https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/806401 【4年ぶりに制限ない大学祭 つながりテーマに、共和大で11月5日開催】より
すみれ祭のポスターを手にする狐塚さんと岡安さん(右)。ポスターのイラストは3年の徳元蓮さんが描いた拡大する
すみれ祭のポスターを手にする狐塚さんと岡安さん(右)。ポスターのイラストは3年の徳元蓮さんが描いた
街なか唯一の大学「宇都宮共和大」の大学祭「すみれ祭2023」が11月5日、大通り1丁目の宇都宮シティキャンパスで開かれる。新型コロナウイルスの影響による公開制限がなく実施されるのは4年ぶりとなる。実行委員会広報部門の2年狐塚智稀(こづかともき)部門長(20)と1年岡安(おかやす)ユミさん(18)に見どころを聞いた。
LRT駅弁 300個限定販売 JR宇都宮駅西口で25、26日 大学生も考案、沿線風景などイメージ
すみれ祭の今年のテーマは「まちとつながる共和大」。狐塚さんは「私たちがつくる現在が、過去と未来につながるという思いを込めました。新型コロナで希薄になってしまった交流を深めたい」と話す。
子どもから高齢者まで地域の人たちに足を運んでもらおうと、エントランスホールで射的やヨーヨー釣りなどの「縁日」を開催。大通り側にはサークルなどが模擬店を出し、豚肉や野菜が入った名物の「共和鍋」も販売する。
「見どころはやはりゼミの研究の展示や発表です。学生が力を入れて準備しています」と狐塚さん。約15件の展示と、8件の発表が予定されている。またサークルの展示やスピーチコンテスト、カラオケ大会、チャリティービンゴ大会なども行われる。
ちなみに、すみれ祭の名は、同大がスミレをシンボルにしていることに由来する。スミレが厳寒に耐えて滋養を蓄え、早春に花を付けることから、同大では一般社会に羽ばたく直前の4年間にふさわしいなどとして校章にデザインした。
岡安さんは「入学前からすみれ祭を楽しみにしてきました。委員として関われてうれしい。ぜひ多くの人に来てほしいです」と来場を呼びかけている。
Facebook斉藤 一治さん投稿記事『『出雲と荒神谷』 〜荒神谷は三宝荒神の谷
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
八というのは、この場合、方位を表していて、垣は土地の中であり、いろいろな場所から雲が昇る様子を『八雲立つ』と呼んでいるのだと考えられます。
または、いろいろな場所から水が湧き出す様子でもあるのかもしれません。
島根県の宍道湖は斐伊川や神門川の流れにより堆積した土砂により形成され(4000年前から2000年前にかけて)、その場所は神話で引き寄せられた北にある島根県半島の山々と南の山陰山地の間なんです。(自然の地形)
そこに出来た新たな大地は、スサノヲの歌に出てくる八雲立つ、まさに新しい(清々しい)『須賀』の地なのです。
ここでは、森林の伐採や鉱山開発により、豪雨災害で荒れた山や谷が崩れて、川によって再生された土地が出現するように、大地再生の土地神信仰が育まれ、そこに縄文時代から続く、人間の命の再生という願いが、土地神信仰へと込められていったのかもしれません。
新羅や朝鮮半島との往来があった日本海側の山陰では、大陸の文化が古くから入っていて、稲作や農耕とともに、治水、灌漑技術も伝わっていました。
古代中国では、雲の中にいる龍を神が天上と地上を往来する乗り物としいたり、または雨や水を自在に操る神そのものとしても尊ばれていました。
やがて龍は地上において、土龍や土帝、伝説の黄帝にもなり、四神の青龍のように天上の星神へと昇華していきます。
大和から見て西方に位置する出雲は、星が沈む場所(土中に潜る場所)であり、不慮の死を遂げた人々が、禍いをもたらす鬼神(荒御魂)ではなく、幸福をもたらす存在として、或いは再生する願いの象徴として、冥界の神大国主祭祀という、新たな出雲が神話と共に作られていったのかもしれません。
弥生時代の荒神谷遺跡は、宍道湖や斐伊川などによって堆積された平野を北に望み、遺跡の南側に『三宝荒神』が祀られている事から、荒神谷遺跡と命名されています。
翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本の銅剣が出土しました。
銅剣の数は古代の暦の太陰暦の一年の日数に近く、出雲と深く関わるスサノヲが歳神(暦と方位)と習合しているのも不思議な一致となります。
