日本語

https://www.academyhills.com/note/opinion/11072801_BTgattsuri.html 【第1章 <日本語の乱れ>問題】より

先日ある大学病院で診察してもらったところ2週間分の薬を処方され、医師に「薬を“ガッツリ”飲んでください」と言われました。若者ならいざ知らず、相手は医師です…私はその言い回しに違和感を覚え“がっくり”してしまいました。これをきっかけに、日本語の乱れなど、ことばについて論じている本を調べてみました。

日本語を一つの言語としてとらえると、実にさまざまな要素によって構成されています。読み・書き・話しをすぐに思いつきますが、『日本語と日本語教育のための日本語学入門』(明治書院)によるとその範囲は広範です。目次を見ると、「音声、アクセント、語構成、文構成、文章・談話構成と文体、語彙、語の意味、文の意味とイントネーション、文字、表記、男性の言葉と女性の言葉、方言と共通語、待遇表現-敬語を中心に、日本語教育と国語教育」の14の項目が挙げられています。いま日本語の乱れを指摘している人たちは、濃淡の差はあるもののそれらのすべての側面にわたっているようです。

日本語の乱れの問題が特にやかましくなったのは10年ぐらい前からでしょうか。『日本語の乱れ』(清水義範)は、ラ抜き言葉、意味不明な流行語、間違った言葉遣い、平板なアクセント、カタカナ語の濫発などを指摘し、「日本語に未来はあるのか!」などと叫んでいます。ヒットソングの題名、街角の若者コトバ、子どもの作文、漢字力テスト、文字のアイコン化現象などを通して最近の状況を分析した、高等学校「国語」の教科書の編集に携わる著者は、『日本語のできない日本人』(鈴木義里)で「日本語」の崩壊現象を説いています。さらに『日本語力崩壊』(樋口裕一)で、受験小論文の専門家である著者は、現在の国語教育が日本語崩壊を引き起こしていると断定し、作文指導こそ国語教育の王道だと主張しています。それはまあ少しばかり極端ですが、文章作成能力は本を読むことによってのみ養われるとする提言は、ライブラリアンの私としては、わが意を得たりです。

ベストセラーになったこともある『問題な日本語〔正編・続編・第3編〕』(北原保雄)は、全3編を通じてこんな言い回しを問題視しています。いわく、「お名前をいただけますか」「さくっと」「○○さんって、今日ヒマだったりします?」「患者様」「鈍感力(なににでも「力」を付けたがる傾向)」「お休みをいただいております」「千円からお預かりします」「コーヒーで大丈夫ですか」「コーヒーのほうをお持ちしました」「こちら○○になります」「~でよろしかったでしょうか」「ありえなーい」「微妙」「普通においしい」「~っていうか」「私って~じゃないですか」などなど、です。

https://www.academyhills.com/note/opinion/11072802_BTgattsuri.html 【第2章 変な日本語を集めてみたら】より

澁川雅俊: ところで『問題な日本語』の著者は、いまどきの日本語にこんな視点からも注目しています。それは『KY式日本語』(北原保雄編著)という本です。書名の<KY>は、テレビジョンを表す<TV>などの頭字語(イニシャルやアクロニム)ではなくて、それが流行語にもなったので、その意味はご存じですよね。「空気を読めない」、あるいは命令口調で「空気を読め」ということを表し、<空気>つまり<その場の雰囲気>とか<議論や状況の流れ>を的確につかまえることの重要性を強調するコトバです。こうしたABCコトバは、実は、昔からあったのです。みなさん<MMK>ってどういうことを表すのかご存じでしょうか。私のように太平洋戦争前に生まれた者はもちろんそれを知ってますが。

またこの著者は国語辞典に載せたらいいのにと思っているコトバを一般から募集し、『みんなで国語辞典!〔1・2〕』(北原保雄監修)などというものを作ってしまいました。何十万語もの学校語・若者語・ネット語・業界語・隠語・方言などが応募されたようです。この辞典(1・2合計)に約2,500語が収録されており、このブックトークの発端となった「ガッツリ」ももちろん入っています。

この企画はおそらく今後も継続されるでしょうが、この辞典を眺めていると日本語の乱れというよりも、コトバの揺れ、それも激しい揺れを感じざるを得ません。しかしその一方で、最近の日本語風俗の様子が手に取るようにわかり、そしてコトバは増殖し、あふれて、私たちをその渦中に巻き込んでしまう。そのことに「コトバって生きてんだなあ」と実感したりもします。

