人間味

http://www.local.co.jp/renku/jimukyoku/2006.html  【2006.11.11開催 第21回国民文化祭「連句大会」 出番だ連句・トークセッションより 人間・松尾芭蕉タイトル 山口大学教育学部教授 藤原マリ子】より

トークセッション

 芭蕉が「発句は門人の中、予に劣らぬ句する人多し。俳諧においては老翁が骨髄」という風に常々語っていたという事は、門人の許六が『宇陀法師』という本の中に記しております。このことから芭蕉は、一人で詠む発句(俳句)よりも「連句」に自分の本分があるという風に考えていたことが分かります。

 俳句というのは一人で詠めますけれども、連句は数人の連衆を必要と致します座の文学でございます。ですから宗匠、捌をやられる方には、俳諧がルールを外さないように付け進む、という事に気を配るほかに、一座の連衆をうまくコントロールして和気藹々の中に人々の長所をうまく引き出して優れた作品に引き上げるという、非常に高度な老練な技が要求されるのではないか、と常々感じております。

 そうした点から考えますと、俳諧師というのは、俳諧の力量のほかに人々をまとめるかなりの社交性を要する職業だったのではないか、そんな風に言えるのではないかと考えます。

 ですから、江戸に出て行きましてたちまちの内に頭角を現わし、有力な門人を獲得した芭蕉には、人間的な魅力に富む人なつっこい社交的な一面があったのではないか、と想像しております。ですけれども、かつては芭蕉と言えば「孤高の詩人」「厳しい求道者」「近寄り難い俳聖」という風な把握が一般的でございました。明治以降の国語教科書の中でもそのように扱われておりまして、「俳聖・芭蕉」というイメージが広く浸透するのに大きな役割を果たしております。

 神格化された芭蕉ではなく、等身大の人間としての芭蕉に照準を合わせてみると

 芭蕉は没して以降、次第に神格化されて約百年後には「桃青霊神」という号を授けられておりますし、その十五年後には「飛音明神」という号を朝廷から授けられておりまして、神様の仲間入りをしております。明治に入りましてからも「神道芭蕉派」というのが出来ましたり、芭蕉庵がありました深川に「芭蕉神社」というのが建立されたりしておりますので、俳諧を嗜む人々、連句を好む人々にとりまして、芭蕉は文字通り「神」であり「近寄り難い聖人」であったと受け取れるかと思います。

 そうした状況をよく物語りますのは、明治末年に出された『小咄』という本の中に「若い頃の芭蕉に妾がいた」とする門人の聞き書きが載っているということが判明した時の、当時の学者の反応がございます。当時、芭蕉研究の代表的な学者の一人でありました沼波瓊音さんは、この記事を目にしました時、思わず「芭蕉様ようこそ妾をもって下すった」と叫んでしまった、という風に雑誌に自ら記されております。これは芭蕉の人間的側面にいたく感激したという事なのですけれども、研究者ですら、そのように叫ぶのでありますから、当時の芭蕉がいかに近寄り難い人間離れのした高い位置にまつり上げられていたかっていう事が想像出来るかと思います。

 それに対して近年の芭蕉研究の特徴は、芭蕉を私たちと等身大の人間として扱い、芭蕉の人と芸術に、様々な角度から多様な検証を加えているという点にあります。ことに芭蕉の人間味豊かな側面に光をあてた研究というものが近年、多くなっております。

 例えば、田中善信さんという白百合女子大の先生が発表されました『芭蕉=二つの顔』(講談社選書)の中でも、人間・芭蕉に照明をあてて研究をされております。

 田中氏はいろいろな資料を博捜されまして、それまでの常識を覆す指摘というものを幾つもされて非常に大きな話題になりました。その中で田中氏は、芭蕉が三十歳頃に伊賀の俳諧仲間を集めて初めて編んだ『貝おほひ』という作品に、当時の流行歌ですとかはやり言葉が縦横に採り入れられているということに着目しまして「歌詞というのは、唄いながら覚えるのが普通であろう。とするなら若い頃の芭蕉というのは、歌が好きで、自分でも唄う明るい陽気な青年だったのではないか」という風に推察されておられます。頷ける指摘ではないかと、私は思います。

