千引きの岩

https://plaza.rakuten.co.jp/awakihara/diary/200502030000/ 【千引 の 岩(ちびきのいわ)看板 説明文 (23)】より

 4月の桜の花が咲く頃に,

徳島県那賀郡相生町内山の大岩の前に立てる予定の 看板に書く説明文ができた。

   千引 の 岩(ちびきのいわ)

 この大岩は,『古事記や日本書紀』に書かれた千引岩(ちびきのいわ)・千人所引磐石(ちびきのいわ)」に推定される。

 日本最古の歴史書『古事記』によると,

国造りの途中で亡くなった妻,伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉(よみ)の国,

比婆山(ひばやま)へ会いに行った伊邪那岐命(いざなぎみこと)は,「見てはいけない」と言われた醜い妻の亡骸を見たため妖怪達に追われるはめとなった。

逃げる途中に投げつけた髪を束ねた葛や櫛が,山葡萄や竹の子に変わり,それを追っ手が食べている間に逃げのびたが,なおも追ってくるので坂本にあった桃の実を投げつけると

追っ手達は逃げ帰ってしまった。最後に伊邪那美命(いざなみのみこと),自身らが追いかけてきたので,伊邪那岐命(いざなぎみこと)は,千引の岩で道を塞いだ。

 黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎみこと)が,竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あわきはら)で,禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると

天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれたと書かれている。

『古事記』に書かれたこの物語は,現在の徳島県内の地名に当てはまる所が多く,徳島県山川町から阿南市見能林町までの地域を舞台として繰り広げられた物語と考えられるのである。

伊射奈美(いざなみ)神社は,『延喜式(えんぎしき)神名帳』(平安時代九二七年)に

阿波国に一社のみ記録され,ほかの県にはありません。

『古事記』の物語は,この式内社 伊射奈美(いざなみ)神社がある穴吹町舞中島から始まり,高越山(こおつざん)を経て「カズラを投げたら実が生った」と書かれる。

上勝町雄中面(おなかずら)・生実(いくみ)。「くし櫛の歯を投げると竹の子が生えた」

竹ガ谷・(旧やつら八面神社に竹を型取った,灯ろうがある)

「桃を投げた」丹生谷(にゅうだに)地域には,百合(もあい)・桃の木坂・桃付等の地名があり,神社には桃を型取った木彫りがある。

また,相生町には,昔からヨミ坂と呼ばれる坂もある。

黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎみこと)が,四国の東端の

阿南市見能林町柏野で,禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると

天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれた。以上が,『古事記』等に書かれる「千引岩(ちびきのいわ)」に関わる物語である。


https://yomotsuhirasaka.com/yomotsuhirasaka/【黄泉比良坂・お墓の起源について】より

出雲ご縁感謝堂がある東出雲町は平成23年8月に隣の松江市と合併し、八束郡東出雲町から松江市東出雲町にかわりました。

出雲大社がある出雲市の東隣、松江市をはさんだ県東部に位置します。東出雲町には神話に登場する意宇川が流れ、意宇の里はかつて国庁があったとされる出雲国庁跡に隣接しています。

ちなみに、意宇川(おうかわ)や意宇郡という地名の由来は、国を引き終えた命(みこと)が「意恵(終え?)」と言ったことからのようで、大国主命も「意宇国主命」、つまり意宇の国主だったという説もあります。

黄泉比良坂は町内平賀に位置しています。幹線道路国道9号沿いには「出雲神話 黄泉比良坂 黄泉の国入口」と案内大看板が掲げられており、道路看板や家屋に貼った看板をたよりに進みます。家屋看板を過ぎると薄暗い狭い一本坂道です。

(略)

しめ縄に飾られた石門を潜ると、大きな石碑があります。表は「神蹟 黄泉平坂 伊賦夜坂 傳説地」と読み取れますい。裏は「紀元二千六百年 七月 佐藤忠次郎建之」と刻まれていますので1940年(昭和15年)に佐藤忠次郎が施したようです。

