磐座探訪雑記帳 ③

http://www.message.ne.jp/iwakurasp/blog.html 【磐座探訪雑記帳 池田清隆】より

75.金閣寺の「九山八海石」

 九山八海石。クセンハッカイセキと読む。どこにでもある代物ではない。宇宙の中心にそびえ立つという巨大な須弥山(しゅみせん)を囲む九つの山と八つの海を表現した石のことで、仏が住む浄土の意をあわせもつ。縁起がいい石として珍重されてきたが、権力者が富と力でもって手に入れたものがほとんどだ。金閣寺の九山八海石も例外ではない。「北山殿」とも呼ばれたが、今や京都を代表する観光寺で、京都に来る訪日観光客の半分が訪れるという。当然ながら、境内に入った途端、トコロテンのように人の流れに身をまかせながら押し出されていく羽目になる。

 とはいえ、ここは人混みを避けて立ち止まり、九山八海石を探してほしい。観光客のほとんどはこの石の存在を知らず、金閣(舎利殿)のきらびやかさに目を奪われたまま通り過ぎる。が、金閣に近い入江のようなところから鏡湖池(きょうこち)を振り返ると、本州を模した葦原島(あしはらじま)と松の美しい鶴島と亀島が見えるはずだ。その手前、白い炎のような石がいかにもという表情で存在感を示している。足利義満が中国から取り寄せたという名石だ。古来より中国で好まれた太湖石だというが、岩肌が深い「しわ」を刻み、峰を成し、波打つようにくねっている。大海に浮かぶ深山といった景色だろうか。金閣寺庭園の「主石」といわれる由縁だ。

 義満は将軍職を長男の義持にゆずり、太政大臣に昇りつめるが、中国(明)の皇帝にたいしては日本国王と称しつつ、「臣源」という臣下の礼をとった。結果、明との貿易で莫大な富を得、北山殿と呼ばれる広大な庭園を手に入れたともいえるのだが、義満の危うい権力基盤を象徴しているようでどこか心もとない。義持は父義満を憎んでいたという。父が死ぬと北山殿は解体され、縮小して禅寺となる。応仁の乱では多くの伽藍が薪のように燃やされ、金閣と鏡湖池を含む庭の一部が往時の面影を保ったといわれる。さらに、足利義政が「銀閣」を造営するときも数多くの名石が運び出され、昭和の世、唯一創建当初の建物であった金閣までが放火され焼失することになる。

 以前、権力者が愛した「藤戸石」について触れたおり、まるでかれらの墓標のようだと書いたことがあるが、この九山八海石もまた、義満の墓のように見えてくる。古代インドの宇宙観に基づくという「貴石」とは裏腹に、その陰に見え隠れする数多くの悲劇とともに、権力者がもつ幻想のようなものが凝縮しているような気がする。池のなかに「天下」を模した葦原 島を造り、宇宙の中心を象徴する九山八海石を眺めていたと思われる義満。青白い炎のような石を見ていると、義満という強者(つわもの)の夢と観光客が落とす莫大な拝観料とが重なってくる。

令和3年1月25日 目次の先頭へ戻る

74.鎌倉十王岩

 今から八四〇年ほど昔、源頼朝が鎌倉に拠点を構えたとき、源氏の氏神である鶴岡八幡宮を平安京の大内裏(だいだいり)に、若宮大路を朱雀(すざく)大路になぞらえて街づくりにあたったという。一四歳まで都で育ち、父義朝が平清盛に敗れたあと、伊豆で二〇年の流人生活を送っていた頼朝にとって、鎌倉は父ゆかりの故地のみならず、源氏再興の想いが凝縮したような土地でもあった。頼朝の妻・政子の安産と嫡男誕生を祈願するため、大路に石清水から勧請した八幡神の新しい宮を意味する「若宮」を冠するなど、頼朝の想いが顕れている。源氏再興の願いを街づくりの基軸に託し、新しい源氏の世が始まるという宣言でもあったろう。その若宮大路と鶴岡八幡宮の延長線の先に、街づくりの基点と伝わる「十王岩」が存在する。

 永い年月で風化し、形も定かではないが、中央に血盆(けつぼん)地蔵、左に如意輪観音、右には閻魔大王が彫られているという。ここにいう十王とは、死後の世界で亡くなった者を裁く王をいう。初七日から三回忌まで一〇回の裁判があるそうだが、そのなかで最も恐れられているのが五七日目の閻魔大王だ。でもなぜ十王岩に血盆地蔵と如意輪観音が彫られているのか。なぜ中央は閻魔ではなく血盆なのか。如意輪観音はなぜここにいるのか。謎だらけといっていい。そもそも血盆地蔵という存在が怪しい。調べると、一〇世紀ごろ中国で成立した「血盆経」と、そこに記された「血盆池地獄」という思想が見え隠れする。血盆経とは、女が女特有の「血」のために、死後、血の池(血盆池)地獄に堕ちることを説く経典のことで、救い出してくれるのが如意輪観音だという。女だけが堕ちる血の池、裁くのは閻魔大王、救うのは如意輪観音……という構図がぼんやりとだが浮かんでくる。とすると、十王岩の意とするところは「女人救済」という観念なのか。若宮大路は頼朝が政子の安産を祈り、手ずから道づくりを始めたと伝わる。血をともなう出産ながら、源氏の再興と弥栄がかかっている。基点と基軸という視点のみならず、頼朝と政子の願いがまるで水脈のように、基層で繋がっているように思えてくる。

 鎌倉は相模湾に面し、三方を山に囲まれた要害の地といわれる。十王岩がある鎌倉アルプスは北の要害でもあるが、逆にみれば、ここを破られれば「終り」ということにもなる。逃げ場もない。だから最後の執権、北条高時は逃げることもできず、一族郎党とともに自害した。十王岩から南を望むと鎌倉の市街が広がり、若宮大路が一直線に伸びている。磨崖仏がいつ彫られたのかわからないが、ここに立てば、いわば鎌倉の「きも」に触れるような気がする。

令和3年1月10日 目次の先頭へ戻る

73.鎌倉の「やぐら」

 鎌倉幕府滅亡の地、北条高時の「腹切りやぐら」を訪ねたときの衝撃は忘れられない。ぽっかりと口を開けた楕円形の「やぐら」が、執権高時と北条一門八百七十余人の霊を飲み込んでいるように思えたからだ。崖に穿たれた穴が不気味な静寂のなか、ひっそりとうずくまり、まさに陰々滅々といった霊気が地面を這っていた。霊というものは、こういうひんやりとした澱みのことではないか、そう思った。元弘三年(一三三三)五月二二日、新田義貞によって鎌倉の各口を破られ、若宮大路に攻め込まれた高時は、屋敷の裏手、葛西谷(かさいがやつ)にある菩提寺・東勝寺に火を放ち、一族郎党とともに折り重なるように自害したという。ここにいうやぐらとは、山腹の崖をくりぬいた岩穴のことで、鎌倉から室町期にかけておこなわれた「納骨窟」のことをいう。矢倉・屋蔵・窟などの文字をあて、岩屋や岩殿などもやぐらと呼んでいた。いわゆる、鎌倉武士の墳墓窟と理解すればいいと思う。その数、二千基とも三千基ともいわれているが、まだ数多くのやぐらが埋もれているとされ、正確なことはわかっていない。

 もう五〇年以上も前のことだが、家内とよく鎌倉へ通った。三方を低い丘陵で囲まれた狭い土地ながら、古都の風情が色濃く残り、今のように観光客であふれる喧騒の巷とは無縁のころだった。駅から少し歩くと、谷戸(やと)と呼ばれる谷間が数多くあり、その奥に足を踏み入れると必ずといっていいほど寺があり、裏山には「百八やぐら」など、さまざまなやぐらが口を開けていた。まるで鎌倉武士の世界にタイムスリップしたような感覚になったことを思いだす。

 鎌倉という地名の起こりはよくわからない。が、有力な候補としてふたつの説が存在する。ひとつは、地形が竈(かまど)に似た谷のようであることから、釜の谷といい、「くら」は谷の意にして、かまくら(釜谷)と呼ばれたという説。もうひとつは、鎌倉は神倉(かみくら)にして神庫の意であるという説。どちらも決め手はないのだが、地形が竈に似た谷、という説により親しみを感じる。古来より日本人は、暗さをともなう「穴」には、なにか神霊が籠る神秘的な佇まいを感じるとともに、大いなる母性のようなものを抱いてきた。と同時に、人の生命力を復活してくれるところとして聖視した。アマテラス(天照大御神)は天岩戸に籠ることによって霊威を回復し、皇祖神としてよみがえった。古墳の石室も同じような意をもつと思われるのだが、やぐらもまた、岩穴崇拝が基層を流れているように思える。やがて、やぐらは室町中期で姿を消す。まさに鎌倉幕府とともに生まれ、幕府滅亡とともに消えていったといえるだろう。

