https://blog.goo.ne.jp/agatahidamari1948/e/3263393c24e6fcf715c9619e879f01cb?fm=entry_awp_sleep 【ヒメミヤマスミレ(姫深山菫)】より
フモトスミレに似ているが、葉の裏が紫色を帯びないものが典型。照葉樹林下に多い。
葉は三角形に近い心形で粗い鋸歯。葉の裏はふつう淡緑色。白い斑入りのものもある。
花は直径1~1.5cm。 花弁が細め。側弁の基部に毛が密生
ヒメミヤマスミレ(姫深山菫)
スミレ科スミレ属。ミヤマスミレ類 。花期 3下~5月 。
分布 ・ 本州(関東以西)、四国、九州。
‘12.05.04.宮崎県 えびの高原 撮影。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%9F%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AC 【ヒメミヤマスミレ】より
特徴
地下茎は短く、根は細く白い。無茎の種で、高さは3-8cmになる。葉は小型で平開し、葉柄は長さ1-5cmになる。葉身は長さ1-3cm、広三角状卵形から狭三角状卵形で、先端は鋭頭、基部は深い心形になり、縁に粗い波状の鋸歯がある。葉質は薄く柔らかく、表面は深緑色で、しばしば葉脈に沿って白斑が入ることがあり、裏面は緑色、ときに紫色をおびる。葉の両面ともにふつう無毛であるが、微毛が散生することがある[3][4][5]。
花期は3-5月。葉の間から少数の細い花柄が伸び、葉より高くなり、白色で径約1cmの花をつける。花は葉の展開後に開く。花柄途中には狭小な2個の小苞葉がある。花弁は長さ7-8mm、花弁の背面はしばしば紫色をおびる。唇弁に紫色の条があり、他の花弁より明らかに短く、側弁の基部はふつう毛が生えるが、まれに無毛の場合がある。唇弁の距は太く短く、長さは2-3mmになり、嚢状になり、紫色をおびる。萼片は披針形で、付属体は半円形になり、縁は全縁になる。雄蕊は5個あり、花柱はカマキリの頭形になり、花柱上部の両翼は左右に強く張り出し、柱頭は前方に突き出る。染色体数は2n=24[3][4][5]。
分布と生育環境
本州の関東地方以西、四国、九州に分布し、低地から山地のやや暗い湿った常緑広葉樹林の林内や林縁に生育する[4]。
名前の由来
和名のヒメミヤマスミレは「姫深山菫」の意[3]。「ひめみやますみれ」は牧野富太郎 (1888)による命名である[7]。
種小名(種形容語)boissieuana は、日本のスミレ属について研究を行ったフランスの植物分類学者 ヘンリー・ド・ボアッシュー(スペイン語版) (1871-1912) への献名。Viola boissieuana は、牧野 (1902) による命名である[8][9]。
https://www.e-sogi.com/guide/27985/ 【木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の神話と祀られている神社】より
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とは、日本神話に登場する女神です。非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれています。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっています。
絶世の美女と謳われた木花咲耶姫とは、どのような神様なのでしょうか。そのご神ご利益・ご神徳や祀られている神社をご紹介します。
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とは
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)は、桜の如く華やかに咲いて、桜のように儚く散った絶世の美女。まさに美人薄命を絵に描いたような神様です。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあります。日本神話で最も美しいと誉れ高い女神です。
古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されています。
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)は3人の御子を産みました。その三男である彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)ですが、山幸彦という別名で知る人も多いのではないでしょうか。
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)のご利益・ご神徳
コノハナサクヤヒメは、神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られています。
主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神です。その裏付けとなる神話があります。
