Facebook森井 啓二さん投稿記事 「神の国日本の美しい神社」より一部抜粋
「両手を合わせる合掌は、神様と自分自神、神様の天意(あい)と自分の愛を合わせる
カミ(神)合わせの儀式になります。
両手を合わせる合掌は、ヨーガではアンジャリ・ムドラと称します。
右手と左手をハートの前で合わせることで、神と自分の真我との統合を呼び覚ますためのムドラです。この合掌には、生命エネルギーの流れを最も波動の高い真我に向けて調える作用があります。
アンジャリムドラによって、呼吸が調い、意識は深い領域へと誘導され、真我へと向かうエネルギー場が形成されることで、神と自分の真我を合一する意識を高められます。
神社の参拝では、鳥居から拝殿に至るまでの間に、神と参拝者という分離感が薄まっていき、神に参拝するという意識が調っていきます。
そして拝殿前での合掌、すなわちアンジャリ・ムドラによって、
分離意識から超越しやすい磁場が形成されて、神と真我の統合に向けた意識を明確に目覚めさせていくことになります。」
以上、合掌からの抜粋です。
合掌前に行う「拝」と「拍手」という所作にも、エネルギー的に重要な理由があり、合掌の効果を最大限に高めるように誘導します。
Facebook佐坂 輝久さん投稿記事【 挨拶に始まり、挨拶に終わる 】
徳川御三家の一つである水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔として生まれ、
先人たちが受け継いできた日本の心、文化伝統の素晴らしさを人々に伝え続けている松平洋史子さん。この変化の激しい時代において、いかに日本人らしく、美しく優しく逞しく生き抜いていけばよいのか、その生き方のヒントを、松平家の教えを紐解きながら教えていただきました。
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<松平>
私の生き方に大きな影響を与えたのは、祖母・俊子(としこ)でした。
祖母は明治23(1890)年、佐賀藩の侯爵・鍋島直大(なおひろ)の六女として生まれました。直大は駐イタリア特命全権公使などを務めた人物で、日本だけでなく西洋の一流を知り尽くした教養人、趣味人でした。また、明治天皇の信任も厚く、宮中の儀式を取り仕切る式部職(しきぶしょく)の長官を務めたこともあります。
その直大に育てられた祖母は、17歳の時に伯爵・松平頼寿(よりなが)の弟である松平胖(ゆたか)と結婚します。
先ほども触れましたが、徳川将軍家に最も近い親族である徳川御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)のうち、水戸徳川家の流れを汲むのが讃岐国高松藩松平家です。
つまり祖母は、鍋島家で西洋の一流を、嫁ぎ先の松平家で礼儀作法や質素倹約を重んじる武家の精神を身につけたのでした。
祖母は社会的にも活躍した人でした。例えば、「これからは女子の教育が必要だ」と、昭和女子大学の前身の日本女子高等学院が設立される際、世田谷の土地を払い下げるなどの支援を行いました。
そして創立者の人見東明(ひとみ・とうめい)氏に招かれて校長を務め、その時に松平家に伝わる作法を「松平法式」として女子教育に取り入れ、女性が美しく逞しく生きていくことの大切さを伝え続けました。
そんな祖母から教わったことはたくさんありますが、松平家で最初に教わるのが姿勢です。
武士道には「型から入って心に至る」という言葉があるように、姿勢を正せば心も変わる、
物事の本質が見えるのですよと、子供の頃から言われました。
食事の時、子供たちの姿勢が崩れると、祖母や母が背中をぽんぽんと叩く。
すると、背筋がぴんと伸びる。そういうことを繰り返しながら、自然に美しい姿勢を身につけていくのです。
皆さんは、会議の席などで……
☆続きはWEBchichiにて公開中!武家に脈々と伝承されてきた日本の心、よりよい人生をひらく秘訣とは??
https://www.chichi.co.jp/web/20240316_matsudaira_yoshiko/...
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
呼吸」とは、神佛様が出入りされる儀式です。
約60兆個といわれる細胞に、瞬時に、平等に命(氣)を与えてくださいます。
そして、命の燃えかすを体外に連れ出してくださいます。「食べ物(生命)」も氣です。
口から入り、唾液とごちゃ混ぜになって腸様のところに送られます。
そこで分解、組み立て、消化、吸収が行われて命となります。
氣は私たちの心となり、その思いは波動となって宇宙に飛び出していき、同じ波動が共振共鳴します。
氣が氣を呼ぶ。類は類を呼ぶ。これが宇宙の摂理です。
自分が幸せの「氣」を出しますと、幸せの「波動」が幸せを呼び込んでくださいます。
自分が不平、不満、恨みの「氣」を出しますと、同じ波動が返ってきます。
このように、心のハンドルは自分の意志次第で自由自在に、右にも左にも切ることができます。
私たちは「思い通りにならない」とよく口にしますが、自分の心だけは思い通りになります。
宇宙に存在するあらゆるものは、この心(氣)で繋がっています。
残念ながら、私たちは、完璧で荘厳な宇宙の仕組みの中で、自由な心を与えられているにも関らず、自分中心の我欲の世界に心を閉ざし、損得だけの小さな世界に生きています。
何と勿体ないことでしょう。
この「自縄自縛」から自分を解放して差し上げましょう。
生きとし生けるもの、皆で思いっ切り、幸せであり続けましょう!
