荒城の建て直されぬ諸葛菜

https://www.city.kani.lg.jp/17080.htm 【信長との出会いの後、京の明智邸にて

―永禄12年(1569)―】より

私は明智光秀。美濃国可児郡の産で土岐明智氏の当主だが、美濃国内の争いで所領と一族の多くを失い、一時は越前国 (現在の福井県)に身を寄せていた。今は公方様(足利義昭)にお仕えしている。いまだ軽輩の身だが、自分の屋敷に住むことができるだけでもありがたいものだ。

越前に居た頃は、ろくに家臣を養うこともできなかった。それどころか、妻の煕子にもつらい思いをさせてしまった。煕子が己の髪を売って、客をもてなす宴席の費用を工面してくれたことがあったが、その時には不覚にも涙が止まらなかったことを覚えている。煕子はそんな時でも微笑んでいた。今も昔も家族や家臣たちが私の宝であることに変わりはないが、煕子の笑顔は何物にもかえがたい。そんな彼女の顔が曇るのは決まって戦のときだ。

―お役目とはいえ、戦はつらいものですね。せめてご無事でお帰りください― 

私は去る正月5日、京六条の本圀寺に攻め寄せた三好勢から、公方様をお護りして戦った(本圀寺の変)。この戦いは必死の防戦となったが、私はやや奥に陣取り、寄せ手の指揮官だけを狙って鉄砲を放っていった。次々と指揮官だけが倒れていく様に寄せ手は混乱し、時間を稼ぐことができた。我々だけでは危ういところであったが、あの男の援軍が到着したことで形勢は逆転し、公方様をお護りすることができた。

あの男、織田弾正忠信長。帰蝶(濃姫)が嫁いだ頃は「尾張のうつけ」と呼ばれていた。そんな男に帰蝶を差し出すなど、道三入道(斎藤道三)も酷いことをされる、と当時は恨みに思ったものだ。あの男はその後、織田家の当主となり尾張国を平定した。さらに驚いたのは、桶狭間で今川治部大輔(義元)殿を討ち取ったことだ。このことは「織田信長」の名を世に知らしめ、今やあの男を「うつけ」と呼ぶ者などいない。

不思議なことに、あの男は私が失ったものを、逆に我がものとしていった。帰蝶を妻とし、私が去った後の美濃国も今や織田の領国となっている。それが羨ましくないといえば嘘になるが、妙な親近感を覚えるのも確かだ。道三入道との縁がある上に、私と同じように早くから鉄砲に目をつけており、信長自身も結構な腕前らしい。また、政では旧態を打ち破ろうとしている

先年、足利義昭公が公方になられたことも、この男の力が無ければ実現しなかっただろう。遥か先を歩んでいる、もう一人の私がいるようにも思えてくる。

本圀寺の防戦の後、岐阜から救援に駆け付けた信長から、直接ねぎらいの言葉をかけられた。

―明智十兵衛、であるか。此度の働き見事であった。鉄砲をよく遣ったというが、慧眼なり―

「もったいないお言葉でございます」と答えながら私は、乱世を終わらせるのは、あるいはこんな男なのかも知れない、と感じていた。

本稿は「私にとって」の明智光秀ストーリーです。12月号の続編もご期待ください。

「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」

貧しいなかでも一心に夫を支えた光秀の妻のエピソードを踏まえて、俳聖・松尾芭蕉が詠んだ句です。

―冴え冴えとした月明かりのもとで、月のように優しく光秀を照らした妻について、さあ語ろうか―

大胆に解釈すれば、このようにも読めます。控えめながら、その芯には強く凛々しいものを秘めた女性像が想起され、心温まるものがありますね。

  可児市長 冨田成輝


https://www.youtube.com/watch?v=Ok__3H2hTws

教科書には書かれていない織田信長と楽市楽座の真実|小名木善行

https://adeac.jp/takanezawa-lib/text-list/d100010/ht002100 【律令体制】より

律令体制

 大化の改新は天皇や皇室の地位を安定させたが、律令国家としての体制が整うのは、天武元年(六七二)の壬申の乱から以後多くの権力闘争を経た、天武・持統両天皇のころになってからである。そして六八九年に飛鳥浄御原令が施行されて律令体制の基礎はほぼ整えられたが、その確立をみるのは大宝元年(七〇一)の大宝律令制定までまたなければならなかった。

