https://4travel.jp/travelogue/10753547 【奥の細道を訪ねて最終回(第16回)27豊臣秀吉と石田三成出遭いの場所・観音寺】より
国道365号線を南下すれば関ヶ原に至るのだが、その手前で、芭蕉の句碑があると云う観音寺に立ち寄る。
芭蕉の句碑は観音寺の惣門を入ると目の前に見える。
観音寺惣門前の右手奥の杉山の梢の上に、伊吹山が予想以上に大きな姿を見せる。
残念ながらかなり部分雲に隠れていたが、それでもその美しい容姿を想像するには十分。
芭蕉は伊吹山のもつ孤高の美しさにうたれて句を詠む。
其のままに 月もたのまじ伊吹山 芭蕉
この観音寺には豊臣秀吉と石田三成が因縁の出遭いをしたエピソードが残る。
鷹狩の途上この寺に立ち寄った秀吉に寺の小僧であった三成が秀吉の要請で茶を3杯持て成す。
三成は秀吉にそ3度の茶を、秀吉の体の状態を勘案し、温度や量や器をすべて変えて供する。
秀吉は甚く感銘し、住職に乞い三成を部下として取り立てる事になり、ついには秀吉の懐刀と云われるようになる。
観音寺の惣門脇の美しい池の淵に沿って伸びる参道の入り口があり、参道を少し進んだ所に、三成が秀吉に供する茶を点てるための水を汲んだと曰く付きの井戸があった。
石段の参道を登ると正面に本堂が控え、辺りには伊吹山四大護国寺と云われる、山寺らしい風格が漲っている。
近江(滋賀県)の旅もここで終わり、いよいよ結びの地大垣のある美濃(岐阜県)に入る。
芭蕉は美濃に入る前に、観音寺の南東にある宿場・春照に宿を取ったらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%8B%E8%80%85 【天を支える者】より
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『天を支える者』(てんをささえるもの)は、前田珠子による日本のライトノベルシリーズ。イラストは明咲トウルが担当している。集英社コバルト文庫より刊行。
概要
虹の色を冠した7人の神によって作られた世界。その天と地の狭間には「空(くう)」があった。強大な力を持つ彼らは直接その世界に介入できないため、全部で108の神宝を造り、それが半身と認めた人間を柱神として天と地の間に立たせることにした。
しかし、ある時期からその制度を人々が悪用したため、神宝が歪んでしまい、長い時間をかけてその数が半減してしまった。それを受けた神々は残された神宝を守るため、その半身を見極めさせる選定者を人々の中から選び出すようになった。
これはその1人に選ばれた16歳の少女・ナルレイシアの物語である。
https://www.historyjp.com/article/416/ 【神宝の行方を追う古代史のロマン Part I歴史の舞台から置き去りにされた四国】より
ロマンに包まれた古代のミステリーツアーは四国の剣山から始まる、と言っても、誰もピンとこないことでしょう。それもそのはずです。関東在住の人で四国を旅したことのある人は限られており、つい最近まで明石海峡大橋もなく、徳島へは船か飛行機で行き来するしかなかったのです。そして天候が崩れると、四国への道はすべて閉ざされていました。日本の歴史は淡路島から始まり、徳島を中心とする阿波の国が古代から重要な位置づけを占めていたにも関わらず、何故かしら日本書紀や古事記において、四国はほぼ、かやの外に置かれ、歴史のベールに包まれていたのです。一説によると、記紀に記されている「黄泉の国」とは、四国を指すのではないかとさえ言われています。それは死国を意味するとも囁かれるようになりました。日本国史の表舞台から四国は最も遠い存在に置かれてきたのです。
古代では四国の東方はデルタに囲まれ、湿地帯が広大なエリアを占めていました。大きな河川が多いことから旅することが困難なだけでなく、一度陸に上がると、そこからは、急斜面に囲まれた断崖絶壁の山々が続いたのです。四国南方の高知県沿岸も湿地帯が多いだけでなく、時には巨大な津波に襲われることを古代の人々は知っていました。よって、四国という島そのものが、人が居住するにふさわしくない島に思われていた可能性も否めません。
剣山 宝蔵石
剣山 宝蔵石人があまり寄り付かない島であったからこそ、むしろ、古くからの文化を温存することができる場所であったとも考えられます。特に人が旅することが困難な急斜面に囲まれた高山や、人気のない遠隔地の離島などでは、外来者の介入や妨害を受けずに大切なものを秘蔵することができたと考えられます。もしかして古代の識者らは、そのような目的意識をもって、わざわざ四国を古代史の舞台から消したとは考えられないでしょうか。大切な何かが四国で秘蔵され、それらを後世に託すため、構想された可能性があるのです。
剣山の山頂にある注連縄
