「子規庵」と坪内稔典

facebook石関善治郎さん投稿記事「子規庵」と坪内稔典

根岸の「子規庵」に、久しぶりに行った。子規庵は正岡子規が、晩年を過ごした家。

「晩年」といっても、享年三十四歳十一カ月。結核性の脊髄カリエス。当時としては治療法のない病気だ。

けれど、この家は、当主が病人にもかかわらず、千客万来。子規を慕う友達や知り合いが集い、句会・歌会が催される。子規は仲間を得て、一層、俳句・短歌などの改革に取り組んだ。

病いは篤かったが、子規は病気を友とする術を心得ていた。

病室(書斎)の障子をガラス戸に替えて庭を愛で、へちま棚を作る。(へちま水は去痰作用があるとされた)。

食事もあえて好物・美食をとった。

妹・律の献身的な看護は良く知られるが、訪れる度に私が胸を衝(つ)かれるのは、子規の座り机だ。曲がったままの左足が立膝で入るように、くり抜いてある。

       ◎

子規庵には、現代の俳人、坪内稔典(つぼうちねんてん)の「子規本」が置かれていた。売店に商品として1冊、訪れた人の休憩室となっている「座敷」の本棚に1冊、

坪内稔典は、子規を論じて定評のある人だから当然だが、知らない人ではないからか、何かうれしい。

そういえば、俳句界に革新をもたらしたこと、人に慕われ、仲間との語らいを大事にしている点、坪内稔典には、子規との共通点が少なくない。

ついさっきホタルブクロを出た人か      父の日は木にぶらさがれ父も子も

雪になる人参抱いて戻るとき         人参のある日なぜだか誰も来ん

――新刊『リスボンの窓 坪内稔典句集 』より

〈ねんてんさん〉が健在だ。いや、歳を重ねて、深みをまして輝いている。

ねんてんさんに倣っていえば、「坪内稔典を読むと元気が出る」!

『鳩よ!』という詩の雑誌の創刊に関わったおかげで、ねんてんさんを知った。幸せだ。

●子規庵、書斎(病室)の座机とガラス障子。●へちまは、へちま棚まで伸びたろうか。

●坪内稔典の近著。

『リスボンの窓 坪内稔典句集』(ふらんす堂。 2024年3月。定価2530円)

エッセイ集『老いの俳句―君とつるりんしたいなあ』(ウエップ。2023年10月。定価1760円)〜自身の句の変遷についても触れている。

なお、「正岡子規を読むと元気が出る」と、『柿喰ふ子規の俳句作法』(岩波書店。2005年9月)冒頭の章にある。

★子規庵

東京都台東区根岸2―5-11。JR鶯谷駅北口から徒歩5~7分。入場料500円。公開日・公開時間はHP、電話03・3876・8218でご確認を(8月休庵。冬季休庵もあり)


https://ameblo.jp/sakadachikaba/entry-12753963457.html 【子規の短歌17】より

青畳四枚半ヒラナカバの庵建てて薄茶一椀椿一輪

 ルビは『竹乃里歌』に従った。四畳半(ヨンジョウハン)をヨヒラナカバと言ったのだが、これは「空はかる台」「足高机」「風の東」などと同類の発想だ。短歌的表現を子規としては試みているのだろう。「一椀」は「一碗」とあるべきか。明治33年1月2日、伊藤左千夫が

初めて子規庵にやってきた。彼は茶道に凝っており、子規は左千夫を通して茶への関心を広げる。1年後の2月28日には左千夫が大きな古釜を持参、自ら茶をたてた。子規は『墨汁一滴』の明治34年3月2日の記事に「左千夫茶立つ。余も菓子一つ薄茶一碗」と記した。


https://note.com/bintaohtaki/n/n100c4b508c98 【喀血と線 ── 子規庵「#これからの表現(5/18)」に向けて】より

大滝瓶太

卯の花をめがけてきたか時鳥    卯の花の散るまで鳴くか子規

 明治22年5月9日の夜に吐いた血を、当初かれは喉の傷だと思っていたが翌日医者は肺病だと診断した。寝ていろという医者の言いつけを破ってその日は集会に参加し、夜、帰宅したときにまた血を吐いた。夜11時ごろだった。それから日をまたいで午前1時までのうちにかれは「時鳥」という句を40、50ほど作った。このときからかれは「子規」と名乗りはじめた。

 坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』では、子規が子規となったこの日への考察が記されている。以上のエピソード、そして冒頭に引用した2つの「卯の花の句」は戯曲『啼血始末』にも記されている。5月、夏の訪れを暗示する「卯の花」に、同様に夏を示す「時鳥」がやってきたと歌ったと素朴に読めるこの俳句は、明治という時代においてはもうひとつの解釈が浮かび上がる。時鳥の鳴き声は当時蔓延していた肺病による喀血の情景と重ねてられ、時鳥は死を想起させるものでもあった。夏、じぶんに肺病が取り憑くさまを、来るべき死の気配がたしかな輪郭を帯びはじめたという実感を子規は詠んだのではないか、と坪内は書いている。『啼血始末』で赤鬼の検事から余命10年の求刑を受けたかれは、それから13年後の明治35年9月19日午前1時ごろに生を終えた。

 正岡子規についてぼくは専門家でもなんでもない。教養の1つとして読んだり聞いたりした程度でしかなく、今回、子規庵にておこなわれる「これからの表現」というイベントへのお誘いを西川タイジさんよりいただき、正岡子規についての本と子規が残した散文・批評・実作を読んだ。

 わずか1ヶ月ばかりで知った顔をすることは憚られるのだけれども、批評と実作の両輪でみずからの文学をつくりあげようとしたかスタイルにはいたく感銘をうける。子規が生きた明治の時代は、言文一致をめぐる日本文学上きわめて重要な時期であり、「これからのことば(の世界)がどうなるのか」という問題意識、ならびに実際に行われる改革は、日本文学の性質そのものをうらなうものだっただろう。

俳句に限らず総て詩歌文章を解するには其作者と其特性と其時代の風潮とを知らざれば大なる誤謬をきたすは常のことなり。

 子規は徹底したテクストの収集と分類をもとに、過去や同時代の文学に対して懐疑的で思索的な批評を多く書き、その実践として実作があったようにかんじられる。

 若い時分の仮説をのちに改めるなどの紆余曲折を繰り返しながらも、読むこと/書くことを自身のうちで激しく交換し、作品単体の顕在による「点」としてでなく、文脈という「線」として、子規は自身の文学を作り上げた。変わりゆく自身のありかたと時代の差異がある限り、かれはどこまでも新たに思考し、実作することができただろう。35年という生涯は、かれが想定した文学ののスケールに比べてあまりにも短い。

 実作者として、ぼくはいつまで生きられるのだろうか。そういうことをちょうど考えていた。文章を読み、批評し、小説を書く日々のなかで、その行為の連鎖が途切れてしまう日のことがときたま脳裏を過ぎる。

 ぼく自身はこらからもずっと、おそらく死ぬまで、文章を書き続けていきたいという意志があり、そしてやめるという選択肢がそもそもなかったとしても、生きながらにそれを終わることになる可能性だって否定できない。友だちとかつて話していた。傲慢にもじぶんをじぶんたらしめる文体があったとして、少なくとも信じられる程度には強固な文体があったとして、ある日突然なんの前触れもなくそれが壊れてしまう可能性だってゼロじゃない。じぶんが生きながらにじぶんの文体が瓦解する日が来たとき、それでもぼくは読書し、批評し、実作することができるのだろうか。するとしてなぜ。衝動、という予想される回答を肯定する理性はあるか。回答し得ないものへの回答のため、いまできることといえばできるだけ自身の文学の終わりを肉体の死に近づけることだ。核心にせまることへのモラトリアムじゃなく、不可能への接近のため。