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が登場する神話のストーリー
ニニギノミコトに求愛された美女、コノハナサクヤヒメ。高天原で美しい女神たちの間で育ったとされるニニギノミコトが、一目惚れするくらい際立っていたコノハナサクヤヒメの美しさ。桜のように美しいのではなく、桜の方がコノハナサクヤヒメの美貌にあやかったというのですから、その美しさは想像を絶します。
かくして、ニニギノミコトの恋は成就し、コノハナサクヤヒメを妻に娶ることになります。しかし、姫の父親である大山祇命(オオヤマツミノカミ)は思うところがあり、姫と共に姉の石長比売(イワナガヒメ)も一緒に、2人まとめて嫁がせることにしました。
コノハナサクヤヒメのご利益としては火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などがあげられます。
花も恥じらう美貌の持ち主であるコノハナサクヤヒメとは対照的に、イワナガヒメは見た者を恐怖に陥れるほど醜い容姿をしていました。耐えられなかったニニギノミコトは、イワナガヒメを父親のオオヤマツミノカミの元へ送り返してしまいますが、実はこれが間違いでした。
岩のように強靭な生命力を持つイワナガヒメを娶れば、ニニギノミコトはその末代まで永遠の命を手に入れることができたはずだったのです。結局イワナガヒメを拒絶してしまったため、寿命は一般的な人間と大差ないものになりました。
奇跡を手にすることは叶わなかったものの、晴れて夫婦となったふたり。めでたく結ばれたわけですが、たった一夜をともに過ごしただけで、子を身ごもったというのです。驚いたニニギノミコトは、妻の不貞を疑いました。
そこで、コノハナサクヤヒメは、おなかに宿した子どもがニニギノミコトの子であるという証をみせるため、火を放った産屋でお産をして見せました。燃え盛る炎のなか、無事に3人の男の子が誕生したわけです。
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が祀られる神社
コノハナサクヤヒメを祀っている神社では富士山本宮浅間大社が有名です。
父親が山の神であるため、揃って山の神様として祀られていることが多いコノハナサクヤヒメ。なかでも富士山本宮浅間大社が有名です。
浅間神社は全国に1,300社以上も存在し、コノハナサクヤヒメが主祭神とされ、そこにイワナガヒメが合わせて祀られていることがほとんどです。
富士山はもともと山そのものがご神体ですが、江戸時代にも大噴火を起こした活火山です。鎮火のために、水の神であるコノハナサクヤヒメが祀られたともいわれています。
また、過酷な状況での出産を無事に成功させたことから、安産や子育ての神様としても祀られています。御子を育てる際には、コノハナサクヤヒメがお乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあります。そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされています。
コノハナサクヤヒメが祀られている神社は、浅間神社のほか、三重県伊勢市の子安神社、伊勢神宮皇大神宮(内宮)所管社、宮崎県の木花神社・高千穂神社、鹿児島県の新田神社、愛媛県今治市の大山祇神社、京都府宇治市の縣神社などがあげられます。
現代に語り継ぎたい木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)
短命ながら、娘として妻として母として、精一杯の生きたコノハナサクヤヒメ。人間と変わらない葛藤の中で強く生き抜いた女性として、日本各地の人々に愛され、長きに渡って祀られてきたことがわかります。今の時代を生きている私たちも、力強く生き抜いたことを語り継いでいきたいものです。
もし大切な人やまたご自身の将来のために、どんな葬儀ができるのかを知りたい、まずは誰かに相談したい、専門家のアドバイスがほしいなど、疑問・ご相談がありましたら、いつもでお気軽にお問い合わせください。
https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12157551461.html 【木花咲耶姫と阿多(薩摩)隼人族の不幸な歴史】より
コノハナサクヤ姫(木花咲耶姫、神阿多都比売); 神武天皇の母親である可能性が高い
瓊瓊杵尊を大将とする倭国(高天原)軍は、首都邪馬台国を発し、南の敵国・狗奴国を迂回しつつ、二つの高千穂(宮崎県北部の西臼杵郡高千穂町クシフル峰と県南部の西諸県郡高原町霧島連山高千穂の峯)に次々と降臨すると、痩せた尾根伝いに薩摩半島南端の、笠沙岬のある笠沙國(現在の鹿児島県南さつま市)迄移動しています。
笠沙國に到着した瓊瓊杵尊は、國主の事勝國勝長狹(ことかつくにかつながさ)を呼び寄せ、『此処に国はあるのか?』と尋ねますが、長狭は『此処に国があります。得るも捨てるも、どうぞ天孫のお好きなようにして下さい』と答えています。これは国主にしては、なんとも無責任な言葉です。
事勝國勝長狹は『日本書紀』のある一書に、別名塩土老翁(しおつちのおじ)と書いてあります。
