『万葉集』と歌風の変遷

https://kiebine2007.amearare.com/kazamaki.htm 【『万葉集』と歌風の変遷】 より

 

       一 緒言

 

 およそ四百年にわたる四千五百余りの『万葉集』の歌を、歌風の変遷という面からみようとするには、その後のどの歌集の場合よりも周到な注意が要ると思う。それは短歌だけでなしに、長歌と旋頭歌と連歌とを含んでいるとか、歌数が非常に多いとかいう点も大いに関係はしているけれども、もっとも重要な点はその時代にある。『万葉集』中でもっとも古い仁徳帝の磐姫皇后の作(巻二・八五-八九)は、『日本書紀』の紀年に従えば西暦四世紀の前半期に属しているはずで在るし、もっとも新しい大伴家持の天平宝字三年(759)正月一日の歌(巻二〇・四五一六)は八世紀の半ばにあるが、この間にはさまれたおよそ四百年間は、文学史的にみてもっとも厄介な問題を含んでいる時期に当たっているからである。それは文学の発生をこの時期において想定しなければならぬということに外ならぬ。だとすれば、『万葉集』の中には文学以前の作品が交っているということになるであろう。われわれは『万葉集』の中で、原始歌謡から創作的または文学的詩歌に変異する時期を捕えなくてはならない。

 しかしまた見方によっては、『万葉集』の歌はすべて文学的詩歌であって、原始歌謡ではないともいえるであろう。なぜならば、今日みられる『万葉集』の巻々は、これまでの研究のほぼ一致しているように、もっとも古いものでも奈良朝の編纂であろうと考えられるし、その材料になっている山上憶良の「類聚歌林」はもとよりとして、(212)「柿本人麻呂歌集」などにしても、それが天武朝以前にまで潮りうるとは考えられないであろうから、資料になった文献もまた同時代のものだといえるわけである。それで、『万葉集』の巻々が編纂された当時、その編纂者はその歌を別にじぶんたちの時代の歌と別のものだなどとは考えていなかったであろう。時代の新古はわきまえていても、質的な相違があるとは思ってもみなかったであろうということが、まず想像できるからである。磐姫皇后《いわのひめのおおきさき》の歌とされているものが原始歌謡――それはただちに民謡といいかえても危険はない――であってもなくても、それを皇后の作として記載した編纂者は、それを特定の個人の作として疑わなかったのであるから、すくなくとも万葉時代にはそれは民謡とか何とか区別立てることもできずその要もなかったわけである。すべては同じ性質の歌に過ぎなかったのである。つまりみな文学的詩歌だと思っていたのである。同じことは『古事記』と『日本書紀』とにみられる二百余りの歌についてもいえるのであって、それらは今日普通に記紀歌謡といわれており、それはそれで不都合はないのであるが、この場合も、記紀の編纂者はそれらの原始歌謡的な歌をいずれも特定個人の作としてなんらの不都合を感ぜずに取扱い得たのであるから、これもまた奈良時代においては、創作歌とか民謡とかと区別だてる意識もなく、その必要もなかったことを示しているものと考えることができるであろう。

 はたしてそうであるとするならば、それは『万葉集』の歌には原始歌謡的な性質がなお多分に残っていたために、奈良時代の人々が、みずからの歌と、大化前代ないし推古前代の歌との区別を意識することができなかったのだということを意味するように思われる。そして、『万葉集』の歌になお民謡の性質が多分に存している点については、すでに高木市之助教授が和歌の古代性について述べられたとき、周到に取上げておられるのであるから(1)、ここではそれに譲って再び考えなおさなくても、論証を回避したことにはならないであろう。