 小説を書くというのは、エディタに向かって文字を打ち込んでいる瞬間のみを指すのではない。そう悟ったのは数年前で、それはエディタから離れている瞬間に着想や次のことばを見つけてしまうという小さな内的運動の存在を確信したときだった。1日に何時間机に(スマホに)向かうか、何文字書くか、とかそういう文章をかたちにする実際的な作業の重要さはもちろんあるけれど、たとえば物理的な作業時間を1日のうちのある1時間に確保できるとして、じゃあそのときだけ身体を小説に適応させれば小説を書けるのかといわれればそれは違うような気がした。

 1日の限られた作業時間のみに小説の制作というのはなく、むしろそれ以外の時間にいかに小説へ向かう身体に近づけるか、じぶんの身体がもっとも小説に物理的に接近する時間にいかに最適なコンディションを調整するか。テクストというインターフェイスを介して小説に触れる瞬間、どれだけのパフォーマンスを発揮できるか。1日の時間のすべてを小説という日常へとなじませながら、文章を書く瞬間の特異性を正しく認識することで、小説を日常と同化させながらも小説という方法でしか認識できない領域についての思考が可能になる。そしてそれは点でなく、線として結実する。書き続けるための調整の反復のなかで、書くことができるんじゃないか、とぼくは考えた。

 こうしたことを考えるためになによりも役に立ったのは、イチローの徹底したコンディションの調整だった。野球をするという日常にはゲームの時間という異質さ、そしてバッターボックスに立つより特異な空間がある。その異質な時間、特異な空間のなかにプレイヤーの表現が息づいている。よく知られた話だけれど、イチローは単にヒットを打つだけでなく、相手投手の決め球やボール球などの難しい球をいかに打つかについての思考と鍛錬を繰り返していて、時には「あえて詰まらせることで内野と外野のあいだに打球を落とす」ということも行った。

「詰まらせる技術」について、「そういう技術が存在する」という事実を世に知らしめたことがかれの大きな功績であり、これによって野球というフィールドでの思考領域が拡張された。事例から表現をみると、「あらたな表現とは、それまで技術として認識されていなかったものを〝技術〟として提示すること」なのではないかとぼくは考えた。そしてそれは、「詰まらせた打球がヒットになる」という点的な事象によって認知されるに至ったわけではない。イチローが残した膨大な安打数、現役を通じて樹立した記録という「線」ゆえに、技術と呼びうるものになった。

 そのイチローが先日引退した。

 かれはNHKスペシャルで、

「引退というのはひとつの死だ」

 と語った。観念的な意味においての身体表現たる文芸とちがい、具体的な肉体表現であるスポーツの世界では、不幸がない限り、生きながらにして表現者としての死を経験することが運命付けられているともいえるだろう。イチローはその死を「ひとつの」と呼んだ。肉体はまだ生きているし、かれの野球にしてもひとつのありかたが終わったに過ぎない。そして引退会見で、はこのようなことを述べている。

「今日のこの、あの舞台に立てたことというのは、去年の5月以降、ゲームに出られない状況になって、その後もチームと一緒に練習を続けてきたわけですけど、それを最後まで成し遂げられなければ今日のこの日はなかったと思うんですよね。今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うんですけど、去年5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないというような、ささやかな誇りを生んだ日々だったんですね。」

 イチローの最後の1年は、ぼくのなかでは喀血し、余命10年を悟った日からの正岡子規の姿が重なる。ことばが変わる時代を、ながく病床を常とせざるをえなかったかれが物理的に見通せた世界は、他者と比べても広くなかったかもしれない。ただ、ぼくは読むこと/書くことで構成された日々ゆえにかれの文章は「子規の文章」たる「線」となったのだとおもう。血を吐き、時鳥の句を読んでから13年後、死の5日前に書かれた「九月十四日の朝」はこのように結ばれている。

 虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めていると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極まってしばらく病気を感じ無いようなものも不思議に思われたので、文章に書いてみたくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記し了えたところへ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。

(九月十四日の朝)

 肉体の死によって、批評も実作も永遠に行えなくなってしまうのは避けられない。ただ「線」は残っている。その線の先端は、表現の死をかならずしも意味しない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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