http://news.yoshimoto.co.jp/2018/03/entry81429.php 【"華と心経の寺"大覚寺で「〜嵯峨の月光とさくら〜(ウォータースクリーンプロジェクション)」を開催】より
嵯峨天皇の離宮として建立されて1200年。"華と心経の寺"として親しまれている大覚寺で、注目のナイトイベントが開催されます。この「〜嵯峨の月光とさくら〜(ウォータースクリーンプロジェクション)」は、「嵯峨天皇宸翰勅封般若心経1200年戊戌開封法会」並びに「いけばな嵯峨御流創流1200年」の記念事業として行われるもの。大覚寺の東に位置する大沢池の水面にウォータースクリーンが出現し、鮮やかな光で四季折々の模様を映し出すことになります。3月23日(金)、一般公開を前にマスコミに向けてお披露目が行われました。
まずは来賓の方々が大沢池をバックに記念撮影。そしてPRキャラクターであり、司会進行を務める宇都宮まきが、お披露目記者会見のスタートを宣言したあと、伊勢俊雄大本山大覚寺執行長を紹介しました。伊勢執行長は大沢池が1200年前からそのままの姿で残っていることを話したあと、「空海様、嵯峨天皇様も時を越えて、現代の技術を使った大覚寺をご覧になっていただけると思っております」と語りました。
続いて来賓の門川大作京都市長が、伝統のもとに新たな挑戦を続けている大覚寺を賞賛し、「この取り組みが大いに盛り上がることをご祈念申し上げます」と挨拶しました。
そして来賓、関係者の紹介のあと、イベントの説明があり、引き続き挨拶が行われました。大本山大覚寺竹原善生教務部長は、今回のイベントは「嵯峨天皇宸翰勅封般若心経1200年戊戌開封法会」のプレイベントとして行われることを伝えたあと、戊戌についての解説や嵯峨天皇がなぜ般若心経を書いたのかなどを説明。そして今年の10月1日(月)〜11月30日(金)の間、嵯峨天皇の般若心経が開封されること、法会、行事が数多く予定されていることを伝えました。
渡辺好章同志社大学生命医科学部医情報学科教授は、「fukushimaさくらプロジェクト」の趣旨についての説明などを行ったあと、今日のイベントについて「最新技術と1200年の歴史とのコラボレーションが楽しみです」と期待を込めました。
続いては辻井ミカいけばな嵯峨御流華務長がマイク前へ。いけばな嵯峨御流のルーツなどについて話したあと、歴史的な場面を拝見できるのがうれしいと笑顔で語りました。
そして日没のタイミングを少し待ったあと、いよいよウォータースクリーンプロジェクション「〜嵯峨の月光とさくら〜」の上映がスタートします。水面から勢いよく吹き上げる水で作られたスクリーンに、般若心経や炎、光、月など様々な映像が映し出されます。ゆったりとしたピアノの音色と嵯峨天皇についてのナレーションのあとは、より幻想的な映像と音色が大沢池に浮かび上がりました。
上映後に宇都宮は「素敵でしたね〜」とうっとりした表情。「ウォータースクリーンなので、やわらかい水ならではの優しさ、温かみが出ていたと思う」という感想に拍手が起こります。そして、何回でも見たくなる素敵な映像でしたねと話し、改めてこのイベントの日程、内容を告知。3月25日(日)の18時ごろに再び来場することも発表し、「みなさま、ぜひお越しいただければ!」と呼びかけていました。
誰とこのイベントを見たいかという質問には、最近吉本新喜劇の後輩たちが結婚しているとポツリ。「吉田裕、前田真希ちゃんの座員同士の結婚もありましたし、近場で見つけたいという気持ちがあふれてきました」と本音を告白します。そして、一番仲がいい、親友のMr.オクレさんといっしょに来られたらと話し、以前真剣に結婚について聞いてみると「俺はまだ人一人の人生を背負う覚悟はできてない」とフラれたとのこと。しかし、もう一度この幻想的な映像を見てチャレンジしたいと語りました。
「〜嵯峨の月光とさくら〜(ウォータースクリーンプロジェクション)」は3月24日(土)、25日(日)の2日間、18時〜20時30分の間に行われます。上映時間は10分、開催時間内はループ再生されます(大人500円、小人300円)。幻想的な光のイベントに、ぜひ足をお運びください!