紀元2600年(昭和15年)に建てられた碑

碑の裏には佐藤忠次郎の記銘がある

この佐藤忠次郎は地元東出雲町で出生し一代で農業機械メーカー佐藤造機(現三菱農機)を育てた人です。

石碑を抜けるとあのイザナギが蓋をした千引岩が奉ってあります。数トンあろうかと思える真ん中に大岩、左右にひとつづつ形の違う岩があります。「この岩があの世とこの世を塞いだ神話の岩なんだ」と思いに耽っていると、辺りに風が吹き抜け神々しさを感じます。

あの世とこの世を塞いだ千引岩(ちびきいわ)お墓の起源となる石です

三つの大きな岩

古い看板があります 石碑の傍らには私ども日本石材産業協会が建てた小さな碑があります。

碑には黄泉の國の醜女達に追われここに逃れてきたイザナミ命は桃の実を投げつけ撤退させた

最後にイザナミ命自ら追いたり大岩をもちて塞ぎ生の國と死の國の境となせり千引の大岩なり

これより西二百米に道祖神あり追谷坂と呼ぶ急坂を下れば揖屋付近に通ず

又東四百米に峠あり夜見路越えとて中意東馬場に通ずる道あり

ここの神を塞坐黄泉戸大神(さつりますよみのおほかみ)なりと刻まれています。

日本石材産業協会が平成21年に建てた碑

私共が石を生業にする地はあの世とこの世をつなぐ場所にあり、分けた千引岩を奉る「お墓の起源」の地です。


Facebookいと きょうさん投稿喜い

イサナギの本名(ゐみな)は「タカヒト」。天照大御神の本名は「ワカヒト」。今の天皇の本名は「ナルヒト」。「ヒト(仁)」とは宇宙のすべてに尽くすという意味。


https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=287074&id=16393325 【ホツマツタヱを述ぶ (現代語訳 今村聰夫)】より

ホツマツタヱを述ぶ (景行天皇に献上するヲヲタタネコの奉呈文とヲヲカシマの賛助文)

この素晴らしい日本の国は、代々の天神の下に、民心が一つにまとまって出来ました。その求心力となったのは、初代天神クニトコタチが説いた「トの教え」です。宇宙の成り立ち、生命の不思議、自分の存在の意義など、人は誰でも真理を希求しますが、それに初めて答を出したのが「トの教え」です。「トの教え」を知れば、天地自然の中に調和して存在する自分を発見し、不安から開放され、周囲のすべてを慈しむ豊かな心が得られます。「トの教え」に心を寄せる人々の間に連帯感が芽生え、その広がりが天神を中心とする社会へと発展していったのです。

日本国家としての基盤が固まるまでに最も力を尽くされたのは、七代目天神のイサナギ、イサナミご夫妻でした。高い理想をもって国造りに励まれたお二人を、後の人々は「両神(ふたかみ)」とお呼びしてその功績を称えました。この時代にはまだ、国家社会への参加を拒否して、原始的な狩猟採取の生活を続ける者も多く、人口が増えるに従って食料の欠乏が目立ってきていたので、両神は食料の管理生産を推進する使命を担って登場されたのでした。そのためには、多くの人々の参加を得て、力を合わせることが不可欠だったのです。両神は国家運営の中心に「トとホコ」を据え、この二つを神宝としました。

「ト」とは「トの教え」を表す教典「トのヲシテ」のことです。神宝「ト」は、国民が豊かで平和に暮らせる国造りを、そして宇宙の摂理に叶った正しい政治を行うという、両神の願望と決意を象徴しています。また国家社会への参加を拒否している人々の中には、飢えや欲望から、善良な国民に対して収奪したり危害を加えたりする者が居ましたので、国民を守るための「矛」も保安の象徴として神宝の一つに選ばれました。「ト・ホコ」を政策の中心に置いた両神の治世は、急速に国家基盤を安定させ、新たに社会参加する人々も増えました。

