自分の人生を生きる

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ソクラテス、アドラー、フロムに学ぶ「勇気」【その1】自由と責任を引き受けるということ】より

自分の人生を生きる ソクラテス、アドラー、フロムに学ぶ「勇気」経営有識者リベラルアーツ

さまざまな領域で変革の必要性が語られながら「変われないこと」への閉塞感や息苦しさが漂う今日の社会。大ベストセラー『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)により日本にアドラー心理学を広めた岸見一郎氏は、社会で生きづらさを抱える人々に対して「世界を変えるのはあなただ」と説き、生きる勇気を与え続けている。

オンラインで行われた山口周氏との対話では、人が自由に生きるために必要なこと、ビジネスリーダーが哲学や心理学を学ぶ意味、そして「自分の価値」とは何かという根源的な問いに対し、岸見氏一流の導きが示された。

現代にも通ずるソクラテスの指摘

山口

岸見先生は、ギリシア哲学をはじめアルフレッド・アドラーやエーリッヒ・フロム、職場のリーダーシップ論などに関する執筆、講演、さらにはカウンセリングなど幅広いアウトプットを通じて、長年「こころ」の問題と向き合ってこられました。その中で、現在の日本人の「こころ」には、どのような問題があると感じておられるでしょうか。

岸見

私の原点はプラトン哲学、厳密に言うとプラトンが著したソクラテス哲学ですが、『ソクラテスの弁明』の中に次のような一節があります。

「世にも優れた人よ、君たちは知力においても武力においても、アテナイというもっとも評判の高い偉大な国家の一員でありながら、お金ができる限り多く手に入ることには気を使い、そして、評判や名誉には気を使っても、知恵や真実には気を使わず、魂をできるだけ優れたものにすることにも気を使わず心配もしないで、恥ずかしくはないのか」

ソクラテスが紀元前に遺したこの言葉は、現代の私たちに投げかけられたものだと言われても違和感がありません。世の中を見渡せばお金のことばかりと言っても過言ではないような恥ずべき状況です。昔から、洋の東西を問わず、人間というものはそれほど変わっていないのでしょう。

「魂を優れたものにする」ということを、プラトンは別の対話篇で「魂の世話」と表現しています。ギリシア語ではpsychestherapeia[psyche(魂)のtherapeia(世話)]と言い、「psychotherapy(サイコセラピー:心理療法)」の語源となっています。そう考えると、「世話」とは「治療」のようなもので、もしもソクラテスが今の世の中に生きていたら精神科医やカウンセラーになっていたかもしれないと思います。私自身もソクラテスをお手本として、一人一人との対話によって知を見つけ出す哲学者を志向し、彼が批判したような世の中の価値観を覆したいと努めてきました。その中で感じているのは、やはり私たちそれぞれが人生において「魂を優れたものにする」ということをしっかり考えることの必要性です。

山口

おっしゃるとおりです。「哲学者」と聞くと大学に籍を置く哲学研究者をイメージしますが、それは近代以降の話で、それ以前の著名な歴史上の哲学者、ソクラテスやプラトンはもちろん、アリストテレスもニーチェも在野研究者で、だからこそ自由に主張ができたのだと思います。岸見先生も在野の哲学者として活躍されているわけですが、その道を選ぶにあたっては迷いもおありだったそうですね。

岸見

はい。きっかけは25歳のときに母が病気で倒れたことです。当時、私は大学院生で、働いていた父や結婚して家を出た妹より融通が利きましたから、必然的に母の看病を主に引き受けることになりました。最初は意識があった母が、段々と衰弱し死に近づいていく。私は毎日その姿を見つめながら、人間というのはこのような状態においてもなお生きる意味があるのか、人生の幸せとは何なのか、深く考えさせられました。

