Facebook斉藤 一治さん投稿記事
縄文文明は約1万6000年も続いたという。
この文明は、女性中心で、争い悩み心配などの不自然な心がなかったという。
縄文人は、小さな集落を形成して、自然と一体化した平和な暮らしをしていたと考えられています。縄文人の人口は飛鳥時代に、全人口の2割になって今日に至ってします。
○古事記の暗号
古事記の冒頭には「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は」とあります。
「成れる」とは、天地は最初からあった。初めからあった命です。
西洋では「天地を造った者」の後から人間が生まれています。「天地を造った者」はGODと呼ばれ、日本の神とは違うものです。GODは初めがありますから「終末」があります。
日本の神は「成れる」ので終わりはありません。
○ 心の中にある命
初めからある命のエネルギーを神と呼んだ。日本人の心の中に神がいる(心神)。
斉藤と貴方の心の中にも神がいます。
日本人の祖先である縄文人は、永遠の「心の中にある命」を持っていました。
永遠の命ですから終わりはありません。「心の中にある命」は、万物万象に存在していました。
○生きとし生けるもの
ライオンもキリンもヒマワリもキクも神です。
「人間と思えば人間」「神と思えば神」です。斉藤は縄文人と思っています。思いは実現します。
○利他の精神
シリウスから降り立った金龍族が縄文人の祖先です。 金龍族こそ日本人の守護神です。
神は前向きです。誠こそ神です。いいことが起きています。苦難は福門です
病氣になればおめでとうございます。氣付きをいただきありがとうございます。
罪穢れを祓います。人の喜びを我が喜びとします。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4826 【カムパネルラは消えたのか…ブルカニロ博士との対話の意味】より
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む(3)ブルカニロ博士と法華経の世界観
鎌田東二鎌田東二京都大学名誉教授
情報・テキスト
「永久の未完成これ完成である」という言葉通り、宮沢賢治は自作の推敲を繰り返した。『銀河鉄道の夜』では4次にわたる大幅な加筆訂正削除がなされている。決定稿となった第4次稿で消え去った謎の人物に、「ブルカニロ博士」がいる。「セロのような声」のそのひとの登場するシーンを再読することで、賢治が込めた法華経の思想、その世界観への理解を深めたい。(全6話中第3話:2022年7月28日開催ウェビナー〈宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む〉より)
≪全文≫
●カットされた謎の人物「ブルカニロ博士」の登場シーン
―― 「ほんとうの幸い」とは何かということを考えていく上で、一つのヒントになるのが「ブルカニロ博士」という人ですね。
鎌田 そうですね、謎の人物ですね。「セロのような声」だと。
―― これは、先ほど先生がいわれた天沢退二郎氏らの校訂ではカットされてしまった部分になります。
鎌田 最終形ではね。
―― 最終形ではカットされたと考えられている箇所になります。ただ、今でも流通している岩波文庫版や角川文庫版などの本では、この部分が残っていたりします。
鎌田 例えば、1951年版など1950~60年代に出た本では、ブルカニロ博士が出てくる文庫本などがあるということですね。
―― そうです。
鎌田 それで読んでいる方もいらっしゃるはずですね。
―― ええ。ただ、まったくそういうところがあることを知らないという方も多いと思います。私などは最初に「セロのような声」が出てくるバージョンで読んだものですから、どうしてもそれがないとさみしいですね。
鎌田 確かに、あのセロの声というのは印象深いですね。
―― 印象深い。それに、ここは禅問答のように謎めいた問いかけのシーンになります。これがもともとはどういうシーンのあたりに入っていたのかというと、まさにカムパネルラとの最後のシーンのあたりです。
みんながいなくなってしまい、「僕たち、どこまでもどこまでもいっしょに行こう」と言った後で、ジョバンニがカムパネルラに「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」と訊き、カムパネルラは「僕わからない」と答える。そういう問答をしている間にカムパネルラが急にいなくなって、ジョバンニは慟哭する。そうすると、次のシーンに来るわけです。これが、ブルカニロ博士または「セロのような声」の「そのひと」というところになってきます。
原稿のほうでいうと、見づらい字ではあるのですが、真ん中あたりに「卍」があります。この前のところはジョバンニが泣くシーンで、ここに「挿入をしてください」という印にしているのが「卍」です。挿入する原稿として宮沢賢治が書いたのが、次のものになります。
ここは右上に「卍」があり、これを入れるという指示になっています。今から読んでいく、「セロのような声」の人とジョバンニの会話が続いていきます。
この箇所については、宮沢賢治がこれに×をしたり上から線を引いているわけではないのですが、内容的にこれはないだろうということで校訂されたという流れになっています。だいたい1枚半ぐらいにわたって、かなり小さい字で書き込まれているのが、このシーンです。
●「みんながカムパネルラだ」――法華経の思想と「久遠実成の本仏」
―― ちなみに、これがそのシーンの終わった後にくる終結パートです。最後の最後、ジョバンニが目を開いたシーンというのは、こういうような形で、また別紙に書かれているということになります。
では、どういうような会話がそこでなされているか。もしかすると、このパートについては初めてお読みになる方もいらっしゃるかもしれないので、全文を起こしてあります。次のようになっています。ジョバンニが大泣きをしている(シーンです)。
〈「おまえはいったい何を泣いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニは、はっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。さっきまでカムパネルラのすわっていた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人が、やさしくわらって大きな一冊の本をもっていました。〉
こういうことになります。この人は全てを悟っているように、
〈「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」〉
ジョバンニがこう言うと、彼はここでちょっと不思議なことを言うわけですね。
〈「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果(りんご)をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そ...