なおこれらの本の著者は、どこがおかしい、何かおかしい日本語をやり玉に挙げていますが、単に「使ってはいけない」、あるいは「この用法は間違っている」と指摘するだけではなく、どうしてそういう表現が生まれてくるのか、たとえそれが誤用であったとしても、その誤用される要因と背景が何なのかを究明しようとしています。

古くて新しい問題

ところで<日本語の乱れ>について調べていると、どうやらこの問題は、古くから時折指摘されてきたもののようです。ですから古くて新しい問題ということになるのでしょう。清少納言も『枕草子』(学研『現代語訳日本の古典6』)で嘆いています。

また『日本語へんてこてん』(あんの秀子)で著者は、その序文でこんなことを言っています。「「やばっ」「萌え~」などが、いまどきの表現とされ、問題のある日本語としてときどき話題になる。…(中略)…古典をみれば現代の日本語のことがわかってくる。問題があるとされる言葉でも、古くからの日本語の特質を受けついでいて、間違っているとは言い切れないことが多い。」と。そしていまどきの若者コトバは、必ずしもすべてが彼らの発明ではなく、言ってみれば必然のような繋がりがあると、日本語の奥深さやおもしろさを書いています。

乱れていると指摘されているコトバは<乱れ>ではなく、コトバの<変化>であり、それらを日本語の新しい表現としてとらえようとしている本もあります。それが『みんなの日本語事典』(中山緑朗ほか編)です。副題に「言葉の疑問・不思議に答える」とあるように、現今のコトバの誤用、あるいは乱用の事情を解説しています。


https://www.academyhills.com/note/opinion/11072803_BTgattsuri.html 【第3章 新語・珍語・迷語など流行語への讃歌】より

澁川雅俊: 2010年の新語・流行語大賞が「ゲゲゲの~」に決まりました。この催しは『現代用語の基礎知識』を刊行している自由国民社が1984年から主催しています。それは珍語・迷語を含め、新語を流行語として、好ましくとらえているからでしょう。

そうした傾向は他にもあります。例えば『「お笑い」日本語革命』(松本修)は、たけし、さんま、とんねるず、ダウンタウンなどなどのタレントたちがさまざまな新語や新しい言い回しを操って視聴者の笑いを取ろうとする瞬間々々での、普通の人にはない、彼らの感性と言語能力のすごさについて語っています。現役のTVのバラエティ番組のプロデューサーである著者がお笑いの現場での新語発生の瞬間を活写しています。

その類書としてこんな本もあります。『新・にほんご紀行』(山口仲美)は、TVや広告などで使われている新しいコトバや言い回しなどを取りあげて、それらにおもしろさを発見しています。とりわけこの本では、小説や詩に使われているオノマトペ(擬音語・擬態語)に、コトバとしての豊かな表現力が備わっていることに驚嘆しています。

以上のような本からの連想で、コトバ遊び、あるいはアナグラムに思い至ります。例えばこんな本があります。『日本のことば遊び (新装増補版)』(小林祥次郎)です。これは、昔の人たちの豊かな心の余裕が生み出した洒脱で楽しいコトバ遊びのいろいろ、例えば「白樺はバカラシ」、「ダンスが済んだ」などなどを集めてそのおもしろさを解説しています。それらは現代の新語や珍語や迷語などとは違いますが、流行語にはそうした遊びの中から生まれてくるものもあります。また『築地魚河岸ことばの話-読んで味わう「粋」と「意気」』(生田與克・冨岡一成)には、魚河岸という異空間で400年にわたる江戸の粋と意気が生み出した、ちょっと風変わりな、それでいておもしろいコトバの数々が収められています。それらは本来、業界用語あるいは隠語なのですが、そうしたコトバの中からも新語・珍語・迷語などが生まれる可能性があります。


https://www.academyhills.com/note/opinion/11072804_BTgattsuri.html 【第4章 現代日本語チェック、日本語のコツ】より