哲学を志した以上お金を稼ごうなどとは考えていませんでしたが、当時の私は名誉というものにはなお未練もあり、大学教授になることを夢みていました。けれども、母の最後の日々を一緒にすごす中で、社会的地位などというものは死にゆくときにはまったく意味がないことに気づいてしまった。母の死後、大学院に戻ったときの自分は、もはや以前とは違っていました。それまで漠然と思い描いていた人生のイメージが崩れ去ったと言いますか、自分の前に敷かれていた人生のレールから脱線したような感覚でした。研究者として生きるつもりがなくなったわけではないけれど、ただテキストを厳密に読むことにこだわるだけの研究人生で果たしていいのか、疑問に思ってしまったのです。

画像: 現代にも通ずるソクラテスの指摘

人生のレールなどない

山口

「脱線」という言葉にはネガティブな意味もありますが、レールがないから自由に走れるとも言えます。敷かれたレールの上を走るのは、ある意味で楽なことです。自分で考えて行き先を決めなくてもいいのですから。私も子どもがおりますので、親が子に期待を押しつけて、知らず知らずに人生のレールを敷いてしまいがちな気持ちもよくわかるのですが、最初から自分で考えるようにしなければいけない。

岸見

そうですね。おっしゃるように、親や誰かに人生のレールを敷いてもらうことは、子どもにとってもそれに乗ってさえいれば大丈夫という安心感があります。もしもつまずいても「自分のせいではない」と言えますから。そのため、ほんとうは決められたレールなどないはずなのに、あると信じて、あるいは信じたつもりで生きている人が、若者だけでなく年を重ねた人にも多いのでしょう。

山口

困ったことに、期待を押しつけてレールを敷いている側も「自分の人生は自分で決めるもの」ということを自覚していない場合がほとんどですよね。

岸見

子どものためによかれと思って人生のレールを敷こうとしているのでしょう。それが実は子どものためにならないということを親は知らないはずです。なぜなら親もレールが敷かれた人生しか歩んでこなかったので、自分で決める人生というものが、どういうものかわかっていないからです。

自分で考えて決めるということは、安心感を手放し、自分の人生に責任を負うことです。ときには後悔することもあるでしょう。でもそれが自由に生きるということで、自由と責任を引き受けることを選べないのは、危ういことだと思います。

山口

フランスの作家、ポール・ブールジェが「自分の考えたとおりに生きなければならない。そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう」(『真昼の悪魔』の一節)という言葉を遺しています。これはとても大切なことを言っていると思います。

例えば学校の偏差値、企業の時価総額や売上高など、いろいろなことが数字でランキング化されている状況というのは、ある意味では考えないで済むわけです。よりランクの高いほうに価値があるのだから、ただ上をめざせばいいということになる。ただし、それは親の期待とはまた別の、世間の評価という「呪い」になって自分の自由を縛ることになる。考えて生きずに済むことは一見楽なようで、苦しいことでもあると思います。

岸見

そうですね。人は親の期待や世間の評価を満たすために生きているのではないということに気づき、自分の人生を取り戻してほしい。私が若い人との対話やカウンセリングを続けてきた背景には、そうした思いがあります。


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ソクラテス、アドラー、フロムに学ぶ「勇気」【その2】人類を信頼して、声を上げる勇気を】より

昨今の社会問題を例に、その根本的な原因について問う山口氏に、人は「他人からどう思われるか」や「自分のためになるか」で物事を判断しているからだと指摘する岸見氏。間違っていると感じたならば、賛同者が現れることを信じて指摘する勇気を持ってほしいと岸見氏は説く。

「成功主義者ほど御し易いものはない」

山口

このところ、カルト宗教の問題や有名企業の不祥事などが相次いでいますが、それらの問題の本質には共通点があると思います。それは法的、あるいは道義的な問題を以前から指摘され、内部の人たちも認識していたにもかかわらず、自浄作用が働かなかったこと、さらに本来であればそうしたことを告発すべきジャーナリズムが一部しか機能せず、何らかの大きな力がなければ物事が動かなかったということです。特に宗教問題ではテロルという本来あってはならない暴力による告発がなされ、あろうことか犯人の意図したとおりの展開になっている。これは信じがたいことですが、先生はこの問題をどうご覧になっていますか。

