みろくの船

https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2011-02-21 【みろくの船 [柳田国男の昭和]】より

[西表島祖内の節祭(1973年10月31日、新婚旅行のとき)]

 日本にとって1951年(昭和26)は、9月に講和条約が締結され(発効は翌年4月)、連合国による占領状態の終結が決定したという意味で、画期的な年となった。だが、このとき同時に、吉田茂首相は単身、日米安保条約に調印し、これにより日本はアメリカの世界戦略の傘のもとにはいることになる。ソ連、チェコ、ポーランドは講和条約の調印を拒否し、ふたつに分かれた中国とも条約は結ばれなかった。北方領土や尖閣諸島の問題が、それから60年近くたっても解決されないのは、このときの経緯がいまだに尾を引いているためである。

 吉田は講和条約の調印にあたってサンフランシスコで演説し、奄美、琉球、小笠原の主権が認められたことに満足の意を表明すると同時に、歯舞、色丹、国後、択捉は日本固有の領土だと主張している。

 しかし、沖縄の帰属はあいまいなままというのが実情だった。アメリカは沖縄を当面手放すつもりはなかった。沖縄の主権は日本にあるとされつつも、アメリカは戦略上の必要に応じて、沖縄を管理するという暗黙の了解ができあがった。実際に沖縄の施政権が日本に返還されるのは、それから約20年後の1972年5月のことである。

 西側ブロックのみとの講和条約は、日本国内ではむしろ反対の声が強かった。まして引きつづきアメリカ軍の駐留を認める安保条約までついているのだ。

 このころ日本共産党はこれまでの平和路線を捨てて、武装闘争に踏み切る。労働者、農民、漁民などのパルチザン活動が夢想され、若者たちが「山村工作隊」と称して、地域に潜入する。総評や日教組も急速に左転換し、政府との対決姿勢を強めていた。

 日本の独立回復をめざす講和条約の締結によって、国内では逆に左右対決の様相が深まっていたのである。

 そのころ、柳田国男はのちに『海上の道』に収録される「みろくの船」という原稿を書き上げていた。

 その夏、雑誌「民間伝承」に発表された「知りたいと思うこと二三」でも、こう述べていた。

〈弥勒(みろく)の出現を海から迎えるという信仰が、遠く隔てた南北の二地にある。一方は常陸(ひたち)の鹿島を中心にした鹿島踊の祭歌、いま一つは南方の八重山群島の4つ以上の島で、この方は明らかにニロー神、すなわちニライの島から渡ってきたまう神を誤って、そういうふうに解するようになったものと思う。鹿島の弥勒ももとはそれでなかったかどうかは、この中間の他の地方に、これに類する信仰があるか否かによって決する。中世の文学にいくたびか取り上げられた美々良久(みみらく)の島、亡くなった人に逢うことができるという言い伝えのあるその島は、はたして遣唐使が船を寄せたという肥前五島[福江島]の三井楽の崎と同じであったか、またはどこかの海上の弥勒の浄土を、こういうふうに語る人があったものか、それをいま私は考えてみようとしている〉

 みろくの浄土というのは、なんだかせつない。

 しかし、それはいつでも庶民の願いだった。太平な世の中、豊かなくらしをだれもが望んでいた。待ち望んでいたといってもよい。みろくが出現するのはそんなときだ。

 雑誌「心」に国男の「みろくの船」が掲載されたのは、10月のことである。「心」は安倍能成(あべ・よししげ)や武者小路実篤、辰野隆(たつの・ゆたか)らによって1948年(昭和23)に創刊された教養雑誌で、国男は創刊時から同人として名をつらねていた。

 その論考に、書き急いだ感があるのは、「せめては別にこうした考え方もあるとういうだけを予報しておかぬと、今あるわずかな民間伝承も消え埋もれ、これをわれわれの新たなる覚(さと)りに導いてくる機会はなくなるかもしれない」という切実な気持ちがあったことからもうかがえる。しかし、戦後日本がどこに向かうのかという不安が、おそらくその執筆を急がせてもいた。