 律令とは、中国(唐)の法律を模範にしたもので、律は現在の刑法に相当し、令は国の組織と行政を行うための法と民法・訴訟法などにあたる。この法体系を中心として形づくられた国家の諸制度や政治支配体制が律令制度である。律令制度は、大和政権の支配者であり、畿内にその勢力の中心をもつ天皇や貴族たちが、その支配を全国に広めるとともに、より確実なものとするためにつくりあげたものである。この結果、天皇は畿内の皇族・貴族たちの権力と地位を確立するとともに、地方支配の仕組みが整備されていった。

 大和政権は、国家を支配するために、全国を国・郡・里(のちに郷となる)の行政単位に区分し、人民を戸籍に登録し、良民・賤民・氏姓等の身分を証明する基本台帳とするとともに、班田の台帳にも利用し、調や庸などの租税の徴収や労役の徴発を行った。


http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/sub10.html 【10.律令体制のしくみ】より

「律令とは、7世紀以来、中国の隋・唐の時代に整えられた法典の体系である。「律」は、刑罰法規であり、「令」は官制など一般に行政についての規定を含む。

 わが大宝律令は、唐の律令を手本にしたと言われているが、両者の間には、いくつかの相違がある。たとえば、政治の中枢機関である太政官は、日本独自のもので、これに相当するものは、唐制にはない。唐制では、これが、中書・尚書・門下の三省に分かれている。また、太政官と併立する神祇官も、日本だけに独自のものである。」

(角川書店編『日本史探訪3』1984年、角川文庫、P.300~301)

●国家法典の完成●

① 大宝律令(たいほうりつりょう)

 律令体制の根本は律令(りつりょう)です。律(りつ)は刑法、令(りょう)は行政法をそれぞれ意味します。わが国では近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)など令は編纂されましたが、律と令がともに整ったことがありませんでした。それが701(大宝1)年、大宝律令の完成によって初めて国家法典が完備したのです。

 唐の永徽律令(えいきりつりょう)を手本にして、律6巻、令11巻がつくられました。律は702年に、令は701年にそれぞれ施行されました。編纂の中心になったのは刑部親王(おさかべしんのう。総裁)と藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。

 ただし、大宝律令は今日残存してはいません。『令集解(りょうのしゅうげ)』・『続日本紀(しょくにほんぎ)』等によって断片的に復元されるだけです。

直線上に配置

② 養老律令(ようろうりつりょう)

 大宝律令には不備があったのでしょうか、藤原不比等らがつくっていた養老律令が718(養老2)年に完成します。藤原不比等の個人的な事業だったとも、首皇子(おびとのみこ。のちの聖武天皇)が天皇になった時に施行してその権威を高めるためだったとも、いろいろな推測がありますが、実のところよくわかりません。

 ともかく、律10巻、令10巻が作られました。律は一部だけが伝存しています。令は『令集解(りょうのしゅうげ)』・『令義解(りょうのぎげ)』などから大部分が復元されました。

 内容的には、大宝律令とほとんど同じです。完成から約40年後の757(天平宝字1)年、不比等の孫藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって施行されました。宮中における藤原氏の律令貴族としての優位性を、広く印象づけるために施行されたようです。

(略)


https://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/?p=279 【東寺百合文書の「織田信長禁制」】より

戦国時代の東寺百合文書の中でよく知られるものに、永禄11年(1568)9月日の日付けをもつ織田信長禁制があります(せ函武家御教書並達86号)。この文書がよく知られているのは、その形状や内容ではなく、戦国武将として人気のある織田信長が発行したものという理由からです。信長の歩みの中で説明すると、信長が室町幕府第15代将軍になる足利義昭を奉じて入京した時のものとして知られています。東寺に残る信長文書の唯一の正文であること、信長の「天下布武」印のあることなどから、展示会によく出品され、図版が図書類にもよく紹介されます。

せ函武家御教書並達86号 織田信長禁制

せ函武家御教書並達86号「織田信長禁制」永禄11(1568)年9月日

同じ日付けをもつ禁制は、東寺だけでなく多くのところに出されています。入京以前の近江国2ヶ所をはじめ、山城国で18ヶ所、摂津国で1ヶ所の文書が残っています。山城国では、洛中と周辺の社寺が12ヶ所(大徳寺、南禅寺など)、洛中と周辺の町場・村が2ヶ所(上京、天部)、山城国内の町場・村が4ヶ所(吉田、大山崎など)となります。

禁制の内容は、軍勢濫妨・狼藉のこと、陣取・放火のこと、竹木伐採のことなど三か条で、寄宿についても付け加えられています。書き留め文言には「仍執達如件」とし、「弾正忠」の名前で「天下布武」の朱印(単郭、楕円形)を押します。弾正忠は、信長がこの年の8月から尾張守に替えて名乗った名前です。東寺のものと他所への禁制とを比較すると、本能寺、妙顕寺の禁制には東寺と同様に寄宿の禁が含まれ、賀茂社、清水寺では東寺とは異なり山林に対する文言があります。大山崎では矢銭・兵糧米についての内容が含まれ、上京、吉田郷では非分を申し懸けないことが書かれています。このように、同種の禁制でも、充て所に応じて内容を変えていることがわかります。