令和2年12月25日 目次の先頭へ戻る

72.フォッサマグナ

 前項で「国石」となったヒスイの話をしたが、この宝石は日本列島の成り立ちと密接な関係があるという。我が家がある山梨県北杜市は、本州中央部を南北に縦断し、日本を東西に分ける「フォッサマグナ」と呼ばれる大地溝帯の只中に位置する。フォッサは地溝、マグナは大きいという意で、大きな溝(みぞ)のことだ。明治初期にドイツ人の地質学者、エドムント・ナウマンが命名したもので、ナウマンゾウに名を遺すことで知られる。約一六〇〇万年前、日本列島がアジア大陸から離れ、現在の形になる過程で、ほぼ真ん中で大きく裂けて深い溝ができ、そこに海水が流入、海峡のような状態が続くなか、海底にたまった新しい地層が隆起し、八ヶ岳や富士山などの火山列ができたものとされる。溝の深さは約六〇〇〇メートル。その西端が糸魚川・静岡構造線と呼ばれるもので、ヒスイは古い地層との裂け目付近から見つかるという。ここを境に、食文化や習慣の違いも指摘され、糸魚川市は東と西の「境界のまち」として売り出している。

 裂け目の起点となる新潟県糸魚川市は、日本で初めてユネスコのジオパーク認定を受けたところだが、ここにはフォッサマグナに起因するさまざまな奇岩、景勝地が存在する。そのなかのひとつに能生(のう)海岸にある巨大な岩礁・弁天岩がある。約一〇〇万年前、フォッサマグナが陸地化する直前に海底火山の噴火によってできたものだという。岩というより島と表現したほうがぴったりくるような巨大さだが、岩礁には役割を終えた白亜の灯台と厳島神社があり、航海安全や豊漁を祈る聖地として信仰されてきた。付近にはヒスイの女王といわれるヌナカワヒメ(奴奈川姫)の産所や住居跡などの伝承地が点在し、奴奈川族が蟠踞(ばんきょ)していた地域とも考えられている。いわば、大地の裂け目が生み出した地球の遺産だが、マグマの息吹を留める雄大な造形が、ヌナカワヒメの霊能が宿る「奥津城」のように想えてくる。

 フォッサマグナの中間地点あたり、長野県南牧村、JR小海線の野辺山駅から国立天文台付近を通り平沢峠に向かうと、「獅子岩」という巨岩が見えてくる。今風にいえば、さしずめ「ゴジラ岩」とでもいうのだろうか。ナウマンはこの岩に登って南アルプス方面を眺めたときに、彼の言葉で「著しき奇妙な地形」と表現された景色に驚き、感動したという。気が遠くなりそうな話だが、ナウマンはここが列島を東西に分ける巨大な溝であり、日本列島の誕生にさかのぼる光景ではないかと思い始めたのだ。それがやがてフォッサマグナの発見に結実し、日本列島の起源へと繋がっていく。まさに磐座の始原ともいえる「天地創造」の世界をここにみる。

令和2年12月10日 目次の先頭へ戻る

71.日本の「国石」となったヒスイ

 令和二年(二〇二〇)六月二四日の朝日新聞デジタルに「一・五トンのヒスイ原石、二〇個の穴、川面露出で盗掘被害」という記事が載った。糸魚川市を流れる青海川(おうみがわ)にあった巨大な原石が、ドリルで穴を開けられ盗掘にあっていたというのだ。現在は同市にあるフォッサマグナミュージアムに「保護」され、展示されているが、それほど貴重で高価なものだという証でもあるのだろう。今回は、世界最古、ヒスイに魅せられた国の話だ。

 国を代表する石を国石(こくせき)と呼んでいるが、平成二八年(二〇一六)九月二四日、金沢大学で開かれた日本鉱物科学会において、ヒスイが日本の国石に選ばれた。それまで、水晶や真珠が国石に準じた扱いをうけてきたが、正式にヒスイが認定されたのだ。白い色をした石が多いが、ところどころに緑色をした部分があり、古代より永遠の生命力を宿していると信じられてきた。漢字では翡翠と表記され、翡はカワセミのオスで赤を意味し、翠はメスで緑の意をもつという。日本人が最初に愛した宝石とされ、山梨県北杜市の「天神遺跡」から約六〇〇〇年前(縄文前期前半)の首飾りが出土している。日本最古であり、世界最古ともいわれるヒスイの装身具だ。カツオ節を小さくしたような大珠(たいしゅ)と呼ばれるものだが、こののち玉、勾玉(まがたま)へと姿を変えていく。ところが不思議なことに、奈良時代に忽然と姿を消し、昭和になって再発見されるまで、一三〇〇年もの間忘れられていたというから驚く。神秘の宝石とされる由縁でもあるが、長い間、日本でヒスイは採れないと思われていたのだ。

 渓流に洗われる白い巨石の写真は、小滝川ヒスイ峡に現存する最大級の岩塊で、硬くて重い性質上、かなりの激流でも動かないという。約五億年前、地下深くに生まれたものだが、悲しいことに盗掘を防ぐため、監視員が常駐しているという現実に胸が痛む。そのヒスイ狭から車で四〇分ほど、親不知の「翡翠ふるさと館」に世界最大級、一〇二トンの原石が展示されている。この原石も盗掘防止のため、青海川から運ばれたものだ。イルカの頭ように見えるが、これだけ巨大な原石は類をみない。まさに日本を代表する「国石」といえるだろう。それほど貴重なヒスイの原石。これは観光客に観せるものではなく、厳かに拝するものだと思う。「ヒスイの女王」といわれるヌナカワヒメ(奴奈川姫)伝説が色濃く残る糸魚川地方。いわば地域の歴史を刻んだ「地母神」のような存在だと思うからだ。鉱物学という視点では理解が難しいヒスイの信仰。見せ物ではなく、縄文から続いてきた糸魚川土着の神秘性を大切にしてほしいと強く願う。

令和2年11月25日 目次の先頭へ戻る

70.女人救済と立山開山窟

 芦峅寺(あしくらじ)・布橋(ぬのばし)の正面に立山連峰が横たわっている。深紅の欄干と白銀の立山が対となり、その厳かさが際立つ。それもそのはず、この橋はこの世とあの世の境界なのだ。明治の神仏分離のおりに壊されたが、江戸期の絵図面などを基に忠実に復元された。立山は神仏分離までは女人禁制だったが、橋の先にある女人成仏の霊場・姥堂(うばどう)までは参拝が許された。ここで「布橋灌頂会(かんじょうえ)」という女人救済の儀式がおこなわれた。橋の下を流れる姥堂川を三途の川にみたて、白装束をまとった女たちが、閻魔堂から目隠しをして橋を渡り、姥堂で念仏を唱え、再び橋を渡って戻ると、極楽浄土に往生できると観念された。というのも、立山の山中には女だけが堕ちる「血の池地獄」があるとされていたからだ。地獄から舞い戻り、女人往生する……いわば女にとって、女人禁制という掟(おきて)ながら、しっかりと救済してくれるという「女の味方」のような儀式であり、存在でもあったろう。

 立山を開山した慈興(じこう)上人は、越中守佐伯有若の嫡男・有頼とされる。開山縁起によれば、有頼が鷹を探しているとき熊に出会い、弓で射たところ、傷ついた熊が玉殿窟(たまどのいわや)のなかで阿弥陀如来に変じ、立山を開山するよう命じたとされている。ところは室堂平の東端、現存する日本最古の山小屋・立山室堂から一段下がった断崖に口を開けている。訪ねたのは七月下旬、窟(いわや)に至る坂道はまだ雪渓が残っていた。ひび割れたようなごつごつとした断崖の裾に二つの窟が並び、手前が虚空蔵窟、奥の大きいほうが玉殿窟だという。正面には雄山がそびえ、山の襞(ひだ)に残る雪が新緑に映えていた。奥行きは四メートルほどか、小振りながら粗削りな風情、まるで立山の山霊が籠っているような霊気を感じる。じわりと湧きあがるような感動とともに、「ここに阿弥陀如来が立っていたのか」としばし立ちつくした。

 季節は違うが芦峅寺には三度通った。その都度印象深く、神の村として栄えた集落の佇まいとともに、心に響いてきたのは女人救済を象徴する布橋であり、女の想いが化身したような姥尊(うばそん)だった。姥尊は、立山の地母神とされ、親しみをこめて「おんばさま」とも呼ばれている。いまは基壇のみが遺されているが、往時は布橋を渡った先に姥堂があり、六六体の姥尊が安置されていたという。これも神仏分離で姥堂が破却されたとき、その多くが散逸した。老女のような姥尊と芦峅寺、不思議な符合ながら、それを「売り」としてきた集落の歴史が人間臭く、また興味深い。「布橋灌頂会」は二〇一一年、日本ユネスコ未来遺産に登録された。