 ところでそれならば、『万葉集』の歌が文学的詩歌でないかというと、そういうことは決していえないのであって、それは立派に文学である。原始歌謡と文学との区別を、自然の一部としてしかみられない生活に直接に支えら(213)れているか、自然に対立する文化的所産に支えられた生活の上に花を開いたかによって立てることが一応できるならば、万葉の歌は立派に文学でなければならない。文学であるところの万葉の歌に民謡的性格がひろく存在しているのであるから、これは原始性が残存しているとも、停滞しているとも、重層しているともいえるであろう。そうした重層停滞のさなかにあって、原始歌謡と文学との区別をそれほど意識しなかった人々によって、奈良時代の個人的創作と一つ並みの取り扱いを受けてしまっている全作品を新古の順位にしたがって、ここから以前は原始歌謡であり、ここから以後は文学であるという風に、歴史的な実年代と照らし合わせていい切ることはとてもできることでない。案外古い時代の作とされるものが非常に新しい歌と見ねばならぬかもしれず、また個人の作者名の明記されている作でも民謡としか受け取れない作もあるかもしれない。とくに時代の古いところになると、そうした点の問題は困難であって、歴史的な実年代に照応させること自体が不可能なことになってくることは十分考えに入れていなければならない。以上のような点に多少くどすぎるくらいにかかわった理由はつまり『万葉集』の歌風の変遷を区切るのに、歴史的に実年代に即して考えることは、多少とも無理であり、時には無意味にさえなり兼ねない、ということをいいたかったために外ならない。

 同じことは、大化ないし天智朝よりも以後の時代、いわばその作品をすべて文学と思いこんで扱ってもほとんど危険を感じないですみそうな時代についても同じように考えられるであろう。たとえば人麻呂の歌の特徴は、斎藤茂吉氏の人麻呂研究以来(2)、混沌とかデイオニゾス的とかという言葉であらわされることが普通になっているが、柿本人麻呂という個人名によって標記された全作品が、大伴家持の全作品とくらべて、なぜ混沌という点で特色づけられるかということは、大切な問題でなければならぬ。個人の創作として標記されているにかかわらず混沌が感じられるのは、その作品が個性的な一個の個人の創造として割り切れないものを持っているからのことで、個人の名が冠せられているにかかわらず、歌は個人のものになっていないということを意味するかも知れないであろう。し(214)かしそうだとするならば、人麻呂という個性が偉大であったとかなかったとかということと混沌ということとはあまり関係のないことで、むしろかれが孤立した個人的主体であるよりも、より同類の中の一員以上の者でないために、つまり個人としての名を持ちながらより類同約であり非個性的であるために、その作品が混沌と呼ばれるような性質を生み出してきたのだということになるであろう。高木教授の表現にしたがえば舎人(3)人麻呂の歌だということになる。人麻呂という孤立した個性を連想させる個人名を取り除いて、天武天皇の舎人部の歌としてみるならば、創作主体と歌の性質との矛盾は綺麗に解消することが感じられるであろう。

 としたところで、そうした現象は人麻呂で完全に消え去るであろうか。もちろん壬申の役をともにした天武天皇とその舎人たちというような関係はその後には存しないであろう。しかしその後には、ただちに単なる個人の抒情が成立したとみることはできない。とともに、天武朝の歌はすべて人麻呂的であったといい得る条件もまた存しない。人麻呂の同じころにも、より集団的でない歌もあり得たであろうし、人麻呂以後にも集団的な歌はなおあり得たであろう。ここでも歴史の実年代によって歌風の変遷を区切ることは、やはり多くの無理を予想させるのである。

 もっぱらそのような無理を避けるための手段として、ここでは発展段階的な見方で区切りを立ててみようと思うのである。

 発展段階的な見方というのは、原始的と思われる形から、もっとも後発的と思われる形まで、万葉歌の歌風の上でいくつかの段階を区切って、その各段階は歴史的に順を追って発生してきたものとみて、それによって歌風の変遷をいちおう整理しようとするものである。その各段階は次の段階が発生すれば前時代の段階として入れ代わりに消滅して行くとは限らないのであって、むしろ後の時期まで重なり合って残存したり、次の段階の歌においても、その特色の一部として溶けこんでいたりするのが普通であって、実年代によって歴史的に区分してしまうことは事実上困難である。だから発展段階的に見ようと思うのであるが、ある段階がもっとも優勢になった時代というもの(215)はおのずから決めることができるのであるから、この見方に立ったとしても、ぜんぜん歴史的な年代から離れ切ってしまうということは起こらないのである。

