大重祭り

https://freegreen.jimdofree.com/%E7%AC%AC20%E5%8F%B7/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%9D%B1%E4%BA%8C/ 【沖縄と第2回「大重祭り」】より

鎌田東二

今、宮古島にいる。宮古島の神の島の離島「大神島」はわが沖縄体験の原点だ。1988年、わたしは初めて沖縄を訪れ、宮古島出身の友人のSさんに案内してもらって、一緒に宮古島の各所を廻った。そして共に「神の島」大神島に渡った。

大神島では一人禊をしたが、その夜、Sさんのおじさんの家でみんなで泡盛を楽しく飲んでいた時、突然、Sさんが暴れ出した。なぜか、彼はおじさんに殴りかかった。それを止めようとして二人の間に入った時、Sさんの振り上げた右腕がわたしの顔面にもろ当たり、かけていた黒メガネが吹っ飛び、実に華々しく鼻血が噴き飛んだ。当時住んでいた神奈川県川崎市に戻って地元の病院で鼻を診察してもらったら、鼻梁陥没骨折していた。

その「事件」が、わが沖縄初体験であった。

以来、沖縄の痛みはわが「鼻」の端(はな)で感じ続けている。そしてその痛みが消えることはないが、その痛みをほぐすことは難しく、今なお、政治的にも文化的にも人間関係的にもこじれにこじれてしまう。そんな中で、どうやって、協働で未来を創ることができるか。それが問われている。わたしはいつも未来に向かう「楽しい世直し」をやっていきたい。それを第一に考える。

宮古島に来る前の7月21日・22日・23日、沖縄県那覇市と南城市久高島の2ヶ所で第2回目の「大重祭り」が行なわれたので参加した。『久高オデッセイ』三部作の映画監督大重潤一郎(1946‐2015)は、2015年7月22日に他界した。だから今年2017年の命日の7月22日は、仏教で言えば3回忌に当たるのだ。

昨年に引き続き、主催してくれたのは沖縄映像文化研究所で代表者は『久高オデッセイ第三部 風章』の助監督の比嘉真人さん。その比嘉真人さんが全体と大重映画上映のことを担当し、ライブパフォーマンスをSUGEEさんこと杉崎任克さんが担当し、総務事務や会計を関真理子さんが担当してくれた。次の世代の人たちが大重さんの遺志を大事に思って継承してくれることに心から感謝と敬意を表したい。

このところ、中国峨眉山行きや、帰国後すぐに奈良県吉野郡天川村の天河大辨財天社の例大祭詣でなどが重なり、体調もよくなかったが、7月21日の朝8時過ぎに家を出て神戸空港へ向かい、一路神戸からスカイマークで那覇へ飛んだ。新幹線で東京に行くよりも安い1万円ちょっとの代金はありがたい。しかも神戸空港は瀬戸内海の海と六甲の山が向かい合っていて、大重潤一郎さんと一緒に、1998年に「神戸からの祈り」を行なったところなので、ここを通るたびに大重さんとのことを思い出すのだ。フライト直後、神戸の街や、淡路島や、沖縄の島々が飛行機の中からよく見えた。食い入るようにそれを見つめた。

飛行場についてすぐにソーキソバを食べて腹ごしらえをしてから、モノレールで県庁前で降りて、会場のゲストハウス柏屋の位置がよく分からないので、そこからタクシーで会場の柏屋に行く。タクシーの運転手さんも初めてだとかで、2人で探しながらようやく行き着く。

15時過ぎに到着し、15時半から主催者の比嘉真人さんの挨拶があり、故大重潤一郎監督の映画『風の島』(1996年製作)と『ビックマウンテンへの道』(2001年)をまずは参加者みんなで鑑賞する。この2つの映画も懐かしくも思い出深いものがある。

