https://artscape.jp/study/art-achive/10126054_1982.html 【与謝蕪村《夜色楼台図》多視点の人間観──「早川聞多」】より
影山幸一
夜空への眼差し
山並みを背景にして軒を連ねる家々に雪が降る静かな晩の夜景図がある。日本人ならずとも冬の夜に人家の灯りを見つけると、ほっこりと人のぬくもりを感じることだろう。俳人であり、画家でもある与謝蕪村の代表作《夜色楼台図》(個人蔵)は、わかりやすい絵だが不思議な余韻を残す。
最も関心を引くのは、蕪村の雪の夜空を見つめる繊細な眼差し、その夜空の表現である。暗闇は平面的な単色でなく、濃い黒から薄い灰色の諧調で表わされ、雪雲を伴った真っ黒なにじみが部分的にある。この夜空にリズムを与えているのが、下辺横一帯に広がる屋根と、それに呼応する山の凹凸の折れ線グラフのような稜線、ジャズでも聞こえてきそうだ。夜の天空から真っ白な雪が降ってくる。夜空には何かが潜んでいるのだろうか。
画面は絵巻ものを途中で断裁したような横長で、画面右の題詩と絵の関係が絶妙なバランスである。書体は独自のデザインなのか、詩と絵は別々に鑑賞できるのか等々、蕪村の趣向は絵の世界に入る前からすでに始まっている。画面は右から左へと視線を誘い、絵の全体像を見せてから、不定形な雪片と屋根に積もった純白の雪の冷たさと、窓の明かりの温かさへ、そして、江戸時代の雪景色の世界へと心を向かわせる。どのような意図で描かれたのだろうか。平明に見えて滋味と計りしれない広がりがありそうだ。
『与謝蕪村筆 夜色楼台図』(平凡社)の著者である、国際日本文化研究センター(以下、日文研)名誉教授の早川聞多氏(以下、早川氏)に、《夜色楼台図》の見方を伺いたいと思った。早川氏は江戸時代の美術史、文化史に詳しく、1983年には「特別展 没後二百年記念:与謝蕪村名作展」を大和文華館で企画担当された。早川氏の京都のご自宅を訪ねた。
父と蕪村
早川氏の和室に招いていただくと、まず目に飛び込んできたのが書棚の上の長押(なげし)に掲げられた《夜色楼台図》だった。額装された《夜色楼台図》がすっきりと部屋になじんでいる。複製とはいえ下から見上げると、実際に山を見ている気持ちになり想像力が増す。書棚には早川氏の父が所蔵されていたという古書が壁一面にびっしりと納まっている。歌人で画家、書家で篆刻家、錦心流の免許皆伝の琵琶奏者でもある。東京・深川生まれの文人、早川幾忠(1897-1983)が早川氏の父であり、五千冊以上あるという本には一ページのもれもなく目を通した跡があり、すべて読み通していたという。
早川氏は1949年鳥取県に生まれ、京都に育った。独学で生きてきた父親を尊敬している早川氏は、父の勧める哲学を修めるため、国際基督教大学へいったん入学したが、大学紛争が起きたため、紛争が治まった東京大学へ進学、熱心に野球をしていたそうだ。大学院は大阪大学の文学研究科へ進み、日本美術史を専攻、多彩な表現の与謝蕪村に関心があったため修了論文のテーマにしたという。1978年に大和文華館へ就職し学芸員となり、コンピュータによる美術研究を日本でいち早く導入した。インターネットがまだない時代に、美術情報を世界へ発信する未来を予測した活動は、モニターに表示される文字をプログラミングするところから始め、現在のアート・アーカイブの先端だった。1987年日文研へ転職、文化資料研究企画室で2015年の定年退官まで与謝蕪村や浮世絵春画をテーマに研究を続けてきた。
蕪村の《夜色楼台図》の第一印象を早川氏はいまでも覚えているという。修士論文で蕪村を取り上げることを決めた1977年頃、大阪千里にあった国立国際美術館で実物と出会った。「冬の景色だけど、ふわーっと温かい感じがして、立ち去ろうとしたけれど、3、4回振り返っては眺めた。画面そのものが厚みをもって膨らんで、人のような感じに見えてきた」と早川氏。以降、40年ほど日本文人画★1の大成者である与謝蕪村と、多彩な文人であった父とを重ね合わせるように研究をしてきている。
