https://vasara-h.co.jp/tips/detail.html?id=579 【天皇の住まいだった「京都御所」について詳しくなろう】より
〇京都御所とは
京都御所は同志社大学や元離宮二条城の近くにある宮殿です。ここ京都御所は平安京へ遷都した794年から明治維新のころまで、天皇の住まいでした。
現在の天皇ご一家のお住まいは東京ですが、昔は京都に住まれていたんです。
現在、京都御所は一般公開されており、中を拝見することもできるんです。
京都御苑は京都御所の周りの公園なのですが、すごく広々としていて、観光客や市民から人気なんです!
もーも実際に京都御苑に足を運んだことがあるのですが、ほんとここは広くて、開放的な気分になりましたよ!近くに犬を連れてきているひとがいて、犬ものびのびと駆け回っていました!ランニングしている人も見かけました!観光客だけではなくて、地元の人からも愛されている公園なのだと肌で実感しました!
先ほどから広々としていると言いましたが、面積はどれくらいあるのでしょうか?
京都中心にあるこの京都御所の面積は約65万平方メートルあると言われています。
かなり大きいですよね!
〇京都御所の見どころ
・蛤御門(はまぐりごもん)
やはり京都御所といえば、「蛤御門(はまぐりごもん)」は欠かせません。歴女のもーはこの門の名前を聞いただけで、そわそわします。蛤御門の変という戦いを知っていますか?蛤御門の変ではなく禁門の変とも呼ぶべきでしょうか?この戦いは、1884年、7月19日、尊王攘夷を掲げる長州藩対薩摩・会津藩などの幕府勢力の戦いなんです。それが京都御所という場所で激突したんです。禁門というのは、名前の通り、厳重な警備がなされている門であり、そこから皇居の門、そこから転じて皇居という意味です。つまり禁門の変は、皇居で起こった戦いのことを指すんですね。禁門の変は別名「蛤御門の変」ですが、これは蛤御門が最大の激戦地だったことが由来でこの名前がつけられているんです。この戦いは京都市内にも被害が及び、約三万戸が焼かれたそうです。現在でも門の柱には弾痕が残っています。
蛤御門は実は正式名称ではないんです。蛤御門の正式名称は「新在家衛門(しんざいけごもん)」です。蛤御門と言われた理由は、京都御所が火災で焼けたときに、滅多に開かなかった門が開いたんです。この時だけ開いたんです!はまぐりのように火にあぶられて開いたことから「蛤御門(はまぐりごもん)」と言われています!!!!
・王朝文化をかんじさせる建物に美しい庭園
京都にも様々なお寺や神社がありますが、この京都御所はそれらとは違って、王朝文化を彷彿させる建物がたくさんあります。「紫宸殿(ししんでん)」は五箇条の御誓文の舞台の場所で、左右対称しているとても美しい寝殿造りの建物です。「御車寄」は貴族が天皇と対面するときに使われた玄関だと言われています。「清涼殿(せいりょうでん)」は天皇が生活していた場所であり、儀式や執務を行なった場所でもあります。京都御苑の東側には「母と子の森」があります、そこはとても緑が豊富にある場所です。京都御苑では様々なお花を季節ごとに楽しむことができます。桜に桃、紅葉など、四季ごとに訪れるのもおすすめです。
桜は例年3月下旬から4月上旬です。たくさんの桜が咲き乱れる様子は圧巻です。「車返桜(くるまがえしさくら)」はとても有名なので、ぜひご鑑賞ください。なぜこの桜は「車返桜(くるまがえしさくら)」という名前が名付けられているのでしょうか?後水尾天皇が、桜があまりにも美しかったため、車を引き返したことが由来です。紅葉の見頃は例年、11月下旬から12月中旬ころです。凝華洞(ぎょうかどう)跡の紅葉はとても綺麗です!
京都御所の公式ホームページはこちら
https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html
https://www.sarashinado.com/2011/07/16/seiryoden-sarashina/ 【40号・京都御所に描かれた「さらしなの里」】より
天皇の部屋のふすまに「更科の里」の絵が―。羽尾在住の郷土史家、塚田哲男さんに教えていただきました。東京にある皇居ではなく京都御所です。宮内庁の協力で毎日新聞社が編集した「御物・皇室の至宝6」にそのふすま絵が載っていました。塚田さんからお借りして写真を複写しました(左)。京都御所には古来の名所を描いたふすまがたくさんあるのですが、その一つに「更科の里」が取り上げられているのです。千曲川対岸の五里ケ峰付近から冠着山(別名・姨捨山)を遠望する構図です。
天皇の寝室?