剣山の山頂にある注連縄昨今放映された大河ドラマ「平清盛」の中で、「平家落人伝説」の地として剣山麓にある祖谷(いや)の山里が脚光を浴びました。祖谷は今日でも人の手がほとんど入ることのない大自然に囲まれた様相をとどめており、古来の集落の雰囲気をそのまま目にすることができます。その祖谷と奥祖谷集落の東方に聳え立つのが四国の霊峰、剣山です。石鎚山に次いで西日本では2番目の標高を誇る剣山は1955mあり、その頂は、紀伊半島や淡路島、伊島、瀬戸内からも遠くに眺めることができます。
剣山では古くから、ソロモンの秘宝が隠されているとか、山頂周辺には神宝が埋められている、などの伝承が残されています。剣山とその周辺一帯には、霊峰と言われるにふさわしい特異な面持ちがあります。山の頂上付近には巨大な宝蔵石や鶴石、亀石などの奇石が存在し、頂上の近くからはご神水が流れ出ています。麓に隣接する山の中腹には巨石を御神体とした神社があり、金の鶏が埋蔵されているという伝説が言い伝えられてきました。また、近隣の神社や遺跡にはイスラエルや邪馬台国に関わるルーツが噂されているものが少なくありません。剣山はいつの日も、神宝に関わる題材と古代史のロマンに溢れています。
パノラマの絶景が広がる古代聖地、剣山
剣山頂上から紀伊水道と熊野を望む
剣山頂上から紀伊水道と熊野を望む剣山の頂上からは、東西南北にわたり、パノラマの風景を眺めることができます。北方には瀬戸内が目に入り、その先には山陰の霊峰、大山を望むことができます。その東側には淡路島もしっかりと見えます。そして真東を見ると、四国と紀伊半島の間にある紀伊水道を一望でき、更に遠くを見渡すと熊野の山脈が広がっています。南方には遠く太平洋を望み、そして西方には西日本最高峰の石鎚山の頂上を見ることができます。パノラマの絶景を楽しむことができるということは、逆からも剣山の頂上を望むことができるということです。
淡路島から望む剣山
淡路島から望む剣山古代の渡来者の多くは南方から船に乗って航海を続け、紀伊水道を経由してまず、淡路島に到達したことでしょう。その航路から見える最高峰が剣山だったのです。紀伊水道の途中にある伊島に停泊した時でも、また、淡路島の内陸からも剣山は最高峰として日本列島を旅する者の目に映りました。古代の民が信仰していた神は、高き山に住まわれる神として知られていたことから、国生みの原点である淡路島から見て最高峰の剣山が霊峰として認識されたことは言うまでもありません。しかも四国の山は険しく、随所に断崖絶壁が広がることから、霊峰の山頂に到達することは容易ではなかったのです。禁断の地とも思われた人里離れた剣山こそ、古代の聖地となるにふさわしい地勢を有していたのです。
聖地を結ぶ仮想線の不思議
伊勢神宮 本殿鳥居
伊勢神宮 本殿鳥居剣山への憧れと思いを馳せていた2006年のある日、パソコンを見ながらふと、GOOGLEマップを開いて剣山の頂上から伊勢神宮に向けて線を引いてみました。すると地図上に引かれた赤い直線が高野山のマークがついている丸印の真上を通り抜けていることに気がつきました。高野山という山はなく、周辺一帯が高野山と呼ばれていますが、それでも地図上に記された高野山の箇所をぴたりと通り抜け、伊勢神宮と繋がっていることを目の当たりにしたのです(2017年現在、GOOGLEマップにおける高野山の丸印は金剛峯寺の3.6㎞南に位置し、2006年当時とは異なっています)。空海の最後の拠点となった金剛峯寺も、その直線から1㎞少々離れた所にありました。足元の悪い急斜面に囲まれ、決して住み心地の良い場所とは言えない高野山の山麓を、空海が生涯を終える地としてわざわざ選んだのは、その場所が剣山と伊勢神宮に結び付けられている一直線上の場所であったからではないか、そんな思いが脳裏をかすめました。そこで、空海という偉大な人物像に注目し、古代史をこれまでとは違った観点から見つめ直してみました。
剣山と伊勢神宮を結ぶ仮想線
剣山と伊勢神宮を結ぶ仮想線
金の鶏埋蔵伝説がある石尾神社
空海にとって、幼少時から剣山は極めて重要な存在だったことでしょう。生まれ故郷の香川の地からは剣山の山頂を遠くに眺めることができたことから、剣山は、空海にとっても憧れの霊峰であったに違いありません。香川方面から徒歩で剣山を登頂する際には、片道1か月の旅を覚悟しなければなりませんでした。岩の裂け目が参道となる石尾神社
岩の裂け目が参道となる石尾神社まず、平野部のデルタでは吉野川を含むいくつかの巨大な河川を渡ってから山道を登り始めます。途中、巨石が祀られている美馬市穴吹の石尾神社を訪れ、そこで神を参拝してから剣山へと向かうことが、古代からのしきたりになっていたのです。その石尾神社こそ、金の鶏が埋蔵されているという伝説が残されている聖地です。巨石の真上には高野山に多く生えているコウヤマキが生え茂り、それらは人工的に空海が植えたものであると推測されます。そして石尾神社から杖立峠を越えて剣山頂に向かう旅路は大変険しいものでしたが、それでも古代の人々は、剣山の山頂を目指してひたすら歩き続けたのです。
