「スサノオの命」の正体に迫る !

母イザナミは母なる大地ではないでしょうか?

鼻から生まれるものは?息、生き  泣いて生まれる・産声 スサノオは命そのものではないでしょうか?


「https://www.historyjp.com/article/201/ 【スサノオの命」の正体に迫る !】より

八坂神社 南楼門

八坂神社 南楼門例年7月に祇園祭が開催される京都祇園の八坂神社では、ヤマタノオロチを退治する勇敢なキャラクターとして日本の記紀神話に登場するスサノオノミコトが祀られています。スサノオは八坂神社だけでなく、全国各地の神社で牛頭天王として祀られていますが、それはスサノオが日本建国に絡んだ重要な存在と考えられているからにほかなりません。江戸時代の学者、新井白石は、神話に登場する神々は実在した「人なり」と語りましたが、スサノオに関しても、その偉大な人物像に伴う生き様が、そのモデルになった可能性があります。その正体を解き明かす鍵は、どうやらイスラエルから渡来してきたイザヤ一族にありそうです。

まず、日本国家の誕生、および天皇支配のいわれを描く出雲神話と、救世主による神の国の設立を預言するイザヤ書との間に、類似するモチーフがあることに注目してみました。共通点は、単に天命による王権の樹立と新しい国家の統治だけに収まりません。出雲神話では岩戸に隠れて暗黒をもたらすアマテラスとスサノオの対立や、海を渡った出雲における庶民の救済、そしてオオクニヌシノミコトによる地上の統一などが描かれています。また、スサノオは乱暴な神としても名高いですが、海原の統治を任されただけでなく、民衆を救済する神としてもいつしか、崇められるようになるのです。イザヤ書でもイスラエルの民に対して神が「妨げの岩」となり(8章14節)、御顔を隠してしまうことが書かれています(8章17節)。そして民衆が暗闇におののく最中(8章21節)、「海沿いの道」、「海に至る道」が啓示され、そこで暗黒の地に住んでいた庶民は光を見出す(9章1節)、というテーマの流れになっています。そしてイザヤの子には「獲物を素早く奪え!」と言う不可解な名前が与えられますが、その子こそ、国家を守り導く救世主でもあったのです。

更に、イスラエル国家の崩壊と日本建国のタイミングが歴史的に見て見事にマッチングしていることや、「イザナギ」という名前がヘブライ語で「イザヤ王子」、「君主イザヤ」と解釈できるように、神話に登場する名前の多くが旧約聖書の言語で解釈できることも見逃せません。それはイザナギとイザヤが同一人物である可能性を示唆しています。もし、その仮説が本当だとするならば、イザナギの子であるスサノオが、イザヤの子であることになります。日本書紀や古事記によると、イザナギとイザナミの間には国生みに関わる多くの子が生まれましたが、最終的に列島の統治を任されたのは、イザナギが黄泉の国から帰ってきた際、汚れを落としたときに生まれ落ちた天照大神、月夜見尊、そして素戔嗚尊(スサノオノミコト)と呼ばれた3人の子供です。その内、月夜見尊はスサノオの兄神にあたり、スサノオ自身は弟神でした。そしてこの三貴神が高天原と夜の世界、そして海原の統治をそれぞれ任されたのです。

旧約聖書のイザヤ書にも、イザヤには2人の男の子供がいたことについて記載されています。長男である兄は「シェアル・ヤシュブ」と呼ばれ、その名前には「生き残る者は(神に)立ち返る」という、神の憐れみと将来への希望を願い求める想いが込められています。そして弟には、「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」という一見して不可解な名前が付けられました。その言葉の意味は、「獲物を急げ、早く奪え」です。それは北イスラエル王国が瞬く間に崩壊し、領土が奪われてしまうことが子供の名前によって預言されたのです。しかしながら、この「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」自身は、イスラエルの救いを担った人物でもあり、イザヤはその救世主の働きについてもさまざまなメッセージを語り告げました。二男として生まれ、乱暴者のイメージを持ちながら、しかし多くの民衆を救済して、最終的に民からの厚い信望を受けるという点において、スサノオと「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」は類似点が多く、同一人物である可能性を秘めています。

