「窓と窓」―窓を開く・言葉を紡ぐ俳句な日々~

https://ameblo.jp/zonomori/entry-12843738357.html 【句集を読む~「人麻呂の手紙」(坪内稔典)】より

2024年03月09日

一九八九年四月一日 職場の歓送迎会 

 三鬼忌の雨のつぶつぶ鯉叩く さんききのあめのつぶつぶこいたたく

  四月二日 日曜日

 ふしだらに犬もいる日の桜さく ふしだらにいぬもいるひのさくらさく 

  四月三日 妻とパチンコへ

 殺人があったぱかぱかチューリップ さつじんがあったぱかぱかチューリップ

坪内稔典第七句集「人麻呂の手紙」の冒頭の三句である。日記風の前書きがある。

仮名読み方がついている。この日記風の日付け前書きは冒頭の章「人麻呂の手紙」と

最終章「地質調査」の句に付けられている。

仮名読みはこの句集のすべての句についている。仮名の読み方を付けているのは

「音声で鑑賞できる俳句」というのに興味あると著者があとがきに書いている。

日付け付き前書きは少し面白い。始まりが四月一日。エイプリルフールである。

なんとなく作者のお遊びという感である。三句目の「ぱかぱかチューリップ」は

当時のパチンコでチューリップにぱかぱか大当たりを表現しているが「妻とパチンコ」がいわゆる前書きの役割を果たしている。

この「人麻呂の手紙」は坪内稔典氏五〇歳の刊である種のチャレンジをしているのだろう。

私はこの句集を手にしたとき仮名読みが付いていることにあまり意味を見出せなかった。

後年、ある雑誌のインタビューに試みできることはほぼやってみた!という意味のことを坪内稔典氏は語っている。

それを読んだとき、そうかこれは試みのひとつだったのだと納得した。

(ある雑誌がなんであったかなど捜査中である)


https://ameblo.jp/zonomori/entry-12841236282.html 【俳句な日々~「百年の家」(坪内稔典)】より

坪内稔典氏の第6句集「百年の家」

1993年の刊である。「私は、俳句から呪性や神秘性などを退けようとした。多くの俳人たちは、五七五の背後を重視し、俳句は氷山のようなものだという。つまり五七五は氷山の水面上の一部であり、水面下に大きなものがかくされていると考えるのだ。」

「俳句は表現されている五七五の言葉がすべてなのだ。もしそれがあまりにも片言的だとしたら、その片言的なところに俳句の特色があると言うべきだ。」

長くなったが、この句集のあとがきからひいてみた。前段は俳人の境遇や生き方などで五七五が解釈されることの間違い、違和感を唱える氏の考えにつながる。

後段はこの句集の前に出版された氏の評論集「俳句ー口誦と片言」の主張を繰り返したものである。

 せりなずなごぎょうはこべら母縮む 坪内稔典 ほとけのざすずなすずしろ父ちびる

この2句はまさに口誦を具体化した作品である。私が七草の名前を覚えたのはこの2句からである。若い頃、この句をリズムをつけて唱えながら、スパーに七草を買いに行ったこともある。ああ、これが口誦性かと納得をしたものだ。

さすがに下五の「母縮む」や「父ちびる」はカッコウが良くないので勝手にその時の気分に

変換していた。調子よく気分にあわせて、言葉を口ずさむ。口誦性とはそういうことだろう。


https://ameblo.jp/zonomori/entry-12841372752.html 【俳句な日々~「百年の家」(坪内稔典)②】

2024年02月21日

テーマ:俳句は今日も新しい。

いま、テレビのニュースショーは

野球と気象情報ばかり。

とりわけ大谷選手の話題にどの局も

大きな時間を割いている。

「裏金」や「統一教会」あるいは能登半島地震、

ひとの暮らしの困窮ぶりを

もう少し取り上げ、考えることがあってもいいのではないか。

マスコミがマスコミの役割を放棄している気がする。

(と言いながら、大谷選手のことが気になり、

写真=ホームランキング記念切手まで買って

踊ってしまっている私である・・)

