Facebook石川 真樹夫さん投稿記事·
心の本質は気づき、あるいは意識です。
しかし自我に支配されると、それは理性、思考、感覚器官として機能します。
自我によって限定されない普運的な心は、それ自体から分離したものが何もないため、ただ気づいています。
これが、聖書が「私は「私は在る」である」(I am that I am) という言葉で意味したことです。
ラマナ・マハルシ
誰もがわが神との出会いを求め、誰もが神の一人子(吾)イエス・キリストであり、ブッタであるといえるのではないでしょうか?
https://www.niigatashi-ishikai.or.jp/newsletter/my_library/202001233530.html 【『イエス・キリストは実在したのか?』】より
中村 康夫
木々の葉が落ち、山は雪を冠り、令和元年も残り少なくなった。先の11月24日キリスト教カトリック教会の頂点、教皇が広島・長崎を訪れ、“核の廃絶と真の平和”は神から課された義務だとする熱いメッセージを世界に向け発信した。歴史に数々の足跡を刻み、多くの人々の心の支えとなり、大きな影響力を持つキリスト教。歴史的にはユダヤ民族(ヘブライ人)の神髄ユダヤ教の一分派である。
戦争で焦土と化したガレキの中、十字架をつくって遊ぶどこか暗く寂しい一人ぼっちの男の子と女の子(映画 禁じられた遊び)。
懲りもなく今も止むことなく続けられている身勝手な弾圧と憎しみの紛争。
難民となり、小さな夢も奪われ、飢えと寒さに震え、怯えている多くの子供達。今何を見、何を感じているのだろうか。
昔、幼かった娘達とレコードで聴いたアンデルセンの“マッチ売りの少女”を思い出す。
クリスマスの翌朝、軒先で凍えて死んでいた小さな女の子。空腹の中さぞ寒かっただろう。
“かわいそうだからパパもう止めて”と言った末娘の声が今も耳に残っている。そうだね、“神様はどこにいたんだろうね?”
今年のある暑い、夏の日、ふと立ち寄った書店で一冊の訳本が目に止まった。
「イエス・キリストは実在したのか?」
歴史的にも大きな影響力を行使してきたキリスト教。神といわれるイエスの人間としての実像に関心はあった。
史実としてイエスはどんな時代に暮らし、何をしていたのか。
どんな事を話し、思っていたのか、どうして処刑されることになったのか?人間イエスについて真実に近づくべく、一つしかない事実に向け、探求した書であると思う。
ペルシア湾に注ぐティグリス・ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア、そして地中海沿岸のエジプトからアラビア半島の地中海岸は古代ローマの共通語(ラテン語)でオリエントと呼ばれ、その一角にあるパレスチナ。
BC1000頃ダヴィデ王はエルサレムを首都に定め、古代イスラエルを統一したが息子のソロモン王は宮殿や神殿をつくって贅をつくし、崩壊して流浪の民となったが、他の一切の支配を受け付けない神(ヤハウェ)の国を信じ、神に選ばれ、守られた民(ユダヤ民族)と自認していた。やがてBC164年念願のユダヤ国家(ハスモン家)がつくられ、100年間続いたが内部対立し、愚かにも時のローマ帝国に加勢を求めた為、逆に支配され、保護領として従属民となった。ローマはユダヤ祭司階級を利用し、大祭司がすべてを牛耳った。ローマ当局は反逆の危険分子は容赦なくすべて虐殺し、奴隷にして見せしめとした。磔を含む残虐なまでの粛清をよそにユダヤ社会の中で神殿を取り巻く特権階級や裕福な役人階級と重税に喘ぐその日暮らしの貧しい人々との間に大きな溝が生まれ、不平と不満が高まっていた。そんな中、BC4年~AD6年、イエスが誕生した(AD6年には正式にローマの属国となり、AD26年イエスを処刑したポンテオ・ピラトがユダヤ総督として派遣された)。
イエスは泥と煉瓦でつくられた小さなナザレの貧しい村で生まれ育った。一世紀のパレスチナでのユダヤ人小農では話すこと以外、ほとんど読み書きのない社会だったと言われている。伝承によれば仕事はテクトーン(建築労働者・大工)で近くの都市へ働きに出かけ貧しいながらも純粋な一青年の心はいろいろなものを見、聞き、感じていただろうことは想像にかたくない。他国からの支配下とは言え、頼みとする神殿への不満、神の国とは程遠い現状の中でイエスは何を考え、思っていたのだろう。これでいいのだろうか、いいはずはないと。腐敗した神殿当局に対し、「終末は近い。神の国は近づいた。自分達をアブラハムの末裔と決めこんで来たるべき審判からわが身を救おうとするユダヤ人に災いあれ」との不吉なメッセージを伝え歩いた預言者ヨハネ(福音書による)。
神の怒りを恐れ、真のイスラエルの民として生まれ変わる為に幾日もかけ荒涼とした原野を旅してきた多くの人々と同じようにイエスもヨハネの洗礼をヨルダン川で受けた。そして村へは帰らず、野に下り弟子となってAD28年~30年宣教活動をはじめた。