★1──江戸中期、中国文人の生き方や美意識への憧れから日本独自に発達した絵画様式。当時中国の文人画は最新の美術として注目されていたが、日本の文人画は南宗画と北宗画が同居するなど、中国とは異質な点が多く、南画とも呼ばれる。
僧にも非ず俗にゐて俗にも非ず
蕪村の人柄が偲ばれる蕪村の手紙はたくさん残されているが、蕪村については謎の部分が多々ある。出自は1716(享保元)年、摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)生まれとされるが、幼名や通称も知られず、どのような家庭に育ったかもわからない。
蕪村は、母の谷口姓を名乗っていたようで、二十歳頃までに江戸へ行き、俳諧を内田沾山(せんざん、?-1758)、漢詩を儒学者の荻生徂徠(1666-1728)門下の服部南郭(1683-1759)に学ぶ。その後、早野巴人(はじん、1676〜1742、夜半亭宋阿ともいう)の内弟子となり、俳諧を学びながら詩・書・画に励み、特に絵は多様な様式を吸収し、独学した。1744(延享元)年、敬愛する松尾芭蕉(1644-1694)の「奥の細道」の跡を遊歴し、蕪村と改号する。この頃、茨城県結城の弘経寺(ぐぎょうじ)で蕪村は剃髪し、法然(1133-1212)上人の開いた浄土宗の僧となった。
1751(宝暦元)年36歳となった蕪村は、木曽路を旅して上京、東山の麓の庵と推測される浄土宗総本山知恩院に僧房を得る。3年後蕪村は京都を去り、丹後宮津の見性寺竹溪(ちっけい)のもとに寄寓し、竹溪のほか、浄土宗の真照寺の鷺十(ろじゅう)と無縁寺の両巴(りょうは)ら俳人住職と親交を結んだ。
1757(宝暦7)年42歳、姓を母の故郷名から与謝と改め、京都へ帰り「とも女」と結婚、一人娘「くの」を授かり、画業による生活に入る。「肉食妻帯という仏教者としては破天荒な行ないを実践しながら、浄土真宗の教えを説いた親鸞(1173-1262)由来の『僧にも非ず俗にゐて俗にも非ず』という言葉が影響している」と早川氏はみている。
僧侶から俗人となった蕪村は、51歳のときひとり讃岐へ赴き南画を習得。旅をしながら五感を養い、こだわりなく注文に応じ、5種類もの画風を描きわけたが、表だって技術を見せることはしなかった。
1770(明和7)年55歳、俳諧に精進し「夜半亭二世」を継ぐ。1771(明和8)年池大雅の《十便図》に対して《十宜図》を描く。1776(安永5)年、俳人で儒者であった樋口道立(どうりゅう、1738-1813)が発起人となって芭蕉庵再興を企て、蕪村も協力し写経社を結成。1777(安永6)年、東山のひとつ瓜生(うりゅう)山北西の山腹にある金福寺(こんぷくじ)内、芭蕉庵近くに「祖翁之碑」を落成し「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」の句を手向けた。三本樹の水楼(玉松亭)における句会。
1778(安永7)年63歳になり画号を「謝寅(しゃいん)」とし、以降《夜色楼台図》など優品を生み出す。1779(安永8)年、三本樹の水楼にて句会。1783年(天明3)年68歳で没す。「祖翁之碑」の隣に眠る(図1)。
臨終の句のひとつに「冬鶯むかし王維が垣根哉」がある。中国唐時代の詩人であり画家でもあった王維(おうい、701頃-761、字は摩吉〔まきつ〕)を見習って画文二道を追求した蕪村の心ばえを知ることができる。詩と絵二つともに才能を発揮した世界にも稀な巨匠である。弟子に呉春、九老(きゅうろう)、金谷(きんこく)がいる。
図1:与謝蕪村の墓(京都・金福寺)
【夜色楼台図の見方】
(1)タイトル
夜色楼台図(やしょくろうだいず)。右に書かれている「夜色楼台雪萬家(やしょくろうだいゆきばんか)」の賛は、中国明時代の詩人である李攀龍(りはんりゅう、1514-1570)の七言律詩「懐宗子相」(『七才子詩集』所載)から採られた。英名:Night Over the Snow-covered City
(2)モチーフ
夜空、雪、山、家。
(3)制作年
江戸時代。1778年〜1783年、蕪村65歳頃。
(4)画材