両神の嗣子である天照大御神は、この「ト・ホコ」に「鏡」を加えて三種の神宝(みたから)とされました。鏡は鑑みる行為の象徴で、国政が「トの教え」に沿って正しく行われているかを常にチェックする目的で使われました。また鏡には姿ばかりではなく、人の心も映し出す力があり、心の内の光(か)と闇(が)を見る目的をも持っていました。この三種の神宝は、大御神の嗣子ヲシホミミを介して御孫の内、弟のニニギネに授けられました。三種の神宝の精神をしっかりと受け継がれたニニギネの治世は、どんなにか平和で、人々の暮らしは快適なものであった事でしょう。

私、臣ヲヲタタネコの祖先オホミケヌシは、開化天皇が禁忌に触れる后選びをされようとした時、職を賭してお諌め申し上げました。しかしながら后選びは断行され、ミケヌシは職を辞し隠居生活を送っておりました。その子孫である私をお召しになり、朝政の場に復帰させていただいた君の深い御恵みに感謝し、ホツマツタヱの40章を編纂して献上し奉ります。

この書が、我が君をはじめ代々の天君(あまきみ)が執られる政事に、貴重な先例資料を提供できることを願うと共に、畏れながら永く国政の規範としていただきとうございます。後の世にこの書をひもとく人は、」ニニギネがお治めになった時代のシワカミ・ホツマ国に思いを馳せ、その素晴らしさに心は澄み透って、真心の通った政事を行うようになるでしょう。それによって国の隅々まで政事は行き届き、花が咲き誇るような、活気に満ちた楽しい世になることでしょう。

磯の入江の奥にある砂浜の、砂を一粒ずつ数えれば、いつかは数え尽くすことが出来ましょう。けれども、ホツマの真理は尽きる事無く、天君の世が幾代続こうとも、この世界が存在するかぎり、輝き続けることでしょう。三輪の臣ヲヲタタネコがヲシロワケ天君に捧げようと、二百三十四歳の今年、謹んでこの書を記しました。

私ヲヲカシマは、この書が国政の規範となるべき書のオリジナルであることを証明し、尚且つこの書の完成献上を言祝ぎ端書きを捧げます。我が君に至るまで、この日本国を代々統治する天君に伝えられてきた冠は、天照大御神が造らせ賜うたサヲシカの冠と呼ばれる物です。大御神は、議事をお聞きになって決裁を下される朝議の場では、必ずお被りになられました。

その当時の日本国は大八州(おおやしま)とも呼ばれた通り、ヒタカミ(東北地方)・ホツマ(関東地方)・コヱ(中部地方)・ネ(日本海側)・ナカクニ(近畿・山陽地方)・ソサ(紀伊半島)・ソアサ(四国地方)・ツクシ(九州地方)の八州からなっていました。朝議に参加する八人の重臣はサヲシカと呼ばれ、八州を夫々統治する代表でもありました。だから国民の事を八民(やたみ)とも呼んでいました。大御神は八人のサヲシカを通じて、各州から上がって来る八民の声を平等に聞き取ろうと、サヲシカの冠をお被りになったのです。天照大御神は国の隅々まで光を当てる太陽のように、人々に恵みをもたらし、国民のことを大御宝(おおんたから)と呼んで敬われました。

大御神の治世によって、日本は真に住み易い国になりましたので、人々は大御神が政事を執られていたハラミの宮(現甲府市酒折宮)をたたえて安国宮と申し上げました。この安国宮で永年にわたって政事を執られた後、大御神はコヱ州にあるイサワの宮に引退され、御子オシホミミに後事を委ねられました。オシホミミはヒタカミ州のタカノコウ(現宮城県多賀城市付近)に都を置いて国を治められました。オシホミミの御子、つまり天照大御神の御孫に当たる二人の御子の内、兄ホノアカリはカグヤマのアスカの宮(現奈良県橿原市付近)にお住まいでした。弟ニニギネはニハリの宮(現茨城県石岡市付近)で新田開発に力を注ぎ、人々の生活向上に尽くしましたので、慕い集う人で賑わい大いに住民も増えました。後にニニギネは大御神にゆかりの深い、有名なハラミの宮にお遷りになって、政事を執られ、益々功績を伸ばされました。そして遂にニニギネは、兄ホノアカリが治める一部の地方を除く、シワカミ・ホツマ国と呼ばれた広大な地域を治めるようになり、永い平和な治世が続きました。