 こんなふうに書きはじめている。

 阿弥陀信仰以前に寺や墓と縁のない弥勒信仰があったのではないかということに気づいたのは、前年、岩波文庫のために赤松宗旦の『利根川図志』(1858)を校閲しているときだった。少年時代、播州を出て、兄が医者を開業する布川の地に身を寄せたときに、国男はこの本を知り、読みふけったものだ。

 鹿島のあたりでは祝い事などがあるたびに、老婆たちが多く集まって、太鼓を打ち鳴らして弥勒謡を歌い、それに合わせて踊った。そういう記述が『利根川図志』に残されていた。

 その歌はこんなものだ。

  世の中はまんご(万劫)末代  みろくの船がつづいたァ   ともえ(艫)には伊勢と

  春日(かすが)  中は鹿島のおやしろ

  (中略)

  かんどり(香取)は四十おやしろ  音にきくもとうとや  ひとたびはまいりもうして

  金の三合もまこうよ かねさごは及びござらぬ 米(よね)の三合もまこうよ

  何ごともかなえたまえ  ひだち(常陸)かしまの神々

 同じ鹿島謡でも地域によってバリエーションがあり、踊り方も少し異なる。それでもいつかみろくの船が着いて、「まんご末代」まで幸せで太平な世の中がつづくという内容は変わらない。金の三合は無理としても、米を三合まくから、願いをかなえたまえというのは、婆さまのちょっとしたユーモアである。

 かならずしも仏教を基盤としない、こうした弥勒信仰が盛んになったのは、応仁の乱ののち、世の中が極度に窮乏と不安に包まれていたころのことだ。東国では1507年ごろ「弥勒」という私称の年号まで行き渡っており、「世直し」ということばも、このころ生まれたという。

 各地に弥勒信仰を広めたのは、鹿島神宮の下級神人である。鹿島の事触れと呼ばれた。辻に立って、群衆に向かい、次の年の吉凶禍福を神のことばとして触れて歩いた。それに歌や踊りがともなったのだろう。

 江戸時代にはいって、幕府はこうした事触れと、鹿島踊りをたびたび禁止する。しかし、弥勒が出現するという預言は「世直し」思想と結びついて、簡単には消滅せず、各地にその痕跡が残った。

 国男が関心をもったのは、弥勒信仰の跡が、東国だけではなく、なぜはるか離れた南島に、むしろ本格的なかたちで伝承されているのかという点だった。

 こう書いている。

〈鳥も通わぬとさえ言われていた南の南の島々に、今でも行われているという年々の弥勒踊が、この東国の同名の行事と、いくつかの類似をもっていて、しかも鹿島との因縁が捜しだせないのは大きな意味がある。これももとよりかくあれかしのわざおぎではあったろうが、その懐かしい幻影の種はどこにあるか。ことにミロクという名の起こりは何によるか。八重山諸島の節祭りの歌と行事、一方には宮古島の世積み綾船の古伝などに引き比べて、私はいまあらためてニライという海上の浄土のことを考えてみようとしているのである〉

「みろくの船」という論考は、ここで投げだされたまま終わっている。

 鹿島謡と八重山の弥勒踊とのあいだに直接のつながりはないと言わざるをえない。それでも、みろくの船がやってきてほしいという世直し思想が、東国も八重山も共通しているようにみえるのは、単に懐かしい幻想とばかりは思えなかった。

 1921年(大正10)に八重山を訪れたとき、国男は西表島の祖内などで、いまもおこなわれている節祭(シチマツリ)を見ることができなかった。その祭りに登場するミルク(弥勒)と出会えたなら、弥勒信仰に対する国男の考察もさらに深まったにちがいない。だが、そのとき以来、国男が沖縄を訪れることはなかった。

 それでも、弥勒世を待ちながらという思いを、国男もまた終生いだきつづけたのではないだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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