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4827k【「ほんとうの幸福をさがす」ジョバンニの決意と青の世界 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む(4)「ほんとうの幸福」】より
≪全文≫
●人間の意識の段階を見つめてきた仏教
―― 今のお話の続きで、この「セロのような声」の人が、自分の持っている本を示します。何を示すかというと、ここには地理と歴史が書いてあるのだといいます。
例えば「これが紀元前二千二百年の地理と歴史だ」というのですが、「その当時の人たちが信じていた地理と歴史」をまとめたのが、この本だといいます。
そのお話がずっと続いていって、「紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう」これは、紀元前一千年の人たちはこういうふうに考えていたということだよ、となります。
「ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」と呼びかけて、ジョバンニにふしぎな世界を見せるのです。
「そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました」
このように、謎めいたシーンがまた続いています。
鎌田 この謎めいた文章は、人間の意識の段階を指しているように私には思えます。意識は高度の状態からグラデーションをなしているという考え方を、仏教は持っています。そういう仏教のこころ、意識のグラデーションの考え方を反映しているのではないでしょうか。
法華経の世界では「十界互具」論、あるいは「十界論)」というものがあり、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、声聞・縁覚・菩薩・仏」というように、仏の世界と地獄の世界がグラデーションをなしています。
もう一つの考え方として、空海の「十住心論」のように、低次な意識の段階からだんだんだんだん進んで、高次な意識の段階まで10段階あるという考え方があります。その最高の意識の段階が「秘密荘厳心」という大日如来のこころの状態、意識の状態です。仏教の世界観では、このような意識の階層性を持っています。また、瞑想によって自分のこころを分析し、観察していくと、どんどん深い部分へ到達し、より底にあるものが観じられて(見えてきて)奥底に達する。そういう経験を、仏教は瞑想とともにやってきたのだと思います。
●唯識的な瞑想世界を呈示したブルカニロ博士
鎌田 特に重要なのは、「ぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって」というところです。普通の意識であれば、可視的に見えるものと自分のこころの中にあるものは分裂していて違うので、こころの状態は見えるものと見えないものだけです。しかし、仏教の場合は、第七識・末那識(まなしき)、第八識・阿頼耶識(あらやしき)を経て第九識、第十識というこころの意識の深みのようなものへ、ずっと入り込んでいくわけです。
阿頼耶識の出てくる「唯識論」をベースにすると、先ほど言ったように、大きい大きい宇宙の電気エネルギーのようなもの、真正エネルギーのようなものがバーッと流れていて、そういうものがパッ、パッ、パッと電灯のように点いたり消えたりする。それが、われわれの認知の構造の世界であるとする。
だから、ブルカニロ博士が指を上げて、それをすっと下ろすと、そういう世界の1ページが次のシーンにポーンと飛んだり、また消えたりするし、スクリーンの幕が下りて、何にもないがらんとしたものになったりする。そのようなこころの世界の変化、変容がこの表現の中に現れています。これは、まさに仏教的な世界観の、賢治的な表現だと思います。
賢治の「心象スケッチ」と称した『春と修羅』の序文では、みんなが有機交流電燈や因果交流電燈のひとつの青い照明で、ついたり消えたり、せはしくせはしく行き来している。そういう存在は、あらゆる幽霊の透明な複合体である(編注:原文では「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」)といった、これもふしぎな言い方をしています。
そういう部分と、この『銀河鉄道の夜』の中の表現は、はっきり...
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