https://fukuko.yoga/2020/04/10/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%92%E5%90%91%E3%81%84%E3%81%A6%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%EF%BD%9E%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BF%AE%E9%A8%93%E8%80%85%E3%80%81%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%9D%B1/【あさってを向いて生きる~現代の修験者、鎌田東二(2011年6月制作)】より
NPO東京自由大学や『天空教室』(円覚寺龍隠庵)でもお世話になっている宗教学者 鎌田東二さんの修験道のDVD「あさってを向いて生きる~現代の修験者、鎌田東二」(2011年6月制作)が YouTubeにアップロードされました。
京都大学博士課程の大学院生であったグエン・ホン・ハウさんたちが、東日本大震災後の大学の授業の中で作られたものだそうです。
全身緑の服を来ている鎌田先生と美しい比叡山の風景をお楽しみください。
最後の最後にズッこけるところが何とも先生らしいです☺️
https://www.youtube.com/watch?v=tXiMiaNp_T0&t=2s
https://ameblo.jp/yamabushitaiken/entry-12315528316.html 【聖なる呼吸 ハートオブヨガと修験道】より
「フリダヤ ヨギと名乗りなさい。そしてこのヨガを、あなたの国の言葉で、あなたの国の伝統と文化に合わせて伝えていきなさい」
これは私がハートオブヨガ講師の認定を受けたハートオブヨガの提唱者マーク・ウィットウェル師から命名され、そして頂いた言葉である。
フリダヤ ヨギとは「ヨガの心髄を行ずる者」という意味である。
そこで今回は今や数多くあるハタ・ヨーガ各流派の中でも特に呼吸を最重視するハートオブヨガ(以下hoyと略す)と修験道の呼吸観について、そして共通点について述べてみたい。
また現在、修験寺院や修験の団体で修験道の呼吸観について教えているところは皆無ではないだろうか?伝法においても触れられることは無いと思う。
しかし修験道において呼吸は非常に重要な意味を持つ。
◎ハートオブヨガと呼吸
先ずハートオブヨガ(hoy)とはヨガの流派の名前ではなく「ハタヨガの本質」と云う意味で、その本質とは提唱者マークが「呼吸が出来ればヨガが出来る」、「呼吸はあなたのグルです。あなたのグルに従いなさい」、「呼吸がすべて」と言うように呼吸を一番に重視することである。
先ずそもそも「ハタヨガ」という呼称自体がタントラ思想を表してる。
ハ(太陽)とタ(月)の融合、男性性と女性性の融合、陰と陽の融合、ステラ(強さ)とスッカ(柔らかさ)の融合、呼気と吸気、更に言えばアートマンとブラフマン、プルシャとプラクリィティ、金剛界と胎蔵界、定と恵、理と智等々、相対し相待するものの融合(ヨガ)を意味する。
融合、本来的には不二と言ってもいい。
これはハタ・ヨーガの創始者とされるゴーラクシャナータが仏教の「無上瑜伽タントラ」を取り入れたためその思想基盤になっているとされている。
我が国にはチベットの学僧プトゥンの分類法によれば中期密教しか入ってないことになってるが、日本は日本独自のタントラ思想が発展している。
当然、修験道も日本のタントラに大きく影響を受けているのでその思想にタントラ的表現が多くなる。
それでは修験道ではどうであろうか?