塩土老翁は伊弉諾尊(イザナギノミコト)の息子とされ、山幸彦(彦火火出見命)が釣り針を無くして困っている時にも登場し、綿積(海神)宮(竜宮城)に行くよう勧めており、神倭磐余彦命(神武天皇)には、東の方に畿内登美の地があり、その地に天磐船に乗って降臨した者(饒速日命)がいたことを伝えています。
まあ、私の考えでは彦火火出見命と神倭磐余彦命は同一人物なのですがね。
どうやら事勝國勝長狹が塩土老翁だとしたら、『記・紀』の進行役を務める年齢不詳の仙人のような設定であり、本来の阿多の笠沙国の國主は大山祇(オオヤマツミ)神の方でありましょう。『記・紀』は土着民の首長を大山祇神として崇めており、素戔嗚尊が出雲に降臨した際にも同名の神が登場します。
さて、この時登場するのが、阿多隼人の娘、神阿多都比売、別名木花咲耶(コノハナサクヤ)姫です。
コノハナサクヤ姫のあまりもの美しさに一目惚れした瓊瓊杵尊が姫にプロポーズすると、姫は父親の大山祇神の意向に従ったとされています。
この話を聞いた大山祇神は大喜びで、妹のコノハナサクヤ姫だけでなく、姉の磐長姫も一緒に添えて、多数の婚礼品と共に、瓊瓊杵尊に差し出しています。だが、磐長姫は容姿が酷く醜かったので、父親の元へと返されてしまい、瓊瓊杵尊は妹で美人のコノハナサクヤ姫とだけ愛を契りました。すると大山祇神は、
『コノハナサクヤ姫と磐長姫の姉妹を二人一緒に天孫に差し出したのは、天孫が二人の娘の両方と結婚すれば、天孫の系統が花が咲き誇るように繁栄し、岩のように永い長寿を保つようになるという祈願を込めたものだったのに、天孫が磐長姫だけを送り返してきたから、これで天孫の系統は、咲く花のようにはかなく散ることになってしまった』と嘆いています。
これが天皇家の寿命が普通の人間程度であることの理由だと、『記・紀』は結んでいるのですが、瓊瓊杵尊にしてみれば、美女のコノハナサクヤ姫さえ戴ければ十分であり、醜女の磐長姫をおまけに付けられても迷惑なだけです。もし、「この醜い方の娘もついでに抱いてもらえれば、お前の子孫の寿命が十分に長くなるぞ」と最初から聞いていたら瓊瓊杵尊も幾らかは考えたかも知れませんが、後からそんなことを聞かされても後の祭りです。こうなることは当然だったでしょう。
ところでこの部分は、阿多隼人族首長の大山祇神が倭国軍との戦争を回避し、瓊瓊杵尊に無条件降伏したと見るべきでありましょう。瓊瓊杵尊のバックには強大な天孫降臨軍=倭国軍が控えているわけで、倭国軍の軍事力を見せつけられた大山祇神としては、降伏する以外の選択肢はなかったわけです。
倭国軍に降伏した大山祇神としては、倭国軍の大将・瓊瓊杵尊に自分の娘を二人共差し出すことで、倭国への服従を誓い、部族民が倭国兵から虐殺されることを防いだのだと思われます。
『記・紀』では天孫は神のように尊い現人神だから、国つ神(地元民)が喜んで従ったような書き方が為されていますが、その実情は単に力の原理が働いていただけなのでしょう。
しかしこの話は、同じ親から生まれながら醜女だった磐長姫にしてみれば、実に情けない話です。
瓊瓊杵尊から突き返されたことを恥じた磐長姫は、唾を吐きながら呪いの言葉を呟きました。
『私を拒絶した天孫の家系は、もはや長く生きることは出来なくなるであろう』。
実に磐長姫は顔も醜ければ、恨みがましく、恐ろしい復讐心に満ちており、瓊瓊杵尊は逃げてよかった。
そして磐長姫は、自分の醜い姿を映す鏡を投げ捨て、池に入って自殺したという伝説があります。
磐長姫が自分の醜い姿を映すとして、呪って投げ捨てた鏡は宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)神社に祀られている。
歴史学者はこの磐長姫とコノハナサクヤ姫の話は東南アジアに伝わる【バナナ型神話】だと云っていますが、私の考えますに、本来の瓊瓊杵尊とコノハナサクヤ姫の結婚物語は、古くから笠沙岬地方に伝わる、海を越えてやってきた渡来人と美人の地元住民が愛し合って結婚した伝説を、『記・紀』編纂者が瓊瓊杵尊の天孫降臨神話に取り入れたのではないかと思います。
その場合の渡来民とは多分、中国河南地方辺りの海岸から、BC473の呉の滅亡時やBC334の越の滅亡時に国を失い、占領国による弾圧から逃れる為、やむを得ず危険な東シナ海を渡海してきた亡国の民だったものと思われます。鉄器などの先進の技術と文字や書などの進んだ文化を持つ渡来民は当時の縄文人から見ると、まさしく神に見えたことでしょう。
ところがこの後、この瓊瓊杵尊とコノハナサクヤ姫のラブロマンス?は瞬く間に終わりを告げ、直ぐ様凄惨な不倫騒動の話へと、うって変わってしまいます。
何故ならば、一夜の契りだけで身ごもったコノハナサクヤ姫の不貞を瓊瓊杵尊が疑ったからです。
コノハナサクヤ姫は不倫の疑いを晴らすため、自ら出口の無い産屋に閉じこもり、中から火を点けて、燃え盛る炎の中から子供が無事生まれ出たなら、自分の清純は証明されると、願を掛けて出産しました。
そして、火に焼けもせず、無事に火の中から生まれてきた子が、『古事記』では
火照命(海幸彦)と火須瀬理命と火緒理命(彦火火出見命=山幸彦)、
『日本書紀』では火須瀬理命と火明命と彦火火出見命、他一書毎に多説あり。
閑話休題、このような話が『記・紀』に盛り込まれているのは、なんとも不思議です。
こんな場合、多分あまり書きたくない裏の意味が隠されているのだと思われます。
考えるに、この話の場合のキーワードは【火】ではないでしょうか?