信長の一生を記録した『信長公記』によると、永禄11年9月、信長は足利義昭を奉じて岐阜を出発し、近江の六角氏を破った後に、9月28日に山城国に入りました。信長は東福寺に着陣し、義昭は清水寺に入っています。翌29日には乙訓郡寺戸に陣を移します。禁制はその時期に出されたことになります。

東寺百合文書には、信長以後も元亀元年(1570)9月日付けの朝倉景健禁制があります(せ函武家御教書並達88号)。この禁制は五か条からなるもので、景健の花押があります。同年月の朝倉景健禁制は清水寺にも出されていて、清水寺には同年月の浅井長政禁制もあります。同年月の浅井長政禁制は、大徳寺並門前にも出されています。元亀元年6月に織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が戦った姉川の合戦の後、9月に浅井・朝倉軍は近江の西部を南下して滋賀郡にあった織田軍の宇佐山城を攻め(志賀の陣)、その勢いで京都に入っていて、禁制はその時に出されたものです。なお、朝倉景健は越前の朝倉氏の一族の家臣で、姉川の合戦、志賀の陣では総大将をしていました。

せ函武家御教書並達88号 朝倉景健禁制

せ函武家御教書並達88号「朝倉景健禁制」元亀元(1570)年9月日

近年、戦国時代に関する研究が進展しています。「天下布武」印の天下は、信長段階では日本全体を指すのではなく、京都を中心とする畿内・近国を指す意味に使われることが明らかにされました。また、永禄11年の上洛は義昭政権下の一武将の立場として義昭を奉じて入京した年であったことが論じられています。

これまでに見てきた諸点も含め、さまざまな視点から探究することで、東寺百合文書の信長禁制は更なる価値を見出せると言えましょう。

(参考文献)

奥野高広著『増訂 織田信長文書の研究』、吉川弘文館、1988年

神田千里『織田信長』、ちくま新書、2014年

天野忠幸『三好一族と織田信長』、戎光祥出版、2016年  資料課 大塚活美)


https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/nobunaga-tenkafubu.html#google_vignette 【天 下 布 武  織田信長の政策】より

織田信長は、1567年(永禄10年)に美濃を攻略し、小牧山城から岐阜城に移った頃から、「天下布武」の印章を使用するようになる。

 「天下布武」

 「武を布いて天下を取る」つまり「武力で天下を取る」「全国制覇を目指す」とも解釈できるが・・・近年の研究で「武」とは「七徳の武」のことだと言われている。

 「七徳の武」とは、禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財。

  信長が皆に伝えたかったのは「暴力のない穏やかな世の中にするため、戦争を止め、国を保ち、功をたて、安心できる生活を実現し、和をもって人に接して、豊かな経済を築く」

 といった感じだったのだろうか・・・

 1568年(永禄11年)、信長は室町幕府の第十二代将軍・足利義晴の子義昭を奉じて上洛している。

 「天下布武」の「天下」とは、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)のことで、室町幕府と将軍も含んだものとされている。

 信長の「天下布武」の目的は、五畿内の平定と義昭を将軍に就任させて室町幕府を再興させること。

 したがって、永禄11年の上洛で達成されたとされている。

~天下静謐を望んでいた信長~

 義昭を将軍に据えた信長だが、それは義昭に従うということではなく、傀儡化して畿内支配を独自に進めるため。

 上洛の翌年には義昭の権力を制限するための「殿中御掟」16か条を呈示。

 さらにその翌年には5か条を追加している。

 ただ、義昭が殿中御掟を守っていたという形跡はなく、信長の本心を知ったことで徐々に反信長勢力を築き始めることとなる。

 これに対して信長は、1572年(元亀3年)9月、十七ヶ条の意見書(異見十七ヶ条)を提出して義昭を批判。義昭は信長と手を切ることを考え始めることになる。

 意見書は義昭以外にも配られ、信長の正義を知らしめるために送られたものと考えられている。

 その翌月・・・甲斐の武田信玄が遠江国に侵攻を開始。

 12月には、三方ヶ原の戦いで信長の同盟者徳川家康を破って三河国に侵攻。

信玄は朝倉氏・浅井氏・本願寺などの反信長勢力と手を組んでいたことから、信長は窮地に立たされる。

諸説あるが、義昭が信長と手を切る覚悟を決めたのは、信玄の侵攻がきっかけという説がある。信玄の侵攻で優位に立った義昭だったが、翌年4月、信玄が三河国で病に倒れて横死したことで立場は逆転してしまう。