これらの仮説の裏付けとなるポイントが、スサノオという名前の意味です。最初に、スサノオの漢字表記を考えてみましょう。古事記では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、日本書紀では素戔男尊、素戔嗚尊、またほかの史書においては、神須佐能袁命、須佐乃袁尊、須佐能乎命などの表記が見られます。これだけ複数の漢字表記があるということ自体、やはり名前の発音が先行して存在し、それに漢字が当てられたと考えられるのです。漢字そのものの意味は、「建」:直立する、堂々と進む、「速」:すみやか、「須」:求める、必要とする、「佐」:助ける、「素」:基、「戔」:残り少ない、などが挙げられ、これらが組み合わされて、「スサノオ」の名前を構成しています。漢字を組み合わせる際は、数多く存在する漢字の中から、できるだけその名前のルーツや語源に関連する意味を持つ字が選別されたことでしょう。例えば古事記の建速須佐之男命という表記ですが、漢字表記の意味からすると、「速やかな建国を求め助ける神」と言えます。それが日本書紀では「素戔」という別の漢字を用いられ、「残りの者が(国家の)基となる」とうい新しいニュアンスが、スサノオの名前に付加されています。この「残りの者」の主旨は、もしかするとイスラエルから逃れてきた残りの民を意味し、最終的に東の島々にまで辿り着いた少数の渡来者のことを指していたかもしれません。イスラエル民族は国家を失ったときから、「残りの民」、「残りの者」が国家の再建を担うということが信じられるようになり、複数の預言書にも、神からの約束として明記されてきたのです。それ故、「残りの民」というコンセプトは、イスラエルの民にとっては極めて重要であり、その国家へ帰還する想いが、スサノオの「素戔」に込められている可能性があります。

更に、「スサノオ」の名前自体をヘブライ語で解釈することができるとするならば、その名前のルーツにイスラエル民族の熱い想いが込められていることが、きっとわかるはずです。「スサノオ」はヘブライ語で、「スサ」と「ノハァ」の2つの言葉から成り立っている言葉と考えられます。「スサ」はsus、スサ(sus、スサ)であり元来、海カモメを意味した言葉です。その動きはとても機敏で速いことから、「とても素早い」というニュアンスも含む言葉です。それが英語ではSwiftとも訳され、「素早い」という意味でも使われている所以です。このスサ(スサ)には、実は「2輪戦車」を引く馬、英語でいうChariotの意味もあります。つまり、単に速いだけでなく、とても強靭なイメージを持つ言葉なのです。次にヘブライ語にはノハァ(nokhal、ノハァ)という、「新しい土地を得る」、「安住の地を相続する」、もしくは、「安息の地に辿り着く」という意味があります。これは正に、大陸を横断しながら新天地を探し求めたイスラエルの民に該当する言葉、そのものではないでしょうか。そして「スサ」に新しい土地を奪う、という意味のノハァ(nokhal、ノハァ)を足すとsus nokhal、スサノハァ(sus nokhal、スサノハァ)となり、「海カモメが新天地に辿り着く」、「素早く安住の地を得る」という意味になります。これは、マヘル・シャラル・ハシ・バズ(獲物を急げ、早く奪え)の意味に類似していると考えられることから、スサノオとイザヤの子であるマヘル・シャラル・ハシ・バズには関連性があるだけでなく、もはや同一人物である可能性さえも簡単には否定できないのです。

更にスサノオだけでなく、同様に、兄の「ツクヨミ」の名前もヘブライ語で解釈することができます。まず、ツー(tsur, ツーァ)は「岩」を意味し、その言葉の背景には「神が岩となって民衆を助ける」というニュアンスが込められています。次にクヤム(kuyam、クヤム)という言葉があり、これは「果たす」、「成就する」です。すると合わせてクヤムツー(tsur kuyam、ツクヤム)という言葉になり、「岩なる神の救いが成就する」という意味になります。岩の神による救いが成し遂げられ、安住の地に入るということからしても、その言葉の背景には新天地を探し求めたイスラエルの民の存在があるようです。そして安住の地に入り平安が訪れることは、月夜を眺め見るかのごとく、「月夜見」という文字が選別されたのではないでしょうか。