人々は民族の真の独立とユダヤ王、救世主メシアを切に待ち望んでいた。ついにAD30年ロバに乗り、熱狂的な群衆を従え、首都エルサレムの神殿に入城した。大きな教育も受けていないと言われるイエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と自分の言葉で自分の心で神殿の権威と真正面から対し、現状を非難した。この危険なメッセージと行動はローマ帝国への反逆と見倣され、ヨハネと同様、AD30年~33年磔処刑にされた。
イエス自身、こうなることは十二分に承知していた覚悟のことだったと思われる。自ら指名した十二人の弟子の一人の裏切りと言われているがAD180年異端書と非難をうけて以来、AD1970年代エジプトの砂漠で発見され、AD2000年頃ようやく解読され、判明した“ユダの福音書”がAD2006年4月アメリカで公開された。
イエス自らが指示し、密告させたと従来のユダ像を覆す内容で真偽は別としても注目を集めた(AD2006年8月19日付 日本経済新聞記事による)。一方イエスは十字架で死を迎えるまで神の救済を心から信じていたと思われる。しかしイエスの死後何も起こらなかった。そして神も動かなかった。鳥や動物の餌食となる前に信奉者の手で降ろされ、富裕層ユダヤ人墓地にメディア人として葬られた。その3日後、生身の人間として生き返った……という復活。古代エジプトやペルシアでは死者の復活はあったが高文明のギリシアでも当のユダヤ教でも認められてはいなかった。貧しい出のイエスであればこそ命がけの熱い思いは同じ立場の多くの人々の心に深く根を降ろし、大きな支えともなっていた。起こるべくして起き、疑うことなく受け入れられ、死なせてはならない、死なせたくないとの一途な切なる願いがイエスを復活させた。
磔後間もなく、一人のユダヤ人がイエスを神と呼んで民衆に訴えた為石打ちの刑で群衆に殺されたが彼らにとって人の姿をした神はユダヤの神(ヤハウェ)を冒涜する何者でもなかった。その群衆の中にいた名をサウル、地中海沿岸の豊かなローマ領から来たモーセの律法を熱烈に信奉するユダヤ人がいた。後にキリスト教に改宗し、名をパウロと改め、「キリストは神の身分でありながら、人の姿で現れた」とし、ナザレのイエスを神と呼ぶ書簡をギリシアにいる友人達に書き送っている。そして旅先では復活したイエスに遭ったという。
イエスなき後、弟ヤコブは本拠地エルサレムでイエスの帰りを待ちながら活動を続け、兄と同じく常に貧しい人々の味方であった。
ローマでは一番弟子のペテロが熱心に布教活動に力を入れていたが同じくローマで、この本家のユダヤ的な一民族の狭い地域主義と決別し、もっと広くイエスを救世主として捉えての独自の考えに基づいて布教をしていたパウロは本家からは異端と見倣され、律法においてもヤコブやペテロらと激しく対立していた。そんな中AD56年首都エルサレムでは神殿の中庭で白昼、大祭司が刺殺される事件が起きた。AD62年今度は日頃から目障りだったヤコブが大祭司に捕らえられ、処刑された。AD64年~66年、人々の不満はついに爆発、蜂起し、数年エルサレムを奪還したが激怒した時の皇帝ネロは面子にかけて本気となり、ローマでのキリスト教の弾圧に乗り出した。AD66年にはペテロとパウロを共に処刑し、エルサレムに6万人の軍勢を差し向けた。AD70年、聖都と神殿は苛酷なまで破壊され、跡形もなく壊滅された。これにより物理的にもイエスの正統的継承者は壊滅し、神殿当局から解放され、律法の足かせは外された。これまでの本家のユダヤ教とは一線をひき、イエスを救世主として信ずる以外、生き残る道はないとするこれまでのパウロのローマ的な英雄的な新しい考えが帝国内に広く受け入れられるようになった。そして十字架刑から約300年経ったAD325年、コンスタンティヌス皇帝の要請で信義は一本化され、イエスは「神の子」として正式に宣言され、AD392年教会内でのすべての異議は却下され、皇帝テオドシウスは国教に指定した。すべてのユダヤ的要素が外され、愛と平和を説く“神イエス”として生まれ変わった。そして全世界の人々に広く受け入れられ、今日に至っている。
“若きナザレのイエスの熱き思いは形が大きく変えられたが、その目指す真髄は通じているものと私は思っている”
著者はレザー・アスラン 1972年生まれ、1979年イラン・イスラーム革命時、家族と共にアメリカに亡命。
カトリック系サンタ・クララ大学で宗教学を専攻。そこで福音書のイエスと歴史上のイエスのギャップに気付き、ハーヴァード大学神学部で比較宗教学を学び、さらにカリフォルニア大学までの20年間に渡り行われた新約聖書とキリスト教運動の起源についての研究の集大成として本書が執筆された。