御所は天皇家の儀式や執務を行う宮殿で、今から約1,200年前、平安京の建設の際に造営されました。明治初め、天皇家が旧江戸城に移って皇居となるまで日本の象徴的な建物でした。ただ幾度もの火災に遭い、現在の御所は江戸末期の1855年(安政2)に造られたものです。そして写真のふすま絵があるのは御所の中の清涼殿(写真中央)、さらにその中の萩戸と呼ばれる部屋にあります。
清涼殿とは天皇の日常の住まい、つまり自分の家のようなものです。風呂から食堂まで暮らしを送る上で必要な機能が設けられており、現在の清涼殿は平安時代の姿により近づけた構造になっているそうです。
そして萩戸は、どんな機能を持つ部屋なのかはっきり分からないのですが、天皇のよりプライベートな空間だったようです。この部屋には計8面のふすまがあり、2面がワンセットで、北西側の2面が更科の里です。右上に方形の枠が施されていますが、ここに和歌が詠まれ、それをモチーフに絵が描かれています(写真右のすだれの奥にふすま絵が見えますが、このふすまの向こう側に一つ部屋があり、さらにその奥の部屋が萩戸になります。一般見学者は中に入ることはできません)。
和歌は<おばすてのやまぞしぐれる風見えてそよさらしなの里のたかむら>。
「たかむら」は、竹林を意味する「竹群」のことなので、姨捨山のふもとのさらしなの里は秋が深まり、竹林は風にそよぎ、雨に濡れていると解釈できます。晩秋のさらしなの里の風情が詠まれています。
この歌を詠んだのは飛鳥井雅典という公家です。飛鳥井は江戸幕府が政策を実行する際の許可を天皇からもらうための取り次ぎ役「武家伝奏」という役職を担い、近藤勇らの浪士グループを「新撰組」と名づけた人物だそうです。絵は大和絵の名門、土佐派の土佐光清が描きました。公家が詠んだ歌をモチーフに絵を描くのは平安スタイルだそうです。これを知って思ったのは、ということは平安時代も更科の里は萩戸に描かれていたのか、という疑問です。
孝明、明治両天皇も
各地の名所を題材にしたふすま絵は10世紀初頭には成立していたということです。10世紀初頭というのは日本初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂されたころです。今のようにだれでも各地に旅ができるという時代ではありませんでしたから、古来歌好きの日本人は実際に現地を訪れたことがなくとも、ふすまなどに描かれた名所絵によって自分の想像を膨らませ、歌を詠んでいました。
天皇の住まいに更科の里が描かれていれば、それは話題になったでしょう。ただ、天皇のよりプライベートな部屋である萩戸のさらに内側のふすまの絵なので、めったに見ることはできなかったでしょう。当時の公家の教養は何よりも歌を詠むことでしたから、見てみたいという欲求は余計強まったはずです。絵を見れば、実際の風景ではなくともイメージは膨らみます。
ただ、平安時代も更科の里が萩戸にあったという証拠を探そうと思って、文献をいくつか当たったのですが、裏付ける記述は今のところありません。さらに調べなければいけない課題です。一方で、確実なことがあります。幕末の再建ですから、当時の孝明天皇、さらに明治天皇も旧江戸城に引越しするまでは御所の住人でしたので、見ていたと思われます。
宮仕えの特権
確定的ではないことを前提にさらに推測するのにはちょっと慎重にならなければなりませんが、「更級日記」の作者である菅原孝標の娘も、この絵に影響を受けた可能性があります。彼女は天皇家の女児に仕える仕事をしていました。いわゆる宮仕えです。
彼女が御所で仕事をしていたことの証拠となる記述が日記の中にあります。源氏物語に登場する女性が住んでいた御所内の部屋としてよく知られる「藤壺」で、ほかの宮仕えの女性たちと月を見ながら話をしたエピソードを記しているのです。藤壺は清涼殿の北にある建物で、廊下でつながっています。天皇の子どもの世話をするのが彼女の仕事でしたから、萩戸に入るチャンスがあっても不思議ではありません。そうした特権が宮仕えの仕事にはあったかもしれません。
孝標の娘はこの宮仕えを辞めてから日記の執筆に取りかかりました。また、宮仕えを辞めた後、信濃国に長官として単身赴任した夫が無念にも病死してしまいます。源氏物語が大好き、恋愛など胸がドキドキするような人生を望んだのが孝標の娘ですが、実際はそうはいきませんでした。今風に言えばセレブ願望の強い女性だっと思います。