私はこの話は、折角大山祇神が瓊瓊杵尊にコノハナサクヤ姫を差し出し、部落民の安全を求めたにもかかわらず、阿多隼人たちは無事には済まなかったことを暗示しているのではないかと思います。結局、瓊瓊杵尊は大山祇神を裏切って、阿多隼人の村を焼き、村人たちを虐殺してしまったのではないでしょうか?
しかし、コノハナサクヤ姫とその子供たちだけは燃え盛る火の中で生き残って、その子供を瓊瓊杵尊は跡継ぎにしたと云う史実を、この話が暗示しているのではないかと私には思えてならないのです。
このことは瓊瓊杵尊が日向隼人に執った態度とは対照的で、日向隼人は難なく瓊瓊杵尊の部下になっているのに、阿多隼人は美女のコノハナサクヤ姫を差し出したにも拘らず、結果は村人たちの惨殺です。
私の考えるに、日向隼人達は倭国政権に対し元々従順だったのに、阿多隼人達は元々反抗的で、熊襲(狗奴国)との結びつきも強かったからではないでしょうか?
もしかしたら、阿多隼人内に倭国軍に反乱を起こす動きがあったことが事前に瓊瓊杵尊に察知され、瓊瓊杵尊の怒りを買って、倭国軍による阿多隼人族の虐殺に繋がった。そしてこのことが、磐長姫の瓊瓊杵尊に対する恨み話として残っているのかも知れません。
実際、奈良時代に大和朝廷が隼人征伐を行った時も、日向隼人は大和朝廷軍の側に立って、阿多隼人(薩摩隼人)と大隅隼人征伐に加わったとされます。これも大昔からの何かの因縁なのかも知れません。
https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12158620973.html 【海幸山幸物語と浦島太郎物語】より
宮崎市青島海岸に立つ青木繁画伯の書いた彦火火出見命のモニュメント
《わだつみのいろこの宮》
宮崎県南部海岸地方が舞台とされ、宮崎市の青島神社に伝説が伝わる有名な『海幸山幸物語』ですが、この神話を読んだ方は、きっと誰もが『浦島太郎物語』を思い起こすことでありましょう。
『海幸山幸物語』は『古事記』『日本書紀』編纂時には既に存在していたと思われる『浦島太郎物語』をベースにして、『古事記』『日本書紀』編纂者によって作られたのだと考えられます。
それでは今から実際に『海幸山幸物語』と『浦島太郎物語』の内容を見て、今迄こんなことは有りえないと思いつつも、何気なく読み飛ばしていた部分に納得のいく解説を加えていきましょう。
昔々南九州の海岸に近い田舎に、火照(ホデリ)命と火遠理(ホオリ)命が一緒に暮らしていました。
この兄弟は、天孫瓊瓊杵尊と阿多隼人族の娘、神阿多津姫=(コノハナサクヤ姫)の息子です。
親は宮殿に住んでいたとされる、この様な支配階級の人間が、田舎でひっそりと庶民的生活をしていたとは非常に考えにくいのですが、ここが『浦島太郎物語』と結びつけた所以なのでしょう。
『古事記』ではもう一人いた兄弟の火闌降(ホスセリ)命は、『日本書紀』本文では火照命のことになっており、代わりに『海幸山幸物語』に登場しない兄弟として火明命が居ますが、こちらは『古事記』では瓊瓊杵尊の兄弟とされる、天火明命のことと思われます。
『日本書紀』も(ある一書)毎に登場する兄弟の名が幾らかずつ異なっており、四兄弟とされる場合も有ります。どうもこの辺は『記・紀』においては混乱が激しいようです。
しかし、火遠理命が又の名を彦火火出見(ヒコホホデミ)命とされていることは、『古事記』及び『日本書紀』の本文、ある一書でも全て共通しています。私は彦火火出見命は神武天皇だから、この名前だけは非常に正確に残っているのだと思います。
さて、兄の火照命は海で魚を釣るのが上手だったので(海幸彦)と、弟の火緒理命は山で動物を狩るのが上手だったので(山幸彦)と呼ばれていました。ところが毎日同じことの繰り返しである、自分の山での仕事に飽きてしまった山幸彦は、ある日海幸彦の仕事に興味を持ち、嫌がる兄を説き伏せて、互いの仕事を取り変えてみる処からいよいよ『海彦山彦物語』が始まります。