◎修験道と呼吸
修験の教義書の中から呼吸に関する記述を探せば結構ある。
例えば修験道奥義である柱源神法の死滅行儀にも呼吸について述べられていて一番重要なことなのだが、これは道具の説明からしなければならないので割愛したい。
また修験秘奥鈔の中には修験数息観の項があるが修験独自の表現(ノリ)なので分かり辛いかと思う。
それよりも修験根本教義書の修験五書の中の「修験頓覚速証集」巻下の第五、「息風を以って念となすの事」がタントラ的で分かりやすいかと思う。
〈↓以下訳文〉
「疏文に命とは謂わゆるところ風なり。風とは想なり。想とは念なり。謂わゆるウン字を以って風大の種子となす。また識大の種子となす。ゆえに五大にみな響きあり。これ声なり。風なり。この声を聞きて耳識をおこす。これ識大なり。これすなわち六大一実にして諸法を成す。
故に糸竹等のなかにまた識大あり。このゆえに声は識とあい離れず。風は識と相属してよって出入の命息はウン字を想わしむ。
息は念とともにウン字なるがゆえに、この息風は想念と六大の体を離れず。(以下略)」
さて、弘法大師空海の即身成仏義に「六大無碍にして常に瑜伽なり」とあり、宇宙を構成する地(ア)・水(ビ)・火(ラ)・風(ウン)・空(ケン)・識(ウン)という6つのエレメントはそれぞれ融け合っていて、常にヨーガ(つながっている)であるという意味である。
では何を以ってヨーガ(つながってる)してるか?それは風大であり識大である。
五大それぞれに響きがあり、それは声であり、声は風大である。ともにウン字を種子となすように風大と識大はその他の構成要素に遍満している。風大とは命であり我々の想念であり、呼吸である。我々が呼吸をすることそのものがこの個を超えた大生命の根源である六大とのヨーガ(つながり)で、死ぬ(息を引き取る)ことは、そのまま六大へ還元することである。
すべては六大であり、我々もその六大の現れである。
修験で重視する五輪観文に「我すなわち ア・ビ・ラ・ウン・ケン 次での如く 腰・腹・心・ 額 ・ 頂 自身を改めざるを即身と名づけ 此の分を覚悟するを成仏となす」とあるように我々は五大からなる身体で、その種子を体に配当すると各々、腰(ア)・腹(ビ)・心(ラ)・額(ウン) ・頂(ケン)となる。
すなわち我々の体が五輪の塔婆と云うこと。識(ウン)は五大に遍満して六大となる。
そしてこの自身を改めずそのままであることを「即身」と名づけ、それに気付いてることを成仏していると云う。
修験の秘記に「この風息外に出て本有六大の円明の如し(死せば)再び依身(体)に入らず。世間の人はこれを死と称す。しかればこの命息、法界に出て十界一如の塔婆に遍在するを無為常住の本法というなり。上法身より下六道に至るまで風息をもって色心となし六大を建立す」とある。
これを提唱者マークは以下のように表現する。
「あなたの呼吸と一つになるということは、あなたに呼吸をさせているもの、つまりは、命そのものと一つになること」なので命息という。
◎あるがまま=即身即身
そもそも生きている以上、意識しなくても呼吸はしている。
これを無作(むさ)と云い、すでに本から有ってそこから離れてないので本有(ほんぬ)と云う。通常の密教は有相三密、つまり形のある仏の働きと云うことに対して、修験では無相三密、つまり形を取らない仏の働きを云う。
大日経に「甚深無相の法は劣恵の堪えざるところなり、彼等に応ぜんが為の故に、兼ねて有相の説を存せり」とある。
これは甚だ深く姿形のない教え(無相)は知恵の劣ったものには分からないから、兼ねて姿形のある教え(有相)を説くという意味で、密教は有相、修験は無相の法門である。
すなわちことさら密教みたいに印を結ばなくても我々の行・住・座・臥すべてが印相であり、ことさらマントラを唱えなくても呼吸そのものがマントラで、ことさら仏を想わなくても我々の想念は六大に遍満している。
特に呼吸について修験の秘記に「出入の命息はすなわちア・ウンの二法なれば、行住座臥、恒日不絶の念誦なり、睡眠無心の時も断絶あるべからず」と説かれているように、我々はどんな状態にあっても呼吸を続けている以上、常にマントラを唱えていることになる。
すなわち我々は仏の働き(三密)を為さずして為し、成ぜすして成している。これを無作本有の無相三密と云う。
であるから我々はことさら仏に成ろうとしなくても、呼吸によって六大とヨーガ(つながり)し、六大とつながってることは六大一実の体である大日如来と一体であり、大日如来と一体であることは我々は既に仏であると云うこと。
それを提唱者マークは「悟りを開こうとすることは、既にゴールにいるのにわざわざ別のゴールを作り出しそこへ行こうとすることだ」と表現する。
なのでハタ・ヨーガとは自分以外の何かに成ることではなく、ありのままの境地にとどまることである。
