https://sengohaiku.blogspot.com/2023/12/tradview-001.html 【新連載・伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句 1.伝統について 筑紫磐井】より
平成21年(2009年)に亡くなった林翔の全句集が11月に刊行された。林翔は、能村登四郎、藤田湘子と並んで馬酔木の戦後の三羽ガラスと呼ばれた作家であり、特に盟友登四郎が主宰する「沖」の創刊に当たり、水原秋櫻子からの要請で編集長を勤めた人である。この初期の「沖」は伝統派の中では積極的に発言する雑誌として注目を浴びたが、その中心を担ったのが林翔であった。先日、出版を語る会でご息女の吉川朝子氏から林翔全作品使用のご了解をいただいたので、「伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句」を始めてみることとしたい。
今回連載を始める理由は、抽象的な俳句史がふえてきており、その根拠となるディテールとそれを結ぶ理論の検証がややおろそかになっているように感じるからだ。例えば、伝統と言えば、有季定型、反前衛と条件反射的に語られるようだが、そう単純に行くものではない。人によっても時期によっても大きなブレがあるはずである。それを包摂して、理論を考えるべきであろう。そうした考察に比較的林翔は向いているように思うのである。
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今般『林翔全句集』の編集にかかわったが、その過程で多くの資料を渉猟し、林翔の評論、随筆及びその編集に伝統俳句の戦後問題が凝縮している感じを受けた。もちろん、戦後の代表的伝統俳句作家として、飯田龍太、森澄雄がいるのだが、彼らの俳句に対する発言は分かりやすいとは言えない。「俳句は無名がいい」「一瞬に永遠を言いとめる大きな遊び」等は有名であるが、だからと言って龍太、澄雄の作句の主張がすべて分かるものではない。社会性俳句に於ける兜太、欣一の主張「俳句は態度」「社会主義的イデオロギー」、前衛俳句における造型俳句論はこれを読むだけで彼らの作品はおぼろげながら浮かび上がる。しかし伝統俳句についてはこうした主張がよくわからないのだ。
前衛俳句からの伝統批判はいくらでも見ることができるが、伝統俳句からの自らのアリバイ証明が見えてこないから信仰の表白のようになってしまうのだ。しかし、能村登四郎や林翔はかなりはっきり伝統の論拠を述べている。追ってこれらを見てゆきたいが、その前に林翔のこんな発言を見ておきたい。
今井豊が40年も前に発行していた雑誌に「獏」がある。短詩型文学機関誌と銘打った雑誌で、多くの若手が作品を発表していた。第33号(1984年4月号)にこんな記事が載っている。「全国俳人50氏へのアンケート」(第8号からの復刻。時期不明だが5年程前か)。
問。あなたが作句されるときに季語はどう扱われますか。
問。将来の俳句に於いて季語はどういう位置を占めると思いますか。
問。無季俳句を認めませんか。またその理由。
林翔はこんな回答を寄せている。
➀季語は必ず入れている(歳時記にない語でも季感があれば使うことがある)。
➁現在と変わりはないと思う。
③認める(季語はあった方がよいが、絶対なものではない)
伝統派と目される長谷川双魚、阿波野青畝、岡田日郎、森田峠、岸田稚魚が③について、「認めない」と答えている中で、林翔はかなり踏み込んでいる。伝統派に属すると言っても、理論的で、立場に固執しないのが林翔の特色であった。