国家を失った大勢のイスラエルの民は、生きるために故郷の地を脱出しなければなりませんでした。そして多くがイザヤの言葉を信じ、大陸の遥か彼方に浮かぶ東の島々に、最終目的地があることを信じたのです。その神の選民とも言われるイスラエルの民が実際に大陸を横断し、日本へ渡来してきたと仮定するならば、記紀神話を聖書の預言と照らし合わせながら面白く読むことができます。また、大陸を経由して旅する無数の民とは別に、イザヤを中心とする先行部隊は、東の島々に新国家を樹立するために舟を用いて先行して旅立ち、事前に東の島々を巡り渡りました。そして十分なリサーチをしたうえで、見事に目的地である島々の基点となる場所を探し当てたのです。先行部隊には無論、イザヤの家族も含まれていました。その一行と共に海を渡ったのが、イザヤの子供らであり、その中にイザヤが預言した救世主がいました。イザヤの子、マヘル・シャラル・ハシ・バズこそ、建速須佐之男命、つまりスサノオノミコトであると考えられます。そしてスサノオは、姉のアマテラスに会うために高天原を訪れ、その後、出雲に向かい、そこでヤマタノオロチと一騎打ちを演じるのです。そしてスサノオの子孫であるオオクニヌシノミコトが、国を平定することになります。

こうしてイスラエル国家が滅亡してからおよそ60年後に、日本の皇紀が産声を上げました。この60年という期間は、大陸を越えて東の島々まで到達したイスラエルの民が、新天地にて新しい国家を樹立するのに要した時間ではないでしょうか。イスラエルの滅亡と、日本の皇紀の始まりの時期がほぼ一致しているのは単なる偶然ではなく、歴史の流れに沿った史実だったのです。古代史のロマンはますます広がっていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=YofsU17Qqwg

https://dot.asahi.com/articles/-/35581?page=1 【和風月名「神無月」考。それは冥府にくだった地母神の神話を意味していた?】より

今日から10月です。今の時代、10月といえば気候も穏やかで寒くも暑くもなく、文化活動をするにもスポーツをするにも、一年のうちで最適な時期になります。

ですが、旧暦時代の十月はすでに初冬。新暦でいうと、10月末から12月前半ごろにあたります。おなじみ和風月名では十月は「神無月」。他の月と同様、そのあらわす意味については諸説ありますし、印象的な名称のせいもあって比較的多くの人が神無月の意味について他の月名よりも関心や薀蓄をもっているようです。

ここでは一般的通説からもう一歩ふみこんで、「かんな(かみな)月」のあらわす意味をさぐっていきたいと思います。ちょっと複雑ですがお付き合いください。

日本における「神」は、人から隠れた場所に「ある」存在でした

日本における「神」は、人から隠れた場所に「ある」存在でした

「神の無い月」説と「神の月」説。実はどちらもおかしい!

「神無月」の意味については、

(1) この月、全国各地の神社に祭られる神々が、一部(恵比寿、諏訪明神)を除いて出雲に参集して留守になるので「神の無い月」。だから出雲だけは特別にこの月を「神在(かみあり/じんざい)月」と言う。

(2) 神無月の「無」は、助詞の「な(の)」であり「神の月」という意味である。本来この月に、神に神饌を捧げる重要な収穫祭「新嘗」が行われていたためである。

という相反する説があり、(1)(2)とも、メディアなどで薀蓄として語られるのでご存知の方も多いことでしょう。

しかし、(1)については、和風月名とは、「海外渡来文化が流入する以前の日本独自の口承文化時代から受け継がれてきた古い独自の月名」とされていて、もともと日本の神々は神社を必要とせず山や川、石や木々、動物であるとするアニミズム(精霊信仰)ですから、「神社を留守にするから神さまがいない」という解釈は、和風月名のコンセプトと矛盾しています。

出雲の「神在月」に関しては「神在=じんざい」はこの月、出雲で行われる鎮齋(ちんさい)=古い形の新嘗に先立つ斎戒の儀礼が語源とされています。

中世、伊勢神宮や出雲(杵築)大社では、現代のツアコンのような存在である御師が全国をまわり、参拝ツアーをうながす宣伝を行っていました。「わが神社にこの時期あらゆる神々が集まるのですからご利益絶大。是非おいでなさい」と伊勢神宮が宣伝しているがうさんくさいことだ、と『徒然草』(兼好法師)にも、記述されています。つまり、「神の無い月」という解釈自体が中世頃からの語呂合わせと考えられます。