つまりタントラでは我々は既に悟りを開いているのだというところから始まり、これを修験では密教で云うところの即身成仏(仏に成る)とは言わず「即身即身」(そのまま)と云う。
これを敢えて意識化することは、それを覚悟(気付かせる)せしむると云うことである。
◎結論
上に述べたように、この本から有ってそこから離れてないことを自覚するを提唱者マークは
「親密なるヨーガ」と表現し、それは取りも直さず「常に瑜伽なり」と云うことである。
つまり我々が瑜伽(ヨーガ)をするのではなく、常に瑜伽(ヨーガ)していて且つ、我々は瑜伽(ヨーガ)の現れなのである。
長くなったが、このように修験道もハタ・ヨーガもともに「あるがままで完璧である」と言ったタントラ的本覚思想が基盤にあり、以上のような呼吸に対する見解が思想の根底に流れている。
なので修験もハタ・ヨーガもどちらもともに呼吸に心を向けたとき、それはハートオブヨガ(ヨーガの本質)となり、それこそが《聖なる呼吸》となるのである。
以上。
正統瑜伽血脈伝灯 三世フリダヤ ヨギ 太賢
「ヨガはあなたがするものではありません。あなたとして、起こっていることです」byマーク・ウィットウェル/和訳:川原朋子
https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-235.html 【吽字義】より
本書は吽(ウン、フーム、huum)という字を字相と字義との二方面から解釈したものであるが、その思想は理趣釈、金剛頂経釈字母品、守護国界主陀羅尼経、大日経疏等に基づくものである。
字相とは言葉の浅略の解釈にして、言葉の表面上の意味を示すものであり、字義は言葉の深秘の解釈にして、如実に実義を示すものである。
まず字相を説く段では、吽字は賀(カ・ha)・阿(ア・a)、汗(ウー・uu)、麼(マ・ma)の四字の合成であり、この四字のそれぞれの字相を言えば、訶(賀)は因(サンスクリットのhetva(hetu、因)の最初のh)、阿は不生(aadi(本初)のa)、汗は損滅(uuna(損滅)のu)、麼は増益(mama(吾我)のm、一切諸法に我(アートマン)を見る我見我執をここでは増益と言っている)の意味をもつ。
つぎに字義を明かす段では、別釈と合釈との二節を設けている。
別釈段では、訶字の実義は一切諸法因不可得の義、阿字の実義は一切諸法本不生不可得の義、汗字の実義は一切諸法損滅不可得の義、麼字の実義は一切諸吾我滅不可得の義であると説くが、いずれも不可得を観ずることが字義の根本義である。そこで吽字の字義を知ることは訶・阿・汗・麼の四字の実義をさとって一切法不可得の理に契証することで、この四字の実義を知るものは如来であり、実義を知らず字相のみに執着しているものは妄想の凡夫である。
つぎに合釈段では、訶・阿・汗・麼の四字を順次に法身・報身・応身・化身の意味に解釈し、あるいは理・教・行・果の意味に解釈し、また吽字の密号・密義を知ることが正覚を成ずる要道であると説き、また吽の一字を三乗の人(声聞・縁覚・菩薩)の因・行・果に約して説き、また因・根・究竟の三句(『大日経』住心品の有名な「三句の法門」)は吽の一字に帰するとも説き、最後に吽字の六義(擁護・自在能破・能満願・大力・恐怖・等観歓喜)をあげて説明している。
字義の解釈は確かに密教独特のものであるから、大師は多くの著作の中でしばしば字義について述べているが、直接的には吽字義において字義に関する大師の見解を表明している。
本書の著作年代は明らかではない。古来、即(身成仏義)・声(字実相義)・吽(字義)の順序に相前後して著作されたものであり、順次に身・口・意の三密を詳説したものといわれる。もししからば、即身成仏義・声字実相義以後の著作であると推定される。
(『弘法大師著作全集』第1巻(山喜房仏書林、1968年)解説、勝又俊教)
※空海は梵字・悉曇つまりサンスクリットやそのサンスクリット音のままに唱える真言・陀羅尼に大変通じていた。だから「阿(ア、a)」はサンスクリットアルファベット(悉曇字母)の最初の字であり、人間が口を開いて発する最初の音であること、「吽(ウン、huum)」はまた口を閉じて発する最後の音であり、この「阿・吽」の2字が一切諸法の「本初」と「究極」の象徴であることを知っていた。『大日経』の胎蔵界では「阿・吽」は大日如来と金剛薩埵、『金剛頂経』の金剛界ではその逆を象徴する。大寺院の仁王門に立つ金剛力士の「あ形」「うん形」や、相撲の「あうんの呼吸」はこれからきている。
【要文名句】
●もし人あってよくこの吽字等の密号密義を知らばすなわち正遍知者と名づく。いわゆる初発心のときに便ち正覚を成じ、大法輪を転ずる等はまことにこの究竟の実義を知るによってなり。
●この一字をもって三乗の人の因・行・果を摂するにことごとく摂して余なし、および、顕教一乗・秘密一乗の因行果等准じてこれを知れ。