岸見

世の中が正義を軸に動いているわけではないということですね。最初に引いたソクラテスの言葉のとおり、「評判や名誉」つまり「他人からどう思われるか」ということばかりに意識が向いていて、道義的におかしなことでも隠し通せるならそれが一番いいと判断しているのでしょう。問題を起こした組織の内部には疑問を感じていた人も多かったはずですが、「その中の常識」を覆す勇気を持てなかったのではないかと思います。

告発すれば、組織の中での自分の居場所がなくなってしまいます。多くの人は所属する組織のランクが自分自身の価値を表すと勘違いしていますから、自分の価値を裏づけている組織から追い出されるようなことがあっては困る、ゆえに口をつぐんでいたというのが実際のところではないでしょうか。

山口

自分の居場所を守りたいのであれば、「外から何を言われようと、これが自分たちの論理だ」と押し通してもいいと思うのですが、問題が発覚すると手のひらを返したようになるのも、他人の目だけを気にしているから、ということですね。

岸見

人間というのは常に「何が自分のためになるか」ということを基準に判断しているものです。ギリシア語では「善(agathon)」という言葉は「ためになる」という意味で、道徳的に正しいということではありません。逆に「悪(kakon)」は「ためにならない」という意味ですから、ギリシア語の善悪で言うと、ある人にとって自分の属する組織を守ることは、たとえ組織が法を犯していたとしても「善=自分のためになる」のです。だから、世の中でおかしいという声が高まり、組織を守ることが自分のためにならないと思えば、簡単に善悪は逆転します。

山口

つまり「自然法」のような、個別の組織の論理を超越した普遍的な規範ではなく、状況に応じて変化する基準によって振る舞いを決めているわけですね。そう考えると、日本人は赤信号を律義に守り、街にゴミを捨てたりしないなど、秩序を愛し道徳的だと言われる一方で、企業の不祥事、検査不正や偽装などが次々と起きているのは、矛盾しているようでしていないということでしょうか。

岸見

そうですね。哲学者の三木清が『人生論ノート』の中で「部下を御してゆく手近な道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである」、そして「成功主義者ほど御し易いものはない」と書いています。出世することに価値があるという価値観を植えつけられている人は、不正を見て見ぬふりをすれば昇進できると言っておけば、容易にコントロールできます。自分で考えて、自分の内なる正義に照らして行動しているのではないからです。コロナ禍で問題となったマスクの着用も、日本人の公衆衛生の意識が高いからというだけではなく、皆がしているのに自分だけ外す勇気を持てずに漫然とつけていた人も多いのではないかと思います。

馬につきまとうアブが必要

山口

おっしゃるように周囲を気にして行動を決めているにすぎない人々が多いというのは、ある意味で恐ろしい社会ですよね。ユダヤ系ドイツ人の政治哲学者、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』の中で、共同体としての国家が崩壊していく中で国民をまとめるために「疑似宗教的な世界観」を掲げたことが全体主義の始まりだと分析していますが、普遍的な正義がない社会は全体主義に傾きやすいのではないかと思います。

岸見

たった一人の独裁者の問題ではなく、それを許す多くの人がいる、と言いますか、それに疑問を感じても声を上げる勇気を持てない人が多いことが問題ですね。

山口

経済学者のアルバート・O・ハーシュマンは、『離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応』の中で、組織の問題は、それに不満を感じて組織から離脱する行動や、問題に対する発言があってこそ解消できると指摘しています。離脱や発言がなければ組織のおかしなシステムが修正されないままどんどん悪化していくわけですから、離脱や発言ができるかどうかは組織のレジリエンスに関わる問題です。

正義などと言うと、「青臭いことを言ってないで大人になれ」といったことを言われますが、むしろ大人だからこそ「何が正義なのか」をきちんと考えなければいけないはずです。「大人になれ」と言う人は、自分こそが大人ではないことに気づいていないと思うのですが、正義が実行できる大人であるためには、何が必要なのでしょうか。