 そうした見方から、ここでは『万葉集』に含まれた全作品を歌風の変遷の上で次のように整理してみることができると思う。

  1.原始の段階――民謡的

  2.第二の段階――混沌的

  3.第三の段階――開化的

  4.第四の段階――悒情的

   注1 「短歌の古代性」(『近代短歌講座』第一巻、後に岩波書店刊『古文芸の論』に収む)

    2 『柿本人麻呂』(岩波書店刊)の中「第四、柿本人麻呂私見覚書」

    3 「古代文芸と社会」(河出書房『日本文学講座』第一巻、後に岩波書店刊『古文芸の論』に収む)

 

   二 原始の段階――民謡的――

 

  1 君が行《ゆき》日《け》ながくなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか得たむ(巻二・八五、磐姫皇后、天皇を思ひて作りませる歌四首)

  2 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕《ま》きて死なましものを(巻二・八六)

  3 在りつつも君をば得たむうち靡く吾が黒髪に霜の置くまでに(巻二・八七)

  4 秋の田の穂の上《へ》上に霧らふ朝霞いづべの方にわが恋やまむ(巻二・八八)

 右の四首はいずれも仁徳帝の磐姫《いわのひめ》皇后の作として巻二の巻頭に載せられており、『万葉集』中で日附のもっとも(216)古いものである。これが磐姫皇后の作ということはどういう記録によったかわからないが、右の中の(1)の歌の後に「右の一首の歌は山上憶良臣の類聚歌林に載す」という、いわゆる左注が附けてある。「類聚歌林」には皇后の作といっていたのである。ところが『古事記』では男浅津間君子宿禰命《おあさづまのわくごのすくねのみこと》すなわち允恭天皇の皇太子木梨軽王《きなしのかるのみこ》が同母妹の軽大郎女《かるのおおいらつめ》またの名は衣通郎女《そとおしのいらつめ》に※[(女/女)+干]《たわ》けて伊予の湯に流されたとき、軽大郎女が恋慕にたえかねて後を追ったときの歌とし、歌も

  5 君が行《ゆき》日《ゆきけ》ながくなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ

とあって、すこし異同がある。それで、巻二の編者は右の四首のあとにつづけて九〇番目にこの歌を載せた上で、注をつけている。その大意を取れば、この歌は『古事記』と「類聚歌林」とで説くところが同じでないし歌の作者も異なっている。それゆえもっとも信ずべきものとして『日本紀』を検するといって、仁徳紀の皇后関係の記事と允恭紀の木梨軽太子関係の記事とを引いた上で、「今案ずるに二代二時この歌を見ざるなり」(原漢文、以下万葉からの引用はすべて仮名交り文とする)、すなわち『日本紀』にはどちらの記事にもこの歌はみえていないと断案を下しているのである。『日本紀』にもみえない二つの異伝が他の記録にみえるというので、編者も不審を残したのであろう。それから(3)の歌についても、この四首の後に八九番の歌として

  6 居|明《あか》して君をば待たむぬば玉のわが黒髪に霜は降るとも(巻二・八九、或本の歌に曰く)