令和2年11月10日 目次の先頭へ戻る

69.雨晴海岸の義経岩

 判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉をご存知だろうか。あの源義経が判官という官位であったことに由来する言葉だが、強い立場の者が弱い者をいじめるときに同情、贔屓されるという庶民の心情を表す言葉として知られる。ここにいう強い立場の者とは源頼朝のことであり、弱い者とは弟の義経を指す。いわば頼朝が弱い弟をいじめる悪玉であり、義経が兄からいじめられる可哀そうな善玉となっている。義経の名声は死んでから確立されたといわれるが、判官贔屓がもとになり 、数多くの物語が残された。その典型とされるものが、義経が京都を追われ、奥州の平泉に落ち延びる途中に遺されたエピソードだ。こうした逃亡劇は、平泉で義経が自刃した後も続き、果ては北海道から中国大陸に及び、ジンギスカーンになるという話に膨らんでいく。

 判官贔屓に欠かせない天下無双の相棒がいる。武蔵坊弁慶だ。ただ、弁慶ほどの伝説的巨人がいつから義経に付き従っていたのか一切わかっていない。『吾妻鏡』によると、義経が頼朝の追討を受け、後白河法皇に暇乞いにあがったとき、相従う者は僅か二百余名とされるが、そのなかに初めて「弁慶法師」として登場する。以後、弁慶の活躍は目覚ましい。まるで東大寺南大門の金剛力士像のように知恵と怪力を発揮し、義経の守護神としての役割をはたしていく。そのなかのひとつ。奥州に向かう義経一行が越中の雨晴(あまはらし)海岸にさしかかったとき、にわか雨にあい、岩の下で雨宿りをしたという「義経岩」がある。急な雨を避けるため、弁慶が岩を持ち上げて雨宿りできる空間をつくったという話だが、この巨大な岩を持ち上げるというところが弁慶伝説たるところだ。雨晴という地名もここからきたというのだが、これはちょっと怪しい。おそらく、古来の地名があったと思うのだが、わからない。これも判官贔屓の余禄だろうか。

 訪ねたときは雲に覆われていたが、女岩と呼ばれる岩島越しに浮かぶ立山連峰は、有数の景観を誇る海岸として知られる。義経岩と女岩、遠くには立山連峰、まさに絵にかいたような光景が現出するという。ただ、水を差すようだが、現在の義経岩はかつてのものではない。波の浸食による崩壊を防ぐため、コンクリートによる「擬岩工法」という技術で補強されたものだ。この工法は自然の岩場、微細な地形を忠実に再現でき、付着生物なども自然の岩と変わることなく生息できるという。が、応用されるようになったのは、ここ二〇年来のこと。やむを得ず修復するのなら、本来の自然に近い形で……と願う者として、今後の研究と進化に期待したい。義経岩を補強して一七年余、もうっすっかり違和感なく、雨晴の景色に同化している。

令和2年2月25日 目次の先頭へ戻る

68.秩父皆野町稲穂山

 埼玉県皆野町でNPO法人「和の里みや」を営み、里のハーブや薬草をつかった健康医療の普及活動をしている宇野理佳さんから、友人(長谷川信枝さん)が所有する山林の一部を切り開いたところ、不思議な岩石群が現れたので見て欲しいという問い合わせが寄せられた。磐座ではないかというのだ。訪ねてみると、そこは、皆野町の稲穂山(いなほやま)にある「ムクゲ自然公園」と呼ばれる広大な癒しと再生の森だった。

 平成八年(一九九六)、稲穂山で円墳が発見された。秩父最古・最大の古墳、五世紀半ばごろの築造とされている。峰上に造られているので、自らが開拓した土地を望むところに墳墓を営んだと思われる。とすると、五世紀ごろ武蔵国に先だって置かれた「知々夫国」に繋がる可能性が考えられ、初代国造・知々夫彦命の墳墓かと期待が膨らむが、遺物がなくその確証はない。気になるのは、古墳に連なる簑山(みのやま)と和銅遺跡の存在。『新編武蔵風土記稿』に「往古和銅をほり出せしは、即此山の内なり」とあり、『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)の条には「武蔵国の秩父郡が和銅を献じた」とある。元明はよほど嬉しかったのか、和銅と改元、あわせて税の免除、恩赦などをおこなっている。注目されるのは和銅を発見した新羅系の金上无(きんじょうむ)が無位から従五位下に抜擢されていることだ。朝鮮半島からの渡来は稲作に始まるようだが、四~五世紀、多くの渡来人が倭国の建国に大きな役割を果たし、五世紀末にもさまざまな技術集団が渡来している。つまり、和銅が献上される以前から採掘がおこなわれていた可能性も否定できない。この視点にたつと、金上无の系譜と古墳の主が重なるようにも思えてくる。

 蓑山へと続く標高三五〇メートルの稜線上、樹木を切り開いていたら忽然と現れた。ひっそりと山中に眠っていた岩石群だ。三つの巨石を中心にして大小の岩石が群れ集まり、下方に向って岩の河のように累々と重なりながら流れ下っている。圧巻といっていい。南に武甲山を拝し、西に両神山、北には宝登山を望む。いわば知々夫国を一望できる「国見」のようなところ、国造の居住地も蓑山の麓にあったと考えられており、国の中心ともいえるところだ。巨石に由来するのか、「三ツ石」という字名が遺っており、なにか特別な場所と目されていた歴史を想う。すでに古墳は皆野町が調査を終え、知々夫彦命が眠る可能性を示唆している。この「神域」のようなところで祭祀がおこなわれていたかどうかは、やはり考古学上の立証が必要だ。が、幻の知々夫国がその一端を覗かせているような佇まい。久しい間山中に籠っていた巨石の群れ、これから土地の人たちに崇められ、清められながら、「磐座」として神性を帯びていくことだろう。

令和2年10月10日 目次の先頭へ戻る

67.タカセオミヤの石神

 なんとも分かりづらいところだった。所在地は石川県志賀町の笹波。高瀬宮と呼ばれているが標識もなく、近くまでたどり着いてはいるのだが、鎮守の森のような気配もなく、その近くをうろうろと行き来した。駐在所があったので立ち寄ったがあいにく不在。そうしているうち、商店らしきものがあり、聞いてみると、店の前にある道を指さし「その細い道を入った先ですよ」と教えてくれた。『百選』の選考過程でどちらを選べばいいのか、迷ったものがいくつかあるが、そのなかのひとつだ。結果、能登町の石仏山(いしぼとけやま)を選んだのだが、いまでも選考から外した未練が「埋火」のように燻ぶっている石神でもある。

 高瀬宮については『富来(ふぎ)町史』などに「タカセオミヤの石神」として、また「祭祀遺跡高瀬宮」として紹介されている。ただ、調べた限りでは、遺跡として発掘されたという記述はなく、そのあたりはわからない。大小三個の自然石からなり、最も大きな石をオトコイワ、陰石を想わせる割れ目がある石をメロイワ、真ん中の小さな石をコドモイワと呼んでいる。さしずめ家族が団らんしているような構図だろうか。オトコイワは、高さ約四・七四メートル、幅約三・一メートルだという。社殿のない自然崇拝を色濃くのこす神社だが、その理由に、石神は社殿を設けることを忌み嫌い、何度建てても一夜で壊してしまうという話が伝えられている。もともと神社に社殿はなかった。高瀬のように聖なる石があれば神は依りついた。社殿がつくられるのは仏教が伝わってからとされるが、石神は「異国かぶれ」を嫌ったのか。それとも矜持なのか。異国の真似などしないでくれ、今のまま、自然のままでいい……と告げているようだ。

 強く印象に残ったことがある。鳥居の存在だ。写真に石神そのものと鳥居越しに拝する石神を載せたが、なにげない三個の自然石が、鳥居が立つことによって「石神」に昇華するという、浄化作用のような役割を果たしていることが理解できる。貴いものをじかに拝しては畏れ多い。鳥居は俗界と聖域を分ける表象とされるが、ゆったりと張られたしめ縄とともに、研ぎ澄まされた造形がみごとに石の神性を高めている。通り入る門とか鳥の止まり木という説もあるが、もとは神体の直前に置かれた結界であり、ここから先は神が坐すという「心のみそぎ」だったのではないかと想像する。起源は、日本固有のものと外来のものとする説があり、一定しない。が、少し品がない話で恐縮だが、鳥居を立てただけで、小便をする者がいなくなるという笑い話のようなエピソードを聞くにつけ、われわれ日本人のなかに、鳥居の聖性が深く埋め込まれていることは確かなようだ。

令和2年9月25日 目次の先頭へ戻る

66.石が動く山

 漁師が海上において自らの位置を確認する方法に、ヤマアテ(山当て)という伝統的なやりかたがある。山を主体とし、陸地にある巨木や建物、岬などを組み合わせて漁場などを確認するという原始的な方法だが、長年の経験から導き出された合理的なやり方でもあった。そうした主体となる山は、地域で目立つ山や高山が多く、信仰の対象ともなった。元来、山は仰ぎ見るものであり、登るものではなかった。山は神が在(おわ)す霊地であり、みだりに入ってはならない聖域だった。と同時に死者の霊魂が鎮まるところと観念された。やがて、そうした聖域に分け入り山の霊力を身に着けようとする者が現れた。修験道の始まりである。