神宝が持ち込まれた形跡に気付く空海
信仰に熱心だった空海も、剣山を登頂したに違いありません。そして剣山に纏わる多くの伝承を学び、それらに関連する史実を研究したことでしょう。中には、イスラエルのルーツが噂される遺跡や伝承も多く存在したことから、語学の天才である空海は率先してヘブライ語も学び、理解することに努めたのではないかと思われます。そして多くの日本語や地名などが、実はヘブライ語で大事な意味を持つだけでなく、古くから執り行われている宗教的な行事もイスラエルの文化と密接していることに気が付いたのです。
剣山 亀岩 鶴岩
剣山 亀岩 鶴岩例えば剣山頂近くの鶴石、亀石と呼ばれる奇石です。これらは単なる動物の名称がつけられているように考えられがちですが、実はそうではありません。ヘブライ語で「ツー」は神、また、「カメ」「カメァ」は、お守りを意味します。よって、鶴亀とは、「神の守り」を指します。山頂の宝蔵石が鶴石と亀石によって守られているという図式が剣山には存在することは、様々な伝承のとおり、イスラエル民族が大陸を横断して日本に到来し、剣山周辺にも集落を形成した痕跡と考えられるのではないでしょうか。そしてイスラエル民族は神宝を大切にしたことから、日本へ渡来した際にも必ずや神宝を携えてきたに違いなく、四国にも神宝が持ち込まれた可能性があることを空海は察知したのです。
元伊勢御巡幸と剣山のレイライン
伊勢神宮内宮の参道
伊勢神宮内宮の参道神宝といえば、天照大神が祀られている伊勢神宮が日本の神社の中でも重要な位置を占めています。その背景には神宝を携えて1世紀近くにわたり近畿地方を中心に遷座を繰り返した元伊勢の御巡幸があります。空海の時代から8世紀も遡る1世紀前後のことでした。元伊勢の御巡幸の究極の目的は、外敵から神宝を守ることであり、そのために、どこに神宝があるかわからなくなるように、壮大なドラマが仕組まれたと考えられます。そして不思議なことに、元伊勢として厳選された聖なる場所のすべてが、剣山と他の聖地を結ぶ一直線上に存在していたのです。それは、1世紀にわたる元伊勢語巡幸の最終目的地が剣山であったことをほのめかしているようにも見えます。果たして元伊勢御巡幸の本質は、剣山に神宝を秘蔵するための隠蔽工作だったのでしょうか(元伊勢のレイライン参照)。
剣山と絡む元伊勢のレイライン
もしそうだと仮定しても、御巡幸の結果、どのような神宝が剣山にもたらされたかは定かではありません。しかしながら空海は、地勢を見極める天才として名高い和気清麻呂からも聖地の見極め方や、それらが一直線上に並んで紐付けられることの重要性を伝授されていました。それ故、空海にとって、元伊勢の御巡幸が示唆した暗号とも思える剣山の位置付けは、神宝の行方を理解する上での決定的な史料に思えたことでしょう。
邪馬台国は剣山周辺に存在したか?
実際、元伊勢御巡幸の直後、およそ1世紀を経て、邪馬台国が突如として台頭しました。卑弥呼と呼ばれる神がかった女王の背景には神宝の存在があったに違いなく、神秘的な霊峰、剣山に秘蔵された神宝を背景に、中国史書にまで記される巨大国家勢力へと様変わりするのです。邪馬台国の比定地に関しては様々な論争が繰り広げられていますが、元伊勢の御巡幸に続く船の移動経路と各地における拠点の発展と、それらの直線上のつながりを見ると、その行く先にも剣山が見えてきます(「邪馬台国の真実」参照)。ところが邪馬台国は短命に終わり、火で焼かれることにより、歴史からその姿を消すことになります。剣山の頂上周辺一帯には樹木がほとんどなく、草原の様相を呈していることは、その名残なのかもしれません。
剣山と神宝に纏わる空海の想い
剣山の山の背
剣山の山の背剣山の歴史には、国家の未来を占う神宝の行方が絡んでいると考えられます。その史実を確かめる使命感に燃えたのが空海でした。悲運の生涯を遂げた卑弥呼と、その背景に潜む神宝と剣山の関係を理解することは、空海自身にとっても最重要課題でした。そして長年にわたるリサーチの結果、剣山には少なくとも一時、イスラエルの神宝が秘蔵されていたことを確信したからこそ、剣山と伊勢神宮を結ぶ仮想の線上に、自らの生涯を全うする拠点を持つことを願い求めたのです。
もし剣山に神宝が秘蔵されていたとするならば、邪馬台国が焼かれて壊滅する前に取り出され、別の場所に移設されたことでしょう。イスラエルの神宝は滅びることがないと考えられるからです。その行方を確認し、神宝を保全することが、いつしか空海のライフワークになったと想定できます。それ故、空海は全国をくまなく巡り回り、聖地同士の繋がりをレイラインと呼ばれる仮想の直線にて確認し、古代の英知に迫ったのです。そして国家の政情が不安定になる最中、朝廷の命を受けて、神宝を祀り、安全な場所に秘蔵する役目を仰せ付けられたのではないでしょうか。