 また芭蕉は、江戸に行きましてから暫く俳諧師の傍ら副業として小石川の水道工事に従事したという事が、以前から判明しておりましたけれども、これも従来は事務方の仕事を手伝っていたんだろうと考えられておりました。しかし田中氏はいろいろな資料を研究した結果、そうではなくて芭蕉は、江戸で初めて神田川の浚渫工事を請け負って多くの人足を差配して、大がかりな事業を行なったその発案者であり担当者であったのだ、という説を提出されております。

 この説に従いますと、松尾芭蕉は、実業家としても非常に優れたセンスを持つ、人並み以上の処世の才に恵まれた、極めて有能な人物であった、という事になります。

 さらに田中氏は、芭蕉が俳諧師として順風満帆でありました三十七歳の時に、急に深川に隠遁してしまいました理由を、従来言われておりましたように点者生活の俗を出して清貧の中に新たな俳諧の境地の開拓を目指したのだ、とする見解を退けまして、故郷から連れてきたティーンエイジャーの甥が、当時同居していた芭蕉の妾と駆け落ちをしてしまった、と。妾といえども駆け落ちをすると、当時は二人共死罪であった。ですから、二人の命を救うためには、知った人のいない辺鄙な深川に引っ越すほかはなかったのだ、という非常に衝撃的な説を提出されております。

 この説は、残念ながら現在のところ学会では賛同者はあまり多くはありませんけれども、いろいろな資料を駆使しての研究でございますだけに、今後の検証が待たれるところでございます。

 また、研究者ではありませんけれども、作家の嵐山光三郎さんが『悪党芭蕉』(新潮社)という本を出されまして、泉鏡花文学賞を受賞されました。

 嵐山さんは、芭蕉の弟子には、事件に連座して牢獄につながれた医者であるとか、米のカラ売買で領内追放となった商人であるとか、同僚を殺害して自らも切腹して果てた武士であるとか、其角とか嵐雪などという伊達者でならした喰えない連衆であるとか、盗みを働いたと疑われるような手癖の悪い乞食坊主であるとかがウヨウヨしており、そういう危険な門人たちを束ねていた芭蕉は、ただ者ではない、芭蕉自身、悪党だったのではないか(笑)、という風に述べられております。

 田中氏の説などを踏まえながら、作家ですから、人間芭蕉の一面を誇張しましてセンセーショナルに「悪党!」という風に表現しておりますけれども、そこに流れますのは人間芭蕉に寄せる非常に熱い親愛の情ではないか、と私は読み取りました。逆説的表現ながら、芭蕉への一種のオマージュではないか、という風に解しました。

芭蕉作品に対しても、多様な視点での解釈で、可笑しみや滑稽さを提示

 芭蕉の作品研究に於いても、見直しというような事が最近、目立っております。かつては芭蕉と言えば「侘・さび」とか、連句に於いても「匂い付けの手法」ということにばかり目が向けられがちでございましたけれども、従来の紋切り型の解釈とは異なる視点から、多様な解釈が試みられております。

 芭蕉作品の人間的な側面や作品の持つ可笑しみ、機知の様相、それを適切に評価し、「挨拶」「滑稽」「即興」という風に言われます俳諧の基本的要素に、正面から向き合った研究が多くなってきております。従来は作品の作られました時代や文化の状況というものに即して、作者の表現意識を探る研究というものが主流でございましたけれども、最近では作品を歴史的状況と切り離して、今日的視点から作品の表現構造を分析しようとする、非常に新しい比較文学的手法なども取り入れました研究なども盛んになってきています

 俳諧という言葉は、皆様よくご承知の通り、「滑稽」という意味でございますので、芭蕉の作品にも元々、滑稽の要素というのは多く指摘できます。ことに初期の芭蕉は貞門、談林風の「言葉遊び」の様相が強い句を作っておりましたから、「あら何ともなやきのふは過ぎて河豚汁」のようなユーモラスな句をかなり詠んでおります。「あら何ともなや」というのは当時、よく知られました謡曲の言葉で、「どうしようもない」という失意の言葉でございますけれども、それをもじりまして「ああ、何ともなかった」いう風な安堵の意味にすり替えて「河豚を食べても何ともなかった」という滑稽な句に仕立てております。