 石が動く山、石動山。いまはセキドウサンと音読みされているが、かつてはイスルギヤマと呼ばれていた。能登と越中の国境に位置し、標高五六五メートルながら、地域の最高峰であり、よく目立ち、ヤマアテの対象とされた。頂上部が円錐形をなし、古来より神霊の鎮まる山、修験の山として信仰され、山頂には式内社である伊須流岐比古(いするぎひこ)神社が鎮座する。調べていくと、五社権現と呼ばれ、一山を天平寺と称したころの凄さが浮かびあがる。それもそのはず、最盛期、寺領四万三千石余、衆徒三千人を擁した勅願の一大道場だったというから驚く。しかし、二度の騒乱で全山焼き討ちにあい、再興するも、明治の廃仏毀釈によって衰退し廃絶したという歴史を背負う。いまは礎石を遺す坊跡が苔生し、ひっそりと往時を語っている。

 それにしても、なぜイスルギと訓むのか。主な説がふたつあるが、「道字石(どうじいし)」という磐座に由来するという説が一般的だ。太古の昔、万物を司る星が三個(朝字石・動字石・竹字石)に割れて流れ落ち、その一つである動字石が山に落下した。その時、全山が揺れ動いたのでイシユルギと呼ばれ、イスルギとなったというもの。もうひとつは、この山は地滑りが頻繁におこり、大石までも落下したので、石が動く山として怖れられ、イシユルギの名がついたというものだ。由来としては動字石説に魅力を感じるが、地滑り説のほうがわかり易い。動字石は拝殿から少し下ったところ、玉垣に囲まれて鎮座している。縦横ともに一メートルほどだろうか。大きくはないが古色蒼然、苔生し神寂びている。説明板には『能登名跡誌』の引用として、「此山は天より星落ちて石と成、天漢石(てんかんせき)と号す」とあり、そのうえで「ちなみに、この石は隕石ではなく安山岩である」と記されている。天より星落ちて……としながら、隕石ではないという笑い話のような「落ち」が正直過ぎて、なぜか微笑ましい。

令和2年9月10日 目次の先頭へ戻る

65.石塔雑感

 敷地内に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔と呼ばれる石塔がいくつか点在する。どれもかなり古いもので、年月相応の寂びた風情が気に入っている。庭づくりの過程で据えたものだが、もうすっかり周りの景色にとけ込んでいる。おそらく、家が無くなり、かつての雑木林に戻ったなら、ここに古い寺があったと思うのではないか、そう想えるほどの存在感だ。こうした石塔は仏教的な石造物で、死者の供養のために造られたものがほとんどだという。もちろん、石神でも石仏でもない。が、祖先供養のため、お盆や命日などにお参りするところをみると、なにか霊的な存在とされていたことは間違いないようだ。

 五三八年(欽明七)、百済から仏教が伝来した。日本人はこれを「異国の神」と理解し、蕃神(ばんしん)と呼んだ。これが日本と異国の神との出会いであり、戦いの始まりともなった。物部氏と蘇我氏の覇権争いでもあったが、蘇我氏が勝利を収め、巨大な塔を中心とした飛鳥寺が建立された。『日本書紀』に「刹柱(せつのはしら)を建つ」と記されているもので、塔ではなく柱と表現しているところが意味深い。柱は神を数えるときの言葉であり、依代とされるものだが、蕃神もまた、神々のうちに加えていたことが窺える。柳田国男が「先祖の話」のなかで、ホトケは木の柱に文字を書いた卒塔婆(そとば)のことだという屋久島や佐渡の例を挙げ、ホトケを迎える精霊の依座(よりまし)でもあると記しているが、刹柱に通じるようで興味深い。

 石塔は石の卒塔婆といわれる。仏を異国の神・蕃神と称したように、塔のことを刹柱と表現するなど、仏教伝来時、すでに神仏習合が始まっているように思える。とすると石塔の基層を流れているものは、日本古来の神と異国の神が融合した造形といえるかもしれない。石仏と道祖神が路傍に同居し、祀られていることと同じ感覚のように思える。仏と神がとくに区別されるわけでもなく、ごく普通に混在し、ともに信仰されてきた歴史をここにみる。日本古来の神は、仏に負けたのではなく、むしろその懐に包み込んだのだと思いたい。

 宝篋印塔を眺めていると、写真や映像でよく見るアンコールワットの石塔を想い描く。そびえ立つ巨大な石塔は、男性のシンボル(リンガ)を意味するともいわれるが、相輪と呼ばれる先端部分も、そう見えなくもない。もともと密教系の石塔ながら、子孫繁栄への願いだろうか。自然のリンガとは山頂にそびえ立つ石のことだという。まるで縄文時代の石棒と仏塔が合体したような佇まい。遥か遠いところで、お互いが響き合っているように思えてくる。

令和2年8月25日 目次の先頭へ戻る

64.「磐座」を冠した神社

 拙い文章とはいえ、それはそれなりに日本語の表現は難しく、奥深いとため息をつくときがある。とくに神々の表現には苦労する。目に見えないからだ。見えない神を視るためには観ずるしかないのだが、そこはもう直感の域でしかない。「神道考古学」を提唱した大場磐雄は『神道考古学論攷』において、磐座という語義は「神々が石に座す観念から起こった」と記している。そのうえで、式内社において「イワクラ」の名を負う神社が一二社存在することを挙げ、理由はわからないとしながら、そのうち七社が北陸にあることを指摘している。内訳は、大和一・三河一・伊豆二・近江一・若狭二・越前四・能登一ということだが、なかでも越前が突出している。それだけ多くの磐座が祀られていたのかと思うが、なぜなのかわからない。

 今回の参拝地は、その北陸七社のひとつ「飯部(いべ)磐座神社」。福井県武生市と今立町が合併して誕生した越前市芝原に鎮座する。飯部という地名を冠するが、式内社の伊部(いべ)磐座神社に比定されている。ただ、所在地には異説があり、定まってはいない。『福井県の地名』に載る芝原村に「村の中央の小丘上には古墳遺構の巨石群がある」と記されているが、歩いた限りでは古墳という感覚はなかった。『神祇志料』にも「飯部郷芝原村磐山」とあるので、平地に浮かぶ磐の山という認識だったと思われる。社殿に向って石段が伸びているが、辺りには苔むした巨石が累々、やはり磐の山という観が強い。おそらく、社殿ができる以前、飯部郷の古代人はひしめきあう巨石に圧倒されながらも、そこに厳かな気這い、「神気」のようなものを感じたのではないだろうか。こうした深閑とした石の佇まいに神を観たのだと思われる。

 大場磐雄は磐座を「古代人が天工の妙を神霊の宿るが故と観じたもの」と喝破した。藤原新也氏は『沖ノ島』で、祭祀がおこなわれた岩陰の写真に「岩陰に近づくと神への祈りのアウラがかすかに残っているかのような空気を感じる」と記した。アウラとは、今ここにのみ漂っている独特の霊気といった意だが、どちらも、磐座の本質を突いているようで心に届く。「で、おまえはどうか」と問われると、「ドキドキながら、ゾクッと身震いする」といった感覚だろうか。なぜかわからないが、心が高鳴り、畏れとともに自然の懐にフワッと包み込まれるような「やすらぎ」といっていいかもしれない。古代の人はこうした石の「在りよう」に神の気這いを感じ取ったのだと思う。神は遠くに坐(いま)すけれど、なぜか近い。よくわからないが、ビビッと琴線に触れるものがある……。と、考えれば考えるほど茫洋と果てがなく、神への憧憬は尽きない。

令和2年8月10日 目次の先頭へ戻る

63.「御岩」と「大岩」の大権現

 ずいぶん前になるが、高知県の旧物部(ものべ)村に伝わる「いざなぎ流」という民間信仰に興味をもち、訪ねたことがある。詳しいことは省くが、陰陽道や修験道、仏教、神道などが混淆して成立したもので、氏神祭り、病気平癒、占い、調伏など、古代の祈祷師を彷彿させる太夫が実在する。徳島県との県境近く、急峻な斜面に張り付くように集落が点在していた。

 その途中、土佐山田町に、物部川の氾濫を堰き留め、水害から守ってくれた大岩を神体とする岩積(いわずみ)神社が鎮座している。「村人はこの大岩を磐座として堰留(いどめ)の神、石留(いわどめ)の神として祀った」と由緒にあり、元慶八年(八八四)、この二神が従五位下の神階に進んだことが記されている。もともと神社は大岩の上にあり、洪水になると村人は大岩に上がり難を避けたという。洪水でもビクともしない大岩ゆえ、「御岩大権現」と崇め祀ったのだという。ただ、この大岩は現存しない。岩の上に土を盛り、より高い堤防を築いたからだ。平成一〇年の改修工事で岩が現れたため、その一部を削り、環状列石のように展示されている。それにしても、堰留神、石留神とは「そのまんま」の神名ではないかと、なぜか可笑しい。