2本の映画上映後、40分ほどのトークを、建築家の真喜志好一さん、画家の坪谷令子さん、俳優・ダンサーのJUN AMANTOさんと行なう。また途中から、鹿児島からわざわざ車イスで中村弘美さんが参加してくれたので、挨拶してもらった。中村さんは、1970年に大重さんが桜島の東部の黒神地区で処女作「黒神」を撮影していた時、隣に住んでその様子を見ていたことのある貴重な生き証人である。それぞれから、各人各様の大重潤一郎監督との出会い、大重さんの人となり、作品、思いなどについて訊く。大重さんの像が断片的にだが浮かび上がり、参加者のイメージを膨らましていく。

21日のスケジュールは、以下の通りであった。

(略)

それぞれに見ごたえ、聴きごたえのあるパフォーマンスだった。一言でまとめることはできないが、みな味が違う。多様で、個性的。インパクトがある。自由だ。いのちだ。そこには文化も政治も、涙も笑いも、喜びも悲しみもある。わたしは、法螺貝と石笛奉奏の他、「虹鬼伝説」「なんまいだー節」「銀河鉄道の夜」「この光を導くものは」の4曲を歌った。喉よ張り裂けよと思いつつ。前夜祭のイベント終了後、大事な石笛を置き忘れて、柏屋から宿泊先のマルキまで歩いて2往復する羽目になったが、夜の国際通りを歩くのは久しぶりで、暑い暑い沖縄の夜の熱を感じた一夜だった。

22日の朝7時半に柏屋の前に集合して車に分乗し、祈りを捧げる拝所ヤハラヅカサに出発した。そして8時半から、小嶋さちほさんたちと共に大重潤一郎監督の命日を久高島を眺望できるヤハラヅカサで祈った。さちほさんたちが花輪を捧げてくれ、それを祭壇のようにストーンサークルで囲い、ヤハラヅカサと久高島に向かって祈る。そしてそれぞれに祈りを込める。一人一人の祈りと思いを

その後、10時にフェリーで安座間港から久高島に向かう。港の拝所と久高殿で祈りを捧げて、会場と宿所になっている久高島宿泊交流センターへ着いたのは10時50分頃。

(略)

命日の夜が、各者の熱演で盛り上がる。わたしは「神ながらたまちはへませ」「神」「君の名を呼べば」「フンドシ族ロック」の4曲を歌った。そして最後に、大重潤一郎監督に捧げる鎮魂歌「見上げる空に」をみんなで合奏してもらう。

神道ソング321曲目「見上げる空に~大重潤一郎に捧ぐ」

見上げる空に 星が一つ  あれはあなたの 示すいのち  輝き渡り 愛を伝えて

この世の限りと 生きて往った  わたしはあなたの 星を受けた だからいつも 迷わず行ける  さみしくないよ 夢といるから  この世を限りと 咲いて往った

(間奏)

青い海は すべてを包む  青い空は みんなを抱く  輝き渡る 愛といのち

この世の限りと 満ちて往った  この世を限りと 生きて往った

この世を限りと 咲いて 散った

映画上映会の時、地元の西銘さんといろいろ話すことができた。また、鹿児島純心大学教授の尾曲さんや桃山学院大学教授の松尾さんともいろいろと話をすることができてよかった。「祭り」の共同性を強く感じる夜。「大重祭り」と命名できたよかったとしみじみ思う。

NPO法人東京自由大学では、故山尾三省さんを顕彰して「三省祭り」を行なってきたが、その延長線上に「大重祭り」がある。山尾三省さんは大重潤一郎監督作品「ビックマウンテンへの道」のナレーションを務めてくれている。この2人の「生態智」思想家の出逢いとコラボレートが「ビックマウンテンへの道」に結実している。その縁結びに関わることができたのも何かの縁である。

わたしはすべて「縁」で動いてきた。自分の意志というものはない。「縁」しかなかった。大重潤一郎とも「縁」しかなかった。「縁」がここまでわたしたちを導いてきた。そしてその「縁」を「大重祭り」としてもっと大きなものに解き放とうとしている。これからどうなるか、さらに「縁結び」していきたい。現代の「縁の行者」として。

