福田純子【笑顔の一語🍀一恵】🌈88
「裁く」と心が「砂漠」になります 人に対して許す事が出来なければ「許せない自分をまず許す」そして頑なな自分の心は亡くすつまり「ゆる死」ましょう Junko
Facebook石川 眞樹夫さん投稿記事
もしあなたがここで自分の遊び心を許せなかったら、世界中どこに行ってもそれはできないだろう。遊び心を全面的に許しなさい。
それを統制から出してやりなさい――
そしていったん、あなたの子どもがほんとうに生き生きとしてあなたといっしょに踊りはじめたら、それはあなたの生の香りそのものを変えることになる。
それはあなたにユーモアのセンスを、素晴らしい笑いを与える。そしてあなたの頭でっかちを壊してくれる。それは、あなたをハートの人間にするだろう。
頭のなかに住んでいる人間は、まったく生きてはいない。
ハートに生きる人間だけが、そして頭には理解できない歌を歌う者、外側の状況とはどう見てもつり合わないダンスを踊る者……
自分の豊かさから、自分があふれているからこそ踊る者だけが、生きているのだ。
あなたには歌い、そして叫びたいほどのエネルギーがある……
だったら、そうしなさい!そうしたら、あなたはもっと生き生きする。
それはあなたに、生のなんたるかを味わう機会を与える。深刻な人間は、死ぬ前から死んでいる。死ぬずっと前に、彼はほとんど死体になっている。生はあまりにも貴重な機会だ。
深刻さの中にそれを失うべきではない。深刻さは、墓場用にとっておくといい。
深刻さは、墓場の中に倒れ込ませたらいい。最後の審判の日を待たせて、深刻にさせておけばいい。だが墓場に行く前に死体になることはない。孔子のことを思い出した。
孔子の弟子のひとりが、無数の人びとが問うた 典型的な質問をした。
「死んだ後で起こることについて、 なにか言っていただけますか?」
孔子は、「そういうことは 死んで墓場に行ってから じっくり考えたらいい。 今はまず生きなさい!」と言った。生きるべきときがあり、そして死ぬべきときがある。
それをごっちゃにしてはいけない。
さもなければ両方とも取り逃がす。
今はまず、全身全霊で強烈に生きなさい。そして死ぬときが来たら、全身全霊で死ぬといい。
半身で死んではいけない。片目だけ死んで、もう片目で辺りを見つづけていたり、
片手が死んで、もう片手で真理を探しつづけていたりしてはいけない。
死ぬときは全面的に死になさい……そして死とはなにかをじっくり考えたらいい。
だが今はまず、ずっと先のことを考えて時間を潰すのはやめなさい。
この瞬間を生きるのだ。子どもは強烈に、また全面的に生きることを知っている。
そして恐れることなく、統制から抜け出すことを――。
この寺院の中ではいかなる禁止もなく、あなたは自分自身であることを許されている。
私は世界中にこれが起こってほしい。これはほんの始まりにすぎない。
ここで、一瞬一瞬を全身全霊で、強烈に、喜びに満ちて、そして遊び心をもって生きることを、始めなさい――
そうすれば、なにひとつ羽目が外れたりはしないことが分かるだろう。
あなたの聡明さはより研ぎすまされ、あなたはより若くなり、愛がより深まることが分かるはずだ。
そして世間に出たら、あなたがどこへ行こうと、生を、遊び心を、喜びを、できるだけ遠くまで広げなさい――この地球の隅から隅まで。
もし全世界が笑い、楽しみ、遊びはじめたら、大いなる革命が起こる。
戦争は、深刻な人びとがつくり出すものだ。殺人は、深刻な人びとが犯すものだ。
自殺は、深刻な人びとがするものだ――精神病院は、深刻な人びとでいっぱいになっている。
深刻さが人間にどれほどの害をなしたかを見てとったら、あなたは自分の深刻さから飛び出すはずだ。そしてあなたは、あなたの中で遊ぼうと、歌って踊ろうと待ちかまえている、自分の子どもを許すだろう。
私の宗教のすべては、遊び心で成り立っている。この存在は、私たちの故郷だ。
これらの樹々、そして星々は、私たちの兄弟であり、姉妹だ。
これらの海や川や山は、私たちの友人だ。この途方もなく親しげな宇宙のなかで、あなたたちは石仏のように坐っている――
私は、石仏になることは説かない。私は、あなたたちに踊るブッダになってほしい。
仏陀に従う者たちには気に入らないだろうが、しかし私は、誰がなにを考えようとかまわない。私が気にするのは真理だけだ。
もし真理が踊り方を知らないとしたら、それは片輪になっている。
もしブッダが笑う能力をもたないとしたらなにかが欠けている。
もしブッダが子どもたちの仲間になっていっしょに遊べないとしたら、その人はブッダフッドの近くには来ていても、まだ全面的に覚醒してはいない。なにかが眠っている。
日本には9枚つづきの絵があって、その絵には途方もなく深い意味がある。
1枚目の絵のなかで、ひとりの男が自分の牛を見失う。彼は、あたりを探し回っている――
そこは木立に囲まれた深い森だ……だが牛は影も形もない。2枚目で彼は牛の足跡を見つける。3枚目では牛はどうやら木の蔭に姿を隠しているらしい。
牛の尻の部分だけが見えている。
4枚目で、彼はほとんど牛に手が届きそうになる。そして牛は全身をあらわしている。
5枚目で、彼は牛の角を捕らえる。
6枚目で、彼は牛と格闘する。
7枚目で、彼は牛を征服する。彼は牛の背に坐っている。
8枚目では、彼らは家に向かっている。
9枚目では、牛は牛舎に入り、男は笛を吹いている。
これらの9枚の絵は1枚を欠いている――それらは中国から来たものだ。が中国のものには、
10枚の絵がある。それが日本にもたらされたとき、10枚目が捨てられた。
ひどく法外なものに見えたからだ――そして、その10番目こそが私のブッダだ。
その10枚目の絵の中では、牛は牛舎につながれ、そのブッダは酒壷を持って町に出ている。
日本人のマインドは、これではあんまりだと思った。酒壷を持ったブッダでは、人がどう思うだろう、と。
これは普通の宗教的マインドにとっては法外だが、私に言わせれば、全シリーズでこれこそがもっとも重要な絵だ。
それがなければこのシリーズは不完全だ。
ブッダフッドを達成したら、そのとき、人はごくあたり前の人間になるはずだ。
酒壷を持って町に出るというのは象徴的だ。
それが意味するところは、つまり、もう坐って瞑想する必要はないということだ。
瞑想はすでにハートの中にある。今や深刻になる必要はない。見つけたかったものは、
見つけた。今度は、楽しむときだ。その酒壷は喜びの象徴だ――今や祝祭のときだ!
そして、町以外のどこで祝うことができるだろう?
瞑想のためなら森のなか、山のなかに入って行けばいいが、祝うためには町に出なければならない。ディスコを見つけにどこに行くかね……?いつでもこの10番目の絵を覚えていなさい。9枚目で止まってはいけない――
9枚目は素晴らしいものではあるが、まだ不完全だ。もう一歩がある……、
ただ笛を吹くだけではたりない。酔っぱらいなさい! そして、狂ったように踊るがいい。
Osho The Rebellious Spirit
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