Facebook池谷 啓さん投稿記事
経典は、「私はこのように聞いた」(如是我聞)ということばから始まる。
「私」とは、釈迦に常にともなっていた阿難(アーナンダ)である。経典は、阿難が釈迦の教えを聞いたことをもとに、つくられたということになっている。
釈迦が滅したあとに、その教えが散逸しないようにまとめるという集いが行われた。「仏典結集」(サンギーティ)という。第一回目は、摩訶迦葉(マハーカッサパ)が主催して行われた。
阿難は、その時点で悟っていなかった(アラハントに達していなかった)ので、その結集には参加できなかった。しかし、結集の行なわれる明け方、悟りを得て参加したと言われる。
そして、五百人の比丘にむかって「わたしはこのようにブッダが教えていることを聞いた」と語る。それを比丘たちが、納得・了解してまとめられたのが経典ということになる。
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この「仏典結集」は、古代インド語のサンスクリットで「サンギーティ」という。「サン」は、一緒に、ともに。サンガ(ともに学び合う集い)のサンだろう。「ギーティ」は、歌である。音律といっていいか。
ブッダの教えを確認しながら、音律にしていた。きっとある種のメロディーになっていたはず。そのほうが覚えやすい、伝わりやすい。この場合、文字にしないで、ギータ(歌)として伝承されていった。文字になったのは、滅後百年後あたりか。
その「ギーティ」が、中国で音訳されて「偈」(偈)になった。有名なのは、『法華経』の「自我偈」である。
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これは、北伝仏教も南伝仏教も同じで、みな阿難が「わたしは聞いた」というところから始まる。
大日如来が説いたとされる密教『大日経』ですら、「かくのごとく我聞けり、一時(あるとき)薄伽梵(ばがぼん)は如来の加持せる広大なる金剛法界宮に住したもう」(『大日経』冒頭の「住心品」)となっている。「理趣経」も、しかりである。
『法華経』も同様である。
「是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山(ぎしゃくっせん:霊鷲山)の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶(とも)なりき」(序品第一)ではじまる。
ただ、『般若心経』は異質である。いきなり「観自在菩薩‥‥ではじまる」。また、最古層の経典の『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などは、そうなっていない。いきなりブッダの箴言から始まる。
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形式としては、ブッダは「問われれば説く」という対機説法なので、「対告衆」(たいごうしゅう)というものがある。
『法華経』は「如是我聞」ではじまるものの、対告衆なく、いきなり始まる。「無問自説」という。智慧第一の舎利弗(シャーリープトラ)に向かって説かれる(方便品)のだ。
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こないだ創価の会員と話していて、「経典というのは、阿難が釈迦から聞いたとして説かれた形になっているよ」というと驚いていた。
かれらは、朝晩の勤めは、『法華経』の「方便品」と「如来寿量品」をよむ。そのとき「爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。」とくる。「告舎利弗」というので、舎利弗が伝えたと思っていたのであった。
「それはちがうよ、舎利弗は対告衆なんだよ。伝えたのは阿難ということになっている」というと、「いままで、そんなことは考えたことがなかった」という。
まあ、ひとつの宗教にハマると、大前提の基礎的な仏教の仕組みというか、前提をすっ飛ばしていることがたくさんある。
「知らない」ことを知っていれば学ぼうするけれど、「知らないことすら知らない」と、まったくこれは探求の世界は閉ざされてしまう。
仏教に出てくる神とか明王(みょうおう)の類(たぐい)は、ヒンドゥー教が源である。たとえば、大黒さん、弁天さん、金毘羅さん、毘沙門天などの四天王、梵天、帝釈天、韋駄天、摩利支天、不動明王、愛染明王‥‥数えあげればキリがない。
これらは、もとはヒンドゥーの神々である。ブラーフマンが梵天。インドラ心が帝釈天など。それらが仏教に取り入れられ、仏の教えを守護する働きとして表される。
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先日、馬頭観音(ばとうかんのん)を本尊とするお寺(長楽寺)の尼僧(吉田真誉さん)と話をした。
馬頭観音が本尊という寺は珍しい。密教の寺だから、もともとは大日如来とか不動明王が本尊だったかもしれない。
ところで、馬頭観音ってなんだろうか。
馬頭観音もヒンドゥー由来ではなかろうか。そんな話をした。
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調べてみたら、〝ハヤグリーヴァ〟という神であった。〝ハヤグリーヴァ〟は、「馬の首(を持つ者)」の意味。
聖仙カシュヤパとダヌの間に生まれたダーナヴァ(アスラ族の一つ)。
カルパ(劫 極めて長い宇宙論的な時間)の終わりがやってくる時、世界が海に覆わるが、宇宙を想像したブラーフマンは眠っていた。眠るブラーフマンの口から出たヴェーダ(智慧)を、ハヤグリーヴァが盗む。
そのことに気づいたヴィシュヌ神は巨大な魚の姿になって大洪水を救おうとする。そして、ブラーフマンが眠りから目覚めると、ヴィシュヌはハヤグリーヴァを殺してヴェーダを取り返した。
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ハヤグリーヴァがヴェーダ(智慧)を取り戻したという説もある。
ダイティヤ(アスラの一種)のカイタバとマドゥがヴェーダを盗んで海に隠した。ヴェーダを取り返すためにヴィシュヌはハヤグリーヴァの姿に化身して二体の悪魔をそれぞれ六つに引き裂いて殺し、ヴェーダを取り返した。
ハヤグリーヴァは苦行に打ち込んだ結果、馬の首を持つ者(ハヤグリーヴァ)以外の誰にも殺されないという身体を獲得するが、ヴィシュヌは馬の首を頭の代わりにつけてハヤグリーヴァを殺したととも言われる。
これらは、『マハーバーラタ』に書かれているという。
私は『マハーバーラタ』を、全部読んだことはないが、インド最大の叙事詩といわれるもので、いわばインド哲学の大百科事典。有名な「バガヴァットギータ」も『マハーバーラタ』のなかにある。これは、インド哲学のエッセンス。
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ともあれヒンドゥー教のヴィシュヌ派では、ハヤグリーヴァを知能・知識、探求を司る存在として重要な神格とみなしている。
そして、仏教においては、馬頭観音となっている。奈良時代以降、牛馬を守護する神として信仰されてきた。
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