の歌を載せ、「右の一首古歌集中に出づ」という左注を附けている。歌に小異があるが、編者は同じ歌の異伝とみたか類歌と見たかで、ここに並べかかげたのであろう。

 同一の歌についてこうした異伝を伴うということは、今日からみれば考えさせられる問題である。これらの歌のいずれの伝承がより正しかったかは今から決めることは困難なのであって、そのいずれもが伝承として同等の権利を持つといいうるのである。それらの歌に伴った伝承をそのまま信ずるにしても、仁徳朝や允恭朝というよう(217)な時代に、ただちに記録として定着し、その記録が完全に伝えられたのであれば異伝の生じることも考えられないから、異伝があるということ自体、これが文字に固定する前の自由で長い伝承の授受の期間を想像させるのである。そして、記紀の背骨となった皇室の伝承が整理結集されたのが津田左右吉博士の説のように欽明朝ごろであった(1)ということが想定されるならば、すくなくともこの歌群の中の一首が磐姫皇后でなく軽郎女の作であるという『古事記』の伝承が決着してからも、相当の時間を経過してきたといえるわけである。それにもかかわらず、その『古事記』の伝承とは別に磐姫皇后作とする異伝があったとすれば、それについては種々考えなければならぬものがあろう。論証は省くが、つまり歌そのものについてさまざまの伝承が作られたのではなくて、種々なる伝承に同一の有名な歌が採り入れられたのであるとみるべきものと思われる。だとすれば、『古事記』の軽郎女の作というのが後世の附会であるように、磐姫皇后の作とするのも後世の虚構である。ということは、この歌の個人的な歌主は不明であることに外ならない。それについて、思い合わされることがいま一つある。それは『古事記』は軽太子と軽郎女との事件に関して問題の歌も含めて十三の歌を載せているが、それらの歌の一首は志良宜《しらげ》歌、二首は夷振《ひなぶり》の上《あげ》歌、一首は宮人振《みやぴとぷり》、三首は天田振《あまだぷり》、一首は夷振の片下、《かたおろし》二首は読歌《よみうた》と、その歌謡としての名称を記されている。それらの曲名は平安朝に書写された『琴歌譜』にみえるものもあって、曲名であることは確実である。『古事記』はこれらがいずれも歌われる歌曲の歌詞として伝承されたものであることを明らかに伝えているわけである。問題の一首については名を載せていないが、それは軽大郎女の追慕の歌として採っているためであったかもしれぬ。『古事記』の允恭天皇の段の歌の扱い方からみて、この歌一首だけは歌謡でないことを主張しうる余地はないようである。

 そのような歌を含む『万葉集』巻二の巻頭の四首の歌群は、同じ意味において磐姫皇后作とすることに危険が伴うとともに、民謡であったろうということがより自然な判断であるだろう。そして別の立場から、つまり歌風そのも(218)のからみて、これらが民謡であることを証明しておられるものに、すでに澤瀉久孝博士(2)や森本治吉博士(3)の説もある。そのようなわけで、これらの作が民謡であることを否定せねはならぬ理由は今はほとんど存しないと思うのである。

 これら(1)(2)(3)(4)四首が民謡であろうとされるゆえんは、そのいずれもが、特定の個人の、特殊な事情によって限定されていないことである。しばらく訪れてこない相愛の異性、それもおそらく男性を、家に留まった女性が思慕する自然の情だけを表現している。これはほとんどまったく本能的な吸引の情以上をなにも表現していない。したがってこれは甲または乙の個人の歌であるを要しない。たとえ個人が作った歌であるとしても、個人の特殊な事情や心の陰翳はなにもあらわれていない。もしこれで十全の自己表現をなし得たとするならば、その人は個人性を把持していない人間であって、文化人でもないし、まして近代人でもない。自意識の過剰に悩んだ近代の作家がたまたまこういう歌に遭遇して、そのなんらの分裂を感じさせないひと息の表現を「叫び」と感じようとも、それは自由であるが、その人がこのような歌しか作り得なかったとすれば、それで十全の自己表現を得たとは信じえなかったであろう。この歌の率直さ、線の強さは、個人的な意識の分化があり得ない生活に支えられているのである。そうした生活はなお原始的社会の様相にある生活を出ないはずである。

