Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
高天原では、神々は自分のみのことは考えず、己の仕事は全て天照大御神のためと思い、創意工夫切磋琢磨しながら、その役割を果たそうと励んでおられ、天照大御神もまた、己一人のことは考えず、全体のために一切を照らし給うのです。この神々の心そのものが、日の本の心。。
https://ameblo.jp/yamatokotohogi/entry-12815916758.html 【息の秘密】より
生命の根源は呼吸・・・神霊も、神霊が神留ります高天原,
大宇宙も呼吸していて、息しているから生きていて、生命は呼吸そのもの。
人は初声の第一声に言霊という呼吸が与えられ、それはミコト(美言)を生きる始まり。
生活とは、息というミコトのまま、生かされて活きるということ。。
http://hakuchu.blog58.fc2.com/blog-entry-12206.html 【高天原と地を繋ぐ】より
伊勢神宮、鳥居
神道は、伊勢の内宮外宮にみられるように、神の国と人の世を一体とする。
天照大御神を、万物生成 化育を司る高天原の神としてお祭りし、それを支える豊受大神
を、生命生活を維持する稲種の神としてお祭りする。
高天原の神々の営みを、そのままこの地上に顕わす、神人一体、顕幽一致の美しき国、日本。
https://yoko-koide.com/24665/ 【【ブログ】すべての存在は、死後、高天原の神々の一柱となる】より抜粋
【すべての存在は、死後、高天原の神々の一柱となる】
おなかで感じる世界は、すべての二項対立を超えています。究極、生と死という対極の事象をも超えてしまいます。
八百万の神々のおはす高天原と呼ばれる宇宙は、そのまま私たちの肚、おなかであることは繰り返し述べていますが、かつてこの世に生まれ、そしてこの世を去ったものたち(人に限らず、ありとあらゆる存在)の魂も、実は、例外なくすべて、そこにいらっしゃいます。
この世に生まれた魂は、死後、高天原というふるさとへとかえっていき、そこで、八百万の神の一柱となって、弥栄の世を生み出していくプロセスに寄与し続けます。
八百万、というのは、有限の数字ではなく、そのまま「すべて」を意味する言葉です。
神の数に定員はありません(笑)。今、この瞬間も、神はどんどんどんどん増え続けています。
先述の通り、ほんとうは、今ここに生きている私たちにも神の力ははたらき続けているので、いつだって神そのものとしてはたらくことは可能なのですが(その意味で、この世はそのまま高天原である、とも言えるのですが……)、肉体を離れることによって、さらにその事実がはっきりします。
死んで終わりのいのちじゃない。
肉体の死すら、この世の生成化育のプロセスの中に織り込まれている。
私たちは、死してなお、というか、死していよいよ、神々としてはたらき続けることが定められているのです。
死んでまではたらきたくないよ! という声が聞こえてきそうですが(笑)安心してください。
神々のはたらきは、人間の労働とは違い、いつだって「うれし、たのし」のエネルギーの中で行われますので。
弥栄の世を生み出していくことは、よろこびそのものなのです。
ところで、神話上、最初に死を迎えたとされる神さまはどなたかご存知ですか?
そう、伊邪那岐命とともに国生みを行った伊邪那美命です。
伊邪那美命は、火の神を生み出す際に負ったヤケドが元となって亡くなり、黄泉の国へと旅立ってしまいます。
黄泉の国は、死の国です。
しかし、黄泉の国すら、高天原の外にあるわけではない、ということを忘れてはいけません。
万物生成化育のエネルギーは、黄泉の国にもはたらき続けています。
事実、黄泉の国から命からがら逃げ帰ってきた伊邪那岐命は、その後、穢れを祓う過程で、天照大御神や素戔嗚尊をはじめとする、数々の貴い神さまを生み出しました。
黄泉の国の住人となった伊邪那美命のはたらきかけがなければ、日本の最高神すら、生まれることはなかったのです。
何度も言います。
死んで終わりのいのちじゃない。
死はエネルギー変化のひとつであって、その魂は高天原全体に溶け込んで、常にこの世にはたらきかけ続けており、いまもって、次なるいのちを生み出し続けている……。
そう考えると、すでに肉体を離れた(死を迎えた)いのちたち、つまりは私たちのご先祖さまを含む八百万の神々が、これまで以上に身近な存在として感じられませんか?
さて、いろいろ語ってきましたが、ここでひとつ問題が。
問題とは、高天原におはす神々はエネルギー体なので、姿かたちを持たないということです。
神々がこの世の生成発展のためにはたらくには、生きている私たちの肉体が、「依り代」としてぜったいに必要なのです。
かと言って、神々が私たちに無理やりなにかを命じたり、私たちの肉体を勝手にのっとるようなことは、もちろんぜったいにありません!