 もうひとつ、こちらは土石流を防いで村を救ったという大岩。「大岩大権現」と呼ばれているが、江戸末期、慶応二年(一八六六)の土石流で流れ落ちてきたものだという。ところは福井県敦賀市疋田。北陸本線の新疋田駅近くの谷間にどっしりと座っている。境内の横を川が流れ、橋を渡ると、真っ赤な鳥居越しに「にぎりめし」のような白い巨岩が見えてくる。村を救ったという大岩だ。おみくじで「山王権現の力で救われた」と告げられたというが、権現によって新しい権現が生まれたという意もあるようで面白い。山王といえば、荒魂(あらみたま)が和魂(にぎみたま)に生まれ変わるという日吉大社の「ミアレ(御生れ)神事」が知られるが、土石流で現れた大岩が、土石流を堰き止める大岩に生まれ変わるという意もあるのかもしれぬ。

 二つの大岩で想い浮かぶことは、『古事記』にいう現世と黄泉国との境を塞ぎ、邪気悪霊を防いだという「千引(ちびき)の岩」のくだりだ。千人の人間が引くほどの大岩という意だが、いわば「塞ぎとしての岩神」であり、洪水や土石流という悪霊を塞ぎ止めてくれる「善神」という神観念が観てとれる。神格化された時期は違うものの、どちらも、大岩が村を救い、村人に感謝され、神に昇華するという祈りが基層を流れている。自然災害という怖さと、神の慈悲という両面を併せもった御岩と大岩の「ものがたり」だ。

令和2年7月25日 目次の先頭へ戻る

62.スーパーの駐車場に祀られた巨石

 前項でふれた「白旗神社」の近く、スーパー「ひまわり市場」の駐車場に、場違いと思われる巨石がどっしりと座っている。幅、高さともに五メートルほどか。大切にされているようで、苔むした岩の上部にしめ縄が張られている。新年を迎えるときにかけ架け変えるというが、もともとあったものではなく、過去の土石流で埋まっていたものだという。この災害は明治三一(一八九八)年の水害と思っていたが、どうも天正二(一五七四)年のことらしい。近くに甲斐源氏ゆかりの逸見(へみ)神社があるが、『甲斐国志』に「天正二年八ヶ岳崩壊シ水漲(みなぎ)リ祠中ニ蔵(おさ)ムル……其時流閣セル巨石祠西ノ宮川ニ多数アリ」と記されているからだ。優に百トンを超えるもので、東京から対応できるクレーン車を呼び、吊り上げたと聞いた。名前はないが、近くにある同じような石にちなみ「鳴石」と呼んでいるという。いわば悲劇の石でもあるのだが、買い物客が行き交うなか、犠牲者を鎮魂するかのように黙然と鎮まっている。

 じつは、本元の鳴石は、スーパーから宮川を二キロほど遡ったところに所在する。わかりにくいところだが、雑木林の奥、湿原のようなところに苔むした巨体を横たえている。なるほど、駐車場にある巨石と大きさも形状もよく似ている。説明板に「この石は、昔から何か変わったことがあれば必ず鳴った」とあり、「冠婚葬祭の時など、何か頼まれると、貸してくれた」と書いてある。ところが、借りた品物を壊したまま返したところ、石はたいそう怒って二度と貸してくれなかったというのだ。柳田国男は、こうした伝説を「椀貸(わんかし)伝説」と称した。共通していることは、山中または水辺の岩や岩穴の前で、「来客があるので膳椀を貸してくれ」と頼んでおくと、必ずその場所に置いてあったが、壊したりして元の通り返さなかったために、貸してくれなくなったという話だ。折口信夫は、淵などの場所が多いことから、水神の末裔である河童が水の彼岸からやってきて、椀を貸してくれた話と捉えている。

 鳴石がある雑木林は、沢が流れる湿地にあり、近くには八ヶ岳湧水群と呼ばれる湧水池や湧水口が点在する。前項でも触れたが、おそらくこの辺りは、古来より水神が宿る霊地であり、聖と俗との結界のような場所でもあったのだろう。ここにくれば、水神さまと会える。なにかあれば助けてくれる。そうした願いが、石が鳴り、椀を貸してくれるという「椀貸伝説」に結び付いたのではないだろうか。湿地にあるためか、鳴石全体がびっしりと苔に覆われ、濃い緑色をしている。折口説ではないが、巨大な河童の頭のようにも、椀を臥せたようにも見えてくる。

令和2年7月10日 目次の先頭へ戻る

61.白旗神社の石塔

 山梨県は律令制下の「甲斐国」が下地になっている。山に囲まれた狭い盆地を意味するカイ(峡)が語源とされているが、今でも峡北・峡南などという行政名が活きている。移り住んで二〇年になるが、何かにつけて登場するのは武田信玄で、「信玄公」と尊称される英雄である。信玄を生んだ甲斐源氏の祖は、源義光とされ、孫の清光が八ヶ岳南麓に土着し、甲斐源氏の棟梁として礎を築いた。そうした甲斐源氏にまつわる不思議な神社が北杜市大泉町に所在する。

 その名も白旗神社。今でこそ民家が点在しているが、江戸後期の『甲斐国志』には、「本村ヲ距ルコト拾五六町許、北方八ヶ嶽ノ麓ニ在リ」とあり、人里離れた山中だったことが記されている。社殿はなく、高さ一・二メートル、横幅二・七メートル、奥行一・五メートルという巨石の上に自然石を積み重ねた五層の石塔が二つ並んでいる。清光の孫・有義がこの下に源氏の白旗を埋め、神社として祀ったと伝わるが、もとより伝説にすぎない。しかしながら、甲斐源氏発祥の地という歴史とともに、「白旗」という神社名がその繋がりを主張している。

現在は、タケミカヅチ(建御雷)、ウカノミタマ(倉稲魂)、アメノウズメ(天宇受売)を祀っているが、「国志」には、八嶽権現・水神・姥神の神名が記されており、本来はこの三神を祀っていたと思われる。なかでも興味深いのは姥神で、神聖な山の入口に座すといい、三途の川の畔にいるともいわれる神で、聖と俗との境界神の性格をもつ。神社脇を甲川が流れ、社地がある標高千メートル付近には「八ヶ岳南麓湧水群」と呼ばれる泉が点在する。今まで発掘された数多くの縄文遺跡もほぼこのラインより低地に存在している。そうした山と里の境目(結界)のようなところに磐座と思しき巨岩があり、神殿のような石塔が存在するのだ。

 巨石の上に、無造作とも思える積み方ながら、絶妙なバランスで重ねられた五層の石塔。高さ約一・八メートル、粗削りな野武士のような風貌をもち、崩れそうで崩れないたおやかさを内に秘める。なんとも不思議な造形だが、地震などで崩れたという記録はないという。不揃いながらも、大小さまざまな形をした自然石が危うい均衡を保ち、天工の妙というべき神秘さを醸しだしている。まさに人智を越えた堅ろうさで地震や風雨に耐えてきたのだろう。『百選』で採りあげた対馬の「天道法師塔」を彷彿させ、賽(さい)の河原にある石積みのような造形とともに、甲斐源氏を想わせる武者振りを併せ持つ。神社の発祥やありさまを想像させる聖と俗との境界のようなところ、樹と水と石が織りなす自然崇拝の原風景をここに観る。

令和2年6月25日 目次の先頭へ戻る

60.我が「石頭」考

 家族からイシアタマ(石頭)と呼ばれて久しい。辞典によると「石のようにかたい頭・考え方がかたくて融通がきかないこと」とあるが、融通がきかないだけではないらしい。いつも石のことばかりを考えているからだという。石の在りようが気になり、庭を散策するときも石ばかり見ているといわれる。といっても、年月を経て苔むし、寂びた石に魅かれるという程度でもあるのだが、なぜ石に魅かれるのかわからない。石に宿る「なにか」が魅了してやまないのだ。

 が、私のレベルとは比較にならない「石に狂った」といわれる人物がいる。しかも、全てが桁外れ、石に対する偏愛はただならない。その名も木内石亭(きのうちせきてい)。弄石(ろうせき)家と呼ばれるが、江戸中期、近江の阪本で生まれ、稀代の奇石蒐集家として知られる。とはいえ気が触れたわけではない。狂ったとしか思えないほど、古今東西の珍石・奇石を集めに集めた。今でいえば博物館活動のようなものだが、蒐集、研究の結果を『雲根志』という石の専門書として世に問うた。雲根(うんこん)とは、石のことだが、「二十一種珍蔵」の項に「予十一歳にして初めて奇石を愛し、今に至るまで三十年来、昼夜是を玩びて他事なし。此ために諸国へ通行する事凡そ三十余国。今求め集る處の石凡そ二千余品」と記している。