 7月になると、義昭が京都を追放され室町幕府が滅亡。「天下」は信長が差配することに。

 その後、信長は勢力を拡大していくが、それは・・・

 「世の中を穏やかに治めることを目標にしていた信長に敵対する勢力を排除した結果であって、全国を支配しようとしていたわけではない」という説がある。

 1567年(永禄10年)には稲葉山城を奪取した信長は、稲葉山に新たな岐阜城を築いた。

 信長に「天下布武」の政策を進言したのは、幼少期の信長(吉法師)の教育係を務め、成長後は参謀として活躍した臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)といわれている。また、井ノ口と呼ばれていた稲葉山城下を岐阜と改めたのも沢彦の進言によるものなのだという。

 1572年(元亀3年)、遠江国に侵攻し、三方ヶ原で徳川家康を破った武田信玄は、翌年、三河国に進軍するが、病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。

 4月12日、その途中で死去している。のちに家康に仕えて徳川四天王のひとりに数えられた井伊直政は、信玄の精鋭部隊「赤備え」を継承し、小牧・長久手の戦いでは「井伊の赤備え」の名を天下に轟かせている。


https://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12026707713.html 【「天下布武」の本当の意味】より

□■「天下布武」の本当の意味■□

1567年(永禄10年)       信長  34歳

「天下布武」といえば、信長が自身の印章に用いた文言として有名である。彼が世の中に示した、公約のようなものである。一般的に、「天下を武力で平定する」というような意味で捉えられがちだが、本当は武力の「武」ではない。

「武」とは本来、「戦いを止める」という意味を持つ。

武という漢字を分解してみると、「戈(ほこ)」と「止」から成る。戈は、戦で使われる武器であり、戦いを表す。それを止めるのが、「武」である。

また、武は「七徳の武」のことであると言われている。

古代中国の古典『春秋左氏伝』には、「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」とある。その七つの目的とは...

①暴を禁じる。(暴力を禁じる) ②戦を止める ③大を保つ(大国を保つ?)

④功を定める(功績を成し遂げる) ⑤民を安んじる(民を安心させる) ⑥衆を和す(大衆を仲良くさせる) ⑦財を豊かにする(経済を豊かにする)

こうして見ると、「天下布武」の本当の意味は、「天下に七徳の武を布く」という、天下泰平の世を創る決意表明だったのだ。

また、「天下布武」の四文字は、このブログでも度々紹介した、信長の名付け親でもあり、「岐阜」という地名の候補を出した、沢彦和尚が贈ったものである。

信長は、この四文字を「自分の理想に合う言葉である」と言って喜んだ、という記述が以下に紹介する『政秀寺古記』に記されている。

ちなみに、今日紹介する部分は「岐阜の由来」の文の続きになっている。

信長は、沢彦に「岐阜の地名の他にまだ聞きたいことがあるが、ひとまず寺に戻ると良い。その時になったら、また迎えの者を送る。」と言っている。

その”聞きたいこと”というのが、朱印のことだったようだ。

①現代語訳

(前略)

また五、六ヶ月ほど過ぎ、お迎えが来るや否や、沢彦は岐阜へ向かった。

小侍将(こじじゅう)の宿所に着き、登城すると、信長卿は殊のほか喜び、

「私が天下を治めた時、朱印が必要になる。前もってご朱印の字を頼みたい。」と命じた。

沢彦は再三断ったものの、堅く請われたので、断り切れず、”布武天下”という字を書き付けて、進上した。

信長卿は、「寒空の季節に滞在していただき、朱印の字が整ったとのこと。私の考えそのものの字である。ただ、文字の数が四つなのは、いかがなものか。」と言った。

沢彦は、「大明国は皆、四字です。日本では四字が嫌われておりますが、ご自身の不確かな風説で御座います。」と答えた。

信長卿は、殊のほか喜色を浮かべ、花井伝右衛門を呼び、「朱印の字について沢彦と話し合ったから、黄金で判屋に彫らせよ。」と仰せ付けられた。

花井は油断なく判屋を呼び寄せて、朱印を彫らせ、早速出来上がったので、信長卿の御目に掛け、朱の押し墨で判を押してみたものの、薄くついただけだったので、再び銅と金を混ぜて彫らせ、判を押してみると、はっきりと押せた。

(後略)

②書き下し文

(前略)

