名と考えられるものもない。
日高見川の名は中央において古代国家の命名する呼称であり、夷地の皇化に伴い下流地方より次第に上流地方に及び、更に、日高見川が北上川と転訛され今日に至ったのである.
註) (1) 続日本紀 (2) 日本書紀 (3) 前太平記
□ (4) 南部家系譜 (5) 吾妻鏡
日高見神社御祭神 (宮城県石巻市桃生町)
日高見神社御祭神
(宮城県石巻市桃生町)(注3)
◆日高見国◆
(Wikipedia「日高見国」より)
日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞(おおはらえのことば)』では「大倭(おおやまと)日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと
解説
『釈日本紀』は、日高見国が大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている。
例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある。
神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている。
また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる。
その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている。戊辰戦争直後には北海道11カ国制定にともない日高国が設けられ、現在は北海道日高振興局にその名をとどめる。
新説
金田一京助は、「公望私記」が(「日高見」を)「四望高遠之地」とするのを批判し、「北上川」は「日高見」に由来するという説を唱えている。高橋富雄は、この「日高見」とは「日の本」のことであり、古代の東北地方にあった日高見国(つまり日本という国)が大和の国に併合され、「日本」という国号が奪われたもの、としている。歴史書などの史料による裏づけがあるわけではないが、いわゆる東北学のテーマとして、話題になっている。
日高神社境内入口 (岩手県奥州市水沢区)
日高神社境内入口
(岩手県奥州市水沢区)(注4)
□
[補足]
(注1) 蝦夷:本書では「蝦夷」に「えぞ」とカナがふられていますが、「えみし」とも読みます。両者の違いは、使われた時代とかアイヌとの関連など、いろいろ説明されていますが、大雑把に言って古代までは「えみし」と読み、中世以降は「えぞ」と読むのが一般的なようです。
(注2) 喜田貞吉:きたさだきち、明治4年(1871)~昭和14年( 1939)。第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
・独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示した。
・「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(明治43年(1910))を歴史的に正当化したと批判される。
(注3) 日高見神社:⇨「日高見神社」
(注4) 日高神社:⇨Wikipedia 「日高神社」
https://hitakami.takoffc.info/2016/11/terui_party_1/ 【】照井党 -アテルイの前代-
(千城 央著「ゆりかごのヤマト王朝 一 照井党の巻」(2009.1.30 本の森)(注1)より)
主な登場人物
池月照井党 道岳、奈穂岳、諸岳
水沢照井党 建俊、建伴、建麻呂(アテルイ)
盛党 継嶋、多賀嶋(モレ)
658年 越国守・阿倍比羅夫(注2)の北征(~660)
672年 壬申の乱
710年 平城京に遷都(奈良時代の始まり)
712年 出羽国を建てる
720年 蝦夷が反乱を起こし、陸奥按察使を殺害.征討軍を派遣
722年 諸国から1000人の柵戸を陸奥に移民する
724年 海道の蝦夷が反乱し陸奥大掾を殺害.陸奥国に多賀城を設置
727年 渤海使、初めて来日(出羽柵)
□ エミシの出自
…735(天平7)年4月、江合川の上流にあたる陸前玉造の荒雄(あらお)川は雪解けで水位を増していたが、淵と瀬の境の辺は、遡上するニジマスやハヤの絶好の通過場所で、ここに目を付けていた少年五人がやって来て、釣り竿に針を掛ける準備を始めた。…
ガラ掛けで、次から次へと魚を引っ掛けるのに夢中になっていたとき、裸馬に乗った3人の少年が対岸に現れた。