 興味深いのは、神代石(じんだいせき)という括りだ。今はもう死語になっているが、「天工にあらず、人工にあらず、実に神工のいちじるしきものなり」とし、上古の神石(しんせき)と表現しているもので、用途がわからなかった石棒や独鈷石などを指している。たとえば石棒、豊穣を祈るための男根を模した縄文の祭祀遺物だが、かれの分類では神さまがつくった神石そのものであったらしい。なかでも石棒が気に入っていたのか、六九歳のとき、長さ一三五センチ、重さ約三八キロという巨大な石棒を手に入れている。巨大といえば、日本最大の石棒は長野県佐久穂町にある「北沢の大石棒」で、長さ二二三センチ、径二七センチを誇る。北沢川渕の土中に横倒しになっていたもので、田園のなか、田んぼの畔に保存され屹立している。やがて明治初期に成立する近代考古学によって神石は再分類され、神代石という概念は消えていった。

 おそらく石亭の頭の中には、分類・整理された奇石がびっしりと詰め込まれ、石の擦れあう音がガラガラと鳴り響いていたことだろう。「石の上にも三年」ではないが、一一歳で石に目覚めて以来、八五歳で天寿を全うするまでの七四年間、石とともに生き、石に埋もれ、果ては石に還ったというべきか。石なくしてなんの人生か。石を愛でずしてなんの楽しみか。石を訪ねずしてなんの旅か……。いわば時空を超えた究極の「石頭」がここにいる。

令和2年6月10日 目次の先頭へ戻る

59.飛んできた「天岩戸」

アマテラス(天照大神)が天岩戸に籠ったとき、タヂカラノオ(手力男)が岩戸を開き、扉をひきちぎって投げると信濃まで飛んでいき、戸隠(とがくし)山になったという伝説がある。山のどこかに扉が隠されているから「戸隠」という名がついたというが、『記・紀』には扉をひきちぎって投げたという記述はない。調べると、平安初期から話が膨らみ、室町期になると、さらに誇張されていったという。たとえば『平家物語』の伝本のひとつである「百二十句本」に、タヂカラノオが「岩戸をひき開き、扉をひきちぎって、虚空へ遠く投げられける程に、信濃国に落ち着きぬ。戸隠の明神是なり」というくだりがある。このあと、岩戸をひき破って現れたのでアマテラスのことを「千岩破(ちはやぶ)る神と申すなり」と続いている。チハヤブルとは、神を導く枕詞で、荒々しいという意を含むが、アマテラスを千岩破神とするのは珍しい。千磐破、霊威振と表記されることもあるので、岩を破って出てくるほど畏れ多いということか。

 戸隠神社は奥社・中社・宝光社の総称だが、戸隠山を神体とするのは奥社であり、発祥の地でもある。八方睨(はっぽうにらみ)という断崖の真下にあり、水源地ともなっている。本殿近くに九頭竜(くずりゅう)社が鎮座するが、本来の地主神はこの水神・九頭竜神だという。崖下の水源という立地が信仰の源であり、奥社とされる由縁でもあるのだろう。頂に「蟻の戸渡り」と呼ばれる刃物のような難所があるが、どうもこのあたりに扉が隠されているらしい。

 奥社には、戸隠山を望むバス停から二キロほど歩かなければならない。少し降ったところに大鳥居があり、直線に伸びた参道が延々と続いている。参道の真ん中あたり、奥社で最も古い随神門が見えてくる。ここから本殿へと続く杉並木が、神域へといざなう回廊のようで、古木の間からさしこむ陽ざしが心地いい。やがてギザギザとした稜線(八方睨)が間近に迫ってくる。この岩壁下の岩窟(宝窟)に本殿が鎮座する。岩壁の真下ということもあり、何度も雪崩に遭って崩壊したというが、現在はコンクリート造りとなり、その一部が岩窟内に収まっている。

 帰り道、社務所の前に人の列ができていた。聞くと、「御朱印」をもらうためだという。そうか、ここにも御朱印ブームが押し寄せているのかと思った。元来、朱印とは自身が書き写した写経を寺に納めた証(納経印)として戴くものだった。やがて、時代の流れなのか、神社でも参拝の証として朱印を押すようになったという。が、あくまでも写経を寺に納めるという仏への祈りが根底にある。時代といえばそれまでだが、根っこのない流行りのようで正直、寂しい。

令和2年5月25日 目次の先頭へ戻る

58.イザナミの「腰掛石」

 各地に「腰掛石」と呼ばれるものが存在する。歴史上著名な人が腰を掛けたという石のことだが、「貴き人」が座ったということに特徴がある。神聖な石が由来になっているという説もあるが、さかのぼると、高天原でニニギ(邇邇芸命)が座っていたアマノイワクラ(天磐座)にいきつくように思える。天皇が即位するときのタカミクラ(高御座)の原形ともいわれ、磐座という言葉の原点といえるものだが、ニニギはこの磐座を離れて天降ってきた。とすると、最も古い腰掛石は天磐座ではないかと思っていた。ところが、さらに古い腰掛石があるという。

 最高神とされるアマテラス(天照大御神)。ニニギの祖母にあたる存在だが、誕生には二つの伝承がある。知られているのは『古事記』の伝承で、イザナギ(伊邪那岐)が亡くなった妻・イザナミ(伊邪那美)を黄泉の国に訪ね、その醜さに逃げ戻り、禊をするが、左眼を洗ったときに生まれたとされている。比べて『日本書紀』では、二神が日本国と山川草木を生んだあと、ここで天下を治める神を生もうと相談、誕生した神がアマテラスだという。禊ではなく、夫婦の営みによって生まれたということだが、素直に考えるとこちらのほうが理にかなっている。

 その理にかなった伝承にちなむ腰掛石があるという。ところは美濃と信濃の国境、恵那山(二二四〇メートル)の西麓、国道三六三号脇に血洗池(ちあらいいけ)という池跡が存在する。なんとも不気味な名の池だが、由緒にこのようなことが書いてある。イザナミがアマテラスを生んだとき、胞衣(えな)を池で洗い山に納めた。イザナミは池の畔で石に腰を掛け、ほっと一息ついた。胞衣を納めた山は「エナサン」と呼ばれるようになった……。つまり、イザナミは、国土や神々を生んだ日本最初の妊婦ということになる。池跡は国道工事で整地され、腰掛石も移動したというが、池の畔で出産したという、なんとも牧歌的な「営み」が、日本国の母神たるおおらかさを感じさせる。生きとし生けるものの命はここから始まったといえるのではないか。

 腰掛石は、クマザサが茂る湿原のようなところ、石組のなかに苔むしていた。石の上には「血洗神社」と刻まれた小さな石碑が置かれている。腰を掛けるには少し高いように思うが、イザナミがここに腰掛け、アマテラスを生んだ満足感に浸りながら、疲れを癒したのだろう。帰りがけに旧中山道の馬籠宿に立ち寄った。馬籠宿から望む恵那山は、残雪を有し、春霞のなか眩しく輝いていた。眺めていると、ふと、天磐座はニニギの胞衣のようなものだったのではないかと想った。どっしりとした安定感のある山容、どのあたりに胞衣が埋まっているのだろうか。

令和2年5月10日 目次の先頭へ戻る

57.岩屋岩陰遺跡

 縄文の昔から、季節を告げる「天文台」として、太陽や星の動きを観測していたところではないかと注目されている巨石群が、下呂市金山町の山中に存在する。妙見谷と呼ばれる馬瀬川沿いの谷間のようなところで、山の南斜面に巨石が群がっている。「岩屋岩陰遺跡」とは、岩屋村の岩陰遺跡という意だが、当時一六戸あった村はダム建設のために移転し、今は無い。ここにいう岩陰とは、巨石下陰の空間をいうが、北極星信仰ともいえる妙見神社が祀られてきた。『金山町誌』をみると、平安末期、源義朝の長男・悪源太義平が、ここでヒヒを退治した時に創立されたとある。妙見とは、魔除けの神でもあるので、災いを防ぐためでもあったのだろう。

 遺跡は、主に三つの石で構成され、地中からニュッと顔を出したような巨石を中心にして、それぞれが南に大きく開き、摩訶不思議な空間を創りだしている。いわば真ん中の巨石が神体であり、左右の石が神門にも見えてくる。参道の入口付近から仰ぎ見ると、鳥居の先になにか得体の知れないものが顔を出しているように見えるが、この不思議な感覚が「ヒヒ退治」の伝説に繋がっているように思える。訪ねたのは五月下旬、鬱蒼とした木陰のなか、遺跡へと続く石畳と石段が、まるでマヤの神殿を想わせるような佇まいを見せていた。岩陰内の神域は、幅約一〇メートル、奥行約七メートルだという。岩陰のもつ磁力なのか、ここから数多くの遺物が出土した。