澁川雅俊: 『日本語 鵜の目鷹の目烏の目』(川本信幹)という本があります。ごく最近(2010年8月)出版されたもので、日本語の乱れに徹底している本です。著者は日本語検定委員会理事・研究主幹という日本語の番人として、人々が普段何気なく使っているコトバはもとより、作家たちの文章表現などにも冷静な眼を向けて検証しています。もっとも検証とはいっても、国語学の論文ではなく、エッセイで、非常に読みやすく書かれています。

『みんなでニホンGO!オフィシャルブック』(NHK「みんなでニホンGO!」制作班)もまたその線上にある本でしょう。これはコトバ、とりわけ正しい日本語の普及に実質的に中心的役割を果たしてきたNHKで放映されている『みんなでニホンGO!』という番組の内容を本にまとめたものです。この書名の表記が適性かどうかはさておき、例として、最近の若者コトバ、<「ヤバイ」はおいしいの? まずいの?>の項目などを読むと、「なるほどね」とうなずかされます。

『日本語のコツ』(中村明)は、国語学者が、文字、音声、語彙、文法などを超えて、豊かな人生を送るためのコトバの技を伝えようとしています。いわく、曖昧さや誤解を招く表現を防ぐためにどうすればいいか、無理なく無駄なく丁寧語を使うにはどうすればいいか、ちょっとした心遣いを手紙に書き含めるにはどうすればいいか、洒落た会話を楽しむにはどうすればいいか、などなどです。

もっと直接的に上手な日本語のハウツーを狙った本もあります。『話す・書く・伝えるが驚くほど上達するコツ』(神岡真司)がそれで、この本は、日本語の使い方というよりは、職場や取引での効果的なビジネス・コミュニケーションのためのハウツーです。この本には「誰もが納得するモノの書き方・話し方」という副題が付けられていますが、ビジネスにおいて何人かの競争相手があるなかで自分に有利にことを進めるための『コトバの戦略的思考』(梶井厚志)というものもあります。これには「ゲーム理論で読み解く「気になる日本語」」と副題されていますが、先に<日本語の乱れ>で取りあげられているコトバや言い回しがビジネスの世界でどう矯正され、どう使われるかを解説しています。

この本に私が毎日体験している問題の挨拶コトバがあります。それは「お疲れさまです」です。職場で日に何度となく鸚鵡返しのようにそう声かけされるのにうんざりし、かえって疲れてしまいます。マニュアル挨拶というのでしょうか。挨拶もできない最近の若者にせめて一つだけ職場での挨拶にこの言い回しだけは教えておこうという人事担当者の親心なのでしょうが、わたしに言わせれば、いい年をして挨拶ができないのはその人たちで、彼らは時と場所と状況を踏まえた適切な挨拶コトバを知らない、のです。


https://www.academyhills.com/note/opinion/11072805_BTgattsuri.html 【第5章 でもやっぱりむずかしい敬語、丁寧語】より

澁川雅俊: 適正な日本語のコツについて考察している本は、どれもが敬語の使い方について何らかのことを示唆しています。『鵜の目鷹の目烏の目』の著者、川本信幹が書いた『みがこう、あなたの日本語力』は本来、私たちの日本語力を検定するためのドリルですが、「<敬語>をみがいて豊かな人間関係を」築くことが重要であると指摘しています。

そしてそれに続き、コトバとコトバ遣いについて以下のような要点を示しています。「<文法>は日本語運用の隠し味」「<語彙>は豊かなほうがよいか」「<表記>軽視すると恥をかきます」「<言葉の意味>運用の幅広げる語意の理解」、そして最後に「<漢字>漢字力に見える、あなたの教養度」——それらはすべてうなずけますよね。

ところでこの本には、日本語の適正な使い方を90日間で訓練する練習問題がたくさん掲載されているのですが、検定のための準備動作として「あなたの言語環境を点検してみましょう」という、ちょっとしたチェックリストがあります。例えばこんなことです。「(1)新聞も取っていない。(2)近所に書店がない。(3)近所に気軽に利用できる図書館がない。(4)話し相手があっても、いつも同じ話題ばかりである。(5)手紙のやり取りをしない。(6)家に国語辞典がない。」どうですかあなたは? それらの多くにチェックが付いたら、訓練をしたほうがいいとこの著者は提言しています。