四国88ヶ所霊場 岩屋寺
四国88ヶ所霊場 岩屋寺その過程において空海は、剣山を中心として巡り歩く四国88ヶ所霊場と呼ばれる遍路を定め、元伊勢の御巡幸と同じように、剣山の存在とその重要性がいつしかわかる時がくるようにしたのです。また、へブライ語の信仰告白を、同等の発音を持つ日本語の歌に置き換えて折句のような暗号文にし、さらにヘブライ語のアルファベットから仮名文字を創作したりしながら、独創性に富んだ巧みな手法をもって、イスラエルのルーツを日本の言語そのものにも組み込んでいったのです。こうして日本人は暗黙のうちに、誰でも日本語の歌を口ずさんでいるうちに、知らずとヘブライ語で神を崇めているようになりました。まず、神を言葉で崇めることが大事であることを知っていた空海だからこそ、より多くの日本の民を神様に近づけるため、文字の創作と折句の歌、という奇想天外な発想に基づく究極の手段を空海は講じたのです。(次号に続く)
https://www.historyjp.com/article/418/ 【神宝の行方を追う古代史のロマン Part II
六芒星のレイラインから浮かび上がる古代の聖地】より
四国剣山に秘められたダヴィンチコード
剣山の頂上岩場から眺める馬の背
四国の剣山にはソロモンの秘宝が埋蔵されているという噂が古くから言い伝えられています。剣山のある三好市の公報においても、その伝承について明記されています。百聞は一見にしかず。自分の目で剣山を見て確かめることに!2009年6月20日、念願の剣山に初登頂し、その周辺を探索し、頂上につながるいくつもの山道を行き来しながら、剣山の醍醐味を味わうことができました。剣山の大自然に、心が震え、満たされたことを今でもはっきりと覚えています。
伊勢神宮 正宮 皇大神宮
その感動の初登頂から間もないある日、剣山の地図をじっと見つめながらいろいろと考えごとをしていました。その時、何故か伊勢神宮の存在が気になり、剣山と伊勢神宮が結び付いているような気がしたのです。そこでパソコン画面の地図上にて、剣山と伊勢神宮を結ぶ1本の線を引いてみました。それが剣山に秘められた、イスラエル神宝の行方の鍵を握るダヴィンチコードの扉を開けるきっかけになるとは、当時、思ってもいませんでした。
聖地を結び付けるレイラインの意義
その1本の仮想線上に高野山が存在することにふと気が付いたことで、古代史に絡めて日本の地理を学ぶ面白さに魅了され、日本列島全体を研究する意欲が湧いてきたことは大きな収穫でした。一般的には山々の周辺一帯を高野山と呼んでおり、高野山という場所は地図上にピンポイントで指定することはできません。それでも高野山のアイコンポイントがGoogleマップ上、剣山と伊勢神宮内宮とを結ぶ線上に一列に並んだことは偶然とは思えず、感動してしまいました。それからというもの、日本の地図を全く違った視点から見るようになり、神社や霊山として親しまれてきた山々の多くが、不思議と一直線に並んでいるという事実に目を留めるようになったのです。
大勢の人々が神を参拝してきた神社や山の頂上が仮想の線上で繋がっているという事実に目覚めることは、古代史の流れを理解する上で極めて重要です。なぜなら、2点を結ぶ直線上に神社を建立する場所を特定するということは、その地点がたとえ人里離れた山奥でもピンポイントで探しやすくなるだけでなく、創設者がその場所を探し求めた意図や背景や、神社が造営された順番も特定できると考えられるからです。
例えば高野山金剛峯寺は剣山と伊勢神宮を結ぶ直線上に並ぶように意図的に特定されたと推測されます。そのことから、その直線を結ぶ両端に存在する剣山と伊勢神宮は、金剛峯寺の創設者である空海にとって極めて重要な存在であったことがわかります。また、金剛峯寺は伊勢神宮を基点として場所が選ばれ、そこに建立されていることから、伊勢神宮よりも後の時代の建造物であることもわかります。このように神社や地の指標、霊峰等を結ぶ仮想線はレイラインと呼ばれ、歴史の謎を紐解く大切な情報源となります。
伊勢神宮と京都御所、剣山を紐付ける高野山
剣山頂からのパノラマを展望
剣山頂からのパノラマを展望古代の民がどのように、遠く離れた拠点を結び付けて仮想の線引きをしながら、その直線上に新たなる拠点をピンポイントで見出したかは定かではありません。例えば剣山と伊勢神宮は四国の中心から紀伊半島の東端まで広がり、その距離は250㎞もあります。よって、それらを結ぶ線引きが難しいだけでなく、その線上に拠点を見出すことは困難を極めたに違いありません。しかしながら天文学に長けていた古代の識者らは、天空の太陽、月、星の動きを検証することにより、時間と空間の感性を極めただけでなく、優れた地理感も有していたのです。