それまでは湿地帯の葦を引き抜いて、稲を植える低湿地農業だったので生産性が上がらず、水害や旱魃に見舞われることも多く、人々の生活は常に飢餓の危険にさらされていました。ニニギネが初めて灌漑農業を普及させた事により、高地でも水田耕作が可能になって、安定した収穫が得られるようになったのです。大御神はニニギネの、功績を称えて次のように勅されました。

「天祖クニトコタチが人類の生活安定を目指して国家建設を始めて以来、代々の天神がその事業を引き継いできましたが、今その理想がニニギネによって実現されました。クニトコタチの再来であるニニギネに 『別け雷の天君』の称号を与えます。」

こうしてニニギネは初代の天君になられました。そして今の天皇(?)に至る代々の天君は、皆ニニギネの御威光を受けて来られたのです。天照大御神はその後も長命を保たれ、ニニギネの御子ヒコホホデミの代を経て、またその御子ウガヤフキアワセズの時代までも、世の人々に恵みを与えられました。長寿を全うされた大御神は天上にお帰りになり、あの太陽のように、今でも人々を明るく照らして居られるのです。だからこそ天君、重臣から一般大衆に至るまで、枕を高くして寝る事ができる、平和な世の中が今に続いているのです。これらの事実を正確に伝え、輝かしい日本の歴史として世に顕していく書は、ホツマツタヱを置いて他にはありません。

縄文時代からの由緒ある幾つかの家には、歴史事実を記録する文書が残されていますが、弥生時代の中期に当たる今、筆写時の誤りや改ざんによって、それぞれに違いが生じております。これら家記・家録のどれが正しいと一概に断定することはできません。ですからここに一例を挙げて、どのような違いが生じているのかをご紹介いたします。本文二十六アヤに

鴨舟壊れて(かもわれて) トヨタマ姫も 渚にて 

健き心に 泳がせば 竜やミヅチの 力得で

    恙無(つつが)も波の 磯に着く

とありますが、この箇所を他家の家記では

舟壊(わ)れて 竜とミヅチの 力得て

となっています。この例では明らかに後者のテニヲハが間違っております。現在七家に家記・家録が伝えられていますが、今挙げたような異なりが往々にしてあるということを、知っておく必要があります。

私、ヲヲカシマにも先祖の神々が録し、代々家系に伝えられたミカサフミとホツマツタヱとは、二つに割った瓜を合わせる如くに一致しており、また水を切り分ける事が出来ないのと同じく、相互補填の関係にあります。ホツマツタヱは、今後いつの時代にも世の掟となる書であると信じ、またそうあって欲しいと願う深甚の思いを込めて、この端書を署名入りで献上し奉ります。

   花の添え歌

トの道を志し実践する代々の天君が政事を執られるこの世は、幾世隔てても変わらず、磯の真砂は変化して岩となろうとも、常に人類の規範として輝きを失わないホツマツタヱであることよ

巻向の日代の宮で天下をお治めになる景行天皇に、この書が献上されることを証します。

三笠臣・伊勢の神臣  ヲヲカシマ 二百四十七歳 クニナヅ(ヲヲカシマの署名)

 出典 検証ホツマツタヱ [創刊号]

ホツマツタヱを述ぶ 現代語訳 今村聰夫


https://ameblo.jp/nora-family/entry-12813661738.html 【シリーズ⑥ 真の帝王学 トヨケカミとアマテルカミ】より

ただいまシリーズです。別ブログの非公開アメンバーで4月5月に書いた記事です。

久しぶりに読まれた方はもしよろしければ順番にどうぞ。

シリーズ⓪(ゼロ) カタカムナ・イヤシロチ他 | ノラ家の日常・非日常 (ameblo.jp)

シリーズ① ホツマツタヱ 導入 | ノラ家の日常・非日常 (ameblo.jp)

シリーズ② ホツマツタヱ(ざっくり) | ノラ家の日常・非日常 (ameblo.jp)

