攝津幸彦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%9D%E6%B4%A5%E5%B9%B8%E5%BD%A6 【攝津幸彦】より

攝津 幸彦(せっつ ゆきひこ、1947年1月28日 - 1996年10月13日)は、日本の俳人。

経歴

兵庫県養父郡八鹿町に生まれる。母良子(摂津よしこ)は桂信子主宰の「草苑」の幹部同人で、1980年の角川俳句賞受賞者。

高槻中学校・高等学校を経て、関西学院大学卒業。高校時代より叔父の影響でジャズを聞くようになり頻繁にジャズ喫茶に通った。大学では在学中は映画研究会に所属。また伊丹啓子(「青玄」主幹伊丹三樹彦の娘)を知り「関学俳句会」創立、機関誌「あばんせ」を創刊。また学生俳句会のつながりで、他大学の坪内稔典、澤好摩らと交流、大学を超えた同人誌「日時計」創刊に参加する。

1970年、広告会社の東京旭通信社(現・ADKホールディングス)に入社し上京。1972年田中資子と結婚。1974年、大本善幸、坪内稔典らと「黄金海岸」創刊。1974年、「鳥子幻影」で俳句研究「第二回五十句競作」にて佳作第一席となり、編集長高柳重信に見出され一躍注目される。1980年、俳誌「豈」創刊に仁平勝らとともに参加。同誌は遅刊で知られたものの、前衛俳句の一大拠点となった。1992年より肝炎で入退院を繰り返し、1996年順天堂病院にて死去。享年49。

作品

よく知られている句に、

南浦和のダリヤを仮のあはれとす(『烏子』)    幾千代も散るは美し明日は三越(同)

南国に死して御恩のみなみかぜ(同)     階段を濡らして昼が来てゐたり(『烏屋』)

露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな(『陸々集』)

などがある。俳句を意味の中だけで完結させることを嫌い、自立した言葉同士が邂逅することによって生まれる新しい叙情性を追及した[1]。また明治・大正から戦前・昭和戦後の日本の原風景を素材としたものが多く[2]、特に「幾千代も」「南国に」の句が含まれる「皇国前衛歌」と呼ばれる一連の作品群は、言葉から出発して俳句におけるフィクション表現を完成したものとして評価されている[3]。

句集

『姉にアネモネ』1973年  『鳥子』1976年 ぬ書房  『鳥屋』1986年 冨岡書房

『陸々集』1992年 弘栄堂書店  『鹿々集』1995年 ふらんす堂

『攝津幸彦集』1994年 ふらんす堂  『攝津幸彦全句集』 1997年(2006年改版) 沖積舎

『攝津幸彦選集』2006年 邑書林

出典

^ 筑紫磐井 「語録・文章・俳句から」 『攝津幸彦選集』 150-151頁

^ 筑紫磐井 「摂津幸彦」 『現代俳句ハンドブック』 51頁

^ 仁平勝 「攝津幸彦論」 『12の現代俳人論 下』 230-232頁

参考文献

攝津幸彦 『攝津幸彦選集』 邑書林、2006年

正木ゆう子、片山由美子、仙田洋子、大屋達治、筑紫磐井、仁平勝 『12の現代俳人論 下』 角川選書、2005年

齋藤慎爾、坪内稔典、夏石番矢、榎本一郎編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年

関連文献


https://ooikomon.blogspot.com/2017/04/blog-post_28.html 【鴇田智哉「人参を並べておけば分かるなり」(「MANO」第二十号より)・・】より

「MANO」第二十号(編集発行人・樋口由紀子)が、「川柳カード」に続いて、二十年間、二十号で終刊する。最後の同人は加藤久子、小池正博、佐藤みさ子、樋口由紀子。加藤と佐藤は東北人、小池と樋口は関西人。創刊号の同人には先年亡くなった石部明、他には倉本朝世が居た。MANOは終刊した。が、それでもそれぞれの歩みは始まるのだ。佐藤みさ子は言う。

 これから残り少ない時間を私はどうすればいいのだろう。いつ起こるかわからない天災。終わらない戦火。テロや難民。原発という負の遺産などを考えると、私の趣味など何になるのだろう。私個人の未来には、日々新たな老いと死があるのだが、それを楽しむ方法が川柳にはあるのかもしれない。

その佐藤みさ子論を小池正博が「佐藤みさ子ー虚無感とのたたかい」と題して書いている。一方、樋口由紀子は「言葉そのものへの関心ー鴇田智哉句集『凧と円柱』を読む」で、攝津幸彦と鴇田智哉に触れて以下のように記している。

 攝津幸彦は突然現れた怪人であった。私の句集『ゆうるりと』と第二句集『溶顔』はまるで別物で、同一川柳人のものとは思えないとよく言われたが、それは攝津幸彦の俳句に出合ったためである。川柳という概念、物を書く方法、言葉に対する意識など今まで漠然と持っていたものすべてが吹っ飛んでしまい、世界の見え方ががらりと変わってしまった。それと同様のものが鴇田智哉の俳句にあった。攝津幸彦レーンの俳人はもう出て来ないと思っていたので驚きであった。鴇田智哉は二人目の怪人になった。

たしかに樋口由紀子のいうように、当時、攝津幸彦の句はあきらかに新しかった。鴇田智哉も現在の世界の在り様をこの上なく体現している新しさがある(その根拠を明らかに言いとめられないのは無念だが、その感触はある)。鴇田智哉と違うのは、生前の攝津幸彦はほとんど無名だったこと(ごく一部ではもっとも有名だったが・・)。いつか宇多喜代子が「攝津が生きている時に、もっと、みんなセッツ,セッツと言ってあげれば良かったのに・・」と漏らしたことがある。

ともあれ、以下に終刊号から一人一句を挙げておこう。

  足洗う住所氏名が消えるまで      佐藤みさ子

  短いなら短いように舟に積む      樋口由紀子

  すったもんだのあげくに顔を上げる    加藤久子

  縛られた足は見せない共犯者       小池正博

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