遣唐使として中国で学びの時を持った空海もその識者の一人でした。しかも列島各地を自らの足でくまなく行脚し、日本の地勢感をしっかりと把握していたと考えられることから、思いのままに地図を描くことができたのではないでしょうか。それ故、空海が生まれ育った四国の霊峰と言われる剣山と、天皇家を祀る伊勢神宮が繋がる場所に高野山の聖地を定め、その山奥に自らの人生を全うするにふさわしい金剛峯寺を建立することができたと推測されます。
伊勢神宮 風日祈宮
伊勢神宮 風日祈宮その場所を見定めるためには、伊勢神宮と剣山を結ぶレイラインと呼ばれる1本の仮想線だけでなく、もうひとつ別のレイラインを特定し、それと交差する箇所を見出すか、もしくは伊勢神宮から他の聖地までの距離が、レイライン上でも一致する距離の場所に見つけることにより、目的地を見出すことができるはずです。高野山の場所は、後者の距離関係からピンポイントでレイライン上に金剛峯寺の場所が特定されたと推定されます。
まず、伊勢神宮と高野山の距離に注目してみました。高野山は前述したとおり、ピンポイントで特定できる場所はありません。それでもグーグルマップの情報に基づき、高野山の中心としてマークされていた場所から伊勢神宮までの距離を測ると108㎞あります。その距離に注視しながら、伊勢神宮から同じ距離を持つ聖地が他にも存在しないか地図上で検証してみました。もし108㎞離れた場所に何かしら聖地が存在するならば、その場所が、伊勢神宮からの距離を測るレファレンスとして当初用いられ、高野山の聖地、金剛峯寺の建立地をピンポイントで特定することができた可能性が見えてきます。
そこで伊勢神宮を中心点として、弧を描くように108㎞離れた地点を、紀伊半島西方から北方に向けて地図上に線引きしてみました。するとその線は北西方向にある京都御所にあたりました。平安時代において京都御所は、平安京内の北東部に位置したことがわかっています。空海の父方は皇族との繋がりが深く、空海も10代の頃から奈良に出入りし、勉学に励んできたと言われています。その後、新たに遷都する平安京の地を見出して天皇に進言をした和気清麻呂とも交流を深め、平安京にも足を運んでいた空海にとって、天皇が住まわれる都は大切な聖地であったに違いありません。よって、伊勢神宮と剣山を結ぶ線上で、伊勢神宮から平安京までの距離と同じ108㎞の地点を、空海の生涯を全うする高野山の聖地としたのではないかと推測されます。
空海の父方は皇族との繋がりが深く、空海も10代の頃から奈良に出入りし、勉学に励んできたと言われています。また、空海は新たに遷都する平安京の地を見出して天皇に進言をした和気清麻呂とも面識があったことから、空海にとって天皇が住まわれる京都は大切な聖地であったに違いありません。よって、伊勢神宮と剣山を結ぶ線上で、伊勢から京都までの距離と同じ108㎞の地点を、空海の生涯を全うする高野山の聖地としたのではないかと推測されます。
つまり高野山の場所とは、レイライン上において伊勢神宮と剣山を紐づけるだけでなく、京都御所とも繋がっていたのです。これは高野山金剛峯寺の創設者が、その建立地を伊勢神宮だけでなく、日本国天皇がお住まいになられる御所とも繋がりを持たせ、さらには剣山とも紐付けられるように目論んだ結果と考えられます。そこまで日本の地理と紀伊周辺の地勢を十分に検証したうえで、空海は高野山の場所を比類なき聖地として特定したのではないでしょうか。空海にとって、剣山と伊勢神宮、京都御所を結び付けることができる場所に神社を建立することは、願ってもないことでした。
神宝に繋がる石上神宮と伊勢神宮
伊勢神宮を基点とする三角形のレイライン
伊勢神宮を基点とする三角形のレイライン
伊勢神宮を基点として西には高野山と剣山、北方には京都御所が扇状に広がることから、地図を見ながらふと、次に注目したのは、その間に挟まれた扇状のエリアです。そこで試しに伊勢神宮から扇状の中間、北西方向にむけて仮想線を引いてみることにしました。すると、その線上には古代神宮の一つとして日本書紀や古事記にも記され、最も由緒ある神社として知られている石上(いそのかみ)神宮が存在していたのです。これはレイライン上において、伊勢神宮と石上神宮が剣山に結び付いていることを示唆しています。伊勢神宮と石上神宮を結ぶレイラインの延長線には、神宝に纏わる重要な聖地の場所が他にも存在することからしても、このレイラインの重要性がわかります。
石上神宮は記紀に記されている最も古い神宮です。日本書紀によると、スサノオノミコトが八岐大蛇を切った十握剣は岡山の石上布都魂神社を経由して、石上神宮に収められたことになっています。また古事記には、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原平定の際に用いた剣が布都御魂として石上神宮に宝蔵されたことが書かれています。石上神宮には神剣が古代より宝蔵され、神宝に纏わる由緒が豊富であることから、その歴史の流れに注目することは、神宝の行方を学ぶ上で重要です。実際、これら神宝が石上神宮において管理されるようになったのは垂仁天皇の時代といわれ、それはまさに神宝を携えながら一世紀近くにわたり、聖地を転々と巡り回った元伊勢御巡幸の時代に重なります。