シリーズ③ ハワイの叡智。 | ノラ家の日常・非日常 (ameblo.jp)

シリーズ④ クニトコタチ(国常立命) | ノラ家の日常・非日常 (ameblo.jp)

シリーズ⑤ ワカヒメ | ノラ家の日常・非日常 (ameblo.jp)

ホツマツタヱでは…

宮崎は古代の息吹がありありと残っていましたからね。明治の時にずいぶん神社を壊してしまったけど、それ以前から、昔の姿が失われた場所がたくさんあるんだろうな。

しつこいほどに言いますがホツマツタヱのことは、どっちが正しいかという脳の判断は保留にして、まずはふんわりと読んでいただければと思います。

一つの考えに固執するよりも、別の視方をもってくると、それ以前より自分自身の認識の幅が広くなり、殻が柔らかくなって広がるということが、私の所での学び方、私がいつもしているアドバイスなのです。

****

さて、私が感動したポイントにトヨケカミ(豊受大神)とアマテルカミ(天照大神)の並々ならぬ絆があります。

トヨケカミはイサナミの父、つまりアマテルの祖父であり、初代アマカミのクニトコタチの八皇子(八王子の由来)のうち、タの命を祖とするタカミムスビ家の五代目です。

タカミムスビ家は東北から箱根(ハコクニ)までを治めていました。

(ハコクニは箱根の由来。こういう言葉や地名の謂れがホツマツタヱにはこれでもか!というほどでてきます。後世の創作では不可能だと思います。)

トヨケカミは大変な人格者であり博学で、宇宙の理に通じ、宇宙法則を示した「フトマニ」という宇宙曼荼羅のような図を作った人です。初代のクニトコタチの御霊と強く繋がっていた方だったのでしょう。

↓フトマニ↓

アマテルカミが16歳の時にトヨケカミのいる東北(ヒタカミ)のアマツ宮に留学しトヨケカミの教えを受けたときの会話が第四アヤにあるのですが、これがまたいいんです。

1冊だけ買うならオススメの「ホツマツタヱによる古代史の謎解き 長堀優 いときょう 青林堂」の30ページにあります。本文は記号のようなヲシテ文字で書かれていると思ってね。

解読してひらがなにしたのが次の文。五七調であることがわかりますねここにも、こっそり姉のワカヒメ(ヒルコ)が出てきます。

(引用)

あまつみや ワカヒトふかく                みちをほす あるひのとひに

まことなを ゐみなとたたゑ    あねにミつ われはヨつなり

これいかん タマキネいわく    ゐみなには たらによつぎに

なとノリと あわせヨつなり    あまつきみ ヒよりトまてを

つくすゆえ ヒトにのります    キネとヒコ ウシものりなり

メはのらす ふたをやフたつ    ヲにうけて こをうむゆえに

なにこひめ まあこなにひめ    なにおとも おなにともつく

めのなミつ ヲのなのりヨつ    たたゑなは いくらもつけよ

ゐみなとは しむにとほれは     まことなるかな

<口語訳>

ヒタカミ(東北 仙台の近く)のアマツ宮においてワカヒト(天照大神=アマテルカミ)は

深く天の道を思うのでした。ある日の問いに「マコト名をヰミナと讃えていますが

姉にはヒルコの三つ、我のヰミナは四つなりこれはどういうことでしょうか」 タマキネ(トヨケカミ)曰く

「ヰミナにはタラ(両親)の世継ぎという意味、名の二音とノリの二音を合わせて四音です。

天のキミは一(ヒ)より十(ト)までをつくすゆえに、名は「ヒト」に乗るのです。

キネとヒコ、ウシもヒトと同様、名のノリです。メ(女)は世継ぎとしないので両親の二音です。メはヲを受け容れて子を産むことから なに子、またはコなに姫、「なにオ」とも「オなに」とも名つくのです。メの名は三音、オは名とノリの四音です。

讃え名は音数の制限もなく、いくつつけても良いのです。ヰミナとは、トの教えが心の奥底にまで通る名ですから「マコト(誠)」なるかなというわけです。」(引用終わり)