が、魚取りの少年たちは気がつかない。
「オーイ、エゾの馬鹿ども、一体この川は誰のものだと思っている」
「そのようなへっぴり腰で、引っ掛かる魚もおらんぞ」
「お前たちはなあ、もっと南の川で魚を捕れ」
一瞬、少年らはぎくりとなった。
引っ掛ける手を止めて対岸を見ると、同じ年格好の少年3人がひらりと裸馬から下りたので、気後れをしてしまった。
やがて、気を取り直し、大声で罵りの反撃が始まった。
「なんだと、エミシのくそったれが」
「ここは、お前たちの来るところじゃねえ、帰れ――、帰れ――、山に帰れ――」
エミシ側も負けてはいない。…
エミシがエゾと罵り、エゾがエミシと罵る不思議な関係だが、エソ、エゾ、エミシ、エビスとは、『異な人』とか『異形の人』を意味していたので、どれを用いても大同小異であり、お互いさまの関係である。…
裸馬に乗って来た3人の少年だが、馬産地で有名な池月(いけづき)に居館を有する照井の御曹司諸岳(もろたけ)12才、供人(ともびと)の阿牟呂(あむろ)13才、同じく荒葛(あらかど)12才である。
エミシの子供である彼らが、ヤマトの柵戸(きのへ)の子供に喧嘩(けんか)を売るのにはわけがあった。
諸岳の曾祖父の代には、池月の南東22里半(当時の1里は約533メートル)にある下野目(しものめ)に照井の館があり、その西隣には馬柵(まぎ)すなわち馬牧場の一つがあった。
だが、館跡はヤマトの玉造郡家(たまつくりぐうけ)すなわち郡役所となり、馬柵跡は玉造軍団が駐屯する塞(とりで)となっており、池月に移転したのはヤマトから追い立てをくったことによるものである。
50余年前のこととはいえ、「いつかは、必ず取り戻してやる」という気概を、小さいときから植え付けられていた。…
大きな囲炉裏のある居間の横座には、奈穂岳(なおたけ)と隠居した祖父の道岳(みちたけ)が胡坐(あぐら)をかいて並んでおり、許しが出たので3人(諸岳、阿牟呂、荒葛)は客座側に座り、質問を切り出した。
「私たちの先祖は、確か、5世紀の初めごろ浅間山と榛名山が噴火したため、信濃から下野に移り、6世紀の榛名山大爆発では、岩代の安達に移住したのですよね」
「そのとおりだ。その後に、牛馬柵は国の専有とすることを決めたヤマトから追い立てをくって下野目に移り、そこも追い出されてわしらはここ池月に移ったが、親類は岩代の信夫(しのぶ)から陸中の胆沢(いさわ)に移住した」…
「わが家の姓だが、元はテルヒ(照火)であり、発音の関係でテルイ(照井)となった。ここまでいえば、何か思い出すことがあるだろう――」
「テルヒ、テルヒ、照火、照と火…。あっ、大物主さまの――」
かつて、三諸岳(みもろのおか)と呼ばれた大和の三輪山には、国神である大物主が鎮座し、その諱名(いみな)は、『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)』である。
「そうよ、諱名からきている。照井家は、ヤマト第二王朝の終焉に伴って三輪山から三種の神器を持って信濃に逃げ、軍神建御名方(たけみなかた)となられたタケル斎王さまの末裔だが、このことは秘中の秘だ。ヤマトに知られるとろくなことはない」…
□ エミシの要衝 (…略…)
737年 多賀城から秋田の出羽柵までの連絡路の開削事業
746年 陸奥国の軍団を6団・兵士6000人とする
□ 奥羽新道開設
…「ヤマトでは、陸奥の多賀城と出羽の雄勝城を結ぶ道路の開設を決定し、来年(736年)はそのための準備を行い、再来年の雪解けとともに開削に着手するとのことです」
出羽の雄勝城は、雄物川と皆瀬川が合流する水運に恵まれた羽後郡山にあったが、その土地は、かつて羽後盛党の吉彦(きびこ)の居館があった所で、羽後盛党にとっては、土崎、大曲、角館と並んで雄物川水系の重要拠点であった。
が、ヤマトの要請により、吉彦は上流の湯沢に退転してこの地を譲ったのである。…
(池月照井)館主奈穂岳の大きな声が響いた。
「昨日、新たなヤマトの動きがわかったので伝える。………。これを配下の者にも伝えよ。
水沢への伝言は丑松に頼み、先ほど出発した。なお、道筋はわかり次第連絡をする」
幹部らは、深刻な顔でこれに応じた。…
水沢照井館は、早馬の到着でにわかに慌ただしくなった。…
水沢照井は池月照井と同族であったが、ヤマトにより岩代の信夫から追い出しをくって北上し、北上川から焼石岳に至る胆沢の広大な扇状台地を手に入れた。
今では、多数の工人を支配し、池月照井をはるかに凌ぐ力をつけているが、ヤマトへの朝貢は一切しない、という強硬な姿勢を続けていた。…