すると、慣れない仕事をしても決して上手くいくはずもないことを悟った二人が、早々に元の仕事に戻そうとしたとき、弟が自分のお気に入りの釣り鈎を無くしたことを知った兄は大いに腹を立て、その釣り鈎を絶対に返せと、弟を厳しく責め上げます。
しかし、無くした釣り鈎は海の底なのだから、見つけ出すことはほぼ不可能です。
山幸彦は仕方なく、自分の大事な十拳剣を砕いてざる一杯、およそ千本の釣り鈎を作って許しを請いましたが、兄は『駄目な釣り鈎を何千本作ろうが無駄だ。元の釣り鈎でないと受け取らない』と云って、決して許してはくれませんでした。因みにこの時山幸彦は所有の十拳剣を失っています。
ところが現実には、大昔の如何に釣り鈎が貴重品だった時代とは云え、元々釣り鈎なんてものは消耗品なのです。つまり、海幸彦は自分でもよく釣り鈎を無くしていたはずで、代えの釣り鈎は沢山あるはずなのです。だから如何にその釣り鈎が海幸彦のお気に入りだったとしても、釣り鈎を一本無くしただけの弟に、救われる道を全く与えてくれない兄の海幸彦は相当な意地悪と云う設定で、この物話は、兄に無茶な要求を突き付けられて苦悶する山幸彦に読者の同情が集まるようにできています。
さて、途方に暮れた山幸彦が呆然として海岸を彷徨っていると、例の『古事記』『日本書紀』の進行役?とも考えられる塩土老翁(しおつちのおじ)が何処からともなく現れ、山幸彦の悩みを聞いてくれます。
山幸彦の話に同情した塩土老翁は、彼を兄から遠ざけるために竹で編んだ籠の船に乗せ、綿津見(海神)の宮へと送り出してくれました。
この様な話の流れの『海幸山幸物語』に対し、モデルとなった『浦島太郎物語』の方は童謡にもあるように、浦島太郎が釣りに行く途中の砂浜で子供達に苛められていた子亀を助けてやると、子亀の母亀が現れて、恩返しに浦島太郎を自分の背中に乗せ、竜宮城へ連れて行くと云う話になっています。
ところで私の考えますに、【竜宮城】や【綿津見の宮】といった海中に有るとされる宮殿は、水中ではなく、実際には周りを海に囲まれた何処かの島に有る宮殿と考えて良さそうです。
例えば子供の絵本などでは、浦島太郎が竜宮城に着くと美しい乙姫様に迎えられ、豪華な御馳走と鯛や平目の舞踊りでもてなされます。だが、現実には人間は水中で生活できないので、この場面は(海中)を(水中)と誤って解釈した童話作家の空想による光景なのでしょう。第一御馳走の中身が隣で踊っている鯛や平目だった可能性は高く、もしそうであるならこの話は、かなり恐ろしい話となります。
こんなストーリーの浦島太郎に対し、山幸彦は綿津見の宮で美しい豊玉姫と出会い、恋に落ちます。
綿津見の宮へ迎えられた山幸彦の神々しい姿と仕草を見た豊玉姫の父親の海神である豊玉彦は、山幸彦が天孫であることを悟ります。天孫とは当時の王子様ですから、相当に高いブランドであり、豊玉彦は自分の娘が天孫と恋仲になったことを歓迎し、山幸彦を大いにもてなしたとされます。
このようにして浦島太郎も山幸彦も、毎日美女のおもてなしを受けながら、夢のような楽しい日々を三年もの間、過ごしたとされています。ところでこのように、海の向こうに夢のような楽しい理想郷、極楽があるとする思想は、南洋の島国に伝わる【ニライカナイ】伝説によるものであり、このことを『古事記』『日本書紀』では【常世の国(とこよのくに)】と表現されます。
ところが三年も経ったある日、浦島太郎も山幸彦も共に、ふと我に返りました。
浦島太郎は故郷に残してきた年老いた母親のことを思い出したのです。
それに対し、山幸彦の方は綿津見の宮に来ることになった原因である兄との確執の問題、即ち海で失くした釣り鈎のことを思い出したのでした。