今上陛下は「徳仁(ナルヒト)」さまです。

〇〇にはその人にふさわしい言霊が入るそうです。

天皇は、一(ヒ)より十(ト)までを尽くす存在だからヒトに乗る。

現代までそれが残っていることに深い感動を覚えます。

クニトコタチ、トヨケカミ、アマテルカミの理念が伝わっているということになります。

一音一音の意味、エネルギーというところで、考察も載っていまして

(引用)

アマテルカミの本名は「ワカヒト」なので「ワカ」、地(ワ)への光(カ)、若、和香、和歌…

お父さんのイザナギの本名は「タカヒト」なので、貴、高、多嘉…

トヨケカミの本名は「タマキネ」なので「タマ」、つまり玉、霊、球、珠、魂…

(引用終わり)

ふむふむ。そして、天皇は、一(ヒ)より十(ト)までを尽くす存在だからヒトに乗る。

(なんとありがたいことではないですか…!!)

ここの説明では一から八までは目にみえる世界、九と十は目にみえない世界、

十こそがタカマノハラだそうです。イメージってそれぞれで勝手に固まってしまうんですね。

私たちは子孫なのに、先祖や自分自身を縛って貶めていたってことですね。

ご先祖さまたちは(あえてご先祖様たちと言いますよ!)普通にとんでもない領域に到達していたわけですね。

どうも私たちはまだまだ自分たちの認識が低すぎるようですよ。

自分たちが何者なのかもっと知り、信頼するほうがよさそうです。

そうそう、ちょっとまえの朝の連続テレビ小説の中で(これは5月に書いた記事)

主人公が自由民権運動家の演説で「人間は青人草と言われ雑草のように軽く見られて虐げられて…」という内容の言葉を聞いて、主人公は植物愛から「それは違う!」と声をあげてしまうんですね。

何が違うんだ!と演題に上げられて、ひとつひとつの草の素晴らしさを説くことで、

結果的に自由を目指す人々も、人間も一人一人違い、草と同じように繋がり力を合わせていくということに重なって大いに盛り上がるという場面がありました。

草莽崛起がそうですもんね。

ホツマツタヱでは民のことをアオヒトクサと呼んだ理由が出てきます。貶めた言葉ではなく、

宇宙の理が浸透し繁栄を祈られた言葉、大切に想われての言葉だとわかりました。

もっというと、ナガタという言葉ですが(永田町のナガタ)、な(汝)のため(奉仕する)という意味なのですよ。現実の方をもとの意味に戻してほしいネ。

まずは本日は天皇陛下のお名前が〇〇ヒトだった理由をみなさんと共有し、

アマテルに帝王学を授けた偉大なトヨケカミをちょっと心に留め置いていただいて、次回に続きます。今日の舞台は仙台でした。東北は本当に封印されていますねー。

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=630 【日本国語大辞典

いざなぎ‐の‐みこと 【伊邪那岐命・伊弉諾尊】】より

解説・用例(古くは「いざなきのみこと」か)

記紀などに見える神。国生みを行なった男神。神代七代の最後の神。「古事記」によれば、天神の命で、伊邪那美命とともに大八洲(おおやしま)の国をはじめ、山川草木や万物を司る神々を生み、最後に天照大神、月読命(つくよみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)を生んで、治めさせる国々を定めた。「日本書紀」本文では天神の命はなく、国生み・神生みは二神の意志による。

語源説

(1)イザはイザナフの語根。ギは男性を示し、イザナミのミは女性を示す〔古事記伝・野乃舎随筆・日本の神話=松本信広〕。

(2)イサは、功徳を意味するイサヲの語根イサであろう。キなどのK系のことばは男、ミなどのM系のことばは女を表わす〔神代史の新研究=白鳥庫吉〕。

(3)梵語のイシャナテン(伊舎那天)、イシャナクウ(伊舎那后)からか〔神皇正統記〕。

(略)