(2)については、当コラムの「水無月」の解釈編でも述べたことと重複するのですが、「無」が「の」ならば、なぜ他の月には「無」がつかないのでしょう。水無月と神無月のみに「無=の」がつく理由、あるいは法則について古から説明がなされていません。また、十月が「神の月」というのなら、神を我が家にお迎えする正月(一月)、田の神を降ろす四月、夏越の祓のある六月、来訪神が多くやってくる八月や十二月はなぜ「神の月」ではないのでしょうか。ですので、十月を特別に「神の月」とする解釈は無理があるように思われます。「な」は助詞ではなく意味があって挿入されていると考えるべきです。

『倭訓栞』(谷川士清 1777~1887年にかけて刊行・完成)では、

神嘗月の義なるべし、我邦の古へも西土にも、神嘗祭は十月なりし事其證多し

とあり、「神嘗(かんなめ)」が語源である、としています。実際十月は古くは神嘗(新嘗)の月だったのですから説得力があります。同書では続けて出雲國造家の唱える説として、大物主神が八十萬神を引き連れて天に昇っていなくなった月だから「神無し月」とするもの、雷が鳴ることがなくなる=「雷無月」からとする説を紹介しています。

出雲國二之宮 佐太神社

出雲國二之宮 佐太神社

世界系神話類型「冥府下り」。ナギ・ナミ神話が意味する季節の移ろい

とはいえ、中世から近世にかけて隆盛となった国学による「神嘗」という稲作絶対主義の解釈を鵜呑みにするのも誤解の危惧があります。和風月名は稲作文化伝播より以前に起源を求めるべきだからです。

十月の異名は多くの名が伝わります。元冬(げんとう)、孟冬、始冬などの初冬をあらわすもの、時雨(しぐれ)月、小春月、雷無月、などの旧暦十月ごろの気候と関係したもの、玄英(げんえい)、建亥月(けんがいげつ)、応鐘(こたえるかね/おうしょう)などの漢籍由来と考えられるものなどです(「応鐘」とは中国音楽十二律の一音)。

しかしそんな中で目を引く月名は「御忌(おいみ)」でしょう。古神道を伝える卜部家の伝承では、神無月は日本神話の神々の母であり冥府の女王であるイザナミの命日の月だからとされています。なぜ十月はイザナミの神去った月とされているのでしょう。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追ひて、黄泉(よみのくに)に入りて、及(し)きて共に語る。時に伊弉冉尊の曰(のたま)はく、「吾夫君(わがなせ)の尊、何ぞ晩(おそ)く來(いでま)しつる。吾已(すで)に湌泉之竃(よもつへくい)せり。然れども、吾當(さき)に寝息(ねやす)まむ。請ふ、な視ましそ」とのたまふ。伊弉諾尊、聴きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆづつまぐし)を取りて、其の雄柱を牽き折(か)きて、采炬として、見しかば、膿沸き蟲(うじ)流(たか)る。(中略)時に伊弉諾尊、大きに驚きて曰はく、「吾、意(おも)はず、不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き國に到(き)にけり」とのたまひて、乃(すなは)ち急(すみやか)に走(に)げ廻歸(かへ)りたまふ。時に、伊弉冉尊、恨みて曰はく、「何ぞ要(ちぎ)りし言(こと)を用ゐたまはずして、吾に恥辱(はち)みせます」とのたまひて、乃ち泉津醜女(よもつしこめ)八人、一(ある)に云はく、泉津日狭女(よもつひさめ)といふ、を遣して追ひて留めまつる。

(『日本書紀』神代上 第五段 一書第六)

神去ったイザナミを追い、冥界にやって来たイザナギ。妻と再会し、なつかしく語り合いますが、「もう寝る」というイザナミの「寝ている姿を見ないでください」という請願を破って火をともし、腐敗した凄惨な妻の姿を目撃してしまい、あわてて逃げ帰って恨みを買う、という筋書きです。

この後、次々に来る黄泉の追っ手を逃れ、ついにはイザナミ自身が追いすがるのをイザナギは泉津比良坂(よもつひらさか)まで逃げ帰り、千人所引磐石(ちびきのいわ)で坂道をふさぎ、黄泉と現世とに結界を設け、イザナミが現世に現れ出ないよう封印してしまいます。