神宝に絡む古代の神社として名高い石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿石上神宮は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体としています。その石上神宮がレイライン上で伊勢神宮と京都御所、剣山と繋がっているということは、他の聖地も同様に神宝と深い関わりを持っている可能性があることを示唆しています。実際、伊勢神宮を基点としてレイラインで結ばれているこれらの聖地はいずれも、神宝というテーマを共有しています。伊勢神宮に限らず、天皇がお住まいになられた京の都、平安京においても神宝は大切に保管されていました。また、元伊勢御巡幸による神宝の遷座によって最終的に神宝が秘蔵されたと考えられる場所は、レイラインの検証から剣山であったと理解できます。それ故、剣山周辺の集落では、神宝に纏わる伝承が今日まで残されてきたのです。
その石上神宮からの距離を測ると、京都御所までは48.3㎞。金剛峯寺までは49.3㎞と、ほぼ同じです。これは偶然の一致とは言えないでしょう。地図上では物部氏が統括する武器倉庫の本丸である石上神宮を中心に、その北方には京都御所が、南方には金剛峯寺があるように見えます。石上神宮は長年、物部氏によって祭祀が行われてきた経緯があり、物部氏のルーツは古代イスラエルの祭祀一族であるレビ族に結び付いている可能性が高いことにも注目です。その石上神宮が、元伊勢御巡幸の最終拠点となった伊勢神宮とレイラインで結び付けられ、そこが京都御所と高野山、剣山をも結ぶ接点にもなったのです。
石上神宮の摂社 七座社
石上神宮の摂社 七座社これら拠点はすべて、神宝に絡む大切な古代聖地であり、それらが見事にレイラインと呼ばれる仮想線上で紐付けられていたのです。それらレイラインのひとつである伊勢神宮と剣山を結ぶ線上に、空海は自らの最終拠点となる高野山の地をピンポイントで見出し、そこに金剛峯寺を建立したのです。こうして金剛峯寺は、いつの日もレイラインという仮想線上にて、伊勢神宮、京都御所、石上神宮、そして剣山とも繋がることになりました。そして無名の山麓であった高野山にはいつしか多くの行者や僧侶が集結し、国家の発展と安泰に貢献してきただけでなく、今日、世界遺産に認定されるまで、その名声は世界に述べ伝えられてきたのです。神宝を大切に秘蔵する責務と、それらを後世に託すことをライフワークとした空海の熱い思いを、高野山の存在から垣間見ることができます。
六芒星から浮かび上がる元伊勢の聖地
これまでの考察から浮かびあがった三つの拠点、伊勢神宮と京都御所、高野山を結ぶと、正三角形に近い二等辺三角形になります。その形状を思い浮かべながら、同じ形状の二等辺三角形を逆方向にずらして重ねたら、イスラエルのシンボルでもあるダビデの星、六芒星の形が作れるのと思い、地図上で線引きをしてみました。問題は伊勢神宮に相対する西側の頂点となる拠点が定まっていないことでした。そこで、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ同一線上で、逆二等辺三角形の頂点として六芒星を描くことができそうな神社や遺跡、その他史跡を探してみました。すると一か所だけ、六芒星の頂点となり得る場所が浮かびあがってきました。
六芒星のレイライン
六芒星のレイライン
大龍寺 大師堂
大龍寺 大師堂兵庫県の新神戸駅北側には再度山と呼ばれる山があり、その山麓には大龍寺というお寺が建立されています。普段は聞いたこともない山と寺の名前ですが、伊勢神宮と石上神宮という神宝に関わる極めて重要な古代の聖地を結ぶ線上に存在することから、有無を問わず再度山の背景を調べてみました。すると驚くことに、この再度山は空海ゆかりの地であるだけでなく、空海自身が特別視した重要な聖地だったのです。また、天皇一族にお仕えし、京都の聖地を見出した天才的な地理学者、和気清麻呂が当初、見出した場所であり、大龍寺の基となる道場を創設していたのです。
天皇がお住まいになられる御所と、伊勢神宮、高野山が、地理的には二等辺三角形の形で繋がっているだけでなく、その中心となる伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線上に、空海と和気清麻呂が拠点とした大龍寺、再度山があるという事実を目の当たりにし、もはやレイラインの存在を疑う理由はありませんでした。早速大龍寺を西側の頂点として、そこから二等辺三角形を描き、ダビデの星となる六芒星を地図上に線引きしてみました。古代史ロマンの幕開けです!