2017年7月24日 鎌田東二拝

https://www.youtube.com/watch?v=T19-_jvQT-Q

https://note.com/fujiiman/n/nc52a15dbe6d9 【「原郷ニライカナイへ~比嘉康雄の魂」(2001年)<大重潤一郎監督>】より

藤井満

 大重潤一郎監督の命日にあった「大重まつり」で鑑賞させてもらった。

 余命を告げられた写真家の比嘉康雄が、大重監督にたのんで「遺言」として撮ってもらった作品という。この映画をきっかけに大重監督は久高島にすみつき、「久髙オデッセイ」三部作につながった。

 映画は比嘉が亡くなる半月前に久高島をおとずれるシーンからはじまる。祭祀にのぞむかのようなパリッとしたスーツ姿だ。

 琉球警察の警察官から写真家に転じ、生涯、久高島にもかよいつづけてきた。

 久高の祭祀は、表面は首里王府の影響をうけているが、薄皮をはがすと、独自の島の神があらわれる。

 遠浅の海(イノー)で魚介を採取した古代からのくらしの痕跡は、御嶽(うたき)やカー(井泉)にきざまれている。御嶽は古代人の生活の場所で、今でも祖先の魂が存在すると認識されている。

 久高島にあるのは、キリスト教や仏教のような父性原理ではなく、生命をいつくしむ母性原理にもとづく「文化の祖型」という。

 それは、人間とは本来なんなのか、と、たちかえって考える手がかりになると比嘉は説く。

 彼は、久髙の世界を実感することで「死」は苦ではなくなったという。

「魂は海のかなたのニライカナイにいって、また再生という形でもどってくる。病の苦しさはあるかもしれないけど、死ぬことについては平静です」

 では、どうすれば母性原理の久高島の世界観を知ることができるのか。

 比嘉はかつて梅原猛を島に案内した。「イザイホーのときは、ここからむこうはあの世になります」と説明すると、梅原は深く感動していた。

「梅原先生ほど、自分の魂でうけとめた人は他にはいない。魂の世界を感知する感性がないと久高島の世界はわかりません」

 私は2022年に久高島をおとずれた。港に着いて集落からはなれ井泉などをおとずれたとき、なぜかその不思議な空気感に圧倒された。2019年に四国遍路をする前だったら、そんな空気はかんじられなかったと思う。

 こちらは、島の不思議な感覚だけはしるしておこうと思って書いた旅日記です。

 熊野と沖縄の信仰が想像以上に似ていることを書いた日記はこちらです。


https://note.com/fujiiman/n/n3d0b45b27c13 【信仰の島・久高島 神の白馬は岩礁を走り去った】より

 久高島は20年ほど前、岡本太郎の「沖縄文化論 忘れられた日本」で知った。

「後生(ぐそう)」と呼ばれる風葬の習慣が紹介され、海岸の洞窟に置かれた棺に横たわる白骨の描写が生々しかった。

 12年に一度の午年の年、島で生まれた30歳(丑年)から41歳(寅年)の女性が祭祀(さいし)集団に入るイザイホーの行事など、独特な祭祀や民俗にもひかれた。

 でも、岡本太郎が週刊誌に「後生」の写真を載せたことを信心深い村人が激怒し、風葬の場所そのものをコンクリートでかためてしまったと聞いて、長いあいだ訪ねるのをためらっていた。

集落の各所に祭祀の場

 南城市の安座真港からフェリーで30分、知念半島の東約5.5キロ沖に浮かぶ久高島は、長さ3.2km、幅0.6km、周囲8キロ、標高17mの平坦な島だ。サンゴが堆積してできた琉球石灰岩に覆われている。

 フェリーが着く徳仁港は島の南西端にある。そのまわりに唯一の集落が広がっている。

 久高島は1960年には人口641人だった。2021年4月は229人だが、漁師の多くは本土側に拠点を置いているため、島に実際に住んでいるのは150人程度という。

 島のガイドさんに案内を頼んだ。

 集落には、先祖をまつる社があちこちにたっている。

「神の畑」を意味するハンチャタイは島の中心で、そこにある石積みは天と地をつなぐとされている。

 外間殿(フカマ)は島の二大祭祀場のひとつで、お堂の前が芝生の広場になっている。

 正月にはここに全住民が正装で集まる。男の子は16歳の正月にここで拝んでもらうと、お神酒や土地の権利が与えられる。大人の仲間入りをした若者がお堂から出てくると、カチャーシーをみんなで踊るという。

