https://www.kyoiku-press.com/post-197645/ 【俳句の不思議、楽しさ、面白さ そのレトリック】より 武馬 久仁裕 著
技法で読み解く古今の名句
副題にある「レトリック」を辞書で引くと、「修辞法、文芸表現の効果を高めるための技法」とある。わずか17音で表される日本独自の文芸ゆえに、これらの技法が凝縮されていることは理解できる。併せて、味わう側の高い鑑賞能力が求められるのも当然のことであろう。でも現実は…。
俳句を楽しみたい、でも、どうやって? 変な解釈をして笑われるのも嫌だ。そんなふうに考える、評者をはじめとする多くの同志に朗報である。本書という強い味方が現れた!
本書の出版意図を著者は前書きで明言している。「俳句のレトリックから俳句を読むと、俳句の不思議さ、面白さがよく見えてきます」と。まさにその通り、看板に偽りなしだ。本書では29個の視点を項立てし、古今の名句を解釈しているが、読みながらうなずいている自分に気付いた。
分かりやすいものでいえば、例えば、漢字、ひらがな、カタカナ等の表現だ。一般的に漢字を使うところを、ある句ではあえてひらがなを使っている。なぜか。本書で首肯できる。専門的なものでいえば、擬人法、倒置、荘厳等がある。なぜこの句はここで倒置されているのか、この句を荘厳というレトリックで解釈するとこうなるのか等が理解できる。
俳句の辛口批評で人気の某番組も見る楽しみが増えた。
(1836円 黎明書房)
(八木 雅之・元公立小学校校長)
https://syamato.hatenablog.com/entry/20110521/1305942047 【俳句とレトリック】より
やりかけのことがいっぱいあって、レトリックのことを考えるのは封印していたのだが、ゴールデンウィーク中に考えたことを、少し書いてみたい。
俳句がメトニミー的な連鎖から成り立っていることを、レトリックのことを学び始めたときにどこかで読んだ気がするのだが、典拠を思い出せない。ネットで検索をしてみると、それなりの議論はあるようなのだが、あまりにも当たり前すぎるのか、そのことを直接的に論じているものは、今のところ見つけていない。俳句のことは、まったくの無知なのだが、レトリックの観点から考えてみたい。
「古池や 蛙(かわず)とびこむ 水の音 芭蕉」という句を例にするならば、古池に臨んで、ポチャリとでもいう水の音を聞いたことで、「古池」と「水の音」が並列されている。ここで取り上げたいことは、そのような対象の隣接性である。この「古池」で、作者が経験(見聞き)したことは、いろいろあっただろうが、そこで「水の音」を切り取ることで、まさしくこの作者が見た風景や雰囲気全体を描き出していることになる。おそらくカエルの姿は見えていないのだろうが、誰もがかつては経験したことのあるカエルの記憶とも結びついて、一瞬の水の音に収斂することになる。
このような隣接性の連鎖が強固になって、ポチャリという水の音を聞かせられただけで、カエルやこの芭蕉の出会った風景をイメージするようになると、メトニミーということになるのだろう。ここで考えたいことは、メトニミーとなるかどうかは別にして、隣接関係が俳句にとっていかに重要であるか、ということである。
また中学校で習った記憶のある俳句を例に挙げるなら、「五月雨(さみだれ)や 大河を前に 家二軒 与謝蕪村」についても、大河と家二軒が隣接関係にあることは明白だろう。そこに、五月雨が全体的な状況を描いていて、おそらく長雨で水かさが増した大河と、ちっぽけな家との対比を強調しているのだろう。
そう言えば、俳句には“写生”という理屈があったことを思い出す。大河と家二軒は、風景全体の中から、特に強調して取り出されたものだろう。その他のものはそぎ落とすことによって、却って、作者が見たその時の風景をクローズアップすることになっている。実は、大河と家二軒は、風景全体の部分でもあり、全体と部分とのメトニミーを構成していることにもなるだろう。
そんなことを考え始めると、与謝蕪村は画家でもあったことを、学校時代に習ったのを思い出す。まさに、上の俳句は、水墨画かなにかの日本画そのものであり、日本画の特性は、メトニミーにあるのではないかと思えてくる。そう考えると、西洋画はメタファーそのものではないか。写実かなにかで、いかにも人間そっくりのものを描きながら、なんらかの神話やキリスト教の話をほのめかしている。そんなところまで話が拡散していく。