まず、伊勢神宮を基点として京都御所と高野山双方が108㎞の距離に位置しているように、今度は逆側の再度山を基点として、同じ108㎞の辺を持つ二等辺三角形を描いてみました。もし、レイラインの構想が背後で働いているとするならば、その頂点に何かしら大切な拠点となる神社や聖地があると考えたのです。そこで東北東の方向を注視すると、108㎞の地点は古代の霊峰として名高い御在所岳に近く、周辺には甲賀市、亀山市があります。その周辺の地域を見ていくと、滋賀県蒲生郡の若宮神社が目に入りました。再度山からちょうど108㎞の地点に建立されているだけでなく、元伊勢御巡幸地のひとつと思い、調べていくうちに、神宝の遷座に関わる元伊勢の甲可日雲宮比定地となっていたのは、若宮神社から南東方向に2.5km程向かった場所にある、もうひとつの若宮神社でした。
若宮神社 鳥居
若宮神社 鳥居甲賀市の大河原にある若宮神社は、再度山から見てちょうど110㎞となる地点にあり、御在所岳の頂上からは約8.5㎞手前に位置します。社伝によると若宮神社の創建は奈良時代初期の718年と記載されています。境内社は皇大神宮とも呼ばれ、元伊勢御巡幸の際に倭姫命御一行が滞在された甲可日雲宮の比定地として知られています。元伊勢御巡幸の主なる目的は神宝を加護するため、各地を巡り周りながら、神宝の最終的な遷座地を見出すことにありました。よって、若宮神社も神宝と深い関わりあいを持つ神社なのです。それ故、伊勢神宮、石上神宮、京都御所、高野山と同様に神宝という共通のテーマを介し、レイラインという仮想線を通して互いに繋がっていることに何ら不思議はありません。残るは再度山から見て、南東方向に存在するであろう、もうひとつの六芒星頂点です。
紀伊半島の秘境を有する大台ヶ原
「象の背」と呼ばれる便石山の巨石
「象の背」と呼ばれる便石山の巨石四国剣山の「馬の背」
四国剣山の「馬の背」
神宝の歴史に繋がる若宮神社が再度山から110㎞離れているという事実を確認したことから、南東方向の同じ距離にも重要な聖地が存在している可能性が見えてきました。もし、再度山を頂点として正三角形に近い二等辺三角形を構成するレイラインが存在するならば、伊勢神宮を頂点とする三角形に重ねて六芒星を形成することができます。そこで地図を再び検証しながら、再度山から110km前後離れている地点を検証してみました。
当初注目したのが、熊野灘沿いの尾鷲市近くにある標高611mの便石(びんし)山です。山の頂上近くには「象の背」とよばれる巨石があり、そこから太平洋の絶景を眺めることができます。四国剣山の頂上から眺めることのできる「馬の背」と呼ばれる山の尾根を彷彿させる巨石であるだけに、再度山、若宮神社と共に三角形を成すレイラインの頂点を形成するには、もってこいの拠点に思えました。しかしながら、再度山からの距離は115㎞となり、当初の想定である108から110㎞の距離よりも、さらに5㎞長くなってしまいます。
六芒星の一点を成す大台ケ原
他に該当する聖地がないかと地図上を探していると、ふと大台ヶ原が目に入りました。大台ヶ原は複数の山から形成され、三重県最高峰の日出ヶ岳、標高1695mも含まれています。日本屈指の豪雨山地としても知られ、年間の平均雨量は5000㎜に達します。2004年には1日の雨量としては驚異的な1886㎜の豪雨があり、1920年には年間8214㎜という雨量の記録も残っています。大台ヶ原に降る雨は、そこから大阪湾へは紀ノ川、太平洋には熊野川、伊勢湾には宮川を介して注がれています。それは古代、船を用いて大台ヶ原周辺まで川を上って旅することができたことも意味しています。
大台ヶ原 大蛇嵓
大台ヶ原 大蛇嵓大台ヶ原の最高峰、日出ヶ岳から東をのぞむと、御嶽山や乗鞍岳、志摩半島まで見渡すことができ、時折富士山ものぞむことができるだけでなく、西方には世界遺産の大峰山脈を成す山上ヶ岳をはじめ、釈迦ヶ岳や大塔山など、紀伊半島の山々がパノラマ上に広がります。今日、大台ヶ原の頂上周辺までは車でアプローチすることができ、一帯は観光地化されています。それでも、少し足を運ぶだけで大自然の原始林が未だに存在し、山を散策しながら自然の力を満喫することができます。大台ヶ原でも著名な大蛇嵓からは800m下の東ノ川にせり出した断崖絶壁の光景が真下に広がり、周辺には牛石ヶ原や正木ヶ原と呼ばれる山腹の景色も見事であり、登山する人の心を和ませてくれます。