●この一字をもって、通じて諸経論等に明かすところの理を摂することを明かさば、しばらく『大日経』および『金剛頂経』に明かすところ、みなこの菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となすの三句に過ぎず。もし広を摂して略につき、末を摂して本に帰すれば、すなわち一切の教義この三句に過ぎず。この三句を束ねてもって一の吽となす。広すれども乱れず、略すれども漏れず。これすなわち如来不思議の力、法然加持のなすところなり。千経万論といえどもまたこの三句一字を出ず。
https://freegreen.jimdofree.com/%E7%AC%AC15%E5%8F%B7/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%9D%B1%E4%BA%8C/ 【アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その15】より
鎌田東二
20、東京自由大学初代学長・名誉学長横尾龍彦先生に捧ぐ最終講義とNPO法人東京自由大学第一期(ファーストステージ)の終わり
東京自由大学の第一期が終了した。実質的には、2016年2月末に。形式的は3月末に。
それに伴い、NPO法人東京自由大学理事長を退任した。また、京都大学こころの未来研究センター教授を65歳で定年退職する。場所と課題と探究を次の世代に託し、委譲する。最大の重要事だと思う。この「新陳代謝」がなければいのちは機能しない。継続しない。
というわけで、2016年2月13日に、NPO法人東京自由大学の「人類の知の遺産」講座の最終回で「石牟礼道子」を講義し、ほぼ1週間後の2月21日に京都大学稲盛ホールで「日本文化における身心変容のワザ」を講演した。そのどちらでも、「詩」を最終課題として取り上げた。そしてそれはわたしの最初の課題でもあった。「詩」こそがわがαでありωであった。
自分の人生が変わったのは、17歳になったばかりの1968年の春3月のことであった。3月下旬、知り合いの叔父さんに自転車を借りて徳島県阿南市を出発し、2日がかりで四国を横断し、八幡浜から別府に渡り、阿蘇山麓を抜けて北九州横断道路を東西に移動した。熊本から南下し、桜島を周遊して宮崎県に出、青島に立ち寄った。
それがすべての始まりだった。発端。始まりのはじまり。
「詩」を書くようになった。その時、神話・物語と場所(神社・聖地)と詩・文学が一体化し、それが現在の仕事に直結している。
2つの「最終講義」では、一つは石牟礼道子の作品に焦点を当てて、もう一つはスサノヲノミコトから始まる歌文化の系譜に焦点を当てた。
『苦海浄土』で知られる石牟礼道子は本質的な意味で「詩人」である。本質的な意味での「詩人」とは、この世のものならざる声や隠れたもののつぶやきに耳を傾けて深く聴き取り、それをこの世につなぎ心に深く食い入る形で伝える通訳者であり媒介者であるという意味である。
その「詩人」は、「草木言語(くさきこととう)」、つまり草木も磐根も森羅万象すべてが言葉を発しているという、古代的なアニミズム感覚に根ざして成立してきたことを力説した。
もう一方の「日本文化における身心変容のワザ」では、その核心は「歌」であり「詩」であるということろから始めて、詩神・スサノヲノミコト、『古今和歌集』と撰者で最高入首者(102首)の紀貫之、『新古今和歌集』と最高入首者(94首)の西行法師、西行を慕った松尾芭蕉の俳諧と『奥の細道』、脳出血で倒れた直後から作歌活動を再開した社会学者の鶴見和子、そして歌人として出発した石牟礼道子などの詩神・詩人の系譜を取り上げた。
そして併せて、宗教哲学と民俗学の違いについても説明した。宗教哲学は、個別的な宗教現象を発現させる宗教の本質や構造、また神仏などの聖なるものや宗教経験や超越や絶対などの限界概念について鳥瞰的(鳥の眼的)に考察し思考する極めて抽象的で思弁的な学問である。それは、形而上学的な思弁にも、数学や天文学にも似ている。
それに対して、民俗学はその地域に伝わる個別具体の方言で語られる民間伝承や祭祀儀礼などを具体的に採集し、実証する、地を這う蟻の眼的な学問である。
このマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)の対極的な二つがわたしの中では両方共に必要不可欠であったことも説明した。
日本の詩歌の典型は短歌である。その31文字の短歌をさらに短くしてわずか5・7・5の17文字に縮めたものが俳句(俳諧)である。「短歌は心の雛型」「俳句は宇宙の雛型」。言い換えると、「短歌は心を入れる最小の入れ物」「俳句は宇宙を入れる最小の入れ物」である。