その中でナザレのイエスは人間としてのイエスで救世主イエスに負けず劣らずカリスマ的で魅力にあふれ、信ずるに値する人物と述べている。
訳者は白須英子(しらす・ひでこ)氏。日本女子大学英文科卒業の翻訳家。本書の後書きで次のように述べている。
「実際のイエスは平和と愛を説いた救世主(christ)ではなく、ローマ帝国とそれに結託したユダヤ教の聖職者たちによる武力と重税の支配を打破し、本当のユダヤ人の為の神の国を作る為に剣をとることも辞さなかった革命家(zealot)だったことを明らかにした。」
信仰の対象としてのイエスではなく、実際のイエスを文献学と歴史的考察をもとに浮き彫りにしようとした本書はアメリカで大反響をよんだ。
Facebook小森 圭太·さん投稿記事
私たちは長らくものごとを古典物理的な考えで捉えるやり方に慣れ親しんできました。
古典物理的な捉え方とは「自分の周りで起こる現象と、自分の意識や存在の間には関係性がない」というもの。
つまり自分の周りの現実は、自分の意識とは関係なしに勝手に起こっている、という考え方です。
そうした場合、これも当然の成り行きとして、周りで起こっている現象や現実に対する考え方が「自分にはどうにもならない。すでに固定されており変化しない」と信じていることになります。(-з-)
つまり、「あの人は私にはどうにもできない」「私は頭が悪いからこれ以上は無理」「私は経験がないからこれは出来ない」「私は昔からダメだったから今もダメ」「私の環境がこうだから私は変われない」などなど。
過去がこうだから、経験がこうだから、実績がこうだから、環境がこうだから、見た目がこうだから起こる現象は固定されている、と信じている。
そして、私には変えることが出来ないし、私も変われない、と信じている。
だから実際に現実もそうなっていると言えるのです。(−_−)
それに対して、量子力学的な物理法則で考えるとこうなります。
この世に存在するもの全ては常に変化しており、状態が固定(確定)されているものなど何もない。
つまり、全ての存在はどうにでも変化できる可能性(確率)の状態にあり、その可能性を決めているのが意識。
なぜなら、量子の状態を固定(確定)させるのは意識だからです。
そう考えるとですよ。(^人^)
あなたが「無理」と信じているものは無理という状態で確定し、「ダメ」と信じているものはダメな状態で確定するということです。
つまり、あなたの現実は、あなたが信じていることなんです。
そして、現実問題、人はなぜか自分に都合の悪い方を信じたがる。。。f^_^;
「どうせダメ」、「絶対に無理」、「そんなこと有り得ない」などなど。
そう信じても良いことなんて一つもないのに、なぜかそう信じている。そして、そう信じているので、そのような現実が起きている。量子力学的に考えるとそうなるんです。(*゚ー゚*)
そうであるなら、当然あなたにとって都合の良いことを信じた方が良いわけです。
では、あなたにとって都合の良いことってなんですかね?
不満や違和感、不足感を抱えながらも、失敗することや損すること、人からダメ出しされることを恐れ、現状を維持することの方が都合が良いのか。(-з-)
あなたの本当の氣持ちを尊重し、興味や関心のあることはなるべくトライしてみて、その結果結局は本当のあなたが望んだ状態を実現する方が都合が良いのか。(・∀・)/
言わずもがなですよね。
であるならば、あなたの氣持ちを尊重した選択(行動)をすることで、あなたの無限の可能性がどんどん広がり、あなたの環境がどんどん良くなっていく、ということを信じる、ということです。
そして実際、あなたの本当の氣持ち、感性、感覚を尊重した行動が、あなたの才能、素質の開花につながっています。
結局、あなたの才能の芽はそういうところにあるからです。
鳥もそもそも「飛ぶ才能」があるから、飛ぶことに自然と興味を持ち、飛びたいという欲求が生まれます。
そして何度もトライすることで「飛ぶ」という才能が開花する。
なので鳥であっても「飛ぶ」ことにトライしなかったら「飛べる」という才能は開花しないのです。それはあなたの素質、才能にも言えるのです。
量子力学的に考えるとこの世には可能性しかないんです。
最初から確定していて今後も変わらないことなんて一つとしてないんです。
そしてあなたは、それこそ何億通りもある可能性の中から「今ここ」で常に「どういう自分で生きるか」を決められるんです。
あなたがこの世界で、何を信じ、どう生きたいのか、「今ここ」からあなた自身が決められるのです。
あなたは、「今ここ」から、どんなあなたを信じ、どんなあなたを生きると決めますか?
そう信じて決めたことが現実になるんですよ。(*^▽^*)
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