この神話は、冥府下りの類型として、世界各地に類似した物語が伝わります。特にギリシャ神話のペルセフォネーの物語は典型例です。大地母神デーメーテルの娘ペルセフォネーを冥府の王ハーデスが連れ去り妻としたのを、デーメーテルが嘆き悲しんだために世界中は生気を失ったので、天帝ゼウスはヘルメスを使いに出し、ペルセフォネーを帰してやるようハーデスに依頼します。

ハーデスは聞き入れますが、帰る間際に、冥府に実ったザクロを与えます。ペルセフォネーは12粒のうち4粒を食べてしまいます。神々の合議で冥府の食べ物を口にした者は冥府に留まらねばならないという取り決めがあったので、ペルセフォネーは冥府に帰属する運命から逃れられなくなりました。ただ、全てではなく1/3を食べたのみなので、それにあたる期間を冥府で、残りの期間を地上で過ごす、ということになりました。こうしてペルセフォネーが冥府に降りる期間は、デーメーテルは地上に実りをもたらすことを取りやめ、「冬」という不毛の季節がこの世にもたらされるようになった、という神話です。

ペルセフォネー神話が冬という季節の起源を語る物語になっているのと同様、イザナミの死が旧暦十月、つまり孟冬に設定されているのも冬の到来を象徴したものといえます。

史跡 黄泉津比良坂

史跡 黄泉津比良坂

「かむな」とは冬の到来を意味する?

旧暦十月十日の夜には「十日夜(とおかんや)」と称する民間行事があります。東日本、特に新潟、長野、山梨から北関東にかけて盛んで、春の耕作の開始時期から田畑に立って作物を見守ってきた案山子(かかし)を引き上げ、作物神の依代として、畑の作物や餅を供えます。また村落の子供たちが「藁鉄砲」と呼ばれる稲藁を束ねて縄でぐるぐると縛って棒状にした呪具をもち、村の道を叩いてまわります。

十日夜は別名「大根の年取り」と言い、西日本にはほぼ同じ行事が旧暦十月の亥の日の「亥の子」として伝わります。こちらは藁鉄砲ではなく、石で道を叩いてまわります。

藁鉄砲や石で道を叩く理由は、民俗学では「大地の精霊に活力を与える」などと説明されていますが、そうでしょうか。悪霊ならともかく、精霊(神)をひっぱたいて活力を与えるなどという乱暴な信仰はあまり聞いたことがありません。

古語で「なふ(なう)」とは「平ふ/均ふ/正ふ/直ふ」であり、でこぼこの土地を平らにならす、もとの状態に復元する、という意味になります。

十日夜の地面を叩く行事は、春以来土を掘り起こし、耕作をして大地を荒らした営みの終わりに、土を均(なら)し、自然本来の状態にリセット(掃除)する意味ととらえるべきではないでしょうか。

「神(かみ)」(カミ/クマ/カム)という和語の語源は、「被(かむ)る」「隠(くま)る」などの意味で、山や森、谷の奥や洞窟などの人の足が及ばぬ奥地に隠れていて、水や光などの霊力を送り込む力/作用のことでした。「山」「闇」「谷津」に隠れているカミは、卯月八日、村人たちの迎えに応じて里に降りてきて歓待を受け、田畑に留まり、耕作の手助けをすると信じられていました。そして十日夜、亥の日をもって、丁重に送られて山へと帰って行くのです。

つまり「神=隠+直る」で「かむな(かんな)」です。わざわざ里に降りてきて人のために手を貸していた隠=カミが、この行事をもって本来の隠れた聖所に「直る(戻る)」のです。

古語ではヤドカリのことも「かむな」と言います。巻貝の秘所にひきこもるこの小さな甲殻類のように、神が本来の見えない聖なる存在となる、その時期を「かんな」とあらわしたのではないでしょうか。そしてそれはそのまま、生物の活動が停止・低下する冬の季節の到来を意味したので、神々の母であるイザナミの命日も、この月になったと言えるのではないでしょうか。

参考・参照

日本書紀 日本古典文学体系 岩波書店

佐太神社 神在祭(お忌さん)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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