岸見

うまく言えませんが、「人類を信頼すること」ではないでしょうか。意思決定者の間違った判断は、どの組織でも起こり得ることです。そのときに、理性を持った人、何が正義なのか正しく判断できる人ならおかしいと感じるはずで、その声を上げる勇気を持てるかどうかが問題です。勇気を持つために大切なのは、最初は少数派でも、やがて必ず支持する人、賛同者が増え、大きな力になると信じることです。ご指摘のような組織の問題が表面化したのも、そうやって賛同者が増えたことの表れではないでしょうか。間違ったことは長く続かないのがノーマルなのだということを、私たちは知っていなければいけません。

山口

ソクラテスは「私は馬につきまとうアブのようなものだ」と言いましたね。馬というのは国のことで、アブは馬を刺すから嫌われるけれど、巨大な馬のように鈍重でうとうとしている国には、時折チクリと刺して目を覚まさせる存在が必要なのだと。

岸見

それが哲学者の役割なのですが、哲学者だけの役割だとは思ってほしくないですね。(第3回へつづく)

https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17686446 【山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」 自分の人生を生きるソクラテス、アドラー、フロムに学ぶ「勇気」【その3】孤立はしても孤独ではない】より

自分の人生を生きる ソクラテス、アドラー、フロムに学ぶ「勇気」経営有識者リベラルアーツ

エミール・デュルケームや小坂井敏晶氏の言説を引き、逸脱があるからこそ社会は変化すると指摘する山口氏。それを受けて岸見氏は、人は本来、逸脱しがちな性質を持つものであり、孤立することを恐れずにエキセントリシティを発揮することが大切だと話す。

「第1回:自由と責任を引き受けるということ」はこちら>

「第2回:人類を信頼して、声を上げる勇気を」はこちら>

「第3回:孤立はしても孤独ではない」

逸脱があるからこそ社会が変化する

山口

ここ20年ほどの間に存在感を増している企業のビジネスについて概観すると、社会運動のような側面を持つケースが多いことに私は注目しています。儲かりそうだから、ではなく、脱炭素や環境保全といった社会的なコンセンサスのとれていなかった問題を提起し、事業を通じてその解決をめざす企業が成長しているのです。

おっしゃったように、最初は少数派であっても「これはおかしい」と言い出す人がいるからこそ、問題に気づく人が現れ、社会が変化していくのだと思います。チクリと刺すアブのような人の存在がその社会の活力につながるわけですね。

アメリカの政治学者、エリカ・チェノウェスは、世界では21世紀に入ってからの20年間だけでも20世紀の100年に起こったよりも多くの社会運動が起こり、かなりの程度それが成功していることから、「人口の3.5%が非暴力で立ち上がれば社会は変わる」と言っています。インターネットなどで一般市民が情報や意見を発信できる力を持てるようになったことで、個人が社会変革を起こす力は高まっていると言えます。

ところが日本では、社会変革に対する無力感が増しているようです。NHK放送文化研究所が1973年から5年ごとに行っている「日本人の意識」調査の項目の1つに「政治的有効性感覚」があります。社会運動や選挙での意思表示が政治に影響を及ぼしていると感じるかどうかを調べた項目ですが、影響を及ぼしていると感じる人の割合が回を追うごとに減少しているのです。

一方で、日本の犯罪率を調べてみると、刑法犯の認知件数は戦後最多となった2002年をピークに減少を続け、現在はピーク時の半分以下になっています。2002年にかけて件数が増加したのも、犯罪自体が増えたというより警察の対応が変化したためと見られ、青少年の重大犯罪も減少しています。治安がよいのは歓迎すべきことですが、それが社会変革に対する無力感とも関係している可能性があります。

フランスの社会学者、エミール・デュルケームは、犯罪がある社会は正常な状態で、犯罪は道徳意識の進化に有益なものであると説いています。犯罪だから非難されるのではなく、われわれが非難するから犯罪と呼ばれるのだ、と。そのデュルケームの言説を基に、社会心理学者の小坂井敏晶氏は『社会心理学講義』の中で「犯罪と創造は多様性の同義語である」と書いています。正常な社会では、社会を維持するために規範というものが成立するために、それに対する逸脱がある。逸脱の中でポジティブに評価されるものは創造として受け入れられ、否定的にとらえられるものは非常識、場合によっては悪として排除されるけれど、それは後付けの整理でしかないわけです。