 久高島の地質は石灰岩だから水が少なく水田はできない。お神酒は麦でつくってきたそうだ。

 集落でもっとも神聖な場所である久髙殿(御殿庭=ウドゥンミャー)という広場は、イザイホーなどの祭祀の舞台だった。東屋のように壁のないお堂「神アシャギ」(中)は、イザイホーのときは、ビロウ(ヤシ科)の葉で壁がつくられる。

 岡本太郎は1966年のイザイホーを見学した。その次の1978年は催されたが、1990年は神女となる女性が足りず開かれなかった。祭祀の中心である「久髙ノロ」と「外間ノロ」の家系も途絶えてしまった。いま「神行事」を営める女性は80代と20代の2人だけという。

 久髙殿の近くにある大里家は島で一番古いとされる屋敷だ。

 琉球王朝第一尚氏最後の17代尚徳王がこの家に住むノロの女性と恋に落ちて入りびたり、首里に帰らなくなった。その間にクーデターを起きて王位を奪われ、尚徳王は海に飛び込んだ。

 当時のノロは独身で王様の接待役をつとめていたが、この事件以来、既婚女性もノロになるようになったという。ノロは世襲ではない時代もあったのだ。

海蛇の味は鰹節

 神アシャギの隣にはイラブー(エラブウミヘビ)の燻製小屋があり、鰹節のような香りがただよってくる。

 この小屋で海蛇を1週間いぶすと重さは10分の1になる。だから1キロ1万3000円から1万5000円もするのだ。

 昔は、久髙ノロと、外間ノロ、1人の根人(ニーチュ=男性神職)、祭祀の世話役である村頭2人だけがイラブをとる権利があった。ノロも根人も村頭もいなくなり、約15年間はイラブー漁ができなかった。その間にほかの地区でとれたイラブーが「久髙産」と偽装されて売られることがあった。

 2005年から字久高(あざ・くだか)が管理して再開し、漁をする人を住民から公募している。完成した燻製は1キロ9500円でNPO久高島振興会が買い取っている。

 イラブー漁は旧暦の6月24日から12月23日まで。産卵のため島の岩礁にやって来るのを素手で捕まえる。岩場は小柄でないと歩きにくいせいか、昔は女性の仕事だった

 燻製になったイラブーは炭のように真っ黒だ。

 小麦粉と酢で洗って湯で1時間煮て、それから圧力鍋で40分煮込むと、骨までかみ切れるようになる。

 包丁で切って、豚肉や人参、大根、椎茸を入れてスープにする。

 イラブーは万病に効き、年2回食べれば風邪もひかないという。

 島の食堂でイラブー汁定食(2300円)を食べてみた。スープは鰹節をさらに濃くしたうま味がある。ウロコの形が残る黒い肌はグロテスクだが、口に入れると皮はシコシコしている。身は歯ごたえがあって、かみしめると独特のうま味がにじみ出てきた。

五穀のはじまり 琉球のはじまり

 集落を離れ、島の周回道路を反時計まわりにたどってみた。

 ヤシやアダンの森をくぐった白砂の「イシキ浜」は、五穀が入った白い壷が流れついたという伝説がある。その種子によって沖縄に穀物が広まったとされている。

20220324ハタス3

 西海岸にあるハタスという畑は、壺に入っていた麦の種を最初に植えた場所で、壺も埋められたと伝えられている。

 イシキ浜の白砂の上に、灰色の小石が打ち寄せられている。2021年10月から11月にかけて小笠原諸島の海底火山噴火にともなって漂着した軽石だ。初日の出を船から見るツアーがあるが、2021年はコロナで、2022年は軽石で中止になった。