明治時代では魔の山と恐れられたこともある大台ヶ原ですが、その優れた景色だけでなく、紀伊半島の分水点として3方向へ注がれる河川の頂点に存在するという地勢からしても、古代から神が宿る聖なる山として崇められてきた可能性があります。近年においては明治24年、古川嵩氏によって正式に開山されたことが証され、大台ヶ原は「神霊の宿る聖なる山」と位置付けられ、そこに修行道場なる教会が作られたのです。同様に、古代においても大峰山周辺を行き来する修験道の行者も大台ヶ原を訪れたに違いなく、古代から大台ヶ原は重要な拠点とみなされたことでしょう。
大台ケ原の秘境、奥坊主
大台ヶ原から熊野灘を望む
大台ヶ原から熊野灘を望むその大台ヶ原でも、秘境を極める場所として知られるのが、日出ヶ丘から東南東へ5㎞弱離れた標高1109mの奥坊主です。すぐそばには口坊主と呼ばれる岩山もあり、近くの断崖絶壁を滝が流れています。奥坊主の山頂からは景色を見ることができませんが、すぐそばの展望スポットからは、遠くに熊野灘を見渡すことができます。なぜ、大台ヶ原の秘境が奥坊主と命名されたかは定かではありません。江戸時代、将軍や大名の茶室を管理し、接待を務めたのが奥坊主であることから、もしかして、その秘境の地を茶室と捉え、そこで天の神を崇め、接待する思いで神に仕えたことから、奥坊主という名がつけられたのかもしれません。
その奥坊主から再度山までの距離は、ちょうど108㎞です。すると、再度山を頂点として元伊勢の比定地である若宮神社と大台ヶ原の奥坊主を結ぶと、二等辺三角形ができあがります。そして伊勢神宮、京都御所、高野山金剛峯寺を結ぶ三角形と向かい合わせで重ねると、六芒星のような形になります。双方とも同じ形をした二等辺三角形であることから、綺麗な六芒星の形にはなりません。しかしながら、素晴らしい聖地の数々が六芒星の頂点すべてに存在することから、古代史のロマンに浸る思いで、さらなるリサーチを進めていくことにしました。
六芒星のレイラインに関する検証を締めくくるにあたり、伊勢神宮と高野山の延長線に剣山が繋がっているように、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ延長線上にも、何か重要な史跡や指標となる聖地がないかと、今一度、地図を調べてみました。まず気が付いたことは、そのレイラインの直線上にある中国山地に、日本神話において伊邪那美命が葬られたとされる比婆山が存在することです標高1264mの比婆山は、古くは出雲の国と伯耆(ほうき)の国の境目にある山として知られています。伊勢神宮と石上神宮という日本書紀や古事記に記されている古代の由緒ある神宮を結ぶ延長線上に、国生みの神々の一人である伊邪那美命の墓が存在するということは、もはや偶然とは言えません。六芒星のレイラインは四国の剣山だけでなく、比婆山も結び付けていたのです。
生石神社 石の宝殿生石神社 石の宝殿
生石神社 石の宝殿
伊勢神宮と石上神宮を結ぶレイラインには、再度山と比婆山だけでなく、実はもうひとつ、極めて重要な聖地が並んでいました。それが国譲りの神である大穴牟遅神(おおなむぢ)を祀る生石(おうしこ)神社の石の宝殿です。日本三奇のひとつに数えられている石の宝殿は、高さ5.7m、縦横7.2m、6.4mの巨大な建造物です。社伝によると、神社の創設は崇神天皇の時代まで遡ります。その時代はまさに元伊勢の御巡幸が行われていた時であり、国難を乗り越えるべく、大切な神宝を安全な場所に遷座し、守護するために、様々な国策がとられたのです。生石神社はそれら神宝の行く末を占う奇石の象徴と考えられます。六芒星頂点のひとつに位置する若宮神社も元伊勢御巡幸の比定地であることから、六芒星と生石神社が紐付けられていることにもはや不思議はありません。
剣山と伊勢神宮を結ぶ線を発端に、高野山をはじめとするさまざまな聖地が六芒星の頂点に見出されました。その中心に存在する石上神宮を通り抜ける仮想線は、和気清麻呂と空海が重要視した再度山だけでなく、生石神社の石の宝殿や比婆山とも繋がっていたのです。しかも、これらの聖地はすべて、何かしら神宝の歴史と絡んでいたことがわかりました。特にその拠点となる聖地の一つであり、空海ゆかりの地である再度山が何故か気になり、訪ねてみることにしました。そこには空海自身が岩の上に彫ったとされる亀の像が現存するということです。是非とも自分の目で確かめてみたいと思い、早速、再度山に足を運ぶことにしました。そしてその登頂が、自らが心の中で描き続けてきた古代史のロマンを紐解き、ダヴィンチコードのような謎を解く鍵を手にすることになるとは、夢にも思いませんでした。
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