伊弉諾尊・伊弉冉尊

いざなきのみこといざなみのみこと

 日本神話にあらわれる神の名。『古事記』では伊邪那岐命・伊邪那美命などと記す。この男女二神は記紀神話において、天津神あまつかみの命により創造活動のほとんどすべてを行い、『古事記』、および『日本書紀』の一書によれば、最後には黄泉国よみのくにとの境において対立し、男神は人間の生をつかさどる神として、女神は人間の死をつかさどる冥界の神として互いに絶縁する。二神は、葦の芽吹き(国土の始源)→生気に満つ原野→浜と水田の出現→神の依代よりしろ→男女の防塞神→充足の観念、と系譜的に展開する「神世七代かみよななよ」の最後に出現する。イザナキは天の浮橋に立って海中を矛でかくはんして磤馭慮島おのごろじまを出現させ、二神はこの島で成婚して大八島国その他を生み、ついで山川草木水火などの神々を生み、最後に三貴子と呼ばれる天照大神あまてらすおおかみ、月読尊つくよみのみこと、素戔嗚尊すさのおのみことを生む。ただし記と紀の一書では、イザナミは火神を生んだために女陰を焼かれてこの世を去ったとなっている。この病臥中にイザナミの嘔吐や糞、尿から木、火、土、金、水(五行)の神が生じたとあるが、これらの神々は同時に焼畑農耕の発生を暗示しているともいえる。自然のすべてが整い、火神誕生とともに文化の始まることを語っているからである。女神を失ったイザナキは怒って火神を斬るが、この制圧された火神の血(炎)から剣の鍛造や土器製作などについての神々が出現する。やがてイザナキは黄泉国にイザナミを訪ねるが、イザナミから与えられた「見るな」の禁止を破ったために、イザナミの怒りを買い、「黄泉軍よもついくさ」の追跡を呪物を投げつつ切り抜けて、先述した黄泉国の境での対立となる。その後イザナキは筑紫の日向の橘の阿波岐原あはぎはらで禊みそぎをするが、その際の投棄物からさまざまな防塞神、また禊のなかで汚れやこれを改める神、海神などが出現し、最後に三貴子が誕生する。イザナキ・イザナミは本来淡路島を中心とする海人あま族の信奉した神で、海人族の宮廷奉仕とともにその伝承が宮廷に取り入れられ、その後多くの伝承がこの二神に集約されたことが予想できる。だが、以上に述べたように記紀神話における二神の地位はきわめて重要であると言わねばならない。

[吉井 巌]

是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。爾ここに殿の縢戸とざしどより出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔のりたまひしく、「愛しき我が那邇妹なにもの命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし。」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白ししく、「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫よもつへぐひ為つ。然れども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。如此白して其の殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御美豆良みみづらに刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰ほとには折さき雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神成り居りき。

是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売を遣はして追はしめき。(中略)最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて、各対ひ立ちて、事戸を度す時、伊邪那美命言ひしく、「愛しき我が那勢の命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひしく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。

古事記上巻

 伊弉諾・伊弉冊二の神、礙馭盧島におりゐて、ともに夫婦と成給。時陰神先、「よきかな」ととなへ給。一書云。鵲〓飛来て、その首尾をうごかすをみて、二神まなびてまじはる事をえたり。それよりこのかた、婚嫁の因縁あさからずなりにけり。

古今著聞集巻八好色十一「伊弉諾伊弉冊の二神婚嫁の事」

一、天照太神について義あり。五十鈴川の宮をば内宮と申す。これは陽神なり。本地の身はいざなぎ・いざなみのみことなり。豊受は山田の原、外宮なり。伊弉冉尊となり、伊弉諾は住吉同躰、昔の夫婦なりし事をよみ給ふ歌の心なり。

玉伝深秘巻

せきれいは一度おしへてあきれはて

編者/評者:呉陵軒可有ら(編)

出典:『誹風柳多留』

編・相印(月)・番号(枚、丁、日):68‐25

刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)

日本が集まると伊弉冉言ひ初め

編者/評者:呉陵軒可有ら(編)

出典:『誹風柳多留』

編・相印(月)・番号(枚、丁、日):52‐9

刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)

第二句、「日本が集まる」は江戸期にオルガスムを表現する際の語。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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