 栄養食品として話題になったノニの原産地は東南アジア、防風林や屋敷林に使われるフクギはフィリピンや台湾。海の道を通ってやってきたのは五穀や軽石だけでないのだ。

 東の水平線のむこうには神の国であるニライカナイがあると信じられてきた。国王が毎年この浜を訪れ、東に向かって拝礼していた。

 海岸沿いの林のなかに小さな石の祭壇があり、今も「村行事」として大漁や五穀豊穣を祈っている。

「内地は天孫降臨といってタテの関係だけど、沖縄のニライカナイはヨコ。野辺送りでも、7人くらいがニライカナイに向けて手を合わせてから納骨するんです。自然崇拝だから葬式でも坊さんはいりません」

 ガイドさんはそう説明する。

男はウミンチュ、女はカミンチュ

 五穀豊穣を祈る「村行事」は男も参加するが、年30回はあるという「神行事」は女だけで催す。

 久高島は耕地が少なく、1軒あたり2反程度の畑しかない。男はウミンチュ(海人)として漁労をなりわいとし、静岡のカツオ船などに乗る人が多かった。女はカミンチュ(神人、神女)として農業に従事しながら祭祀を担った。

 島の北東端のカベール岬は黒々とした岩礁が突き出て、すぐ沖で潮が渦巻いている。

 ここは沖縄の祖神であるアマミキヨが降臨、あるいは上陸したと伝えられている。アマミキヨは海から岩礁をよじのぼって白い砂の上を歩き、緑の森に分け入ったのだろう。手つかずの自然は神話の場にふさわしい。

 タティマンヌワカグラー神(竜宮神)が壬(みずのえ)の日の早朝、2頭の白馬の姿でこの岬に来臨し、島を巡って大漁や健康を祈願しているとも伝えられている。

 岬からは勝連半島や津堅島を望める。津堅島は人参の産地だからキャロットアイランドと呼ばれている。久髙島でも、土地改良で畑を整備する話があったが、神聖な場所だから踏み切れなかったという。

あちこちに「男子禁制」

 島の東の太平洋側は砂浜が発達しているが、西側は断崖がつづく。

 沖縄の「七御嶽(うたき)」の一つで、沖縄全体でも最高の霊地であるフボー御嶽は、そんな西岸の森にある。森のなかに広場があり、さまざまな祭祀が催されるという。

 男子禁制。

 かつては女性は入れたが、NPOを名乗る本島の宗教団体が2005年に侵入して周囲の木々を不法に伐採して以来、立ち入り禁止になった。ここだけではない。久高島には「男子禁制」の聖地があちこちにある。

「子どものころ『フボー御嶽に入ったらチンチンが腫れるよ』って言われてました。内地は女人禁制が多いけど、もとの古い信仰では男子禁制が多かったんだと思いますよ」

 ガイドさんによると、女性は島のあちこちにある聖地で「気持ちがいい」「あったかい」などと何かを感じる人が多い。

 ある人は貝塚の近くでいきなり号泣した。自分でもその理由がわからない。

「なんなんですか? これって?」

「あなたの先祖がきっとここにいたんですよ」とガイドさんは答えた。

「(神の化身である)2頭の白い馬が見えた」という人もいたそうだ。

風葬の名残

 島の西海岸は墓が多い。海側の断崖のくぼみには昔ながらの亀甲墓がいくつもあるという。

 岡本太郎が風葬の様子を撮影したのはこのあたりだ。

 沖縄では大きな墓のなかに棺をおき、何年かして骨になったころに遺骨をとりだして洗い、厨子に入れて墓におさめる「洗骨」をしていた。

 久高島では12年に一度、寅年の旧暦10月20日に一斉に墓を開け、遺族が骨を洗った。まだ白骨になっていないときは次の寅年まで待つこともあった。前回の寅年の2010年には12,3人の洗骨があったという。

