敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花

Facebook斉藤 一治さん投稿記事

六根清浄大祓

六根とは 眼根 (視覚) 耳根 (聴覚) 鼻根 (臭覚) 舌根 (味覚) 身根 (触覚) 意根 (意識)

「根」は、環境を認知する人間の感覚器官とその能力をいいます。

現代語訳

天照大御神がおっしゃるには…人間は地上に降ろされた神の分魂(わけみたま)です。

したがって、個人としては心静かに、社会的には世の中が緩やかに治ることを第一に心がけます。心とはすなわち、人間が神から授かった分魂が宿る神性の基本となるところです。

その神の分魂が宿る心を汚したり痛めてはいけません。

ですから目でいろいろな不浄を見ても、心では不浄のものを見ないように

耳でいろいろな不浄を聞いても、心では不浄のものを聞かないように

鼻でいろいろな不浄を嗅いでも、心では不浄のものを嗅がないように

口でいろいろな不浄を言っても、心では不浄のことを言わないように

身体でいろいろな不浄なものに触れても、心では不浄なものに触れないように

意識でいろいろな不浄なことを思っても、心では不浄なことをを思わないように

これらができるようになりますと 清く穢れなく清々しい状態になります。

さまざまな教えのように 実体(心)とその影(身体)は一体であり、実体が清ければ、その影は穢れることはありません。

これを信じて これを根拠にしてこれらの心がけを実践する人の身体の六根はとても清く清々しい。六根が清く穢れなく清々しいので身体の五臓(心臓・肝臓・脾臓・肺臓・腎臓)に宿る神々は穏やかであり、五臓の働きも健やかです。

五臓の神々が穏やかで五臓の働きが健やかですから、天の神・地の神と同根になります。

天の神・地の神と同根ですので、この世の万物の霊と同根です。

この世の万物の霊と同根ですから、自分が願うことは、すべて成就します。

これこそこの上ない霊宝という神道のご加護です。

以上

畏敬の対象であり 清浄なる大自然と 心身ともに清らかになった自分との対話を楽しみます。

https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishimanouta.html 【「敷島の歌」(シキシマノウタ)】より

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」

 この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。

賛の全文は、

「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、

筆のついでに、しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」です。

 歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。

 宣長は答えます。

「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。

 たとえ個人の歌集であっても、外の歌に埋没したり、作者から離されてしまうことをおそれたのでしょう。独立した歌として、もとめられれば、半切にも書きました。

 また画像と一緒ならなおさら結構と、だから、たとえば吉川義信の描く画像などにはこの歌が書かれました。この歌は宣長の心の歌だったのです。

https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishima_sonogo.html 【敷島の歌」その後】より

 この歌にはみんな関心を持った。その一人、伴信友は大平に質問をする。宣長の多く残す歌の中の一首に対しての疑問というより、師自らが自分の画像の上に選んだ特別 の歌としての質問である。

「朝日に匂ふ山桜花の御歌、凡そに感吟仕候て、本意なく候、御諭下され度候

 うるはしきよしなりと、先師いひ置かれたり」【『藤垣内答問録の一』】

 「敷島の歌」を大体の意味で理解して味わっていますが、本当の意味を教えて下さい、と聴いたのに対して、大平の回答は実にそっけない。「端麗・華麗ということだと宣長は言われた」。これは一首の解釈と言うより、歌の持つ雰囲気を宣長は、また大平は伝えたのであろう。

 この回答は享和3年(1803)5月28日で、信友が質問したのは、宣長没後一年余しか経っていない、享和2年暮れから3年初め頃であったと思われる。信友が藤林誠継に写させた宣長像に大平の賛(「しきしまの」の歌)を貰い、「鈴屋大人の肖像を写したる由縁」(『秋廼奈古理』所収)を書いたのが享和2年11月29日であったこともこの質問の背景にはある。

 また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。

  田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。

【原文】

「い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞(い)ては信ずべし。京の者が聞(け)ば、王様の不面目也。やまとだましいと云(ふ)ことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましいが国の臭気也、おのれが像の上に書(き)しとぞ。

  敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花

とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで「しき嶌のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云(う)て笑(ひ)し也。」『膽大小心録』第101条【『日本古典文学大系 上田秋成集』岩波書店】

 晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。

 信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。

 この歌は、第5期国定国語教科書初等科国語7(昭和18年刊)「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられた。山中恒氏『御民ワレ ボクラ少国民第二部』【1975年11月刊、辺境社】の記述によれば、この教材は「散文 国体観念教材。五首の短歌とその解説。」といった内容である。教材の表題は、巻頭の歌