https://news.yahoo.co.jp/articles/6842cb31b709a465b0dbf1fdea34eb29500fe403 【人類はなぜ太古の昔から「儀式」を行なってきたのか? 人類学者がその効能に迫る】より
儀式のイメージ
長い、堅苦しい、退屈、何のためにしているかわからない。今の季節だと卒業式や入学式・入社式など、義務的に参加する行事に対して、苦手意識を持っている人も多いだろう。時間と手間のかかる、合理性や生産性の無さそうなこうした「儀式」は、なぜ今も存在しているのか?認知人類学者ディミトリス・クシガラタスが、その理由を解説した一冊。それが今年1月31日発売の本書『RITUAL ――人類を幸福に導く「最古の科学」』(田中恵理香 訳、晶文社)だ。
そもそも人類と儀式の関係は、太古から続いているのだという。人類が儀式を行っていたことを示す最初期の痕跡は、埋葬である。スペイン北部の洞窟で見つかった、意図的に置かれていたと思われる骨格の残骸。それは43万年前に存在していた、ホモ・ハイデルベルゲンシスに属するものだった。この発見で当時埋葬が行われていたと断定はできないものの、現在の人類に近い種であるネアンデルタール人の時代には、各地で死者を埋葬していたことが立証されている。
今の世界に目を向けてみると、儀式は我々の身近に実はいくつも存在してきている。生まれる時には、すでに名づけという儀式が行われている。子どもの頃は食事の時の決まりごとに、就寝時の読み聞かせやおまじない、誕生日パーティーなど、儀式的なルーティンやイベントを通じて社会規範を身につけていく。儀式は社会のあらゆるところで、普遍的に存在するものなのだ。
さらに人々が儀式に求めるものもまた、普遍的である。ポーランドの人類学者ブロニスワフ・マリノフスキーは、1914年に大洋州地域の島ニューギニアへ旅立ち、現地の人々とともに暮らして彼らの生活を記録する。そこで発見したのが、漁業・農業・紛争・病気・恋愛・自然現象といったさまざまな領域で共通する、儀式を行う基準だった。
〈成功の可能性と不測の事態にかかわる要因が多岐にわたっているとき、また希望と不安のあいだで感情の揺れが大きいときには、かならず呪術を行っている。求めるものが確実であてにでき、合理的な方法と技術的な処理で制御できる場合は、呪術は見られない〉。
マリノフスキーはそれが、自分たちの社会における信仰や慣習とあまり違いのないことに気づく。
意外な事実の数々を前に、儀式に参加させられた時のような退屈さとは無縁の本書。中でも興味を引かれるのが、儀式の効果についてテクノロジーを駆使して検証する試みだ。
スペイン北東部の小さな農村サン・ペドロ・マンリケ。この村は毎年6月の祭りにおいて、2トン以上のオークの木で火を起こして行われる、大規模な火渡りの儀式により有名である。著者はかつて博士論文を書くための研究でサン・ペドロを訪れ、現地の人々に火渡りについてインタビューしていた。〈参加することで「ほんもののサン・ペドロ人」になったと感じる〉〈人生で何よりも大切な出来事だ〉。彼らはなぜその儀式が必要なのか、〈ならわしだから〉という以外にわかってはいない。だが、火渡りを通して得た〈言葉では説明できない感覚〉を共有していた。
博士号を取得した後、著者は宗教心理学の研究者と生物工学専門の大学院生とチームを組み、火渡りがこのような感覚を生み出すメカニズムについて研究する。祭りの行われるタイミングでサン・ペドロを再訪し、調査を開始。火渡りをする人たちと見物する人たちに、心拍モニターを装着の上で祭りに参加してもらう。そのデータを後日解析してみると、彼らの心拍パターンは火渡りの間、不思議なほど同調していた。しかも、地元の人同士や血縁者といった密な関係であるほど、心拍の近い結果が出ている。火渡りは参加者の感情のつながりや一体感を強める効果のあることが、数値上でも明らかとなったのだ。
近年、こうした科学的な手法での儀式にまつわる研究が進んでいるという。たとえば、結婚式で式が始まる前と誓いの言葉の直後に、出席者の血液を採取し、神経ホルモン「オキシトシン」の値に与える影響を測った実験。女性がダンスする動画をアバター化し、どの動きに魅力を感じるか個人の特徴がわからない状態で200人に評価してもらう、求愛の儀式にも関連した実験。自らの体に針を突き刺した状態で供物を運ぶ、ヒンドゥー教の儀式「タイプーサム・カヴァディ」。その参加者の皮膚伝導と健康状態を記録し、苦痛と心理的な健康の相関関係を調べた実験などなど。本書では著者以外の研究者によるものも含めた、ユニークな調査とその結果が紹介されている。
儀式には何らかの意義と効能がある。そうわかると逆に、目的や効果を明確に意識しないまま、時に祈り、時に体を痛めつけ、リモートだろうと儀式を続けてきた人類が、より不可思議な存在に見えてくる(ただし、「儀式に効果があるはず」と思い込みすぎることの危険性についても本書では触れられている)。この感覚も本書を読んでもらえれば共有できるはず……って、読書も儀式の一種なのではないか?読後はあらゆる物事を儀式と結びつけたくなり、その度に著者のこの言葉を思いだす。〈私たちは儀式的な種なのだ〉
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