松尾芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」という有名な俳句。目の前に荒々しく広大な海が広がっている。その向こうに佐渡ヶ島がある。その遥か頭上を覆っているのが天の川。天上の海のような帯状の川。地上世界の小さな佐渡ヶ島とそれを飲み尽くそうとしているかのような日本海の荒海とさらにそれを包摂する巨大な銀河と宇宙。確かにこの17語の中に「宇宙」が詰まっている。
この最短文芸の元となったのが短歌であるが、それは『古事記』の中のスサノヲノミコトの歌「八雲立つ出雲八重垣妻つま籠ごみに八重垣作るその八重垣を」に始まる。
この歌は最短の詩句に最大最深の感情を入れ込んでいる。意味的には、妻を娶って立派な八重垣を持つ宮殿を創ったということでしかないが、その中には、母イザナミノミコトの悲しみや兄の火の神カグツチの怒りが内包されているのだ。その悲しみや怒りという負の感情を浄化する昇華力を持ったこの歌こそ、わが国最初の身心変容技法といえるワザであり、作品であった。
詩歌は飢えた子のお腹を満たすことはないと思われている。しかし、間違いなく、詩歌は心と魂を満たすことにより、「透き通った本当の食べ物」(宮沢賢治)になる力(言霊)を秘めている。詩人・山尾三省は、「詩人というのは、世界への、あるいは世界そのものの希望ヴィジョンを見出すことを宿命とする人間の別名である」と言ったが、わたしは、そのような「詩人」でありたい。NPO法人東京自由大学副理事長であった故大重潤一郎監督も、初代学長の横尾龍彦画伯も、二代学長の天文学者・海野和三郎先生も、そのような意味での「詩人」であった。
退職記念講演会・シンポジウムの後に山内ホールで行なわれた懇親会では、折口信夫の最後の弟子で、國學院大學名誉教授の岡野弘彦先生、情報工学者で京都大学元総長の長尾真先生、ゴリラおよび霊長類研究者の山極壽一現総長、造形美術家の近藤高弘さんの4名の方々から励ましとお祝いの言葉をいただき、襟を正された。
京都大学元総長、元独立行政法人情報通信研究機構理事長、前国立国会図書館館長、現国際高等研究所所長を歴任された長尾真先生のお話の中で、「普遍を超える」という言葉が出てきた。その言葉が深く鋭く突き刺さった。これこそわたしが求めていたものだと覚然とした。「普遍=法則=骨組みを越えて、そこに肉付けすること」、それこそがこれから立ち向かう仕事だと覚悟した。
京都大学を退職するに当たり、これまでの研究成果を2冊の本にまとめた。1冊は、『世直しの思想』(春秋社、2016年2月21日刊)。退職シンポジウムに合わせて上梓し、懇親会参会者の全員に配布させていただいた。
2冊目は、3月23日に発売される『世阿弥―身心変容技法の思想』(青土社)。これは渾身の世阿弥論であり、この数年取り組んできた「身心変容技法研究」の中間決算報告である。
NPO法人東京自由大学第一期(ファーストステージ)の最後の催しは、3月18日から20日まで2泊3日で、那須にある厳律シトー会那須の聖母修道院トラピスト修道院での春合宿であった。心に残る霊性的な合宿であった。
スタジオ雷庵でのショパンの演奏と詩の朗読と民謡やサックスや神道ソングの?歌声が響き渡る所から始まったかけがえのない時間と空間。横尾龍彦画伯の霊的教導、大重潤一郎監督の詩的映像、それらを包み込む岡野恵美子元運営委員長の菩薩道的包容力と実行力。まさに、「東京自由大学三位一体」であった。
横尾龍彦画伯夫人の横尾嘉子さんと豊田アンジェラ大院長さんと共に横尾龍彦画伯について追悼のお話が出来たことは何よりの鎮魂供養であり、感謝であり、顕彰であった。また東京自由大学運営委員の松倉福子さんや鳥飼美和子さんの指導によるクリパルヨガや峨眉丹道気功もそれぞれの身体で深く受け止めることができた。
担当の神成當子さん・芳彦さんとご家族、そして、もう一人の担当の渡辺美鈴さんのホスピタリティも心と真実が籠り非の打ちどころがなく素晴らしかった。
トラピスト修道院には横尾龍彦画伯(1928-2015)の基督像と聖母子像が安置されている。これは凄いことである。
当初、春合宿は横尾龍彦画伯の瞑想絵画を指導していただくことになっていた。が、横尾画伯は昨年2015年11月23日に87歳で亡くなられた。横尾画伯はご夫婦ともどもカトリック教徒で、洗礼名はフランチェスコとクララである。またご夫婦ともに、鎌倉の山田耕雲老師の下で参禅し、見性体験を持っている。
以下の那須トラピスト修道院のHPのトップページに掲載されてい教会内の写真の基督像と右の聖母子像が横尾龍彦画伯の彫刻になるものである。
http://www.nastra.or.jp/
https://www.youtube.com/watch?v=nkqSg8TABU0
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