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こんな林翔が、「沖」の編集長として行った最初の企画が「シリーズ伝統俳句研究」である。毎号、部外執筆者等に伝統俳句の考察を行わせている。例を挙げて見よう。伝統、前衛にこだわらず執筆者を選んでおり、なかなか豪華な顔ぶれである。
【シリーズ伝統俳句研究】
伝統俳句の悪路 能村登四郎(46年2月)
伝統と私 飯島晴子(46年6月)
若年と晩年――蛇笏俳句に於ける伝統の一方向 福田甲子雄(46年7月)
伝統的視点の再検討 川崎三郎(46年8月)
新しきもの、伝統 林翔(46年9月)
伝統俳句の新しい行き方 有働亨(46年10月)
現代俳句に於ける伝統の変革 岡田日郎(46年11月)
伝統俳句と女流俳人 柴田白葉女(46年12月)
当時総合誌も盛んに伝統特集を行っていた。一種の伝統ルネッサンスの時代であったと言えるかもしれない。これらと伍し、またはさきがけ、前衛に負けない伝統を生み出そうとしていたようにも見える。
➀伝統と前衛・交点を探る(座談会)俳句研究 45年3月~4月
➁俳句の伝統(特集)俳句研究 46年5月
③俳句の伝統と現代(特集)俳句研究 46年8月
④伝統俳句の系譜(特集)俳句研究 47年7月
⑤伝統と前衛――同じ世代の側から(座談会)俳句48年1月
⑥現代俳句の問題点――俳句伝統の終末・物と言葉など 俳句研究 50年4月
まさにこれらと競い合うように沖における伝統研究が行われていたのである(沖では、これに続き「シリーズ現代俳句の諸問題」「心象風景」「イメージ研究」が行われたが、いずれも「伝統俳句研究」の延長にあるテーマであった)。
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実を言えば林翔はかなり早くから伝統論を展開していたのである。世の中が伝統で騒ぎ始めるずっと前に伝統論を執筆している。前衛俳句が猖獗を極め、伝統俳句がすっかり意気消沈している時代の伝統論である。
〇硬質の抒情――伝統俳句の道 南風 36年1月
〇伝統の克服 南風 37年5月
〇伝統俳句の道 南風 43年3月
我々は単純に伝統、――あるいは前衛に対する伝統を語ってしまっているが、林翔を手掛かりに腰を据えた伝統を考える必要があるのではないか。
(第1回なので意気込んで少し重苦しいテーマを選んでしまった。今後の連載に当たっては、もう少し軽やかな林翔の発言も取り上げることができると思う。)
林翔全句集(コールサック社)
https://sengohaiku.blogspot.com/2024/01/tradview-002.html 【【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句 2.社会性について 筑紫磐井】より
林翔は、48年2月号の「沖」で「ベカほろぶ」の十句を掲載している。
潮饐えてベカほろびゆく雁渡し 秋風に古き軍歌やベカ潰え
海棄てし子連れ蜑かも海へ凧 (以下略)
ところがこれらの作品の下段に次のような随想を掲載している。
冬の日に
初めて浦安を訪れたのは何時だったろうと古い句帖をひろげてみた。昭和二十年十一月である。生徒の親の招待で網舟に乗せて貰ったのだが、その時に得た句。
冬の日にふれてひらきし投網かな
が、二十一年二月号の馬酔木の新樹集(現在の馬酔木集)に他の一句と並んで出ている。他の一句というのは見合のために行った信州での句、 吾亦紅手にをどらせてゆく日和 で、何か心がはずんでいるようだ。