自分の来し方と晩年の不遇をしたためたのが更級日記です。彼女は筆を進めているとき、さらしなの里と姨捨山が描かれた萩戸の絵のことを思い浮かべたのではないか―京都御所に「更科の里」のふすま絵があるのを知り、そんなことを想像をしました。
https://www.sarashinado.com/basyou/ 【さらしなの月に憧れた松尾芭蕉】より
さらしな・姨捨、そしてそこに現れる月は、今から千年以上前の平安時代から京の都の人たちのあこがれの対象でした。日記文学の古典のひとつに「更級日記」があること、豊臣秀吉が「さらしな」を歌にも詠み込んだこと…。「さらしな」と言えば、姨捨、そして月がセットで連想されており、これら三つの言葉は切っても切れない関係にありました。松尾芭蕉がさらしな・姨捨に旅をしたのも、そうした先人の美意識の延長上にあります。
古の作家を触発した一首
さらしな・姨捨と呼ばれる現在の千曲市更級地区と同市八幡地区は、姨捨山の異名を持つ冠着山のふもとに広がっています。この一帯には、芭蕉が来訪して有名になった長楽寺と、「田毎の月」の言葉で知られ、棚田としては全国で最初に名勝となった姨捨棚田があります。眼下には日本一長い千曲川が流れ、千曲川を挟んで対岸に連なる山並みの一つ、鏡台山から昇る月が美しく見える観月の名所です。
今から千百年余り前に天皇の命令で編纂された「古今和歌集」に載っている次の和歌が当地を世に知らしめました。
わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て
わたしの心はどうにも慰めようがない、姨捨山にかかる月を見ていてはという意味です。作者は「よみ人知らず」と記され、だれの歌なのか分かりませんが、この歌はあとに続く作家たちの創作意欲を大いに掻き立てました。まずは、古今和歌集の編纂から約50年後の951年に成立した大和物語という説話集の中の一つ「姨捨説話」です。
主人公は信濃の国の更級に住む一人の男。両親と死に別れてからは年取ったおばと一緒に実の親子のように暮らしていましたが、男の嫁はこのおばを嫌っていました。嫁はこのおばを山に捨ててきてくれと夫を責めたため、男は満月の夜、「山のお寺でありがたい法事がある」とおばをだまして山の奥へ連れ出し、おばを置いて帰ってきてしまいました。 しかし、男は落ち着きません。山あいから現れた月を見て寝ることができず、そのときに歌ったのが「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」。男は非を悔いておばを迎えにいき、以来この山を姨捨山と呼ぶようになった―というお話です。
一度は山に捨てたものの、連れ帰った老人の知恵で国が救われたという後日談が現在広く知られている説話には入っていますが、これは大和物語に始まる姨捨説話がベースの一つになっていると思われます。
「更級」はなくてもタイトルに
御物さらしな日記samuneiru 「わが心…」の歌に大きく触発されたのが、日記文学の古典として知られる「更級日記」の作者、菅原孝標女です。大和物語の成立から約百年後の平安時代中期にこの日記を著しました。 内容は自分の少女時代から晩年までを振り返ったものです。
物語が大好きで、乙女の時代は都でベストセラーになっていた宮廷貴族の恋愛小説「源氏物語」を耽読し、年をとってからは自分の境遇を嘆く、という構成です。彼女は源氏物語の舞台にもなった天皇家の子女に仕える女房という仕事に就きましたが、女ばかりで気苦労の多い環境の中では、理想と現実を重ね合わせることが難しく、もっと現実的に生きればよかったと振り返るくだりが印象的です。
タイトルには「更級」とありますが、更級地区のことはなにも書かれていません。著者の孝標女も、更級の地に来たことはありません。役人である夫が晩年、信濃国に赴任したということが記されているだけです。 しかし、孝標女は明らかに、さらしな・姨捨一帯のことをイメージしながらこのタイトルをつけました。最終盤に登場する彼女の和歌「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」からそれがうかがえます。
月も出ていない闇夜になんのために訪ねておいでになったのか、とわが晩年の身を嘆いてるのです。自分の境遇をさらしなの姨捨山に重ね、このタイトルに決めたのです。 「更級」の一文字も出てこない日記なのに、あえて使う。「文章の中でまったく触れずとも読者には分かってもらえる言葉」という思いが前提にあるということで、時間と空間を超える言葉として、理想郷のような存在として「更級」が口の端に載っていたということです。とてもロマンチックな言葉だったのです。今と違って旅は命がけでする時代でしたから、余計行ったことはなくてもみんなの話題になる地はあこがれの対象だったと思います。