紙本墨画淡彩。掛軸装(134.5×134.5cm、図2)。本紙料紙は、継ぎ目のない米粉入りの竹紙が用いられている。
https://blog.goo.ne.jp/yayoikaze/e/e2af797ccf57c16884102ea4bed1c099 【天涯に雪ふりつむ│師匠と弟子のはなし】より
京都岡崎、京都国立博物館で120周年特別展「国宝」(10月3日~11月26日)が開催され、軸装の与謝蕪村画「夜色楼台図」(やしょくろうだいず)が最終の第四期に展示された。蕪村晩年の謝寅時代に描かれ、胡粉を用いた(これも正統文人画法の南画から見れば邪道となる)水墨淡彩画である。本画を蕪村の人生の表象、魂の象徴と論述なさったのが、国際日本文化研究センター早川聞多名誉教授書『与謝蕪村筆 夜色楼台図』である。本書の第五章《横者三部作と徂徠学》には、蕪村が江戸で荻生徂徠の高弟にして儒学者・漢詩人の服部南郭に学んだことを踏まえ、蕪村と徂徠の思想との深いかかわりが示唆されている。文人画法から見れば「譎にして正ならず」と田能村竹田をして評せしめた蕪村の表現のあり方について、宋儒の理学・朱子学VS徂徠学の視点からの論説である。
「蕪村自身、常づね支考・麦林の句格の賤しさを指摘してゐたが、決して切り捨てるやうなことはしなかった。彼等の表現の内にも、人間の実情の一端が巧みに映し出されてゐる様を、蕪村は確実に見て取つてゐたのである。このように「俗流」の内にも「長ずる所」を見出そうとする姿勢こそ、蕪村の最も深い人間理解に基づいた信念であった。」(「与謝蕪村筆 夜色楼台図---己が人生の表象」 ,p98)
「春泥句集序」に示された、蕪村と「進んで他岐を顧ず」(本道から外れた脇見をせず)であった召波との問答は噛み合わない。
余(蕪村)曰「麦林・支考、其調賤しといへども、工に人情世態を尽す。されば、まゝ支・麦の句法に倣ふも又工案の一助ならざるにあらず。詩家に李・杜を貴ぶに論なし、猶元・白をすてざるが如くせよ。」
波曰「叟、我をあざむきて、野狐禅に引くことなかれ。画家に呉・張を画魔とす。支・麦は即ち俳魔ならくのみ。」(与謝蕪村集 ,p336)
徂徠門下の言行や逸話を記した随筆『蘐園雑話』(けんえんざつわ)には、服部南郭は「もと京都より歌にて柳沢候にかゝえられしとなり。」とある。柳沢吉保に歌才を認められ厚遇を得るも、出自を越えて士分として召し抱えられることはなかった。候の逝去後は「詠懐」十五首の中で「此を釈(す)てて古路に帰り、去って大江の浜に釣る」と詠んだ心にて柳沢家を致仕し、不忍の池の畔に私塾、芙蕖館を開いて舌耕筆耕の徒を貫き「詩文は南郭を推す」という地位を確立した。人となりは「南郭は謝安に似たる人なり。喜怒色にあらわさず、自らの見を立る人となり。」と中国・東晋の名宰相・謝安に譬えられている。後漢から東晋までの士大夫の逸話集『世説新語』雅量第六において、「公の貌閑(のどか)にして」、「其の量の以て朝野を鎮安するに足る」、「謝の寛容、愈貌に表る」、「神意甚だ平かにして瞋沮(しんそ)を覺えず」等々、度量広闊、泰然自若であった謝安の風姿を語った話は枚挙に遑がない。謝安に見立てられた南郭は推して知るべしである。
そして南郭の師、徂徠も又、『徂徠先生答問書』における「人は活物にて候。夫故に國家を治候も、人を教訓いたし候も、又は我心我身を治め候も、木にて人形なと割見候ごとくにはならぬ物に候。」の実践を貫いた人である。先の《蛤のはなし》の如く女は対象に含まれないが、『蘐園雑話』で語られる徂徠の挿話には弟子をひたすら思いやる仁恕の心が溢れている。
「徂徠は極めて才を愛する人にて、塾中の少年客気に使はれ、娼家に遊び出奔したるをも、再度戻して諫戒せられしこと度々なり。」(蘐園雑話│続日本随筆大成4, p70)
「徠翁は前にも云ふ如く、才を愛して無行の人を棄てざること、伊藤一郎などは無行の人にて折々亡命して印肉を売ありきしが、道にて徂徠に出合、早々町のうらににげ込しを若党に追かけさせ、強て連返り手前に置かれしとかや。」(同, p75-76)