もちろん、対象が隣接関係になるだけでなく、対象とそれを観察している「私」が隣接関係になることもある。「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり 小林一茶」ならば、「私」である一茶が明示されているし、「春の海 ひねもすのたり のたりかな 与謝蕪村」ならば、春の海がのたりのたりとしていることを、ひねもす眺めている蕪村がいるのだろう。
話が変わって、ネットを検索していると、俳句の季語は提喩(シネクドキ)であると論じている人がいるらしい(外山滋比古:『日本の修辞学』)。その原著には当たってはいないのだが、これも、非常に納得がいく。上の俳句でいえば、蛙や五月雨という特定の語が、季節というクラスに属している。さらに、「古来、この季語を入れた有名無名の句をすべて背後に背負う」ことになる。そう考えると、俳句の季語の大きな意味(秘密?)が見えてくる気がする。
隣接関係で述べられた事柄は、作者が見た特定の事象である。そのような個人的体験が、誰にでも共有できる一般的な叙述となるのは、季語のおかげということになる。季語が、誰もが思い浮かべるありふれた季節の単語だからこそ、またその他の俳句でも使われて来た普遍的な感覚を共有しているからこそ、俳句に取り上げられた極めて個人的な特定の事象を、普遍化あるいは一般化する役割を担っていることになる。つまり、メトニミーで考えられる特定の隣接関係を、シネクドキによる包含関係で、一般的な感覚へと昇華していることになる。
もちろん、すべての俳句が上に述べたことに必ず当てはまると主張するつもりはない。「侘び」・「寂び」などといった抽象的な概念に結び付けられるのならば、句全体として、メタファーを強調しているものもあるだろう。
例によって、自分の思いつきを楽しんでいるうちは大胆なことが言えて、多くのことを学んで行くうちに、言えることが少なくなるのだろう。俳句の理論書の一冊でも読めば、ここで触れたようなことはすべて書かれていることかも知れない。それでも。今の時点で思いついたこととして、書いておきたい。
https://syamato.hatenablog.com/entry/20110524/1306234655 【俳句とレトリック(付け足し)】より
俳句とレトリックのことで検索していると、「春雨やものがたり行く蓑と傘 (蕪村)」という句が出てくる。この句は、佐藤信夫の「レトリック感覚」でも触れられている。そこでは、細かな説明はされていないが、その前の文脈で、芥川龍之介の「羅生門」の「女のかぶる市女笠や男の揉烏帽子」というかぶりもので、人(女と男)を表すことに言及しているから、蓑と傘が、それぞれを身につけた人を示す換喩(メトニミー)の実例として、述べられているのだろう。
しかし、俳句全体からすれば、蓑と傘が人を示すということを指摘するだけではつまらないだろう。むしろ、春雨の中で、蓑と傘だけを、敢えて強調して取り出したことに意味があるのではないか。蓑と傘が、風景全体に対するメトニミーとなっている。このブログで前回述べたことに従うならば、蓑と傘は蕪村が取り出した特定の隣接関係である。蓑と傘に必然性があろうが、偶然であろうが構わない。とにかく蕪村がそのふたつを殊更に取り上げただけである。ところが、そのような特定の事象が、春雨という季語(シネクドキでもある)を媒介することによって、その季語にまつわる場や風景に組み込まれることになり、誰もが思い浮かべることの出来る情景を描いた句に仕上がっている。
ここからさらに、蓑と傘になんらかの象徴的意味を読み取ることも出来ないこともないだろうが、そのようなメタファー性よりも、蓑と傘を取り出したメトニミー性にこそ、この句の意義があるように思える。
俳句とレトリックで検索をしていて、また別の重要なサイトを見つけた。「俳句の世界制作法 ノート(1)」から始まる一連のページなのだが、この「現在思想のために」というブログは、レトリックを学び始めたときや、パースの思想を勉強するときに、一生懸命に読んだ記憶がある。もしや、今回の私の俳句の論議についても、以前に読んでいたことが潜在意識となっていて、影響を受けているのではないかと思ったりもしたが、一通り目を通した限りでは、かつて読んだ記憶もないし、論点でも直接的に重なることはないようだ。しかし、「写生」や「モンタージュ」などは、私の議論とも関係するだろうし、もっと広い文脈の中で論じられているのだから、今後熟読をして、改めて触れたい。
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