 ただこの四首の短歌を組み合わせてみると、一見連作短歌のような効果を文化人的読者にも与えるであろう。迎えに行こうか待っていようか。いやこんな苦しい思いで恋いつつあるよりは追っていって岩を枕に死んだがましだ。しかしそれもできぬ女の身ゆえ、黒髪に霜のおくまでも待っていよう。ああ秋の田の穂の上をさえぎっている朝霧をどちらの方に払いようもないように、自分の恋の苦しみはどう払いのけたらよいだろう。しかしくり返し読み返していると、この四首を組み合わせて磐姫皇后作に仕立てた伝承者の意図を裏切って、水田農耕にあけ暮れていた原始農村の景況が生き生きとして蘇ってくるであろう。(4)の歌の巧みな譬喩を味わった読者は、逆に(3)の歌もまた農村の歌であることに気がつくであろう。それは皇后が黒髪の白髪となるまでも待とうと、半ば諦め半ば振り切り(219)がたい思慕にさいなまれつつ歌ったものではなくて、こうした門辺にたたずんで待っていよう、夜は更けてわが黒髪の上に霜が置くまでもという、異性への吸引に身を任せている田園の若い女の夜這いの男性を待つ歌である。(3)(4)がそのような古代田園生活における性の吸引の歌であるとするならば、(1)(2)もまた同等の素朴性において読みとることができるであろう。

 古代田園の単純な労働のなかでは、心身を駆り立ててやまない性の衝迫は、人生の夜明けであり、最高の高揚であったに違いなく、すべての農耕儀礼が性的意味を伴ったことも、人類全体の原始的な段階に共通した特徴であった。

  7 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の国に さ結婚《よばひ》に 吾が来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉《きぎし》とよみ 家つ鳥 鶏《かけ》も鳴き さ夜は明け この夜は明けぬ 入りて且眠む この戸聞かせ  (三三一〇)

     反 歌

  8 隠口の泊瀬|小国《をぐに》に妻しあれば石は履《ふ》めども猶ぞ来にける(三三一一)

  9 隠口の 長谷《はつせ》小国に 結婚《よばひ》せす 吾がすめろぎよ 奥床に 母は陸《ね》たり 外床《とどこ》に 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出で行かは 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも 念《おも》ふごとならぬ 隠《こも》り嬬《づま》かも(三三一二)

     反 歌

  10 川の瀬の石ふみ渡りぬばたまの黒馬《くろま》の来夜《くよ》は常にあらぬかも(三三一三)

 右の四首は巻十三の中の、問答と称する部類の中にみられる歌である。この部類の歌はすべて間と答とを具備しているのではないが、男女いずれかがその情を相手に呼びかけている形のもので、問答というのはその意味におい(220)て名づけられたのであろう。右の例はその中で問と答とを兼ね備えた例である。

 呼びかけは一般の読者、ただしくば鑑賞者に向けてなされているのでなく、ある特定の相手に向けてなされている。その意味において、呼びかける者と呼びかけられる者とは、ともにその歌を現実に歌いかけた者または歌いかけられた者ではなく、創作に当たって予定されたある男と女とである。いわば作者はある男と女との問答として虚構したのであって、その歌を呼びかけ合っている男女はやはり歌と同様に作者によって仕組まれた虚構の、あるいは架空の存在である。その間答はそれゆえだれかによって謡われるとき、劇中の人物の問答のような形で聞き手に伝えられる。これは前の例に較べると相当複雑な、手のこんだものである。単なる原始歌謡というよりは、劇的な科白に伴った歌であったかも知れない。

 しかしこれがある特定の個人の特殊な意識ないしは事件を歌うところまできていないことは明白であって、一般的な夜這いの主人公である男性と女性とのそれぞれの状況を表現しているに過ぎない。だから発想の法式がどのように手がこんでいたにしても、そこに表現されたものは前の磐姫皇后作とされた(1)(2)(3)(4)の短歌の場合となんら変わるところのないものである。これらの歌はその形の複雑さにもかかわらず、このような作品を創作した者も、これを味わった者も、ともに原始歌謡の生産された、その同じ社会に属していたことを指示しているものとして解すべきである。

 この歌の発想が、『古事記』上巻にある大国主神《おおくにぬしのかみ》と沼河日売《ぬなかわひめ》との問答の歌とまったく同じであることも注意してよいであろう。それは五首からなる問答であるが、そのうちの二つだけを採って、比較のために例示だけして置こう。