あくまで、双方の合意があった上で、神と人とが「ともに」はたらいていくのが、神ながらの道の基本です。
ここは、やはり、一神教の世界観とは大きく違うところですよね。
一神教では、人は、神の「命令」がないと動けない、ということになっていますから。
キリスト教においては、人というのは、神によって泥から作られたもの、ということになっています。
人はそもそも土の塊でしかなく、神の息吹(命令)によって、ようやくその体を動かすことができるのだ、という考え方です。
ここには明確に、神が上、人が下の従属関係が示されています。
いにしえの日本人に、そのようなものの見方はありませんでした。
神ながらの道においては、神と人とは協力関係にあります。
弥栄の世の表現を第一とする神々の意志に、人が自分の意志を合わせていき、双方のエネルギーの和合による「うれし、たのし」のよろこびの渦の中で、あらたなものを次から次へと生み出していく。
軽やかでおおらかな、とっても明るいエネルギーを感じますよね。
神々の意志は、私たちのおなかを通して伝えられます。
神々はいつだって弥栄の意志を表現し続けてくださっているのですが、私たち人間がそれをキャッチできなければ、ざんねんながら、現実にかたちになることはありません。
そのようなことが起きないように、私たちは、常に高天原という万物生成化育のエネルギーの根源に、つまりは自分のおなかに、しっかりと意識を向けておくことが必要なのです。
Facebook神田 サチさん投稿記事 タカマノハラの白い光について
縄文時代の神様の宇宙観がホツマツタエには出て来ます。欲のない純白の光の世界。
ロケットもない時代になぜ宇宙のことがわかったのだろう?素朴な疑問。
先日、YouTubeで臨死体験をした方からも同じ事を聞きました。世界中で村作り指導をする山納銀之助さん。新しい彗星を3つも発見した木内鶴彦さん。
以下は銀之助さんの話。
地上から離れるにつれスピードが増し銀河系宇宙のさらに外からいくつもの銀河を眺め、どんどんスピードが増して行くにつれ轟音の真っ暗な中ものすごいスピードなので星々が線に見え、やがてふーっと止まって真っ白な光に包まれ止まったそうです。
音もなく匂いもなくただただ白い光の中で心地よくぷかぷか浮いている世界。これだ!タカマノハラは!と思いました。
私たちは欲もなくただただ心地よい世界から自ら選んで色んな人生を体験しに来ているんですね。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/9_1/ 【鎌田教授の論考「臨死体験と脳科学」が『大法輪』9月号に掲載されました】より
鎌田東二教授の論考「臨死体験と脳科学」が『大法輪』2013年9月号(発行:大法輪閣)の特集「死んだらどうなる:第一部 死後の世界を考えるということ」に掲載されました。
かつて宗教学者ミルチア・エリアーデは『太陽と天空神ー宗教学概論1』の中で、「宗教現象の本質を、生理学、心理学、社会学、経済学、言語学、芸術学、あるいはその他の学問によって把握しようとするのは誤りである。それはまさに宗教現象にある唯一独自なもの、他に還元できないもの、つまり聖なるものという要素を逃してしまうからである」と述べていた。(中略)
わたしたちはこうした先達の仕事に敬意を払いながら、二〇一一年度より科研「身心変容技法の比較宗教学ー心と体とモノをつなぐワザの総合的研究」を始め、従来の比較宗教学的研究に加えて、fMRIを使った瞑想時の脳の状態を測定しようともしているので、改めて今日的な研究状況と観点から「脳とたましい(霊魂・霊性)」という両極を問題にしつつある。そうした流れの中で、編集部の求めに応じて「臨死体験と脳科学」という問題の概要を考えておきたい」
(記事より抜粋)
古くはプラトンの『国家』や『日本霊異記』『神道集』などに残されている臨死体験の記録。しかしその科学的研究は二〇世紀からと比較的新しく、昨今は臨死体験に対する見方が「死後世界の存在や霊魂の存在」とする立場と「心理学や神経科学的研究から”脳内イベント”」とする立場に分かれている、と鎌田教授は指摘。自らが代表研究者を務める「身心変容技法の比較宗教学」での研究内容を紹介し、瞑想や修験道などの伝統的修行から生まれた「身心変容技法」や「身体知」を整理・比較検討し、その整合性や再現性を探ることで、死生学や身心論と共に臨死体験や体外離脱体験の問題が再検討されていくであろう、という展望を示しています。
http://an-hana.com/679 【神話に出てくる3つの世界「高天原」「葦原中国」「根の国・黄泉の国」】より
神社に祀られている神々は、主に『古事記』『日本書記』に登場します。
その中で、神々が住んでいる世界の名前が出てくるのですが、それらは大きく分けて3つの世界に分けられます。
その3つとは、
「高天原」「葦原中国」「根の国・黄泉の国」。
これらを知っておくことで、イメージが広がり、神話はもっと面白くなるはずです。
今回は、そんな神話に出て来る3つの世界を、ご案内したいと思います。
神が住む「高天原」(たかまのはら)
高天原は、簡単に言えば「神様たちが住む世界」です。
最高神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が治める「天上界」と呼ばれる場所で、ここに住む神様たちは、「天つ神」(あまつかみ)と呼ばれます。
神話の中で登場するので有名なのは、やはり「岩戸の段」と呼ばれる箇所。
天照大御神が、天岩戸(あまのいわと)にお隠れになり、世界が暗闇に包まれてしまいます。
そこで、神々が持つ智恵と技術を集結し、天照大御神を岩戸から出して、世界に光が戻ってくるという物語ですが、この岩戸の段の舞台こそ、高天原です。
では、実際に高天原はどこにあるのでしょうか?