 今は大半の人は本島の病院で亡くなり火葬に付される。2022年は寅年だ。最後の洗骨になるのかもしれない。

 以前、墓がない人は海岸の洞窟に棺を置いて、洗骨後の遺骨を納めた厨子もそこにまつられた。岡本太郎はその様子を見たのだろう。

 島のあちこちに息づく神話や伝説を聴きながら歩いていると、この島は生と死のあわいに存在し、夕暮れ時の西海岸の森には精霊がうごめいているように思えてきた。

海辺にわきでる泉

 隆起珊瑚礁でできた久高島では水が貴重だ。雨が地面に浸透して、西海岸の海面ぎりぎりの岩礁に地下水が湧く。イザイガー、ミーガー、ヤグルガー……といった7つの井泉が今も使われており、飲料用、洗濯用と、それぞれの役割が決まっている。水道ができるまでは明け方に女性が列をなして水をくみにきていたという。

 イザイホーのときに女性たちが身を清める「イザイガー」という男子禁制の井泉もある。

 洗骨に使うのは「ミーガー」という井泉の水だ。葬式後のお清めや出産でもこの水をつかう。生と死に深くかかわる神聖な泉なのだ。以前は真水だったが、すぐ上にできた海ぶどうの養殖場が海水を流すため、塩水になってしまった。

 周回道路からミーガーのある磯に下っていくと、夕暮れの薄暗さもあって厳粛な空気を感じられる。ふと目を上げると、黒い岩礁に白い四つ足の動物が2頭突っ立っている。

 エッ? もしかして神様の白馬?

 目をこらすと山羊だ。カメラをむけると岩から岩へと軽快に飛び跳ねて去って行った。

「こんなところで山羊をみるのははじめてです」

 ガイドさんも驚いている。

「2頭の白馬」の神話を聞いたばかりだったためか、2頭の山羊は常世あるいはニライカナイからの使者ではないかと思えてしまった。

ニガナ(ホソバワダン)の料理

 島に自生しているニガナ。名前の通り苦い葉だけど、くせになる味。民宿のおばさんに料理法を教えてもらったけど、関西には生えていないようだ。

ニガナとレバーのみそ汁

ニガナをゆで、味噌を入れ、食べる前にレバーを入れてひと煮立ち。レバーは煮すぎるとかたくなるから注意。

ニガナのあえもの

 千切りにして水にさらし、魚の刺身とまぜる。鯖が一番だが、ほかの魚でも可。塩とカツオのだし汁であえる。しょうゆをつかうと「ニガナが死んでしまう」という。


https://note.com/fujiiman/n/na3b99c17f0d9 【沖縄に広まる熊野信仰 ニライカナイと補陀落が共鳴】より

熊野は「死の国」、水葬の名残は今も

 2015年から2年間、熊野の山と海を取材してまわった。熊野は出雲とならぶ「死の国」であり、明るく清浄だけど薄っぺらい伊勢とは正反対の存在感を感じた。

花の窟

 イザナミの墓は、古事記では出雲と伯耆国の境の比婆山とされているが、日本書紀では熊野の有馬村の花の窟(三重県熊野市)と記されている。

那智・阿弥陀寺の火生三昧跡

 平安時代には阿弥陀の縁日である15日に多くの僧が、自らの体を焼く「焼身行」を決行した。

「補陀落渡海」は、小舟に乗せられて補陀落という観音浄土へ向かった。那智勝浦周辺がその最大の拠点で、補陀落山寺の住職が60歳になると「渡海」していた。

浜ノ宮王子

 那智では、死者の棺を海岸に運ぶ際、浜の宮王子の大鳥居までは生きている人の相手をするように話しかけ、鳥居を出ると念仏を唱えて葬式になったという。この習慣も補陀落渡海も「水葬」とかかわりが深いと考えられている。

 紀伊半島の熊野地方、とりわけ日置川以南では、すさみ町の上ミ山古墳と那智勝浦町の下里古墳の2つしか古墳がない。水葬が主流だったからだ。

本宮大社旧社地「大斎原」。台風で増水すると中洲だとわかる

 熊野本宮大社(田辺市本宮町)の旧社地は熊野川と音無川、岩田川の合流する中洲にある。熊野川上流の十津川(奈良県)では水葬がおこなわれ、旧社地は遺骨が流れ着く場所だった可能性が高いという。