 大国主が高志《こし》の沼河日売《ぬなかわひめ》を婚《よば》いに訪れたときの歌は、

  11 八千矛《やちほこ》の 神の命は 八島国 妻|求《ま》ぎかねて 遠々し 高志の国に 賢女《さかしめ》を ありと聞かして 麗女《くはしめ》(221)を ありと聞こして さ婚《よば》ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も 未だ解かずて おすひをも 未だ解かね 嬢子《をとめ》の 寝《な》すや板戸を 押《お》そぶらひ 吾《あ》が立たせれば 引こづらひ 吾が立たせれば 青山に 〓《ぬえ》は鳴きぬ さ野つ鳥 雉《きぎし》は響《とよ》む 庭つ鳥 鶏《かけ》は鳴く 慨《うれ》たくも 鳴くなる鳥か この鳥も打ち止《や》めこせね いしたふや 天馳使《あまはせづかひ》 事の 語り言《ごと》も こをば

それに答える沼河日売の二つの歌の一つは、

  12 青山に 日が隠らば ぬば玉の 夜は出でなむ 朝日の 咲《ゑ》み栄《さか》えきて 栲鋼《たくづぬ》の 白き腕《ただむき》 沫雪の 弱《わか》やる胸を そ叩き 叩きまながり ま玉手 玉手差し纏《ま》き 股長《ももなが》に 寝《し》は宿《な》さむを あやにな恋ひきこし 八千矛の 神の命 事の 語り言も こをば

それで、その夜は逢うことなく、その翌夜大国主は思いをとげたことになっている。他の歌は略すが、この問答歌の、ことに(11)の歌の何句かは、(7)の歌の何句かと類似のものであるばかりでなく、これらの五首の問答歌の後に『古事記』の筆者は「これを神語《かむがたり》と謂ふ」と注しているのであるが、それは雄略天皇の条の長歌の注記に天語歌《あまがたりうた》とあるのと思い合わせると神語歌《かむがたりうた》とあるべきものの歌が脱落したか、省略されたかに違いない。そして、それらの名で呼ばれる歌の終わりはだいたい「ことの語り言もこをば」で終わるのが定例となっているのであって、その句の解は今日もなお決定はし兼ねるものであるが、だいたいにおいて伝承した歌謡である、語部《かたりべ》の伝えた歌であるという意味であることは誤りがないであろうから、けっきょく歌自身がそれを宣言しているわけで、(1)(2)(3)(4)の歌とはまったく別の種類に属するものであることは確実であるが、しかし個性的な抒情詩といったものであり得ないことも疑いのないものである。(11)(12)がそのような歌であるとすれば、それと類縁の関係にある(7)(8)(9)(10)の問答歌もまた、たとえ「ことの語り言もこをば」の末尾句を持っていないにしたところで、なんらか似通った伝承歌謡であったことは認めざるを得ないであろう。そうした例は外にも『日本書紀』継体紀七年九月の条に、安閑天皇がまだ勾大(222)兄皇子《まがりのおいねのみこ》といわれたとき、春日皇女《かすがのひめみこ》を聘して、月夜に清談して天の暁《あ》けることを知らず、たちまち一夜の感懐を言に形《あらわ》して口ずから唱われたとある歌が、まったく同じ手の伝承歌謡だったに違いないと思われるものである。しかしそのときの春日皇女の唱和は問答としてはふさわしくないもので、種々問題もあるからここには省略する。とにかくに、このような歌が原始演劇になんらかの関係を持ったろうというような推測も、それとして成り立つように思う(4)。

 いま一つ道行の原始型とみられるものを注意しておこう。その一つ

  133 百城《ももき》とし 美濃の国の 高北の 八十隣《くくり》の宮に 日向《ひむかひ》に 行きなむ宮を ありとききて 吾が通道《かよひぢ》の 於吾蘇《おきそ》山 美濃の山 靡けと 人は踏めども 斯く依れと 人は衝《つ》けども 意《こころ》なき山の 於吉蘇《おきそ》山 美濃の山(三二四二)