(737(天平9)年、持節大使藤原麻呂が)都を出発する前に、実兄の参議・式部卿藤原宇合(うまかい)を訪ねた折…
「…紫波は出羽の管轄だが、そこは盛党の北の拠点だ。山越えをしてそこを押さえてくれないと、南の拠点である伊寺水門(いしのみなと)の盛党だけを叩いても効果は出てこない。何しろ、奴らは北上川を船で自由に往来しているからな」
そもそも征夷の方策が、陸奥と出羽では根本的に違っている。
水軍を持たない陸奥では、陸軍による武力鎮圧が中心であるのに対し、阿倍比羅夫(あべのひらふ)以来伝統的な水軍中心の出羽においては、時間を掛けてゆっくりと馴染ませ、説得することに主眼を置いている。…
「余計なことをしてくれるものだ。連絡路の開削で都合がいいのは、何もこちらだけとは限らない」
(出羽守田辺)難波(たなべのなにわ)は、…嘆いた。…
「(安倍比羅夫様は)エミシが信奉する神とヤマトの神を一緒にして古四王神社として祀り、エミシの協力関係を引き出したことは、並大抵の才能ではないな。しかも郡の大領には、できるだけ在地の者を選び、摩擦を起こさないよう気配りをしている」
出羽に多い古四王神社は、鹿島神宮の武甕槌(たけみかづち)とヤマトの四道将軍の一人といわれている大彦を共祀している珍しい神社である。
「それに較べて陸奥のやり方ときたら、エミシと一緒に彼らの神さままで追い出して城柵を造ってきたわけですから。…
(陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守将軍大野)東人(あずまひと)が連絡路の開削を中途で撤退した後の奥羽はといえば、久方ぶりに平和な日々となり、…
ヤマト政権内の激しい権力争いは、この後約五十年間続き、その面ではまさに奈穂岳の希望どおりとなったのである。…
749年 藤原仲麻呂、紫微中台の長官に任じられる.陸奥国小田郡から黄金900両を産出
753年 牡鹿郡の丸子氏25人に牡鹿連の姓を賜る
757年 この年から鎮守府常置となる
758年 桃生城の造営開始
760年 恵美押勝(藤原仲麻呂)、太政大臣になる.桃生城・雄勝城完成
762年 多賀城を修造し、多賀城碑建立
764年 恵美押勝の乱(近江に敗死).牡鹿連嶋足がこの乱で軍功を上げ、従四位下に叙位、牡鹿宿禰を賜姓
765年 道鏡、太政大臣禅師
767年 伊治城完成.道嶋嶋足を陸奥国大国造に任じる
□ 城柵北進
エミシとヤマトとの間で、多少の小競り合いはあったものの、比較的平和な日々が続いていた749(天宝勝宝元)年に、陸奥国小田郡で砂金が採取されている。
このことが諸国に伝わると奥羽は大変な砂金探しに沸き、大勢の浮浪人が山や川に闖入(ちんにゅう)してきた。
エミシの首長らは、その取り締まりに苦労していたが、間もなく嵐を呼ぶ前触れが出てきている。
藤原麻呂による奥羽連絡路開設から20年過ぎた757(天平宝字元)年8月、陸奥出羽按察使・鎮守将軍の大伴古麻呂(こまろ)は、橘奈良麻呂事件の首謀者として都で逮捕され、獄死した。…
奈良麻呂は諸兄の息子で、参議・但馬(たじま)因幡(いなば)按察使であったが、孝謙女帝が寵愛した時の権力者である紫微中台(しびちゅうだい)の長官藤原仲麻呂を排除しようとして、逆に葬り去られたのである。
仲麻呂は、先に痘瘡で病死した武智麻呂の息子で、この事件によって、新たに陸奥出羽按察使・陸奥守に就任したのは、仲麻呂の息子朝猟(あさかり)であった。
時を同じくして、池月照井の館主は奈穂岳が引退して諸岳に代わっている。…
「新任の若造が、張り切って何を始めたのか――」…
「出羽にあっては、この秋から雄勝城を改築するとともに雄勝柵を新設すること、陸奥では桃生(ものう)城を新たに建設することだそうです。
しかも、これらの工事に当たる者は、百姓であればヤマトでもエミシでもよく、日当は1日モミ4合(1合は約0.18リットル)と塩4勺(しゃく)(1勺は約0.018リットル)を支給するとのことです」…
「都の並の貴族子弟かと思っておりましたが、なかなかの知恵者とみました。困ったことにつけ込んで一石二鳥の作戦を構えているようです。…
「良信どの、出羽は雄勝城を強化して奥羽山麓に柵を前進させ、支配地を広げることによって紫波への侵攻を容易にしようという作戦だろうな」
「お見込みのとおりです。これによって新たに2郡を設け、駅家(うまや)も6ヵ所設けるそうです」
「陸奥の桃生城とは、どこに造るものかな――」