 御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば

から採っている。また、宣長の歌は次のように紹介されている。

「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花

 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」 『御民ワレ ボクラ少国民第二部』P312。

 文章には特別曲解はないが、現場ではどのように教えられたかわからない。ただ言えるのは、朝日に桜、この言葉が喚起するイメージは次の井上淡星の詩をそう遠く隔たるものではなかった筈である。

  特別攻撃隊を讃える歌

  忘るな昭和十六年  極月八日大君の  醜の御盾と出で立って

  朝日桜の若ざくら  散った特別攻撃隊  岩佐中佐と八烈士

 このほかに「しきしまの」の歌が武士道と結びついた例を挙げる。最初は安政4年12月7日生まれで、父は幕臣で表銃隊取締役だったと言う人の文章。他の一つは奈良女子高等師範学校教官の本からの引用だが、こちらは手元に本が無いため、正確な引用ではない旨先にお断りしておく。  

「佐久良は殊にうるはしくいさぎよき花なれば、これを我が大和心に比していへり。かの宣長が「敷島のやまと心を人とはゞ、朝日に匂ふ山桜花」の歌は何ぴとも知るところにして、藤田東湖の正気歌に「発為万朶桜」とよみしも同じ意なり。(中略)この花の特色として見るべきは、散るときのいかにもこゝちよき事なり。咲き乱れたる頃、颯と吹きくる風の一たび其の梢を払へば、花は繽粉と飛びちりて聊かも惜しむこころなきものゝ如し。そのさまは恰も武士の笑を含みて死に就くに似たり。花のたふとむべき所こゝにあり。

「花は佐久良」山下重民、『国民雑誌』第3巻8号、明治45年4月15日刊(『風俗画報・山下重民文集』収載)。

 「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、

  敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花

という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館。

 宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。

https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/aikoku.html【「愛国百人一首」】より 

 「一九四〇年代の「愛国百人一首」となると、今日なおホロ苦い思い出を伴って、記憶の片隅にある人も多いであろう」。「宣長のうた」岩田隆(『本居宣長全集』月報3)

 『愛国百人一首』とは、戦時下、日本文学報国会が、情報局と大政翼賛会後援、毎日新聞社協力により編んだもので、昭和17年11月20日、東京市内発行の各新聞紙上で発表された。

 選定委員は佐佐木信綱、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、折口信夫、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、土屋文明、松村英一の11氏。選定顧問に委嘱された15名には川面情報局第五部長など政府、翼賛会、軍関係者に交じり徳富蘇峰、辻善之助、平泉澄、久松潜一が名を連ねる。

 選考は、毎日新聞社が全国から募集した推薦歌と、日本文学報国会短歌部会の幹事、選定委員の数氏より提出された推薦歌の中から前後7回にわたって厳選したという。選ばれた歌は、「愛国」ということばを広義に解釈して、国土礼讃、人倫、季節などの歌も加え、万葉集より明治元年以前に物故した人に限った(以上、『定本愛国百人一首解説』凡例)。「佐佐木信綱先生略年譜」(『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』)には選者についてもう少し詳しい。

 東京日日新聞発案、情報局後援を背景に、愛国百人一首選定を日本文学報国会が行なう。 「選定委員は信綱七一歳をはじめ、尾上柴舟六七歳、太田水穂六五歳、窪田空穂六六歳、斎藤瀏六四歳、斎藤茂吉六一歳、川田順六一歳、吉植庄亮五九歳、釈迢空五六歳、土屋文明五三歳、松村英一五四歳。北原白秋五八歳はこの月に逝去し、土岐善麿五八歳は自由主義歌人として人選に漏れたのであろう。近代短歌の代表者たちが、熱心にこの挙に参加している。」

 「毎日新聞社」という名前は昭和18年1月1日から使用された。

 さて、『定本愛国百人一首解説』に戻る。同書の「諸論」には、選定条件などが詳しく記される。また、宣長の項は川田の執筆である。この本は日本文学報国会編で昭和18年3月20日毎日新聞社より刊行された。手元にあるのは同年7月1日再版70,000部の1冊。表紙は安田靫彦、題簽は小松鳳来。

 愛国百人一首には、宣長以外に、直接の門人としては栗田土満の「かけまくもあやに畏きすめらぎの神のみ民とあるが楽しさ」が選ばれ、また、平田篤胤の「青海原潮の八百重の八十国につぎてひろめよ此の正道を」も載る。