巻十三にとくに多く集められた道行の長歌は、珍しいものであるが、その類型はやはり記紀歌謡にもみられる。『日本書紀』巻十六武烈天皇前紀に、その太子であったとき、聘《め》そうとした影媛《かげひめ》が、すでに平群真鳥《へぐりのまとり》臣の子の鮪《しび》の※[(女/女)+干]《たわく》るところとなっていたのを知って、ついに鮪を仆すにいたるまでの経緯が記されている。その中に影媛が鮪の殺されるところへ逐って行って、すでに殺されたのをみて、泣き悲しんで歌った歌というのが載せてある。それは

  14 石上《いそのかみ》 布留《ふる》を過ぎて こも枕《まくら》 高橋過ぎ 物多《ものさは》に 大宅《おほやけ》過ぎ 春日《はるひ》 春日《かすが》を過ぎ 嬬隠《つまごも》る 小佐保《をさほ》を過ぎ 玉笥《たまけ》には 飯《いひ》さへ盛り 玉〓《たまもひ》に 水さへ盛り 泣き沾《そぼ》ち 行くも 影媛あはれ

このような道行は相磯貞三氏も説かれるように(5)、後世『梁塵秘抄』の今様物尽が発達し、軍記物における各種の道行、宴曲の海道下り、各種の中世紀行文の海道下り、それから謡曲のはじまりにほとんど例外のない道行、さらに浄瑠璃の道行と発展して行くことはたしかであるが、それはしばらく措いて、道行がそのような発展の仕方をしたところにも、その原始型が民謡であったことを暗示するものがあろう。それは古代の交通路線の地名をつづるのであるから、大方は旅行者のだれでもの体験に過ぎず、現代詩の中に伍した鉄道唱歌などよりもはるかに文学から遠(223)い原始的なものであった。影媛が愛人の死屍を前にしてこのような発想をしたとすれば、それこそ原始古代的な思惟または感情の表現と言わねはならず、またその歌がまったく別のところから生まれたものであったとしても、それを不思議とせずして影媛の悲嘆の物語に附会しえた人々もまた、その連想や感情の上において、ずいぶん今日の人間とかけはなれた世界にあったとしなければならぬ。そして、このような発想の技法は、歌そのものが次第に個人の生活に密接なものとなって行くにつれ、当然不適当なものとして振り捨てられて行ったであろう。すでに

  15 味酒《うまざけ》 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際《ま》に い隠るまで 道の隈《くま》 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放《さ》けむ山を 情《こころ》なく 雲の 隠さふべしや(一七、額田王近江国に下りし時、作れる歌)

この歌は道行ではない。まして巻二の一三一番、柿本人麻呂が石見国から妻に別れて上りくるときの長歌に「玉藻なす寄り寝し妹を、露霜のおきてし来れば、この道の八十隈《やそくま》毎に、万《よろづ》たびかへり見すれど、いや遠に里は放りぬ、いや高に山も越え来ぬ、夏草の思ひ萎《しな》えて偲《しの》ぶらむ、妹が門見む靡けこの山」と歌うところは、もちろん道行ではない。いずれも原始の道行の発想に筋を引いているようにみえるかもしれぬけれど、表現の関心の焦点はすでに隔たりきた旅の出発点に向けられている。そこには旅に次々とうつり行く土地そのものへの関心はみられない。移りゆくものへのそのような童心ともみられる吸引は、歌を詠嘆の文学として成立させるような主体の発生するところでは、おのずから発展変化してしまわねばならない。