浦島太郎は乙姫様に母親のことを話し、一度家に帰りたいと訴えますと、許されて、土産に【玉手箱】を貰い、再び母亀の背中に乗せられて故郷に帰りました。すると故郷では、母親はとっくの昔に死んでおり、自分の家も跡形も無く、知った者が誰も居なくなっていることを知りました。
なんと竜宮城での三年の間に故郷では三百年もの月日が経過していたのです。
途方に暮れた浦島太郎は心細さのあまり、決して開けてはならないと云われていた【玉手箱】を、つい開けてしまいます。すると、もうもうと白煙が立ち込めて、煙を浴びた浦島太郎は、おじいさんになってこの物語はお終いです。しかし、三百年もの年月はおじいさんになって済む程度のものではなく、【玉手箱】を開けた浦島太郎は程なくして亡くなったとされています。
この話を聞いて思うに乙姫様は、浦島太郎が故郷に帰るとこうなることが解っていて、現実を知った浦島太郎の苦悩を除くために、【玉手箱】を土産に持たしたのではないでしょうか。つまり竜宮城から故郷に帰りたいと思いついた時に、浦島太郎の寿命は既に尽きていたのです。そして、そのことが解っている乙姫様も、強いて太郎を引き留めようとはしなかったのでしょう。
即ち童謡に有る、「開けて悔しき玉手箱」とされる歌詞は当たっておらず、本当は「開けて納得玉手箱」なのでしょう。この話は常世の国での夢のように楽しい三年間は、現実の世界では三百年にも値することを告げる説話なのだと思われます。
『海彦山彦物語』その2、「天孫降臨軍による隼人族征伐」へ続く。
https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12167009354.html 【「天孫降臨軍による隼人族征伐」】より
鹿児島県霧島市隼人町に立つ隼人塚。
養老4年(720年)の隼人反乱時に大和朝廷軍に殺された隼人達の慰霊に作られたとされる。
このように、隼人族は度々大和朝廷に反抗しては、討伐を受けていた。
最後の反乱は西郷隆盛による西南戦争。
如何にもお伽噺然とした『浦島太郎物話』に対し、『海幸山幸物語』では三年間は三年間の儘です。
無くした釣り鈎のことを思い出した山幸彦が海神にわけを打ち明けると、海神は海中の全ての魚を呼び集め、鯛の喉に刺さった釣り鈎を見事に見つけ出してくれました。そして山幸彦が故郷に帰るに際し、海神からは意地の悪い兄を懲らしめる為の数々の秘策が授けられ、土産として玉手箱ならぬ、潮満珠(しおみつたま)と潮涸珠(しおふるたま)を戴きました。
山幸彦は鰐(現代で云う鰐ではなく鮫のことらしい=実際日本近海に鰐はいないが、鮫は数多く生息する)の背中に乗って、一日で故郷の海岸に帰ると早速、兄に虐められた仕打ちへの復讐を開始しました。
山幸彦は海幸彦に再会すると、釣り鈎を返す際に、海神に云われたとおり後ろ手に鈎を持ち、兄に背を向けた儘、『この鈎は貧乏鈎、衰えの鈎、滅びの鈎』と呪文を唱えながら、投げ渡しました。
でも普通、このような失礼な返し方をされたら、海幸彦が激怒しても当然でしょう。実際、『日本書紀』のある一書(二)には兄が怒って釣り鈎を受け取らなかったと記されます。しかし、『日本書紀』の本文やその他の書、『古事記』では受け取っているようです。まあ、所詮この釣り針の話は、『古事記』『日本書紀』編纂者による作り話なので、これ以上深くは突っ込まないことに致しましょう。
次の場面では海幸彦・山幸彦が、魚釣りや狩猟をしていただけではなく、水田で稲作をしていたことが記されます。どうやら『海彦山彦物語』には、弥生時代の人々の生活風景が其の儘描かれているようです。
山幸彦は海神に言われたとおり、兄が田を高い場所に作ると低い場所に、低い場所に作ると高い場所に作ったので、海神が水を操って、山幸彦の田ばかりに水が良く入るようにしました。
どうやら、海神は遠方の綿津見の宮に居て、陸上を千里眼で見ながら、水を操っていたことになります。
さすが海神というところでしょうか?