 手元にもう1冊『愛国百人一首評釈』という本がある。こちらは川田順の単独執筆である。本書そのものは、発表された翌21日から朝日新聞に載せたものを補正したもので、更に宣長の項は自著『幕末愛国歌』からそのまま載せたと断ってある。

 その転載したという解説を読んでみると、同一人の執筆でも『定本愛国百人一首解説』とは自ずとその観点は異なる。前著が作者略伝を中心とするのに対して、本書は歌の解説が中心となる。要点を述べると、宣長の桜の美が散る趣ではないと言い、桜と日本精神について高木武の説を紹介。その上で、しきしまの大和心とは日本精神であることを明言する。また井上文雄の「いさぎよき大和心を心にて他国には咲かぬ花ざくらかな」という歌が、散り際の潔さという「最も普遍的な桜花礼讃であり、維新志士の吟詠中にしばしば現はれて来る桜花の歌は、悉く此の思想に属するものだ」と言う。また巻末には、川田の「愛国歌史」と、高瀬重雄の「作者略伝」が付く。本書は昭和18年5月10日、朝日新聞社から刊行された。カバーは斯光と署名のある兜の絵である。

 次に朝日版の解説のもととなった『幕末愛国歌』だが、本書は昭和14年6月1日第一書房から刊行された。本書は「戦時体制版」と銘打ってあり、巻末広告には社長長谷川巳之吉の「戦時体制版の宣言」が載る。

 この本では、序篇「国学者と歌人」に宣長は載る。歌は「敷島の」他2首が選ばれる。

 さし出づる此の日の本の光より高麗もろこしも春を知るらむ

 百八十の国のおや国もとつ国すめら御国はたふときろかも

解説は類歌との比較などをして詳しい。

 もう1冊類書を紹介する。『日本愛国歌評釈』である。藤田福夫著。昭和17年12月20日葛城書店から刊行された。構成は、皇室篇と民間篇に分かれ神武天皇より本書の編集されたときにまで及ぶ百十首。宣長の歌は、

 さし出づる此の日の本のひかりこまもろこしも春をしるらむ

 思ほさぬ隠岐のいでましきく時は賎のをわれも髪さかだつを

の2首が選ばれ「敷島の」は洩れている。各歌には簡単な語釈、通釈、後記が付く。装丁は山本直治で、富士に桜である。

 何も断り書きはないが、本書と「愛国百人一首」は同時期ながら、一応別 個に選ばれたものである。もちろん重なる歌もある。

 紹介するもう1冊は書道の手本である。『愛国百人一首』神郡晩秋書(大日本出版社峯文荘 昭和18年9月10日刊)、本書は巻末に釈文と略解が付き、巻頭には阿部信行、吉川英治の色紙が載る。

 大変な意気込みで作られたこの百人一首について、『【昭和】文学年表』で当時の様子を窺ってみよう。

【昭和17年】

11月14日 「国民操志の培養へ-”愛国百人一首の意義“-」太田水穂・

『朝日新聞』〈東京〉

11月21日 「新た世に贈る-”愛国百人一首“選定を終りて-」佐佐木信綱・「皇国民心の精華-反映した万葉歌人の心〈上代〉」斎藤茂吉・「戦につれて-ほとばしる至誠至忠の念〈平安朝より吉野朝へ〉」尾上柴舟・「志士の雄叫び〈幕末〉」斎藤瀏。『朝日新聞』〈東京〉

【昭和18年】

1月1日 「愛国百人一首の意義」井上司郎・『文学』

2月1日 「寄世祝-愛国百人一首のうち伴林光平の歌-」上司小剣・

『文藝春秋』

4月1日 「日本精神を伝ふ-愛国百人一首のドイツ訳-」茅野蕭々・

『朝日新聞』〈東京〉

6月1日 「愛国百人一首小論」佐藤春夫・『改造』

 通覧して「愛国百人一首」と明らかに関わりのあるものを抜いてみた。遺漏もあるかと思う。いずれにしても、このような大新聞や雑誌ではどの程度国民の間に浸透したのかまではわからない。授業で強制的に覚えさせられたとか、カルタをしたとか、もう少し当時の人の証言を捜す必要がある。また以前、松本城前の古本屋で横文字の「愛国百人一首」を見かけた。てっきり英語だと思っていたが、あるいはドイツ語だったのだろうか。逃した魚はいつも大きい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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