確かに敬語をきちんと使うことはなかなか難しい。『バカ丁寧化する日本語』(野口恵子)で、著者は日々接する若者たちのそれを中心とした<おかしな日本語>傾向、とりわけ先の「お疲れさまです」ではありませんが、マニュアルどおりのコトバの応対に着目し、それが日本人のコミュニケーションのあり方に大きな影響をもたらすと指摘しています。

『敬語で解く日本の平等・不平等』(浅田秀子)では、敬語を正しく使うのかがなぜ難しいのか、その根底にある問題が追求されています。「目から鱗」の感がありますので、かいつまんで紹介しましょう。欧米やかつての中国では身分の上・下間での交流はなかったので、敬語の言い回しが広く作り出されることはなかった。一方日本では有史以来幕末に至るまで両者にかなり密接な交流があり、その繋がりのうえで両者をつなぐコトバとして敬語が成立した。

つまり敬語にはコトバの問題を超える日本の社会文化的な背景があると主張しているのですが、基本的には身分の上・下がなくなったいま、それは単なる丁寧語となり、今後どうなるか不明なところがあります。なかなか難しい問題ですね。

つい先だって出された『敬語再入門』(菊地康人)という本は、敬語の発達を概観し、現代社会で豊かな言語活動と円滑な人間関係の構築するのに不可欠な、敬語、あるいは丁寧語を適切に使いこなすコツを解説しています。国語学者の書いたしっかりとした内容の本ですが、文庫本で、手軽に読むことができます。


https://www.academyhills.com/note/opinion/11072806_BTgattsuri.html 【第6章 日本語むかしむかし】より

澁川雅俊: ここで少し視点をかえ、日本語の成り立ちについて見てみましょう。

日本語の歴史について『日本語の歴史』(山口仲美)は、奈良時代から明治時代以降にわたり、それぞれの時代の発展を特徴づけて解説しています。またこの著者は、現代日本語の成り立ちにおける話しコトバと書きコトバのせめぎあいについても解き明かしています。一般人の日常生活では話すことと書くことの違いを意識することはあまりありません。しかし現代フランスの思想家デリダが取り上げて以来、書くという言語活動の重要性がとりわけ意識されるようになっています。

日本語がどこから伝わったかについては昔からいろいろと推測されていますが『日本語の教室』(大野晋)は、南インドのタミル語がその起源ではないかとしています。また最近出された『日本語の正体』(金容雲)で著者は、4世紀頃の古代の日朝交渉史にさかのぼり、韓国語との比較のうえで、「倭の大王は百済語で話す」そして「百済語が日本語で、百済語を投げ出したのが韓国語だった。」などと主張しています。

しかし、日本語の起源、あるいは系統については韓国語も学問的にはその一つではあっても、さまざまな仮説があって明らかではないというのが通説のようです。

以下に何点かの、日本語の成り立ちにかかわる類書があるので紹介します。『原始日本語のおもかげ』(木村紀子)は、仏教と共に中国から漢字が伝わって日本語がはじめて古事記や万葉集に書かれる前の、音声だけの太古の日本語探しをしています。確かに文字を持たなかった太古の日本人はどんなコトバをどのように発音して使っていたのでしょうか、興味がわきますね。

一方『漢字を飼い慣らす』(犬飼隆)は、文字として書かれる日本語の成り立ちについて考察しています。漢字が渡来した時代の識者たちが日本語の話しコトバに合わせて書きコトバの日本語を作ったことや、漢字を簡略化したり、崩したりして片仮名や平仮名を作り出したことは漢字の日本語化です。さらに著者は本文で、古代日本に『文字を「書く」という動詞は、日本語には文字がなかったのだから、固有語には存在しなかった。「かく」という動詞は、「表面をかく(他動詞)」「汗をかく(自動詞)」のような意味用法でもともと存在していた。紙の表面を筆で「かく」動作を漢字という型にはめて「書く」にした』と述べ、漢字によって<鋳直し>された(変えられた)日本語もあることを指摘しています。これもおもしろいですね。

さらに、日本語を読むための漢字辞典『新潮日本語漢字辞典』を企画、執筆、編纂した著者による『漢字は日本語である』(小駒勝美)も漢字の日本語化を日本人の優れた言語能力として称えています。