さて、海幸彦は海神の水攻めが続いたので米が不作となり、呪いの鈎で釣りをしても全然釣れなくなったので(普通あまりにも釣れないときは鈎を疑って変えるはずですが)、次第に貧乏になりました。
そしてこの頃既に海神の助力のお蔭で裕福になっていた山幸彦を見て羨んだ海幸彦は頭に来て、遂に軍隊を率いて山幸彦を襲ってきました。
どうやらこの、『海幸彦が軍隊を率いて山幸彦を襲ってくる』辺りで、この物語の正体が露見してしまうのですが、とりあえず、山幸彦はこの時とばかりに、潮満珠を用いて大水を出しますと、海幸彦軍の兵士たちはことごとく大水に襲われて溺れかけます。苦しみもがく海幸彦たちは、遂に山幸彦に降参して、命乞いをすると、山幸彦は潮涸珠を用いて、海幸彦と兵たちを助けてやります。
そして、海幸彦=火照(火須瀬理)命が隼人族の始祖であることが明かされると、火照(火須瀬理)命=隼人族は末代まで山幸彦=火緒理(彦火火出見)命=皇室の家来となって働くことを誓い、祭りのときには、このときに溺れかけたしぐさをして滑稽に踊ることを、隼人族の踊りとして、伝統にしたとされます。
実際この隼人族の踊りは、『古事記』『日本書紀』の編纂時辺りまでは残っていたようです。隼人族としてのプライドを失った実に情けない姿ですが、被征服民が生き延びる為には仕方なかったのでしょう。
潮満玉を用いて、海幸彦を溺れさせる山幸彦
『日本神話シリーズ』海幸山幸(うみさちやまさち)
・河鍋暁斎・明治11年(1878年)・山口静一氏蔵
海幸山幸物語は実際はこのような天孫降臨軍による隼人族の征伐であった
ところでやはり『海彦山彦物語』が示す史実は、天孫降臨軍による隼人族討伐だったようです。
これ等の神話は、天孫降臨軍が隼人族を軍事力で殺戮しながら支配していった歴史を物語っているわけであり、『古事記』『日本書紀』編纂者は、このような残虐な行為を皇室の祖先が行っていたことを其の儘記すのはあまり宜しくないと考え、神話のオブラートに包んでやんわりと記載したのだと思われます。
ところで、海幸彦が塩満玉で溺れる話は、当時の倭国軍対隼人族の海戦の様子を再現しているようです。
倭国軍の大将、彦火火出見命は山幸彦と云えども倭人であり、倭人とは『魏志倭人伝』にも示されるように、元々海人族であるわけです。つまり山幸彦も船に乗り、海戦を行っていたようです。
高天原=倭国の首都邪馬台国から九州山脈を越えて南九州にやって来た天孫降臨軍は、日向隼人(大久米命)を味方に付けると現地で船を調達し、主に大隅隼人の水軍と戦っていたようです。
後に彦火火出見命=神倭磐余彦火火出見命は、日向国美々津海岸から海軍を率いて東征の旅に出ていることからも、天孫降臨軍と日向国の海軍との関係が成立していたことが明らかであります。
しかし、『海彦山彦物語』はこれで終わりではありません。
火緒理命=彦火火出見命が、兄の火照命=火須瀬理命を倒して家来にしてしまった頃、綿津見の宮に残してきた豊玉姫は、海の中を繋ぐ道を通って、はるばる彦火火出見命の故郷(日向国)まで夫に会いに来ています。
豊玉姫は彦火火出見命の子供を身籠っており、出産の日が近づいていたのです。
豊玉姫から、「出産は夫の側で行うものだ」と打ち明けられた彦火火出見命は、大慌てで産屋を建てますが、時間がないので、鵜を沢山捕まえてきては、毟った鵜の羽で屋根を葺いたとされます。しかし、まだ屋根が全部葺き上がらないうちに、豊玉姫は陣痛が来て産屋に入りました。
この時、豊玉姫は「自分は今から産屋に籠って出産しますが、子供を産むときは本来の姿に戻るので決して覗いてはなりません。」と、折角夫に釘を刺しておきましたのに、逆にそう言われたことが気になって堪らない彦火火出見命は、未だ葺き終らない屋根の隙間から、こっそりと中を覗いてしまいました。