しかし、大量の青銅器の埋納については諸説あり、いまだ多くの謎に包まれています。
1.祭祀説 雨乞い、収穫、地鎮など豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀。
2.保管説 マツリの儀式の時に取り出して使用するため、普段は土中に保管した。
3.隠匿説 大切な宝である青銅器を、部外者から奪われないように隠した。
4.廃棄説 時代の変化により青銅器が不要になったため破棄された。
5.境界埋納説 共同体間の抗争の緊張から生まれた“境界意識”の反映。
2200年前に出雲(荒神谷)に半島や大陸から伝わった信仰の根源は、後の大和の三輪山祭祀へと繋がり、大国主を祀る地として、再び出雲の地に戻ってきます。
私は荒神谷の多くの銅剣や銅矛の埋納は弥生時代の『土地神鎮め』であり、現在でも続く地鎮祭の鎮めもの、相撲の土俵の鎮めものの源流ではないかと推測しています。
つまり、土地神に武器を供え(土中に埋納する)、ここに人間と土地神との敵対関係が回避され、これは土地に住む人々にとって禍いを無くす重要な儀式であり、スサノヲと八岐大蛇、大国主(やちほこのかみ)が根の国に行く神話が、土地神との関係を表しているのだと考えられるのです。
遺跡の近くには『三宝荒神』竈門神であり、土公神、土地神なんです。
(土地神は傾斜地や坂で祭祀する)
つまり、荒神谷は土地神の谷であり、弥生時代の祀りが土地神を祀るものだったとする遠い記憶に基づいているのかもしれませんね。
【三宝荒神(さんぽうこうじん)】
荒神谷遺跡付近に鎮座する神社 島根県出雲市斐川町神庭675
なお、当社は荒神谷遺跡の名前の由来にもなっています。
案内板によれば、当地には古くは宮居の場(神が鎮座する場所)があったものの、中世以降の争乱によっていつしか忘れられていたと伝承されていたそうです。
その後、天保の大飢饉の最中である天保6年(1835年)に西谷の人々が集い、当地の人々を飢餓から救う生活安全の守神として、宮居の地であった当地に荒神を祀って祈ったところ、神慮を得て安穏に暮らすことができるようになったので、後に11月13日を祭日として、集落の人々が藁で作った大蛇、赤飯、幣串を供えるようになったとされています。
【御祭神】
須佐男命 三貴子の一柱で出雲の祖神。 大地主命(オオトコヌシ)『古語拾遺』に登場する神(オオクニヌシ)。 建見名方命(タケミナカタ)大国主の御子神で、国譲りに反対してタケミカヅチと争った。
【三宝荒神】
日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。
荒神は、仏法ならびに伽藍の守護神のことである。
役小角が金剛山で祈祷していると、艮(北東)の方角に赤雲がなびき、荒神が現れ、その地に祠をつくって祀ったという伝説がある。また、荒魂を祀って荒神としたという説もある。後者は、ヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたと解釈される。
像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。日本古来の荒魂(あらみたま)に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した。荒神を祀る寺院や神社は日本全国に約300社ある。
三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。
頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。
不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。
これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。
仏像としての作例は近世以降のものが多い。
*おそらく、神仏混淆で三宝荒神となっていますが、古代では火と竈の神であり、土地神、土公神である事が推測されます。
大地主命(オオトコヌシ)の名前が残っているのは、スサノヲや大国主は土地神であり、竈門神、歳神の性格から三宝荒神とし、さらに神仏分離からスサノヲや大国主に戻ったのでしょう。
出雲祭祀が古墳時代初期の大和の三輪山祭祀となって、土器や埴輪、塩造り、酒造りが土公神祭祀と結びつき、より明確に半島や大陸由来の竈門神や家宅神を祖霊(鬼神、土地神)と位置付け、倭国大乱後の中央の祭祀(卑弥呼の鬼道)となっていき、古墳の形成や葬送儀礼を作り、それを土台に神仙思想や中国の影響により陰陽を形成していくことになったのだと思われるのです。