「さらしな」にライバル心を抱いた秀吉
さらしなと月が密接に結びついていたことを証明する古人の和歌はいくつもあるのですが、ここでは、太閤の豊臣秀吉が詠んだ「さらしな」の歌を紹介します。
さらしなやをしまの月もよそならんただふしみ江の秋の夕暮れ
「をしま」というのは宮城県の松島湾に浮かぶ一つの島「雄島」のことだ思われます。雄島は古来、月を含めた景勝地として都にも知られていました。
「伏見江」とは、秀吉が現在の京都市伏見区に築いた伏見城の城下に広がっていた水の豊かさを指す言葉です。 城のある丘陵の下には、巨椋池と呼ばれる京都で最大の淡水湖がありました。面積は約800㌶。そこに宇治川も流れ込む遊水地でした。さらにこの下流に行くと、大阪の淀川となります。しかし、戦前、食糧増産のための干拓事業で農地になってしまい、今はもうありません。
長野県最大の湖である諏訪湖が約1300㌶ですから、諏訪湖の約3分の2の大きさです。このように大きな湖の水面に大きな川も流れ込む。当地の月が照らす千曲川の水が白く輝くように、巨椋池や宇治川の水面が月光を美しく反射させていたのかもしれません。 とすると秀吉のこの歌は、名月で知られる更級や雄島も伏見の月にはかなわない、という気持ちを反映したものです。さらしなへのライバル心があったということは裏返せば、それだけさらしなが天下人にとってもあこがれの地だったということです。
古代から近世までの知識人を月に夢中にさせた根底には、月を心の鏡とみなす日本人の仏教的な精神性があります。その表現の場として更級が選ばれたわけです。子が親を捨てなければ生きていけないという理不尽さと真実性がより演出される道具として月と更級が効果的だったと思われます。月を美しく見せ、説話に迫真性を与える舞台として更級は一番の適地だったと考えられます。
月を「さらしな」で消化して奥の細道へ
そうした古代から中世までの歌詠み人にとってのあこがれの地を、一気に全国的にしたのが、江戸時代中期、松尾芭蕉の来訪と、それを文章に残した「更科紀行」です。 芭蕉の紀行文は、万葉集をはじめ古代から歌に詠まれてきた地名の中で、読み手がその名を耳にしたり唱えたり見たりしただけで、その美しさや悲しさ、哀れさのイメージを抱かせるようなった言葉「歌枕」の地を訪ねていくものです。
代表作の「奥の細道」がよく知られますが、「更科」も姨捨山と月のイメージをセットで想起させる一つの歌枕になっていました。 芭蕉があえて「さらしな」への旅を独立させたのは、この歌枕についての旅を実践し、文章にまとめないでは、自分の紀行文学の完成にはたどり着けないという思いがあったのではと思います。 「奥の細道」はそれまでの日本を代表する歌人や悲劇のヒーローにちなんだ歌枕の地への紀行文です。
江戸を起点に東北から上越、北陸と、ぐるっと回っています。花、鳥、風、月…日本人が古来育んできた自然に対する感性を、芭蕉が自ら歩いて旅をすることによって追体験し、それによって美意識を新たに創造しようという意欲的な試みでした。 更級への芭蕉の旅は、1688年(貞享5年)で、芭蕉文学の集大成となる「奥の細道」への旅の前の年です。芭蕉には更級の旅の前に、月見をしようと現在の茨城県鹿島地方を訪ねたときの紀行(「鹿島紀行」)もあるのですが、その中で「雨で中秋の名月が見られず残念」という趣旨のことを記しています。
その後かつ更級への旅の前に行った関西地方の旅(「笈の小文」)でも、源義経が平家を破った一ノ谷古戦場で知られる「須磨」(神戸市須磨区)で、月を詠みながらも「夏に訪ねたせいか何かものたりない」と書いています。 この二つから芭蕉の月詠みに対する消化不良感が伝わってきます。このことも更級の名月を見る大きな動機になったと考えられます。
芭蕉が私淑していた能因法師と西行にもさらしなを詠んだ歌がありますので、それにも触発された可能性があります。 芭蕉は「奥の細道」を、実際の旅から約4年後の元禄7年(1694)ぐらいまでに仕上げ、その年に51歳で亡くなりました。俳人・作家として最高潮の時期に更級に来て、月をからだで感じる時間を持ったわけです。観月のメッカである更級・姨捨山を自分の足で訪れ、日本人に最も親しまれてきた一つの歌枕を自分の中で消化しようとした気がします。更級に旅しなければ、奥の細道を自信を持って世に送り出すことはできなかった可能性があります。
姨捨山に亡き母を見た?