すると其処には、豊玉姫が八尋もある大鰐(鮫)の正体を現して、くねくねともがいていました。
自分の妻の正体を見て驚いた彦火火出見命は、産屋から走って逃げ去ったとされます。
豊玉姫は見られたことに気付いたものの、無事に男の子を生んだのですが、生れた子供は、鵜の羽で未だ屋根を全部葺き終えていない産屋で生まれたことから、ウガヤフキアエズ命と名付けられました。
しかし、夫に正体を見られて恥じ入った豊玉姫は、自分の子供を残した儘、綿津見の宮に帰ってしまい、二度と戻ってきませんでした。ところが後から豊玉姫は、やはり残してきた子供が気になってたまらなくなったらしく、妹の玉依姫を乳母として遣わしています。
すると面白いことには、成長したウガヤフキアエズ命は、年齢的にかなり無理があると思われるのですが、自分の叔母で乳母でもある玉依姫と結婚しています。
そして二人の間には、後の神武天皇(神倭磐余彦命)以下の四兄弟が生まれたとされます。
だがこの話によると、姉の豊玉姫が鰐(鮫)なら、妹の玉依姫も当然鰐(鮫)であることになり、天皇家は二代続けて、鰐(鮫)の子孫が続いたことになりますが、それで良いのでしょうか?
尤も、この辺りの話は史実からかなり外れてしまい、お伽噺の要素が相当入っているようです。
『古事記』『日本書紀』編纂者がこの部分にお伽噺の要素をふんだんに盛り込んでいると云うことは、この部分は史実ではないと断っているに他なりません。
するとウガヤフキアエズ命はお伽噺の中の存在となりますが、史実の部分はどうなるのでしょうか?
私は実際には、彦火火出見命は神倭磐余彦火火出見命(神武天皇)と同一人物だと考えています。
仮にそうであれば、彦火火出見命とウガヤフキアエズ命は、神倭磐余彦火火出見命(神武天皇)と神沼河耳命(綏靖天皇)のダブルイメージとなり、豊玉姫とその妹・玉依姫は、神武の妻、神蹈鞴五十鈴姫とその妹で綏靖天皇の妻、五十鈴依姫のダブルイメージであると考えれば全ての話に納得がいきます。
鈴は玉であり、神蹈鞴は豊、即ち神蹈鞴五十鈴姫は豊玉姫、五十鈴依姫は玉依姫となります。
そうすると瓊瓊杵尊と木花咲耶姫(神阿多津姫)の子供は、実際は火緒理(彦火火出見)命と火照(火須瀬理)命の二人だけで、彦火火出見命が神倭磐余彦火火出見命であるならば、火照(火須瀬理)命は神武の長兄とされる五瀬命だと考えられます。
神武天皇は四兄弟だとされていますが、残りの二人、稲飯(イナヒ)命と三毛入野(ミケヌ)命は、『記・紀』においても、全く存在感がなく、海に溺れて死ぬ時にだけ出てくる、付け足しのような存在です。私はこの二人の兄弟とウガヤフキアエズ命は、地元の豪族の名が、皇室の家系に入り込んでしまったものと考えています(詳しくは別項参照)。
実際に『古事記』では、東征の旅に出たのは、神倭磐余彦火火出見命と五瀬命の二人だけとされています。
兄の火照(火須瀬理)命が阿多隼人の血が流れる隼人族の祖であるから、弟の彦火火出見命も同じ阿多隼人の血が流れており、隼人族の祖であってもおかしくありません。しかし兄の戦いに勝った弟の彦火火出見命は皇室の祖になり、弟に負けた兄の火照(火須瀬理)命が隼人族の祖となった。
このことは、彦火火出見命の従兄に当たる、宇摩志麻遅命が彦火火出見命との戦いに負け、物部氏の祖にされたことと同じです。
『古事記』『日本書紀』は、実際には神武東征時に浪速における長脛彦命との戦いで亡くなった兄の五瀬命を、日向神話『海彦山彦物語』では隼人族の祖の火照命(海幸彦)とし、皇室の祖となった弟の彦火火出見命を火緒理命(山幸彦)としたのだ思います。
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