逸脱=犯罪が起きないということは多様性が低く、創造や変化も起きにくい。逸脱があるからこそ社会、組織、システムが変化する。そう考えると治安のよさと社会の閉塞感は矛盾しないことになりますが、社会の秩序と、逸脱の許容、つまり規範や常識だからと思考停止せずと自分で考えて行動することの両立は可能だと思われますか。

画像: 逸脱があるからこそ社会が変化する

一人の力は計り知れないほどに大きい

岸見

逸脱というのは、別の言い方をすればエキセントリックということです。「常軌を逸した」というようなネガティブな意味もありますが、三木清はその名詞形「エキセントリシティ」を「離心性」と訳しています。中心から離れる性質です。中心というのは常識的な価値観で、人間はそこから離れたがるもの、だからこそ昔から中庸ということ、「ほどほどに」ということが日常性の道徳として力説されなければならなかったのだと三木は書いています。山口さんが「大人」と表現されたことを、三木は「世なれた利口な人達」と言いました。そういう人たちはエキセントリックに生きたいけれどできなかったから、あきらめて「大人」になったわけです。

エキセントリックな人のことを、エーリッヒ・フロムは「よそ者」と表現しました。少数派、異端者ですね。そういう人が創造し、世の中を変えていく。そして、逸脱が犯罪でなく創造であるためには、フロムの言葉を借りれば、「理性」と「愛」を発達させることが大切だと思います。

ですから私たちは、本来持っているはずのエキセントリシティを発揮することを恐れてはいけない。問題なのは、エキセントリックに生きようとすると、必ずといっていいほど「孤立」することです。けれど、たとえ孤立したとしても「孤独」にはならないと私は考えます。なぜなら、さきほども言ったように声を上げた人を支持する人は必ずいるからです。

孤立しても孤独にはならないことを信じて、正しいことを恐れずに主張する人が社会には必要です。さらに言えば「それを行うのはあなた」です。ほかの人が声を上げるのを待っていてはいけない、ということを強く言いたいと思います。

山口

先生の『嫌われる勇気』の問題意識の核心はそのことにあると思います。あの作品が日本のみならず世界中で広く支持されているのも、「孤立する勇気が持てない」閉塞感が全世界を覆っていることの証左かもしれないですね。

岸見

そうですね。『幸せになる勇気』との二部作が世界合計1200万部以上売れているというのは自分としてもとんでもない数字だと思いますけれど、ベースとしているアドラー心理学が、誰もが感じている問題点を指摘するものだからではないでしょうか。

山口

とはいえ、孤立を選ぶのはやはり勇気が要ることです。

岸見

わかっていても難しいことだろうと思います。でも、一人の力というものは思った以上に大きいものです。『嫌われる勇気』の中で哲人に語らせたように、「わたしの力は計り知れないほどに大きい」と信じる人が増えてほしい。世界を変えるのは「わたし」以外にないのだということです。組織であれば、自分が入った途端に、もはや自分が入る前の組織ではなくなるのだ、というぐらいの気持ちで向き合うことが大切だと思っています。


岸見 一郎(きしみ いちろう)

1956年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。奈良女子大学文学部非常勤講師などを歴任。

著書に『嫌われる勇気』、『幸せになる勇気』(古賀史健と共著、ダイヤモンド社)、『生きづらさの克服』(筑摩書房)、『叱らない、ほめない、命じない。』(日経BP)、『三木清 人生論ノート』(NHK出版)、『エーリッヒ・フロム』(講談社)、『つながらない覚悟』(PHP研究所)、訳書にアドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)『ソクラテスの弁明』(KADOKAWA)など多数。

画像2: 自分の人生を生きる

ソクラテス、アドラー、フロムに学ぶ「勇気」

【その2】人類を信頼して、声を上げる勇気を

山口 周(やまぐち しゅう)

1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。

著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。



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