【不慮の死を遂げる大穴持】
〜不慮の死者は鬼神になる
大穴牟遅神(オオナムヂ、大穴持、大国主)の兄神たちである八十神(ヤソガミ)は因幡国の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚するが、ヤガミヒメはオオナムヂと結婚するといったため、八十神はオオナムヂを恨み、殺すことにした。
オオナムヂを伯岐国の手前の山麓につれて来て、
「赤い猪がこの山にいる。我々が一斉に追い下ろすから、お前は待ち受けてそれを捕えよ」
*猪目は黄泉の入口でしたね。
(猪目洞窟は出雲国風土記に「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれ、夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ、ここは黄泉の穴であると記されている)
と命令した。
オオナムヂが待ち構えていると、八十神は猪に似た大石を火で焼いて転がし落とし、それを捕えようとしたオオナムヂは石の火に焼かれて死んでしまった。
【地母神、女神による再生】
オオナムヂの母親の刺国若比売(サシクニワカヒメ)は息子の死を悲しんで高天原に上り、神産巣日神(カミムスビ)に救いを求めた。
カミムスビが遣わしたキサガイヒメとウムギヒメの治療によりオオナムヂは生き返った。
*キサガイヒメとウムギヒメは母神を助ける乳母神。
キサカイヒメが「刮(きさ)げ集め」、ウムカイヒメが「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとある。
ここの記述については、粉末にした赤貝の殻を母乳に見立てた蛤の白い汁で溶き、火傷の治療に使ったという民間療法を表すとする説があるが、一方で、蛤の汁が母乳に見立てられた点を重視し、これは母乳の持つ生命力の促進・回復の効能を期待して蘇生に利用したもので、神名の「ウム」から「母(おも)」が喚起され、そこから「母乳による蘇生」という一つの神話素(英語版)が形成されたものと指摘する説もある。
なお、蛤は『和名抄』に「海蛤ウムキノカヒ」とあり、古くから薬剤として利用されていた。〜
オオナムヂの復活を知った八十神は、再度殺害を試みた。
大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまった。
母親は泣きながらオオナムヂを探して大木をみつけ、すぐに木を裂いて取り出して生き返らせた。
母親は、
「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」
といい、木国の大屋毘古神(オオヤビコ、家宅の神)の所へ行かせた。
【家宅の中心から地の世界(竈門の中へ)へ】
オオヤビコの所へ行くと、追ってきた八十神がオオナムヂの引き渡しを求めた。
オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、須佐之男命(スサノオ)のいる根の堅州国に向かうようにいった。
【土公は土中(根の国)の中では醜い鬼神、白蛇は土公の御神体】
根の国のスサノオの家で、オオナムヂはスサノオの娘の須勢理毘売命と出会い、二柱は一目惚れした。
スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れたが
「ただの醜男ではないか。葦原色許男神(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室(むろや)にでも泊めてやれ」
と、蛇がいる室に寝させた。
スセリビメは、蛇の比礼を葦原色許男神にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういった。
その通りにすると蛇は鎮まったので、葦原色許男神は無事に一晩寝て蛇の室を出られた。
【呉公は蜈蜙(ムカデ)と伎楽の呉公がかけられている】
次の日の夜、スサノオは葦原色許男神を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。
スセリビメは「呉公(伎楽の面、地を鎮める舞)と蜂の比礼」をさずけたので、葦原色許男神は無事にムカデと蜂の室を出られた。
*呉公
伎楽の舞であり、伎楽の面、呉国の貴人。
内容は不明だが、今日の獅子舞のように土地鎮めや場所を清めるものであったと推定されている。