 巨石は、天文観測のため人為的に配置されたという説があるが、教育委員会の「発掘調査報告書」によると「山からの崩落によるもの」とあるので、自然の営みが創りだしたと考えるほうが自然だろう。としても、なんのために太陽や星の動きを観測していたのかという疑問につきあたる。縄文といえば、狩猟採集が思い浮かぶが、「植物採取、加工の道具は一切見られず、狩猟のキャンプ地として利用されていた」とあるので、狩りのときの野営地だったようだ。興味深いのは、弥生時代になると「何らかの儀礼的な場にもなっていた」という発掘結果だ。農耕の始まりとともに、信仰の場に移っていったということか。妙見信仰とともに気になるところだ。 とはいえ、小林・徳田両氏の『金山巨石群の「縄文」太陽観測ガイド』をみると、じつに丁寧な調査結果が記録されており、この事実に疑問をはさむ余地はないように思われる。人工ではなく自然の造形だとすれば、これこそ天工の妙、神のなせる業としか想えない。としても、縄文人は何のためにこの岩石配置を利用したのか、という疑問は残る。「冬至正月」ではないが、季節の節目を知るためか、木の実や山菜などの収穫時期を知るためか、素朴な疑問だが、今後の研究を待ちたい。まさに森羅万象という言葉を想い抱かせる異界がここにある。

令和2年4月25日 目次の先頭へ戻る

56.石人という古墳の護り神

 昨年の十一月下旬、久しぶりに上野の国立博物館を訪ねた。この時期、博物館の庭園が解放されていると聞いたからだ。説明によると、博物館の敷地は、もとは徳川家の菩提寺である寛永寺の境内であり、本館が建っているところに本坊があったという。つまり、この庭園は寛永寺の遺構を伝える庭として貴重なものらしい。しかし、何度も改修されたようで、当時の面影を遺しているのは広大な築山と池の一部、有馬家の墓石ぐらいとされている。庭園には小堀遠州や川村瑞賢ゆかりの茶室などが移築されており、館内とは一味違った見どころが点在している。

 庭園を散策したあと、四年前に改装した平成館の考古展示室に足を延ばした。目的は、福岡県八女市の「岩戸山古墳」から出土した石人(せきじん)を観るためだ。改装以前にも訪ねたことがあるが、そのときとくらべ、格段に見やすく、わかり易い展示になっていた。重要文化財である石人は、ビップルームと呼ばれる部屋に、熊本県の江田舟山古墳から出土した国宝の「銀象嵌銘太刀(ぎんぞうがんめいたち)」とともに展示されていた。しかも、触れることは禁じられているものの、ケース越しではなく、直接見ることができ、撮影も可能だった。その貴重な存在ゆえに、戸惑いながらも、拝するようにシャッターを押した。

 石人が出土した岩戸山については『百選』でも触れた。あの古代史を揺るがした「磐井の乱」の首謀者・筑紫君磐井の墳墓とされているものだ。岩戸山は、磐井が生存中に造ったものといわれるが、そこに、聖域を守護するかのように石人を配置した。武装石人と呼ばれるものだが、この石人にはモデルがあった。磐井の祖父とされる「石人山古墳」の石人だ。現在は薄暗い覆屋のなかに立っているが、長年の風雨によって摩耗し、海坊主のような姿になっている。が、丸彫りの円体石人は、武人としての威圧感があり、重量感が漂っている。比べて、国立博物館に展示されている石人は、刀をぶら下げてはいるが、スマートな体型となり、洗練されている。「やっこだこ」のように見えなくもないが、古墳を護るというより、埴輪のように古墳を飾る石像といった観がある。とはいえ、両手を広げて通せんぼうをしているような姿は、本来の石人の面影を保っている。両者の違いは、祖父と磐井の立場によるものだと思うが、やはり国造としての権力の大きさといっていいだろう。時の大王(天皇)である継体に対抗し、覇権を争うほどの存在でもあったからだ。磐井は自らの力を誇示し、これ見よがしに墳墓を造営したといわれる。継体は乱を鎮圧した後、徹底的に墳墓を破壊したという。さもありなん、である。

令和2年4月10日 目次の先頭へ戻る

55.二つの大石

 よく、巨石とか巨大な岩塊という言葉を使うことがあるが、今まで訪ねたなかで特に印象に残っている二つの「巨石」を紹介したい。ただ、地中に埋まっているものや岩山のようなものではなく、その全容が確認できるものに絞ってみた。どちらも、地震や火山の噴火などによって山が大規模に崩壊し、「岩屑(がんせつ)なだれ」という現象によって斜面を転がり落ちてきたものだが、その巨大さゆえに信仰の対象にもなっている。

 ひとつは、静岡市清水区の河内(こうち)という山あいにあり、「河内の大石」と呼ばれ、安産石として信仰されている。高さ一九メートル、周囲は六〇メートルだという。この石を前にしたき、なぜこれほど大きな石を安産石と呼ぶのかと思った。胎内で育ち過ぎた胎児のようで、さぞかし難産だったのではないかと想ったからだ。二・五キロほど離れた真富士山の中腹から安政元年の地震で転げ落ち、さらに、土石流で移動してきたという。が、それがなぜ安産なのか。産道のような川筋を転げ落ちるように現れたから……というのだが、理屈ではないのだ。災害のあと、今までなかったものが突然現れる。しかも、かつて見たことがない巨大な石だ。真富士山が産み落としたと想っても不思議ではない。まさに忽然と「石が産まれた」と映ったのだ。

 もうひとつは、「大矢谷の巨大岩塊」と呼ばれるもので、福井県勝山市平泉寺町の大矢谷白山神社に存在する。こちらは高さ二五メートル、横幅約四〇メートルというから、周囲は優に一〇〇メートルを超える。あまりの大さに全容が写らず、苦労したことを思いだす。転がり落ちた歴史も古い。約二~三万年前、五キロほど離れた保月山の頂上付近から流れ落ちてきたという。神社の神体となっているが、岩壁かと見紛うような巨大さで迫ってくる。白山を開山した泰澄も寝泊まりしたと伝わるが、岩塊下の岩窟からは、縄文期の石器や平安期の須恵器などが見つかっており、住まいとして、また祭祀対象として崇められていたことを示している。

 本居宣長は『古事記傳』のなかで、カミ(神)のことを、「尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳(こと)ありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり」と表現し、アイヌの人たちは「人間が素手で立ち向かえない相手」を神として崇めていたという。山からゴロゴロと転がり落ちてきた自然災害ながら、尋常ならざる巨大さへの驚きと畏れが二つの大石に投影されている。とともに、これだけ大きい石が転がるのか、という不思議さも併せもつ。素朴で単純なことながら、「おそれいりました」とひれ伏したくなるような巨石の話だ。

令和2年3月25日 目次の先頭へ戻る

54.浜当目の「神の岩」

 海沿いのムラで発生した信仰にヨリガミ(寄り神)というものがある。いわゆる、海の彼方から寄り来るという漂着神のことだが、焼津市の浜当目(はまとうめ)に、その伝承が遺る岩礁がある。カンノイワ(神の岩)と呼ばれているが、海岸から二〇〇メートルほど沖合に、大小三つの岩が顔をだしている。異郷から訪れるためか、蝦夷(えみし)や夷(えびす)の語に由来するとされ、俗にエビス信仰ともいわれる。鯨やイルカなどの迷いこみや漂流死体など、海岸にながれついた「贈り物」を称してエビスと呼ぶ例が多い。「鯨寄れば七浦潤す」などといわれ、漁村の飢えを救う神としても信仰されてきた。私の故郷である愛媛県の宇和海沿岸にも、飢饉のときに村の窮地を救ったという「鯨塚」が数多く残されており、戒名がつけられたものや、「吊(とむらう)大魚之霊」といった石碑が現存する。

 じつは、浜当目という地名そのものがヨリガミと密接に関係する。現地は、静岡市石部から続く断崖・大崩(おおくずれ)海岸の南端にあたり、虚空蔵山(一二六メートル)という岩山が駿河湾に突きでている。海辺の神奈備というべき秀麗な山で、遠目にもよく目立つ山、当目山(遠目山)とも呼ばれている。沖合で漁をする漁師たちの「山当て」であり、寄港の目印であり、神が依り坐す神体山でもあったと思われる。南麓には式内社である那閇(なへ)神社が鎮座し、海側の絶壁には、「御座穴」と呼ばれる三つの海蝕洞窟が口を開けている。その南の沖合に神の岩がほぼ等間隔で並んでいる。由緒によると、祭神であるコトシロヌシ(事代主命)は、当初、神の岩に依りつき祀られていたが、大浪により岩が崩壊したため、御座穴に籠り、やがて当目山に遷座したと伝わる。コトシロヌシはエビスと同神とされるが、ここ浜当目でも、鯨やイルカなどが打ち寄せられ、村の窮地を救ったことがあったのかもしれない。

 神が寄り来る……という伝承を秘めた海岸だが、神の岩近くには波消しブロックがびっしりと敷き並べられている。どう見ても神域の景観を壊しているとしか思えないのだが、もう少し知恵と工夫はなかったか。東端の堤防に立つと、右に神の岩、左に御座穴を望むことができる。訪ねたとき、神の岩には海鵜が群がり、御座穴には波が打ち寄せていた。漂着神が依りついたという岩礁、神が籠ったという洞窟、最後に落ち着いた岩山、これほど明瞭な形で神の足跡が遺されている例は珍しい。が、海からの来臨を阻むかのようなブロック、こうした「神蹟」もやがて忘れ去られていくのだろう。時の流れと、人の営みの危うさを実感する参拝となった。