また『太宰春台・服部南郭』の疋田啓佑著、服部南郭、第九章《師荻生徂徠の死》では、視覚障害者となった高野蘭亭に対する『蘐園雑話』の挿話を引用した後で、「徂徠の教えには人間的暖かさが感じられ、そこで才能を伸ばした人々にとって、徂徠の死は大きな悲しみをもたらした。」と記されている。
医の道であれ芸の道であれ、古今東西、どの道で修練を積む者であろうとも、良きところを伸ばさんと乏しき才を愛し育んで下さった恩師の御心を、終生、その弟子が忘れることはない。
末尾に題詩「夜色楼臺雪萬家」の原詩とされる、中国明代の文人、李攀龍(字は于鱗、号は滄溟)著『滄溟集』巻八収載の「懐宋子相」を掲げる。李攀龍が故郷から離れた天涯の地、北京に居て、郷里へ去った友の宗臣(字は子相、号は方城)に想いをはせた詩である。秋杪(びょうしゅう)は晩秋、仙槎(せんさ)は海上と天河(天の川)を往来する筏である。
本邦で和刻本として出版された『明七子詩選注』には「懐宋子相」の他、李攀龍や宗臣など明代、嘉靖年間の七人の文人の詩が載っている。これらの書には、漢武帝の時代、匈奴に拘留された蘇武が雁の足に帛の文を結び付けて無事を伝えた鴻雁伝書の故事、さらに桂叢、山中桂樹や桂樹隠(けいじゅのいん)の一連の典故となる、楚辞・招隠士における「桂樹叢生兮山之幽」が注として記されている。なお桂に関しては《かつらと桂│桂の字をふくむ生薬》(2015/1/26)の記事を参照頂けたら幸いである。
「独往」は文字通りひとり往くこと、自然にまかせ世俗を顧みないことを意味する。『文選』の「許徴君(自序)詢」の語釈には「淮南王荘子略要曰、江海之士、山谷之士、軽天下、細万物、而独往者也。司馬彪曰、獨王任自然、不復顧世也。」(江海に隠棲する士人、山谷に隠棲する士人は天下を軽んじ万物を細(いや)しとして独往するものなり)とある。「江海之士」、「山谷之士」は『荘子』刻意篇、「軽天下、細万物」は『文子』九守にある言葉である。
懐宋子相 李攀龍
薊門秋杪送仙槎、此日開尊感歳華。臥病山中生桂樹、懷人江上落梅花。
春來鴻雁書千里、夜色樓台雪萬家。南越東呉還獨往、應憐薄宦滯天涯。
薊門の秋杪仙槎を送る 此日尊を開き歳華を感ず
病に臥て山中桂樹を生ず 人を懐て江上梅花落つ
春來の鴻雁書千里にて 夜色の樓台雪萬家たり
南越東呉に還た獨往す 應に憐べし薄宦天涯に滞るを
参考資料:
早川聞多著:「与謝蕪村筆 夜色楼台図---己が人生の表象」, 平凡社, 1994
山本健吉, 早川聞多著:「蕪村画譜」, 毎日新聞社, 1984
京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『国宝』展図録, 2017
清水孝之校注:新潮日本古典集成32「与謝蕪村集」, 新潮社, 1979
森銑三, 北川博邦編:続日本随筆大成4「一字訓・蘐園雑話・酔迷餘録・零砕雑筆・塵塚」, 吉川弘文館, 1979
目加田誠著:新釈漢文大系77「世説新語 中」, 明治書院, 1976
今中寛司, 奈良本辰也編:荻生徂徠全集 第六巻, 河出書房新社, 1973
山本和義, 横山弘注:江戸詩人選集 第3巻「服部南郭 祇園南海」, 岩波書店, 1991
田尻祐一郎, 疋田啓佑著:叢書・日本の思想家17「太宰春台・服部南郭」, 明徳出版, 1995
李伯斉選注:「李攀龍詩文選---済南歴史名家詩文選」, 済南出版, 2009
長澤規矩也編:和刻本漢詩集成 総集篇7 「國朝七子詩集註解・明七子詩解・明七才女詩集・明九大家詩選・明詩大觀・三家絶句・明賢咏落花詩・明詩節義集・列朝詩集」, 汲古書院, 1982
内田泉之助, 網祐次著:新釈漢文大系15「文選(詩編)下」, 明治書院, 1964
星川清孝著:新釈漢文大系34「楚辞」, 明治書院, 1970
吹野安:「楚辞集注全注釈八---惜誓・弔屈原・服賦・哀時命・招隠士」, 明徳出版, 2015
金谷治訳注:岩波文庫「荘子 外篇」, 岩波書店, 1975
王利器撰:新編諸子集成「文子疏義」, 中華書局, 2000
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