【鳴鏑は大山咋の御神体】
鏑矢は松尾大社や日吉大社の大山咋神の御神体でもあるように土地神の御神体でもあり、大山咋は大年神の子で、大年神はスサノヲの子とされ、鳴鏑は神の象徴とされている。
スサノヲは広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)を拾うよう葦原色許男神に命じた。
葦原色許男神が野原に入ると、スサノヲは火を放って野原を焼き囲んだ。
【十二支の子(鼠)は水気】
葦原色許男神が困っていると鼠が来て、
「内はほらほら、外はすぶすぶ」
(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)
といった。
それを理解した葦原色許男神がその場を踏んでみると、地面の中に空いていた穴に落ちて隠れることができ、火をやり過ごせた。
また。
その鼠はスサノヲが射た鳴鏑を咥えて持って来てくれた。
スセリビメは葦原色許男神が死んだと思って泣きながら葬式の準備をした。
スサノヲは葦原色許男神の死を確認しに野原に出てみると、そこに矢を持った葦原色許男神が帰って来た。
スサノヲは葦原色許男神を家に入れ、頭の虱を取るように言った。ところが、その頭にいたのはムカデであった。
葦原色許男神は、スセリビメからもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくヒメにもらった赤土を口に含んで吐き出していると、スサノヲはムカデを噛み砕いているのだと思い、かわいい奴だと思いながら眠りに落ちた。
【武器は土地神への供物、琴はゴトビキ、つまり蝦蟇、蛙も土公の供物】
〜スサノヲ(歳神、来訪神)による土地神祭祀
葦原色許男神はこの隙に逃げようと思い、スサノヲの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞いだ。
スサノヲの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いた。その音でスサノヲは目を覚ましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまった。
スサノヲが柱から髪を解く間に、葦原色許男神は逃げることができた。
スサノヲは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原色許男神を追ったが、そこで止まって逃げる葦原色許男神に
「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」
といった。
葦原色許男神は出雲国へ戻って大国主となりスサノヲから授かった太刀と弓矢を持って、八十神を山坂の裾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、全て退けた。
そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めた。
*古い土地神(竈門神、土公神)八岐大蛇→新羅の陰陽(歳神、治水、農耕の新技術の伝播)スサノヲによる新たな土地神信仰→大国主(新たな冥界、祖霊信仰、国津神)
(神友)
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
シーミーとブーテンさん
お墓参りといえば彼岸ですが、沖縄は、いまの時節にシーミー(清明祭)と呼ばれる先祖供養が行われます。
同じ先祖を持つ父系の血縁のひとたち(門柱)が一堂に会してお墓参りを行うのですが、お墓参りと言っても、私たちが通常イメージするものと違い、独特の大きな亀甲墓(墓の前は庭のような広さ)でお花見のようにご馳走を並べ、お酒を酌み交わし、三線をかき鳴らして歌って踊ってと、お花見のような賑やかさです。
たまたまその光景に遭遇したのですが、これが先祖供養と言われてとても驚きました。先祖供養=お墓参りですが、こどものころから静かに手を合わせるもの、と思っていましたから、供宴のような供養は想像したこともありません。
「沖縄ではね、生きているみんなが元気で光り輝いていることが最高の先祖供養なんだよ。だって、みんなの中にご先祖さまが生きているのだからね」。
目からうろこが落ちました。
なるほど。沖縄で大事にされている言葉のひとつに「ヌチドウタカラ(命こそ宝)」がありますが、これは私物化できるような「命」のことではないと気づきました。いのちは未来のことです。過去でもあります。そしてわたしが、大いなる過去と未来の接点であることの自覚でもあるように思います。