句集「百年の家」からランダムにピックアップしてみた。

 月の村脱腸の人いるような 坪内稔典

 秋日和わが尾伸びているような

 紅葉散る恋人が今来たような

 柿たわわきれいな嘘があるような

 落葉踏む昨日の秘密踏むような

「ような」という語尾で終わる作品がとても多い。

この句集からの表現ではないだろうか。

坪内稔典調とも言える手法である。

ふつう「ような」の後は体言である。

なので、この「ような」の後には

何かしらの体言がつづくはず。

これらの句を何度も読んでいると

「ような」の後はもう一度、

上五に還っていく感じがする。

「ような」で句のループができている。

俳句が際限なく繰り返される。

飛躍かもしれないが、そういう詩の作り方、

それが坪内稔典調なのではないか。

つい2,3日前は春の陽気だったのに

今日は冬へ戻っている。

こんな日は気持ちが荒んでくるような。

まとまりのない思考の日です。


https://ameblo.jp/zonomori/entry-12841903754.html 【俳句な日々~「百年の家」(坪内稔典)③】より/

2024年02月25日

テーマ:私の季語

坪内稔典氏は「行く人」「歩く人」。

変な命名ですが

とにかくいろんなところへ行きます。

いろんなところを歩いています。

この「百年の家」から「行く」の文字が入った作品を

チョイスしてみました。

 そら豆の青い莢まで行きましょう  坪内稔典

 いわし雲阿修羅像まで行くつもり

 東寺まで行く気石榴を食べながら

 ブルームーンという薔薇へ行く十月は

 秋の雲弥勒菩薩へ行く途中

 猪食べに男らが行くハイウエー

とにかく「行く」のです。

「行く」という文字がなくても

「行って」ます。歩いてます。

 そうめんともう決めている青田道  坪内稔典

 夢達観音までの油照り

 法隆寺までのこの道赤まんま

歩いて、行って、見て、確かめて・・・。

何やらが生まているのでしょう。

その「行くチカラ」「歩くチカラ」はいまも同じようです。

最近のブログを読むと

全国あちらこちらに「行く」「歩く」が判ります。

そうか、俳人は「行く」ことなのだ。「歩く」ことなのです。

坪内稔典氏は「行く」「歩く」俳人なのです。

いつもと違う句集の読み方になりました。

とても納得させられたからのです。

上の写真は、小生。

恥をしのんでの公開。

四十代かな・・・?はっきり覚えていません。

PCの写真を整理したら出てきました。

会社案内の「ひと」紹介、これは記憶にあります。

それにしても俳句が下手ですね。

右下に西鶴の「大矢数」を真似たイベントでの写真があります。

これは坪内稔典氏の仕業?仕掛け?です。

(ああ、恥ずかしい。)


https://ameblo.jp/zonomori/entry-12842391721.html 【俳句な日々~「百年の家」(坪内稔典)④】より

2024年02月28日

JR京都線総持寺駅の改札を出ると壁いっぱいにアートが広がる。この駅ができた2018年3月から掲示されているのだという。時々この駅に行くのだがいつも気になっていて今朝、ようやく撮影した。茨木市の運営で、半年に一回くらいで絵が変わるらしい。

そういえば、子供の書いた絵が掲げられていたこともあったなあ。

坪内稔典句集「百年の家」から私の好きな句、気になる句を選んでみた。

 壷菫一鉢畝傍郵便局  坪内稔典   あの木ですアメリカ牡丹雪協会

「アメリカ牡丹雪協会」なんて架空?きっと。「畝傍郵便局」は実在するようだけど

どこかフィクションの匂いがする。こういう固有名詞の使い方が楽しい。

 梅雨続く小錦十人いるような   小錦のだぶだぶと行く残暑かな

 ゴルバチョフと名付けて坂の春の犬   風花や中森明菜的埴輪

こちらも固有名詞だけれど、リアリティを感じる、というか固有名詞のイメージから生まれた作品。「小錦」の句は愉快、実感?がある。

 びわは水人間も水びわ食べる     おだまきや妻のきれいな昼の酒

 わいわいもぶらぶらも来る冬の波止

坪内稔典氏は句の深掘りを嫌う。でも、この三句は深掘りしたくなる。

「わいわいもぶらぶらも」はいろんな人が、雑多に集まっているようでとてもにぎやか、楽しそう。

「妻のきれいな」ではあれこれ想像が広がっていく。

「びわ」は理が先行しそう。「びわ」は「みかん」でも「人参」でもよさそう。

でも、やっぱり「びわ」がいいなと落ち着いてしまう。そこで理を超えている。

坪内稔典氏の俳句は楽しい。暗かったり、重かったりしない。

人生とか社会とか書きたくなるのだけれどそこをくぐり抜けているところがいい。

そこが「俗」なのかもしれない。次の句集が読みたくなった。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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