おそらくこれも日本語の成り立ちというカテゴリーに収められるべきものでしょうが、ちょっと盲点を突いたような本があります。『ん-日本語最後の謎に挑む』(山口謠司)は、五十音には含まれていない、母音でも子音でもなく、清音でも濁音でもない、単語としての意味を持たず、決して語頭には現れず、かつては存在しなかったといわれている、「ん」とは一体何なのか、それはいつ誕生し、どんな影響を日本語に与えてきたのかを追求しています。

ところで外国人作家でありながら、日本語で小説を書き、数々の文学賞を受賞しているリービ英雄は最近、『我的日本語』(リービ英雄)を出しました。彼は「書くということ、小説、文学を創作するということは、言葉の歴史を意識しながら行うものだ、…(中略)…現代を書きつつも、その言葉の歴史を意識する。そこに日本語による、もうひとつのWorldの可能性があると、ぼくは思う」と書き、記紀や万葉集はじめ日本の古典や近代文学を通じて自得した経験的、つまり「言葉の歴史を意識」することを創作の妙としています。


https://www.academyhills.com/note/opinion/11072808_BTgattsuri.html 【第8章 素晴らしきかな、日本語(1)】より

澁川雅俊: 6章の「日本語むかしむかし」とは反対に、日本語の行方にかかわる議論はあると考えて探してみるといろいろあります。

『日本語は生きのびるか』(平川祐弘)は、いささか挑発的な標題を掲げています。著者はダンテの『神曲』の翻訳者として有名な比較文学者ですが、この本は外国語、とりわけグローバル言語である英語や、隣国でしかも人口が世界(2010年10月時点での推計69億人)の5分の1が話す中国語の関連で日本語の行方を考察しています。副題に「米中日の文化史的三角関係」とありますが、内容はコトバそのものではなく、その国際関係を視野に政治・経済・社会・文化的背景を勘案してコトバの行方を考察しています。地政学的な観点における力関係と日本語の将来を危惧するなどというと、短絡的に日本人は将来英語か中国語かを選択しなければならないのではと心配になります。

しかしこういう本もあります。『日本語教のすすめ』(鈴木孝夫)は、「日本語は世界に誇る大言語なのだ。」と高らかに主張しています。この主張はナショナリズムに由来するのではなく、「明治以来日本の識者が信じ込まされてきた<日本語は遅れた不完全な言語である>…(中略)…今もって根強く見られるのは残念」でならない、これを払拭したいという言語学者である著者の所信に基づき、言語と人間に生きた関係を重視する文化社会学の見地から割り出されたものです。

また『日本語の正体』(町田健)という本があります。6章の日本語の歴史のところで挙げた本と同じ書名なので紛らわしいのですが、これは言語学者の日本語論で、コトバの本質をソシュール言語学の観点からとらえて論じています。内容的には啓蒙的な日本語論で、音・文字表記・単語・文法・語順など正統派の構成で解説されていますが、著者が日本語に誇りをもっていることが伝わってきます。なおソシュール言語学とは、コトバの言語(日本語とか英語とか、あるいは大阪弁とか津軽弁とかを指す)と言語能力(文字通りコトバで自己表現するスキル)を峻別して、言語能力にフォーカスした議論のことです。

コトバを通し日本人のアイデンティティを研鑽し、世界各国の大学で長年日本語の碩学が万感込めてその素晴らしさを書いた『日本語の旅路』(杉本つとむ)も挙げておきましょう。「日本人と言語生活」「日本人と日本語と外国人」「日本語、色と愛」「日本語の見える風景」などなどにわたる珠玉の文章が各章節に光っている愛蔵版ふうの、味のある随筆です。

しかし日本語論は国語学者や言語学者によって論じられるとは限りません。『私の日本語雑記』(中井久夫)の著者は、本業は精神科医でありながら、数々の文学賞を受賞しているエッセイストであり、そして翻訳家でもあります。この本は、それらの豊かな実践的言語経験を綴った日本語「随論」です。

またジョイスを含め数々の名作を邦訳してきた英文学者、柳瀬尚紀も『日本語は天才である』で、逆説的ですが、日本語の素晴らしさをこう喧伝しています。「生まれつきということのほかに、もう一つ、ぼくが天才という存在を考えるとき、孤独という言葉がいつも浮かびます。日本語は、世界の言語の中で孤独だと言ってもいいのではないでしょうか。天才だからこそ孤独である言語、孤独であるからこそ天才である言語——しかし孤独であるけれども豊かな言語……そんなふうに思うのです。」