 新宮市の郷土史家からはこんな話を聞いた。

 葬儀の夜、親類10人ほどが無言で浜に出て、故人の着物を洗う。海から陸に一列にならび、陸側の人から髪をといて櫛を順々に手渡す。最後の人がその櫛を海に放つ――。

 古事記では、イザナギが妻イザナミの醜い姿を見て黄泉の国から逃げる際、追いすがる魔物に櫛を投げて時間を稼いだ。その話に似ている。

 この習慣も水葬の名残なのだろう。

 死者は、海のかなたへ帰っていくのだ。

洞窟が豊富な琉球を補陀落と信じた

紀の松島。補陀落渡海の僧はこのへんから船出した

生きたまま小舟で船出する補陀落渡海は平安時代から江戸時代にかけて約50例が確認されている。大部分は海上で消息を絶つが、まれに陸地に漂着する人がいた。

 上野国に生まれた日秀上人は19歳のとき人を殺めて出奔し、高野山で修行を積んだ。

 補陀落渡海をこころざし、熊野の浜から小舟でこぎだして洋上を漂い、琉球国金武郡の富花津(現在の福花)に漂着した。1520〜30年ごろのことだ。

金武観音寺

 日秀はこの地を「補陀落山」と信じ、洞窟を見つけ、そのわきにお宮を建てた。それが現在の金武観音寺と伝えられている。

観音寺の洞窟

「日秀洞」という奥行き170メートルの巨大鍾乳洞が今も残っている。洞内には鍾乳石や石柱が垂れ下がり、金武権現(熊野三社権現)と大蛇伝説の水天がまつられている。

 日秀は村人に助けられたお礼に稲作などを指導したと伝えられている。

波上宮

 日秀は琉球国王に招かれて首里に出て、那覇の海岸の崖の上に波上山三所権現(波上山護国寺と一体)を再興した。現在の波上宮で、「琉球八社」の首座を占める。戦争で失われたがハワイに住む日系移民の援助で1953年に本殿が再建された。

 日秀が琉球国王の目にとまって活躍できたのは、少なくとも15世紀には補陀落渡海僧が漂着し、熊野権現信仰が流入していたためだ。

 琉球には、はるか東の沖にニライカナイと呼ばれる他界があるという信仰があった。熊野の人も、海のかなたに補陀落という他界があると信じた。ニライカナイと補陀落の信仰とが共鳴したから熊野信仰は沖縄に広まったという。

 沖縄の代表的な神社「琉球八社」のうち安里八幡をのぞく7社は熊野の神をまつっている。これらの神社には熊野から送られたナギの木が植えられている。葉脈が平行で、熊野では神木とされている。

識名宮

 首里郊外の識名宮は亜熱帯の木々に囲まれている。

天久宮

泊港に近い天久(あまく)宮は学校のわきの斜面にあり、ちょっと上の丘には亀甲墓がならんでいる。

左の丘の上に沖宮がある

 沖宮(おきのぐう)は、奥武山公園という運動公園の丘の上にある。かつては海沿いにあったが、明治41(1908)年に那覇港を築くため、8社のうち唯一熊野系ではない安里八幡宮に遷座され、1975年に現在の場所に遷座した。

普天満宮

「普天満宮」は、琉球の王が毎年参拝していた。今も参拝客が多い。米軍・普天間基地のわきの国道沿いだが全長280メートルの洞窟がある。

 石灰岩だから沖縄は洞窟や鍾乳洞が多い。洞窟は他界への入口と信じられており、そこに本土からの信仰が習合したと考えられるらしい。

日秀は二度死んだ

 日秀は琉球で活躍したあと薩摩におもむき、島津氏の庇護を受けて勧進聖として活躍した。

 鹿児島県霧島市の日秀神社のある場所で晩年をすごし、裏手の岩場にある石室で3年間瞑想をつづけて入滅した。補陀落渡海と入定と。日秀は2度死んだ。

 戦国時代の1577年のことだった。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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