その答えは、さまざまな考え方があるようです。
例えば、神様が住む場所であるから、天上もしくは天より高い宇宙を示すと考えられているもの。これは、多くの学者が提唱している考え方です。
また、そもそも神話とは何かしらの史実が影響しており、地上にあったある場所を高天原と考えていたという説。
それは、国内のみならず海外であったと唱える学者さんもいるようですが、例えば卑弥呼が治めていたという邪馬台国(邪馬台国が実際にあった場所においては、今もなお議論が行われている)と関連付ける人もいれば、朱子学者・新井白石は常陸国(現在の茨城県)にあったと唱えていたそうです。
また、全くのフィクションであるという説もあり、まだまだ謎は深まるばかりです。
人間が神として住む「葦原中国」(あしはらのなかつくに)
葦原中国は、簡単に言ってしまえば「人間が住む世界」です。
「地上界」と呼ばれ、最初は、大国主神(おおくにぬしのかみ)が治めていました。
「大国主神は、神様じゃないの?」と言われそうですが、大国主神は「国つ神」(くにつかみ)と呼ばれる神様です。
大国主神が治めた葦原中国はとても美しい国で、それを見た天照大御神は、葦原中国を天つ神に譲るようにと大国主神への交渉をすることにします。そこで、高天原から続々と使者を派遣するのですが、その死者たちはことごとく失敗していくのです。
最終的には、大国主神は天照大御神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)に国を譲ることにします。
邇邇芸命が 葦原中国 に降りてきた「天孫降臨」、そして大国主神が国を譲った「国譲り」は、神話の中でも人気のあるストーリーであり、その舞台となったのが 葦原中国 です。
国つ神とは、この天孫降臨以前から葦原中国に住み、その土地や国土を守護していた神様、その子孫を指します。
このように神話の中で、今私たちが暮らしている地上界で、天つ神(神様)と国つ神(人間)が一緒に暮らすようになった物語が、ちゃんと描かれています。
日本の人々が、神様を身近に感じて暮らすという風習が生まれたのも、とても自然なことだったのだと感じます。
死者が住む「根の国」「黄泉の国」
最後は、根の国・黄泉の国です。この2つの国は、死者が住む世界として描かれます。
この2つは、基本的には違う国のことを示していますが、同一とされることもあります。
黄泉の国の入口である黄泉比良坂(よもつひらさか)は、根の国の入口でもあるという記述が『古事記』にあります。
神話の世界では、須佐之男命(すさのおのみこと)が後半生を過ごす場所として描かれる根の国は、兄弟たちから命を狙われた大国主神が逃げてくる場所としても描かれています。
また、黄泉の国は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が、亡くなった妻神である伊邪那美神(いざなみのかみ)に会いたい一心で訪れる場所としても描かれています。
『古事記』で、須佐之男命は根の国を「妣國」(ははのくに)と呼んでいることも興味深く、須佐之男命の母を伊邪那美神であると考えると、やはり根の国と黄泉の国は同じであると考えたほうが自然のようにも思うのですが、この2つは別の世界だという考えも、今もまだ根強くあるようです。
また、神話の中では、黄泉の国を訪れた伊邪那岐神は、伊邪那美神の変わり果てた姿を見て逃げ出します。
その様子を見た伊邪那美神は怒り、伊邪那岐神を追いかけてくるのですが、最後は黄泉の国の入口である黄泉比良坂に千引の岩(千人力でしか動かないような大きな岩)を置き、入口を塞いでしまいます。
根の国は名前のとおり地下にあり、黄泉の国も地下にあるように思うのですが、黄泉比良坂という名前のとおり、入口は「坂」になっていた、またはあの世とこの世の「境」であったなど、いろいろな考え方があるようです。
島根県松江市には、黄泉比良坂であったという伝承が残る場所が残っています。
日本の神社で体感する神話の世界
今回は、神話に登場する3つの世界を見ていきました。
伝承地として残っている場所もありますが、日本各地の神社では、それらの神話にちなんだ場所が人に手によって造られているものもあります。
例えば、高天原にある「天岩戸」を模して造った祠をはじめ、天孫降臨や国譲りなどに関連する場所が各地にあるのは、さまざまな伝承があり、さらに神話の神々を信仰する人たちの手によって、人間が身近に神様を感じて暮らせるような仕掛けとして環境を整えていったのではないかと、「あん・はな」は考えております。
神話の舞台となった3つの世界を知っておくことで、神社に参拝するだけで、どんどん神話の世界に入り込んでいけるような気分を味わっていただけたらと思います。
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