 ですから、閑寂とか枯淡の境地が目立つ晩年の作品に於きましても、やはり俳諧が本来持つ滑稽の要素、機知ですとか、諧謔ですとか、アイロニーの精神、と言ったものが底流には流れていると解するのが、自然なのではないかという風に思います。

 例えば紀行文の最高傑作との評価が定まっております『奥の細道』にいたしましても、冒頭は「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」と、唐の李白の文章を踏まえまして格調高く、荘重に、宇宙観、人生観を吐露する事から書きおこされておりますけれども、やがて「道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず股引の破れを綴り傘の緒付けかへて三里に灸すゆるより」というような、雅な王朝文学では絶対に出て来ません「股引」ですとか「お灸」などという庶民の日常的次元のものを書き連ねる文章へと転じております。

 そこに、そこはかとない可笑しみがあり、雅文などにはない、俳文としての特色と魅力がある、という風に考えられます。

 道祖神にいたしましても旅の安全を祈る神様ではありますけれども、男女が抱き合った像が彫られました下品の神様とされるものでありますので、その神様を持ち出したところに、俳諧の淫靡な笑い、微かな可笑しみがある、と、芭蕉研究の第一人者であられます尾形仂先生などは、述べておられます。

 それから有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句にいたしましても近年では、様々な解釈が試みられております。この句は従来、蛙が古池に飛び込む音に宇宙の生命の発動を聴き取った幽玄閑寂の句である。または、静寂の中に蛙が飛び込む音を転じることによって一層、静寂が深められた禅の悟りにも通じる境地を詠んだものである。として、長らく享受されて参りました。

 しかし近年では、水温む春の昼下がりに蛙が池に飛び込むありのままの風景を詠んだ句で、それ以上でもそれ以下でもない、とする説、実はこれは既に正岡子規が言っている事でございますけれども、その説を再評価する解釈ですとか、古今集仮名序に「花に鳴く鴬、水に住むかはづの声を聴けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」とある鳴く蛙の声に対して、水に飛び込む蛙というところだけを出し、ものを排したところに、この句の眼目がある、などとする、即ち俳諧性に着目した解釈というものが提出されたりしております。

 また、変わったところでは、古池句の初案とされますのが「山吹や蛙飛び込む水の音」でございますけれども、その句と関連させて、古歌ですとかエピソードを踏まえて詠んだもので、山吹の咲く井出の蛙は節信に捕まりそうになってさぞかし慌てて水音をたてて池に飛び込んで逃げたことであろうよ、っていう滑稽な想像を詠んだ句だ、という解釈も提出されております。

 ですから、それを改案しました古池や蛙飛び込む水の音の句も、蛙を追った古人の隙を思いやりつつ、且つ古今集の歌を詠むこともある雅な蛙が、歌を詠わないで、古池に飛び込む水の音をただチャポンとさせただけであったよ、という事に可笑しみとのんびりした春の季節感を見い出した、非常に俳諧性の強い句である、という風な解釈をされております。

 解釈の是非はともあれ、このような多様な解釈が、芭蕉が作品を作りました時代から既に三百数年経っておりますけれども、今日もなお提出されているという点に、芭蕉作品の真価があるのではないか、と思われます。

 カーモードという西洋文学の専門家は、「古典というのは、作品の多様な意味の発見を通して古典になっていくのだ」とおっしゃっていますけれども、現代におきましてもなお様々な視点から多様な照明があてられて、新たな解釈というものが生み出され続けている芭蕉作品は、まさに「古典」と呼ぶにふさわしい作品といえるのではないかと思います。

 何度でもそこに立ち返りまして、繰り返し味わうことにより、新たな文学創造の原動力を得ることが出来るのが、芭蕉の作品ではないかと存じます。

 簡単ではございますけれども、最近の研究の動向を交えながらお話をさせて頂きました。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/189_15140.html 【続芭蕉雑記 芥川龍之介】より

   一 人

 僕は芭蕉の漢語にも新しい命を吹き込んだと書いてゐる。「蟻ありは六本の足を持つ」と云ふ文章は或は正硬であるかも知れない。しかし芭蕉の俳諧は度たびこの翻訳に近い冒険に功を奏してゐるのである。日本の文芸では少くとも「光は常に西方から来てゐた。」芭蕉も亦やはりこの例に洩れない。芭蕉の俳諧は当代の人々には如何に所謂モダアンだつたであらう。