シーミーとともに感動したお話に「ブーテン」さんのことがあります。以前も紹介しましたが、再度。
ブーテンさんは、沖縄で語り継がれているボードビリアンの小那覇舞天さんですが、通称「ブーテン」さんで親しまれ、明治、大正、昭和を生き抜き、沖縄が本土に復帰する3年前の1969年に亡くなられました。
ご存じのように、沖縄は日本で唯一地上戦が行われ、幼いこどもたちを含む大勢の住民いのちが奪われました。終戦後もみな失意のどん底にありましたが、そんな中、ブーテンさんは家々をまわり「ヌチヌグスージサビラ」(命のお祝いをしましょう)と言っては三線をかきならして、歌っていたそうです。
悲しみにくれている人に、なんというふるまいだと憤怒されたこともたびたびと言いますが、それでもブーテンさんは、「いつまでも不幸な顔をして戦争で犠牲になった人たちの歳を数えながら暮らすつもりですか? 生き残ったものたちが命のお祝いをして元気を取り戻さないと、沖縄の復興もできません。亡くなった人たちのためにも、命の祝いをしましょう」と傷ついた心に生きる力をとりもどすよう歌い続けたと言います。
本業は歯科医で、普段は非常に寡黙できまじめな人間として知られていたようです。深い悲しみを慈悲に昇華して、自らを演じきったブーテン。その存在を知ったとき、思わず涙してしまいました。
https://kibounohikari777.cocolog-nifty.com/blog/2022/06/post-173290.html 【人生を支配する先祖供養(3) 産土神様へ、そして正守護神様と特命守護神様への感謝】より
1.産土神様への感謝
生長の家創始者・谷口雅春先生には33の神示が天降りましたが、その神示を谷口雅春先生が解説された書の一冊に『到彼岸の神示』(日本教文社刊)というご本があります。
この中の『帰幽の神示』(昭和六年六月二十六日神示)の〔講義〕中に、産土神様(うぶすなのかみさま)について書かれている箇所がありますのでご紹介します。
『我々が住んでいるのは現実界に住んで居ると同時に、そこの同じ領域(スペース)に重複してダブってあるところの霊界に住んで居るのであります。(中略)霊界の区長さんとか町長さん位にあたるのが産土神様(うぶすなのかみさま)という事になるのであります。現実界では引越して来たら、転入届とか移転届とかいうのを出す。現実界ではそういう習慣(ならい)があるのに、霊界の方では、その区長さんに何の挨拶も届も出さないのは、礼儀に反する訳であります。』(p.205)
私もどこに住んでも常に産土神社への参拝を欠かしませんが、社会生活を送っていると、これは「産土神様」のご愛念のお蔭、お導きの賜物に違いないと思われることが多々あります。
先日も、近所の産土神社に家族で今年2月に生まれた男の子の宮参りに行ってきました。家族一同が健康に過ごせ、仕事に学業にと毎日楽しく過ごさせていただけることに深い感謝のお祈りをさせていただきました。
「世界平和の祈り(新バージョン)」もしっかり祈らせていただきました。
人は「神の子」であり、「神様」の「全知全能」のお力をいただいておりますが、同時に産土の神様のご愛念をいただき、ご先祖の皆々様からのお力をいただいてすべての物事がスムーズに行くのであり、「神様」に、そして「産土神様」に、「ご先祖の皆々様」にただただ日々感謝する毎日です。
2.正守護神様と特命守護神様への感謝
谷口雅春先生著『新版 人生を支配する先祖供養』(日本教文社刊)には、先祖供養の意義と実際の供養方法について詳しくご説明いただいています。
また、私達一人一人には守護神がついていて、その人その人をそれぞれに守っておられますが、谷口雅春先生は次のように書かれています。
『守護神は、生まれるときに産土神(うぶすながみ)様に選ばれて適当な神格を得た祖先の霊が守護のために選ばれてついておられるのである。これは正守護神であって、生れてから現世の生活が終わるまでつづいて護(まも)っていられる。現世の人間が特に重大な使命又は役職についたとき、その職務に従って、その方面に堪能な霊が特命守護神としてつくのです。』(p.170)
正守護神様、特命守護神様へ深く感謝申し上げます。
以上、『到彼岸の神示』と『新版 人生を支配する先祖供養』のそれぞれ一部をご紹介しましたが、ぜひ全文を熟読・味読ください。
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