芭蕉はまた、さらしな・姨捨に来て母親のことを思い出していたのではないかとと思います。紀行文に残した「俤や姨ひとりなく月の友」の句から感じます。 芭蕉の母が亡くなったのは更科への旅の五年前でまだなまなましい感情があったと思います。
芭蕉が俳諧で身を立てようとした若いころの俳号は桃青なのですが、この桃は母親が伊予宇和島の桃地氏の血を引くことから付けたということです。それだけ母親への思いが強かった証拠です。放浪の人間で母親に迷惑、心配をかけたという気持ちがあったと思います。芭蕉が更科に旅をしたのは四十五歳のときですから、母親と言っても母親は老人の年齢です。
芭蕉は冒頭で触れました「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌を口ずさんでいたかもしれません。 冠着山をみて謡曲「姨捨」を想像したのではないでしょうか。謡曲は能楽の脚本、シナリオであり、その一つである「姨捨」は今から600年前の室町時代、能の役者かつ作者で能楽の大成者である世阿弥の作とされます。
物語は、中秋の名月がまもなくのとき、都の人が更級の月を見るために思い立って姨捨山に急いでやってきて山の頂上で更級の里に住むと言う女性に出会います。里の女性も、この日の中秋の名月を味わうため里から登ってきたと言います。この里の女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねます。するとが「わが心」の和歌を持ち出しながら教えます。
この後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明らかにしていきます。そして、月の光のもとで舞を舞います。謡も奏でられ、月が隠れると老女も…。 この物語を読み始めて似ていると思ったのは、芭蕉の「更科紀行」です。同紀行の書き出しも「秋風にしきりに誘われてさらしなの里の姨捨の月を見ようと旅立った」となっており、世阿弥と芭蕉にとっては当地での「中秋の名月観賞」が特別な意味を持っていたことがうかがえるのです。 世阿弥も松尾芭蕉と同じ三重県伊賀上野の生まれです。
芭蕉の生誕は1644年(正保元年)。世阿弥は1363年ごろに生を受けていますから、芭蕉にとって世阿弥は自分より約300年前の故郷の偉人です。芭蕉もおそらく謡曲に親しみ、同郷出身の世阿弥のこと、「姨捨」という謡曲の内容も知っていたでしょう。松尾芭蕉は謡曲「姨捨」と母親を亡くした体験から、更級の里、月、姨捨山についてのイメージを大きく膨らませた可能性があります。 また芭蕉が残した句「おもかげや姨ひとりなく月の友」には、そうした複合的な感情がこもっていると考えられます。「なく」には「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められているのではないかと思います。
聖と俗の適度な交流
さらしな・姨捨が芭蕉の来訪後、全国の人にとってあこがれの地になった理由について説得力のあるのが、姨捨山と文学の関係研究についての第一人者、矢羽勝幸さんが著書「姨捨・いしぶみ考」の中で披露している分析です。
長楽寺からの眺望はまことにすばらしい。このすばらしさの本質は、世俗との間隔・距離にあるようだ。垢にまみれた現実の人間生活を適当に客観化できる位置にあるのである。3000㍍級の高山ではこのような快感は得られない。聖と俗との適度な交流、宗教的な意味も含めて両者の境界が近世の姨捨山を誕生させたと考えられる。
確かに長楽寺に立ってみると、眼下の千曲川の対岸に立つ山並みから顔を覗かせ、姿を徐々に現してくる月には、何か神秘的なものを感じます。町並みも田畑も手の届くようなところに広がっているので、矢羽さんの言う「聖と俗との適度な交流」というのは納得できます。「姨捨・いしぶみ考」は長楽寺と周辺に残る句歌碑を何度も訪ね足で稼いだ内容なので、この指摘には矢羽さんの実感が伴っています。