又五六箇月ほど過て、御迎(おむかえ)来るや否、澤彦岐阜へ進発し給ふ。

小侍従(こじじゅう)が宿所へつき給ひて登城候へば、信長卿事の外御感にて曰ふは、我天下をも治めん時は朱印可入(入るべく)候。

兼て御朱印の字、被為頼(頼ませらる)に候との鈞命(きんめい)なり。

角(かく)て澤彦再三拒辞せられ候へども堅く請ふ。

依て不得輟(やめえず)して布武天下の字書付(かきつけ)被進上(進上され)けり。

信長卿曰は、寒天の時分、滞在候て朱印の字調ひ候事、思召の儘の字なり。

しかれども文字の数四つ字はいかが候とぞ御意なり。

澤彦曰は、大明国は皆四の字なり。

日本にて四つ字を嫌ひ申す事、自己の惑説に候とぞ。

信長卿、事の外御氣色喜び給て、花井伝右衛門を被召(召され)曰ふは、朱印の字澤彦へ対談いたし、以黄金(黄金を以て)判屋に彫せ候へと被仰付(仰せ付けられ)候。

花井油断なく判屋を呼び寄せほらせ候て、早速出来して掛御目(御目に掛け)候へば即ち朱にて押し墨にて押し給へども、うすくつき候により、又銅金交へてほり候へて、をし候へば分明に候とぞ。

(後略)

以下は、『春秋左氏伝 宣公十二年』の「七徳の武」について書かれた箇所を掲載するが、かなり簡単にあらすじを紹介する。

古代中国の「楚(そ)」という国と「晋(しん)」という国の国境付近で両軍が局地戦を展開し、楚軍が勝った。

すると、楚子の家臣の潘党(ばんとう)という者が「晋の兵の亡骸を積んで小山を作って、楚の強さを見せつけるものを作りましょう」と言ったのを聞いて、楚子が七徳の武について語り、家臣を諌めている。

書き下し文は、漢字が難しいので、現代語訳のみを載せる。

①現代語訳

(前略)

翌丙辰(ひのえたつ)の日、楚の輜重(しちょう)隊が邲(ひつ)に到着し、ついで衡雍(こうよう)に駐屯した。

潘党(ばんとう)が、「晋軍の屍骸を集めて、〔戦勝記念の〕京観(けいかん・大きな築山)を築き、標識を立てられてはいかがですか。敵を撃破したときは、子孫に記念を残して、武功を忘れぬようにする、とわたくしは聞いております。」と言うと、楚子は言った。

「汝はわかっておらぬな。そもそも「武」という字は戈(軍事)を止める意味である。周の武王が商を撃破した際に作られた『詩』の周頒には、

干戈(たてほこ)を収納し、弓矢を袋に入れよ。

我は美徳を求めて、この夏楽(かがく)を奏し、

王業を成して天下をば保たん。     (時邁)

とあり、同じく〔周頒の〕「武」の終章には、

汝が功をば強固にせん。

その第三章には、

先王の徳をばひろめ、我、征(ゆ)きて安きを求めん。

その第六章には、

万邦を安んじ、つねに稔(みの)りあり。

とある。

「武」とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするためのもの。

故に子孫に武功を忘れさせぬようにするのだ。

しかるに今、我(じぶん)は楚・晋二国の士兵の骨を戦場にさらさせた。

これは暴だ。兵力を誇示して諸侯を威圧した。

これでは戦を止めたことにはならぬ。

暴にして戦を止めずにいては、大を保つのは到底無理だ。

晋が存在している以上、功を定めるのは覚束なく、民の望みに背くことが多くては、民は安んずるはずがない。

徳もないのに無理に諸侯と争っても、衆を和するには程遠く、人の危機に乗じ、人の乱を幸いとして、己れの繁栄を考えていては、財を豊かにするのは不可能だ。

「武」の七つの目的のうち、我(じぶん)には一つも備わっておらず、子孫に残せるものなどありはせぬ。

先君の廟をつくって、戦勝を申し上げれば十分で、「武」は吾が功とは無縁である。

その昔、聖明なる王は不敬の国を攻め、その首魁を捕えるや、上に塚を盛り上げて処刑を果された。

この時以来、不敬の輩を懲らしめるための京観が始まったのである。

しかるに今、〔晋には〕さしたる罪過はなくなく、しかも民はみな忠誠を尽して君命に生命を捧げている。京観を築くことなど許されようか。」

楚子は黄河の神を祀り、先君の廟をつくり、戦勝を報告して引き揚げた。

(後略)

https://www.youtube.com/watch?v=_tXpu9eQUNw

https://www.youtube.com/watch?v=kOTiOgQVp7g

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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