「北上川河口の伊寺水門(いしのみなと)から31里ほど上った左岸側で、丘陵地の西側の裾野を北上川が流れているそうです。
その丘の上に関所ともなる城を造り、川を通る船を取り締まるとともに、周辺におられる盛党を追い出して1郡を設け、駅家も1ヵ所設ける作戦と伺いました」
陸奥ヤマトの支配地拡大作戦は、一貫して同じ手法を採っていた。…
盛党は、100年以上に渡ってヤマトから居住地を追い出され続けている。
6世紀の半ばには日高見国(ひたかみのくに)と彼らが名付けた常陸と下総の水郷地帯から、7世紀の初めには、阿武隈沿川の安積・信夫・亘理などから、7世紀の終わりには、多賀城・塩竃・松嶋から、8世紀になって桃生・牡鹿から追い出された。
だが、奥羽では重要河川の多くを彼らが支配し、船大工や水主(かこ)も相当数を抱えて結束は堅く、まだまだ力がある。…
盛党は北上川の水運のため、中流域にある水沢と上流域にある紫波にも一族が居館を構えていた。
伊寺水門と紫波の間には大船が就航し、水沢はその中継地点であるが、上流で伐採したスギやヒバを筏に組んで流下し、紫波では大船を、水沢では中舟と小舟の造船も行っている。
奥羽の盛党は、岩木川の藤崎、米代川の鷹巣、雄物川の大曲、最上川の舟形でも造船と水運を担っていたが、最大の拠点は何といっても北上川の紫波である。…
この時は、水沢照井に代替わりがあって建俊が隠居し、息子の建伴が館主になっている。…
「池月には俊才がそろったな。昨年生まれた建麻呂がもう少し成長したら、教育係を頼もうと思うのだが、どうだ――」…
照井建麻呂とは、ヤマトの史書にいう”阿弖流為(あてるい)“である。つまり、阿部が部の民の第一党であると名付けられたように、照井党をまとめる第一人者だというわけである。…
この年(760(天平宝字4)年)の12月、朝猟は参議に昇任し、都に戻っている。
出世街道を順調に歩み、活躍はいよいよこれからと見えたのだが、孝謙上皇が太政大臣藤原仲麻呂こと恵美押勝(えみのおしかつ)を遠ざけ、道鏡を重く用いるようになったことから、抜き差しならない状況となっていた。
764(天平宝字8)年10月、権力争いに敗れた父とともに再起を期すため越前に向かう途中、反乱者として近江で殺されている。
多賀城の官人たちは、志半ばで若くして死んだ朝猟を惜しむとともに、善政を施与して争いを鎮めたことを後世に伝えるため、多賀城碑にその名を刻んでいる。…
照井党が池月と花山から神出鬼没のゲリラ作戦を展開していたとき、水沢の建伴から池月の諸岳に伝言が届いた。…
「ほかでもない、水沢の建伴どのから願いがあっての。”この春から少年3人を池月に遊学させ、1年間教育をお願いしたい”との依頼だ。わしは、これを喜んで受け入れたいと思うが、どうだ――」…
「遊学する少年は、建伴どのが跡継ぎと考えておられる建麻呂11才、盛継嶋どのが跡継ぎと考えておられる多賀嶋(たかしま)10才、紫波の子弟では飛び抜けた秀才と評判の安倍乙志呂(おとしろ)9才の3人だ」…
盛多賀嶋は、ヤマトの史書にいう”母礼(もれ)“であり、安倍乙志呂は、前九年の役に登場する安倍頼時の祖先に他ならない。
[補足]
(注1) 「ゆりかごのヤマト王朝」:千城 央(ちぎひさし)が著した歴史小説。2009年 本の森発行の旧版と2012年 無明舎出版発行の新版がある。旧版が4巻構成なのに対して新版は1巻に纏められているほか、新版と旧版では文面に微妙な相違がある。
例えば、旧版には「照井建麻呂とは、ヤマト史書にいう、”阿弖流為(あてるい)”である。つまり、阿部が部(べ)の民の第一党であると名付けられたように、照井党をまとめる第一人者だというわけである。」とあったが、何故か新版ではこの文面がない。なぜ除かれたのか?
著者は本名・佐藤明男、元宮城県図書館長で、『新たな地方法人課税の実現に向けて』等の著書もあり、博識・多才な人のようである。
(注2) 阿倍比羅夫(あべのひらふ):生没年不詳、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年から3年間日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。
662年には中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。
(2016.11.15掲/11.25改)
投稿日:2016/11/14作成者SatoTakカテゴリー人
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