天と地、つまり一番高い所(月の夜空)と一番低い所(水のたゆたう千曲川)の間に広がる大空間をひと息に体感できるところと言っていいと思います。「姨捨」という人の感情をを揺さぶらずにはいない古代からの物語を土台に、芭蕉の来訪を機に俳人たちが景観の美と人間の真実を盛んに句作するようになって、更級の姨捨は庶民の間に定着したと思われます。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ed66913bf80a999ec76bc9fce7693a0fa837db2c 【松尾芭蕉の命日に京都ゆかりの地を紹介】より
山村純也京都の魅力を発信する「らくたび」代表
金福寺に再興された芭蕉庵(※以下の写真も全て著者が撮影)
10月12日は松尾芭蕉の命日ということで、京都で芭蕉ゆかりの地を紹介しよう。
そもそも芭蕉ゆかりの地といえば、故郷である伊賀上野を筆頭に、俳諧で名をあげることとなった江戸、さらには代表作『奥の細道』で訪れた東北地方がイメージとして定着しているかもしれない。
しかし人生の後半年の多くを旅で費やした芭蕉は、実は京都にも頻繁に訪れている。普段観光ガイドを行っている立場からお伝えすると、最もよく紹介する芭蕉の句は、シンプルだが広沢の池の観月の様子を詠んだ「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」である。
広沢の池は源三位頼政も歌を残している
「天下三沢の池」の一つとして知られる広沢の池は、観月の名所として愛され、平安時代から貴族の歌にも頻繁に登場する場所である。そんな平安時代以来の雅な場所に、江戸時代の芭蕉の句も残る。時代を越えての文化人のコラボ。これぞ京都ならではの魅力だと言えよう。
広沢の池から西は、嵯峨野エリアとなり、このエリアには芭蕉の高弟である向井去来が営んだ落柿舎が伝わっている。生前の芭蕉も滞在しており、『嵯峨日記』を記している。
現在も柿の木が植えられている
一方東に目を向けてみると、観光地である円山公園の南側には芭蕉堂が建つ。これは加賀の俳人である高桑闌更が、芭蕉ゆかりのこの地に建立したものだ。現在は芭蕉の木像も安置されており、誰でも気軽に参拝することができる。
そしてもうひとつが東山の北側の山麓に位置する金福寺。こちらは村山たか女が晩年を過ごした寺院で、境内の中には芭蕉を慕う俳人であり、文人画の大家である与謝蕪村が、弟子達とともに再興した芭蕉庵がある。
庭の奥に見えているのが芭蕉庵の屋根
最後に洛南の伏見で芭蕉ゆかりの地といえば「油懸地蔵」の通称名がある西岸寺だ。境内にはこちらの任口上人に会いにきた芭蕉が、会えた時の喜びを詠んだ「わが衣に 伏見の桃の しずくせよ」という句碑が残っている。
この歌が名高いことから、近くで酒造業を営む松本酒造から、銘酒「桃の滴」が誕生した。
油をかけて商売繁盛を願う風習が今なお息づく
境内に残る芭蕉の句碑
松尾芭蕉と京都ゆかりの地、ぜひチャンスがあれば回ってみてほしい。
山村純也
京都の魅力を発信する「らくたび」代表
1973年、京都生まれ。立命館大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。卒業後は大手旅行会社に勤務。2006年4月、京都観光を総合的にプロデュースする「(株)らくたび」を創立。以後、ツアープロデューサー、ツアー講師として活躍。2007年3月に「らくたび文庫」を創刊。現在、NHK文化センター、大阪シティーアカデミー、ウェーブ産経、サンケイリビング新聞社の講師、京都商工会議所の京都検定講師も務める。著書・執筆に『幕末 龍馬の京都案内』、『京都・国宝の美』、『見る 歩く 学ぶ 京都御所』(コトコト)など。京都検定1級取得
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