【宇都宮まき(吉本新喜劇)】
FacebookHiromasa Suzukiさん投稿記事
人は色受想行識という五つの要素で構成されていると仏教の般若心経には書かれています。
色は肉体。受は感覚。想は思考や感情。行は行動。識は認識。
そして、それらの実体は、有るけど無いという『空』である、と。
この宇宙は素粒子によって構成されています🪐
その素粒子は何かというと「点」という数学的な概念として理解されているもので、
その「点」は何かというと、『物質ではあるけど、物理的な実体を持つものではない』というもの。
つまり僕たちもこの宇宙も、実体を持たない非物質のものから、実体が構成されているという摩訶不思議👽
https://www.daikakuji.or.jp/about/ 【大覚寺とは】より
平安のはじめ、嵯峨天皇の離宮として建立されて1200有余年。絶えず歩みつづけてきた大覚寺。 今日では“華と心経の寺”として親しんでいただいておりますが、数々の悲運を乗りこえ、その法灯を守り続けてきました。 今日までの人と歴史の軌跡を辿り、この場でしか語ることができない口伝えを織りまぜながら、ここに記して参ります。
大覚寺
弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。 正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。 平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。 嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876)である。 弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。 明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名である。
延暦13年(794)、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずか3年で譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。 遷都から15年、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定をみる。 一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。嵯峨天皇は、唐の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。その代表が弘法大師空海であり特に恩寵を賜り、弘仁7年(816)には高野山開創の勅許を得、同14年(823)には東寺も下賜され、真言宗の立教開宗に至った。弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書され、その間、檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書、弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で、五大明王に祈願した。このときの宸筆・般若心経は、60年に一度しか開封できない勅封心経として現在も大覚寺心経殿に奉安されている。嵯峨院が大覚寺として再出発することになったのは、貞観18年(876)である。嵯峨上皇の長女で、淳和天皇の皇后であった正子内親王が、淳和天皇第2皇子の恒寂入道親王を開山として開創した。その後、延喜年間(901~923)になると、宇多法皇がしばしば行幸して詞宴を催すが、恒寂入道親王の後、3代定昭より20代良信までの約290年間興福寺一乗院の兼帯が続く。一乗院による兼帯後、文永5年(1268)、後嵯峨上皇が落飾して素覚と号し、第21代門跡となる。また、後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となる。この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。しかし、第24代性円門跡の時代、延元元年(建武3年・1336)火を発してほとんどの堂舎を失ってしまう。 元中9年(明徳3年・1392)には南北朝媾和が大覚寺正寝殿で行なわれ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入った。しかし、和議の条件が果たされなかったため、応永17年(1410)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていく。戦国時代に入り、応仁2年(1468)、応仁の乱によりほとんどの堂宇を焼失。天文3年(1534)からは東山の安井門跡蓮華光院を兼帯するが、天文5年(1536)にも木沢長政勢により放火されている。天正17年(1589)、空性を門跡に迎えた後、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(1624~44)には、ほぼ寺観が整えられた。最後の宮門跡は、江戸時代後期・天保8年(1837)に門跡に就任された有栖川宮慈性入道親王である。大正13年(1924)、第48代龍池密雄門跡が心経殿を再建。また大正天皇即位式の饗宴殿を移築し、心経前殿(御影堂)とした。 最後に、大覚寺は、いけばな発祥の花の寺であり「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)である。嵯峨天皇が、嵯峨院を造営した際に作庭した現存する日本最古の庭池「大沢池」の菊ヶ島に咲く野菊を手折り、器にいけ「後世、花を賞づるもの、宜しく之をもって範とすべし」と述べられたのをはじまりとする。
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