令和2年3月10日 目次の先頭へ戻る

53.岩崎山の五枚岩

 写真を見たとき。握りこぶしにも、五本の指が地中から突き出ているようにも見えた。何かの形に似ていると想ったのだが、それがなんなのか、はっきりしなかった。が、現地を訪ね、石段下から見上げたとき、「そうか、これは五鈷杵(ごこしょ)ではないか」と合点がいった。熊野神社の「五枚岩」のことだ。ところは愛知県小牧市の岩崎山。「花崗岩でできた山丘面から局部的にさらに高く突出し、五枚に分かれたもの」とあり、高さは約五メートル、奥行は約一〇メートルと説明されている。突出した岩塊が風化浸食され、分離したのだという。まさに、奇岩といっていい。五鈷杵とは、密教で用いられる仏具のことで、煩悩を打ち砕く法具として重要視された。両端が鋭い爪のように五つに分かれているため、五鈷杵と呼ばれている。空海が唐から請来したものが知られているが、祈祷のときは必ず手にし、生涯大切にしていたという。

 五枚岩の真ん中あたり、割れ目の奥に役行者の石像が据えられている。海抜五四・八メートルの低山だが、花崗岩の塊のような岩山で、修験者の行場であったことが記録に残る。岩の傍らには「愛知県指定天然記念物」と刻まれた石碑が立ち、碑の裏側に「古来弘法大師修法の護摩岩と称し……古代には磐境として信仰の対象となった遺石」という旨が刻まれている。弘法大師が修行したかどうかは別にして、五枚岩そのものが信仰の対象であったことは、その形状を見ても理解できる。自然が創りあげた造形ながら、その異様さと不思議な存在感に圧倒される。山中で対面した人たちは、今にも、むくむくと動き出しそうな気配に後ずさりをしたのではないかと思うほどだ。太古の昔、岩崎山は熱田海に浮かぶ島だったという。岩崎という名の由来は、岩の先端が突き出ていることに由来するというが、まさに五枚岩の形状そのものだ。低山ながらも巨石累々とした山容と奇岩の存在、平野に浮かぶ「霊山」がここにある。

 しかし、岩山という存在ゆえに、採石場として、また山城として利用された。「小牧・長久手の戦い」の折には、秀吉軍の砦が築かれ、家康が陣取る小牧山への最前線基地となった。岩崎山から見れば、小牧山との距離は二キロほど、まさに指呼の間といっていい。圧倒的な兵力差がありながら、ついに秀吉は勝てなかった。講和にもちこみ面目は保ったものの、家康を「温存」してしまった。家康はこの戦いで。その存在を十二分に示し、徳川政権樹立へ向けて大きな一手を打つことになる。結果論ながら、この戦が、豊臣と徳川の分岐点となった。秀吉がこの岩崎山であと一押し、家康を潰していればと思うが、「後の祭り」である。

令和2年2月25日 目次の先頭へ戻る

52.熱田神宮と楊貴妃

 熱田神宮に「楊貴妃の墓」があったことをご存知だろうか。「そんな馬鹿な」と思われるだろうが、まことしやかに楊貴妃に関する伝説が語り継がれているのだ。話は唐の玄宗皇帝の時代にさかのぼる。玄宗が日本を侵略する機会をうかがっていることを知り、日本の神々が一堂に集まり対策を練る。結果、熱田大神が絶世の美女(楊貴妃)に変身して、その美貌で玄宗をたぶらかすという作戦を立て、見事成功する。その後、安禄山の乱で殺され、葬られると、楊貴妃はもとの熱田大神に戻り、墓から抜けだして熱田に帰ってきたというのだ。

 単純な思いこみだが、熱田神宮も、磐座などの岩石崇拝が基層にあるのではないかと調べたことがある。神宮が鎮座する「熱田の森」は、古くは伊勢湾に突き出た岬の南端に位置し、縄文や弥生の遺跡が多く、尾張氏に関係があるという断夫山(だんぷやま)などの古墳が点在していたからだ。湾に面した神奈備のような景観とともに、信仰の始原となった「依代」のようなものがあるはずだと……。が、見当たらない。あるのは、祭神・熱田大神とされる草薙(くさなぎ)の神剣だった。この神剣を祀ったところが尾張氏の聖地であり、現在の神宮だというのだ。境内にもかつて古墳があったという。ということは、一族の祖霊が籠る「森」そのものが信仰の主体であり、奥津城(おくつき)でもあったのだろう。若狭地方に、「ニソの杜(もり)」という先祖が眠る神聖な森があり、今もって大切に祀られているが、同じようなものかもしれない。

 さて楊貴妃のことだが、これも熱田の森に関係がありそうだ。謡曲の「楊貴妃」に、玄宗は楊貴妃を忘れられず、方士(ほうし)に命じて魂魄(こんぱく)の行方を探させたところ、蓬莱宮で仙女に戻っていることをつきとめ、形見の品を持ち帰る、という話がでてくる。この蓬莱宮が熱田の森とされている。湾の奥深く、常緑樹に覆われた仙境のような岬が、蓬莱島のように映ったのだろう。さらに夢想は膨らみ、鎌倉期の『渓嵐拾葉(けいらんしゅうよう)集』に「蓬莱宮は、熱田明神である。社の壇の後ろに五輪の塔婆がある。この塔婆が楊貴妃の墓である」と記されるまでになる。そして今、なぜか塔婆の一部とされるものが「霊石」として境内の清水社にあり、水の中にその姿を映している。しかし、中国の歴史書である『旧唐書』には、「遂に仏室ニ縊死(いし)セシム。時に年三十八ナリ」とその最後が描かれている。縊死とは首をくくって死ぬことをいう。ここには神でも仙女でもない生々しい楊貴妃の死にざまがある。荒唐無稽といえばそれまでだが、蓬莱島伝説とあわせ、いわば神宮のしたたかさをこの「石」が語っている。

令和2年2月10日 目次の先頭へ戻る

51.立神浦の「立神」

 取材で奄美を訪ねたとき、名瀬に在住する友人に、島をほぼくまなく案内してもらった。その折、名瀬湾を見下ろす場所を通ることがあり、「あれが名瀬の立神(たちがみ)です」と教えてもらった。湾の入口付近、円錐形をした岩島で、頂には灯台があり、名瀬港のシンボルのような存在になっている。湾を守護するかのような凛々しい姿は、まさに「立神」と呼ばれるにふさわしい。古来、灯台はなく、立神そのものが灯台のような役割を果たし、神の島として崇められていたと思われる。奄美には、海岸近くに立神という岩が数多くあり、ニライカナイからやってくる神が最初に立ち寄るところだと伝わる。読み方は微妙に違うようで、タチカミ・タツカミ・タテガミなどと呼ばれている。野本寛一氏は、『神々の風景』で、立神はその形状から立脚・直立の「立」の意を含むことはたしかではあるが、神顕現の「顕(た)ち神」の意もあり、その重層性にこそ、景観にふさわしい重みがある……と記している。なるほど、である。

 今回は、奄美ではなく、英虞(あご)湾の中央部に位置する入り江のひとつ、志摩市阿児町立神(たてがみ)浦の立石神社を紹介したい。浦とあるように、入り江の最奥ともいえる波打ち際に鎮座する。入り江に突き出た拝所に三つの鳥居が並び、海中に立つ鳥居の先に大小二つの岩が顔を出している。これが「夫婦岩」とも呼ばれる立神で、神社の祭神とされている。帽子のようなしめ縄をした岩は高さ約二メートル、小さい方は六〇センチほどだという。かたわらには、夏至の頃におこなわれた「浅間祭」の竹幣が立っている。でも、なぜ志摩の地で浅間祭がおこなわれるのかと思っていたら、中西進氏の『日本人の忘れもの』に、「伊勢から富士山が見えることは、知る人ぞ知る神秘の光景」とあった。念のため、伊勢神宮近くで生まれ育った友人に聞いたところ、二見ヶ浦からも見えるという。そうか、このあたりからも富士山が見えるのか、そう得心した。その証とでもいうのか、神社の裏山は浅間山と呼ばれている。

 この立神は、ハラエドノカミ(祓所神)とも呼ばれる。ハラエドとは、祓(はらえ)をおこなう場所のことで、もともと、大きい立石が信仰の対象だったと思われる。石の下から清水が涌き出ていたという伝承もあり、「清めの神」と呼ばれるように、禊の場でもあったようだ。満潮にはひたひたと潮が寄せ、上部が浮き出るように見えることも、信仰を集める要素であったと思われる。そもそも海辺の立神は、寄り来る神の依代となるばあいが多い。竹幣をはさんで相対する立神と鳥居の写真を見てほしい。まるで立石に依りついた神が、鳥居に向かい、「開門、これから上陸するぞ……」と告げているようではないか。

令和2年1月25日 目次の先頭へ戻る

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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