『日本語教のすすめ』に志賀直哉が漢字学習の非効率さにかこつけて、太平洋戦争の敗戦を機にフランス語を国語にすべきだと主張していたことが紹介されていますが、文学者が日本語を大事にしているのはことさら言うをまたないところでしょう。「日本語って難しい。難しいから深みがあっておもしろい」と考えているようです。そのことをいまわが国のショートショートの名手が『日本語えとせとら-ことばっておもしろい』(阿刀田高)で軽妙に語っています。4千字にも満たない文字数で何かを書くことを本意とする短編作家としては、日頃コトバをぎりぎりまで峻別する作業を続けているのでしょう。この所信はこの作家ならではの言説です。「言葉というものは、一つ一つ、些細かもしれないが、人間の脳みその働きを細かく決定していく。言葉が豊富でなければ思考が豊富になるはずがない。言葉が明晰でなければ考えも明晰さを欠くだろう。侮ってはなるまい。」


https://www.academyhills.com/note/opinion/11072809_BTgattsuri.html 【第9章 素晴らしきかな、日本語(2)】より

澁川雅俊: 「言葉は、脳みその働きを決める」という言説を如実に表すように、人工知能の開発にかかわるコトバと脳の関係を詳細に研究している人物が『日本語はなぜ美しいのか』(黒川伊保子)を書いています。この本は標題の示すように日本語を誇りとしているわけですが、著者は<発音感性>、すなわちコトバの音、あるいは響きによってものごとを体感することの重要性に着目しています。そのうえで彼女は、日本語は母音を中心とする音声、あるいは音響を通じて、心地よくものごとを認識するという特殊性をもっているという日本語論を展開しています。

その点で、世界でももっとも美しいコトバである日本語を捨ててまで、いま流行りの早期英語教育をすることには問題があると説いています。そういう不自然な言語教育は幼児期における情緒形成を阻害すると警告しています。

私たちはイメージで考えることもありますが、大概はコトバで何ごとかを考えます。ですからコトバと脳が密接にかかわっているわけですが、ここに脳科学者と俳人がコトバを通じて、日本文化とは、日本とは、を考察している本があります。『言葉で世界を変えよう』(茂木健一郎、黛まどか)は、副題で示されているように「万葉集から現代俳句へ」の情感を表す詩歌の流れを通じて日本語と日本人を追求しています。そして<五・七・五>調は、喜怒哀楽の真髄を表現したいときに、自然にわき起こってくるリズムで、脳に最も心地よく響く、と結んでいます。

歩いているときも電車の中でも両耳にイヤホンを付け、横文字混じりのポップスやロックを聴いている若者たち、たまたま彼らも<コトバで世界を変えよう>としているわけですが、そういう若者たちが<五・七・五>調にそう感じるかどうか、私にはわかりません。しかし三十一文字や十七文字で、大げさにいえば世界を切り取る、表現するという技はメールやツイッターなどで自らを発信している若者たちの言語生活、とりわけ書き言葉、ここでも大げさな表現をするならばエクリチュールと同期するといってもいいでしょう。なおエクリチュールとは、話しコトバ(パロール)に対して、<書かれたもの、書法、書く行為>に注目した際に使われる用語です。

そのエクリチュールに関連して、かつて習字とかペンマンシップとか、美しく端正な字で書くことが日本語に長ずる技法の一つとして重視されていました。それがいまでは、一般には年賀状の宛名書きや、たまに思い立って出す手書きの手紙などのような希な行いになってしまっています。そんなことが無意識に「書」とか「書道」とかカリグラフィーをコトバとは違う領域、つまりデザインやグラフィック・アートなど別のものに仕分けてしまったようです。

しかしメールやツイッターをはじめとし、ブログや電子書籍などのメディア、つまり自己を表現する表現媒体の進化を考えると、そのことを軽視できません。そんなことを考えているときに、つい先だって出版された本を見つけました。『活字とアルファベット-技術から見た日本語表記の姿』(家辺勝文)がそれです。この本は、どちらかというと専門書ですが、印刷技術史、とりわけタイポグラフィの歴史を踏まえて、デジタル技術による日本語表記の問題を詳しく検討しています。(終

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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