 右に原始段階を指示する民謡的な三種類を挙げてみたが、もとよりこれで全部を尽くしたとはいえないし、そのようなつもりもまったくない。しかし、これを強いて歌風の変遷という点に立って、理窟をつけようとするならば、理窟のつけられなくもない、ある事実には触れ得たのではないかと思う。それは、『万葉集』の盛期の歌が、そこから生長してきたであろうところの原初的な形態である。この形態は年代的にいってもっとも早い時代を支配した(224)ことは確かであって、そこから次の段階が発生してきたのであるが、しかし次の段階が成立してからも、社会のある層には、なおそのまま存続したであろうし、さらに次の段階の歌の中に溶融して、その歌風を規定もしたとみるべきであろう。さてこの第一段階の背後には大化前代の氏姓制度の社会があったであろう。そして大化改新は氏姓制度そのものに対しては直接の関心を示さなかったのであるから(6)、氏姓制度社会の崩壊はきわめて緩慢で、平安時代の中期に及ぶころまでにわたっていた(7)。歴史の表面にきららかに浮かび出たところの、政治機構の変革や、英雄的な壬申の乱や、権力者たちの闘争や、政治面での浮沈や、そうした目まぐるしい動向は、もちろん氏姓制度を崩壊させる因となり果となりあったものではあったが、崩壊過程そのものは、もっと地下水脈のように静かに、徐々に進行していったのである。それと歩を合わせて、万葉歌の原初的形態もまた、残存しうる地盤を保有していたわけである。そして万葉歌の種々な歌風は、新しい時代条件のもとに発生して行く一方に、この原初の形態をながく歌自体の中に溶解存続させることになって、そこに独自の古代的な特色を生ぜしめたとともに、その残存の程度のいかんということも、また次の段階における歌風の微妙な相違を生ぜしめる一つの条件となったのである。

 右の(1)(2)(3)(4)のような作は、あまり手をかけなくても民謡であることがうかがわれた。そこでは個人としての作者名が記されているにかかわらず、個人の創作でなければならぬどのような性質もまだ現われてはいなかった。そういう点では作者の不明な(7)(8)(9)(10)や(13)などのような長歌においても同じことである。民謡的段階における歌風は一言でいえば素朴ということであり、非個性的ということである。それは別言すれば情感の表現、心理の陰翳の表現でなく、状況の直叙である。それは心理的抒情には至らないものであって、原始芸術に共通する素朴な写実主義である(8)。その中で(1)(2)(3)などの方は正述心緒の歌、(4)は寄物陳思の原型となるとみられ、(7)(9)(13)などは叙事的であって、本来抒情詩に発展してゆくべきものでなく、むしろ集団の行事、祭式などに附随した歌であり、語部または祭祀官によって伝えられることが正統であるような類のものである。(7)(8)(9)(10)と同型の大国主や沼河日売やの長歌(225)が『古事記』で神語《かむがたり》――これは前に触れたように神語歌とあるべきらしい――と呼ばれていることとも思い合わすことができる。(『古事記』雄略天皇の条の三重《みえ》の采女《うねめ》と皇后と天皇との長歌三首は天語歌となっていて、形式はよく似ている。また(1)の異伝としての(5)の歌を『古事記』に載せてあるすぐ次の長歌二首は読歌《よみうた》と名づけられていて、その類型は『万葉集』でも第二段階以後の作に出てくるが、そういう風に神語歌、天語歌、読歌などと呼ばれていた点からも、長歌系は抒情詩に発展すべきものでなくて、祝詞《のりと》や誄やに縁を引いて行くはずのものであった。)長歌が自由な抒情詩として滅びてゆくことは、発想の上からいっても、その管理された性質の上からいっても当然であった。

    注1 『古事記及び日本書紀の新研究』

     2 『万葉集講話』(出来島書店刊)

     3 『文学の発生と伝統』(文化書院刊)

     4 相磯貞三氏『記紀歌謡新解』三四-三五頁。

     5 『記紀歌謡新解』五四一頁。

     6 井上光貞氏『日本古代史の諸問題』

     7 阿部武彦氏「氏族制度の崩壊と氏族の物語」(『国語国文研究』第2号・昭和二六年二月)

     8 グローセ『芸術の始源』(岩波文庫)


(以下略)

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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