ひやひやと壁をふまへて昼寝かな

「壁をふまへて」と云ふ成語は漢語から奪つて来たものである。「踏壁眠かべをふまへてねむる」と云ふ成語を用ひた漢語は勿論少くないことであらう。僕は室生犀星君と一しよにこの芭蕉の近代的趣味(当代の)を一世を風靡ふうびした所以ゆゑんに数へてゐる。が、詩人芭蕉は又一面には「世渡り」にも長じてゐた。芭蕉の塁るゐを摩ました諸俳人、凡兆、丈艸ぢやうさう、惟然ゐねん等はいづれもこの点では芭蕉に若しかない。芭蕉は彼等のやうに天才的だつたと共に彼等よりも一層苦労人だつた。其角、許六、支考等を彼に心服させたものは彼の俳諧の群を抜いてゐたことも決して少くはなかつたであらう。(世人の所謂「徳望」などは少くとも、彼等を御ぎよする上に何の役に立つものではない。)しかし又彼の世渡り上手も、――或は彼の英雄的手腕も巧みに彼等を籠絡ろうらくした筈である。芭蕉の世故人情に通じてゐたことは彼の談林時代の俳諧を一瞥すれば善い。或は彼の書簡の裏うちにも東西の門弟を操縦した彼の機鋒は窺はれるのであらう。最後に彼は元禄二年にも――「奥の細道」の旅に登つた時にもかう云ふ句を作る「したたか者」だつた

夏山に足駄を拝む首途かどでかな

「夏山」と言ひ、「足駄」と言ひ、更に「カドデ」と言つた勢にはこれも亦「したたか者」だつた一茶も顔色はないかも知れない。彼は実に「人」としても文芸的英雄の一人だつた。芭蕉の住した無常観は芭蕉崇拝者の信ずるやうに弱々しい感傷主義を含んだものではない。寧ろやぶれかぶれの勇に富んだ不具退転ふぐたいてんの一本道である。芭蕉の度たび、俳諧さへ「一生の道の草」と呼んだのは必しも偶然ではなかつたであらう。兎に角彼は後代には勿論、当代にも滅多に理解されなかつた、(崇拝を受けたことはないとは言はない。)恐しい糞やけになつた詩人である。

     二 伝記

 芭蕉の伝記は細部に亘わたれば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下しもに尽きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔しゆつぽんし、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚もんがくさへ恐れさせた西行さいぎやうほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産おきみやげ」にある蕩児たうじの一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を残した。……

 最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合かうがふに図々づうづうしくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りに貶けなす言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。

     三 芭蕉の衣鉢

 芭蕉の衣鉢いはつは詩的には丈艸などにも伝はつてゐる。それから、――この世紀の詩人たちにも或は伝はつてゐるかも知れない。が、生活的には伊賀のやうに山の多い信濃の大詩人、一茶に伝はつたばかりだつた。一時代の文明は勿論或詩人の作品を支配してゐる。一茶の作品は芭蕉の作品とその為にも同じ峰に達してゐない。が、彼等は肚はらの底ではどちらも「糞やけ道だう」を通つてゐた。芭蕉の門弟だつた惟然ゐねんも亦或はかう云ふ一人だつたかも知れない。しかし彼は一茶のやうに図太い根性を持つてゐなかつた。その代りに一茶よりも可憐だつた。彼の風狂ふうきやうは芝居に見るやうに洒脱とか趣味とか云ふものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である。

秋晴れたあら鬼貫おにつらの夕べやな

 僕はこの句を惟然の作品中でも決して名句とは思つてゐない。しかし彼の風狂はこの句の中にも見えると思つてゐる。惟然の風狂を喜ぶものは、――就中なかんづく軽妙を喜ぶものは何とでも勝手に感服して善い。けれども僕の信ずる所によれば、そこに僕等を動かすものは畢つひに芭蕉に及ばなかつた、芭蕉に近い或詩人の慟哭どうこくである。若し彼の風狂を「とり乱してゐる」と言ふ批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを吝をしまないであらう。

追記。これは「芭蕉雑記」の一部になるものである


http://www.local.co.jp/renku/jimukyoku/2006.html 【】



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