「貝死なず」群作を作ったのはそれから十年後の昭和三十一年である。「海苔で知られた浦安町は全滅的な海苔不作のため、貝の採収や加工で僅かに生計を保つてゐる。或る晴れた日と雪の日に」という前書どおりの事情が新聞等で屡々報道されていたから、近くに住んでいながらこれを詠みに行かないという法はないと心に決めた。社会性俳句か盛んな頃だったから、その風潮に衝き動かされたこともあっただろう。十四句を得て、前述の前書きをつけて、秋櫻子先生のお宅に持参した。十句以内に削って頂くつもりだったが、先生は「このまま預かっておくよ」と言われた。四月号をあけてみると十四句そのまま載って巻頭であったのには驚いた。風雪集は十句が限度であるから気がひけていると早速波郷さんが「林さん狡いよ」と例のニヤニヤ笑いを浮かべながら言われた。波郷さんはその号では三席で、中に「葛西海苔不作」と題する一句 頬被ゆるびて干さむ海苔もなし があったのである。 林 翔
この時(31年)の林翔の作品を眺めてみよう。
貝死なず
海苔で知られた浦安町は全滅的な海苔不作のため、貝の採収や加工で僅かに生計を保つてゐる。或る晴れた日と雪の日にーー
日に照らふ海苔簀空しき南向き 簀の葭の一すぢ一すぢ冬日沈む
痩せ葱と海苔なき海苔簀錯落す 天に凧海苔網洗ひ尽くすまで
冬日に干す籠に縋りて貝死なず
漁業組合事務所
干拓反対の文字へ風花つひに雪
まき籠は貝採取に用ふ。丈余の柄あり
まき籠の長柄犇めき雪を呼ぶ 雪にじむこぼれ浅蜊の茶絣に
雪舞うて剥身赤貝血あえたり 炭火あかあか貝剥き捌く一家族
雪の鳥居くぐる不漁のそそけ髪
猫実の江は広重の版画にもあり
猫実や皆雪とがる細舳 暮雪にてただ漠々の海苔簀原
遠き鴨蜑の早寝に雪積り
さて社会性俳句と言えばまず思い出されるのが能村登四郎である。馬酔木二九年一一月号で「北陸紀行」の大作を詠んだが、全体は紀行句集であったが、その中で内灘基地(一七句)を詠んだ俳句が含まれているのである。
○二九年一一月「馬酔木」より 「北陸紀行 内灘村。日曜日とて射撃なし、炎日眩むごとし
何に追はれ単線路跳ぶ羽抜鶏 射撃なき日の昼顔の昼の夢
砲射音おののき耐へし昼顔か 昼顔の他攀づるなし有刺柵
しづかなる怒りの海よ砂も灼く 炎ゆる日も怒り黝める日本海
ありありと戦車幾台日覆かけ 眠られぬ合歓の瞼も基地化以後
基地化以後の嬰児か汗に泣きのけぞり 基地の子として生まれ全身汗疣なり
合歓の下授乳後の乳しまはざり
漁夫の大方は基地の傭員として働く
柵ぬちに汗の黄裸の俘虜めけり
馬酔木は、戦後中心をなした三羽ガラスと言われた作家たちがいた。能村登四郎、藤田湘子、林翔である。この三人によって多くの俳人(山口誓子、橋本多佳子、石田波郷、加藤楸邨、高屋窓秋、石橋辰之助ら)が抜けたにもかかわらず、馬酔木は復活したのである。そしてこの中で、能村登四郎、林翔だけではなく、藤田湘子も社会性俳句を詠んでいるのである。
砂川にて(32句)[藤田湘子]抄録
十月十一日早曉より、支援勞組の一員として砂川基地機張反對鬪爭に加はる
露寒し曉闇かづく雨合羽 作業衣の同紺五百の白息よ
測量隊の出動に備へ、農家の庭に分散待機す
熟睡子の足見え籾散りたたかふ家
午後一時二十分、測量隊到着を告ぐる半鐘乱打されたり
鵙の下短かき脚の婆も馳すよ 守るべし掌にさらさらと陸稻の穗
測量隊暫時にして引揚ぐ。再び待機
たたかひ解かず膝寄せ露の荒筵
中央合唱団に人々慰問に来る
鬪爭歌ジヤケツがつゝむ乙女の咽喉
穗絮飛べり爆音に歌消さるゝな
午後五時以後は測量隊の立入は許されず
砂川の泥濘深き秋落日
この日の動員は全学連、労組併せて六千を超ゆ。五時より阿豆佐味神社に於て報告大会を開き、順次解散す
黄落す三千の学徒おらぶ杜
黍焼く火赫と砂川雨降り出す
社会性俳句については誤解があるようだ。金子兜太、古澤太穂、鈴木六林男などだけが社会性俳句を作りだしたのではない。馬酔木の三羽ガラスも社会性俳句を作り出したのだ。あの時期、社会性俳句は伝統も進歩も関係なく、若い世代をその熱病に巻き込んだのである。
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